"吉田松陰"の記事一覧

吉田松陰の母 を読む7

吉田松陰の母 を読む7 ◆ 母性愛に寅次郎は泣く ◇ 母性愛に溢れる瀧子の手紙 つれない運命に弄(もてあそ)ばれて、思う事、為す事、すべてが志と違い、再び野山獄に引かれる吾が子・寅次郎の不憫さ・可憐さにを胸に抱いて、独りで夜毎に熱い涙に袖を 潤おした母の瀧子は、12月5日、寅次郎、又々投獄と聞いてからは、如何にあの気…
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吉田松陰の母 を読む6

吉田松陰の母 を読む6 ◆ 松下村塾の母・瀧子 ◇ 松下村塾の由来に就いて まず最初に松下村塾の由来の代替、一応、知っておかねばならないが、村塾の由来については、拙著『吉田松陰の殉国教育』の中に相当、詳しく述べておいたので、ここでは部分的に、それを抄録することにする。 松下村塾は松陰先生が一代の心血を傾注された教…
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吉田松陰の母 を読む5

吉田松陰の母 を読む5 ◆ 獄中の松陰を犒(ねぎら)う ◇ 松陰先生の米艦搭乗事件 安政元年3月27日の夜。  豆州・下田における松陰先生の米艦搭乗事件は、よしや失敗に終わっても、その衝動を与えたところは実に偉大なるものであった。 日本的には国民の士気を振作して封建・泰平の迷夢は破られんとし、世界的には鎖国の幕禁を…
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吉田松陰の母 を読む4

吉田松陰の母 を読む4 ◆ 杉家の人々 ◇ 長女・兒玉 千代子 松陰先生の三妹の中で一番の年上が千代子(後に芳子と改める)である。 天保3年(1832年)生まれであって先生とは三つ違いの長女である。 山宅(さんたく)時代には両親兄などと共に朝夕、辛苦をなめつつ、兄妹互いに助け合い励まし合い育ち成長したものである。 …
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吉田松陰の母 を読む3

吉田松陰の母 を読む3 ◆ 杉家の人々 ◇ 夫の次弟・吉田 賢良 杉家五代・百合之助常道の次の弟である。 初名は、熊之充、後に賢良(けんりょう)と改め、通称は、大助、字は子良、龍門と号した。 文化4年(1807年)生まれであって、百合之助とは四つ違いの弟である。 文化9年(1812年)吉田家6代・他三郎矩建が死亡…
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吉田松陰の母 を読む2

吉田松陰の母 を読む2 ◆ 思い出多き樹々亭 山屋敷 ◇八谷聴雨(やたがい ちょうう)の山荘 百合之助の新家庭、樹々亭とは、どんな所であったのだろうか。 八谷聴雨(やたがい ちょうう)の祖先の墓が東光寺の山内にあった。 聴雨は、折々、墓参りに来ては、この清閑で幽邃(ゆうすい)、清浄な山裾に立って巴城(*萩)の風…
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吉田松陰の母 を読む1

吉田松陰の母 を読む1 本篇は、吉田松陰の母 ・福本義亮 著(誠文堂新光社,1941)の底本を、あくまで趣味的に、現代語訳で読み解くものです。 全体の構成は、読みやすいように変更しています。 (図は底本・著作権満了のものより) [ ] は、原文の注釈で、 (* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。 ――…
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歴史の流れ 吉田松陰・金子重輔 行状

歴史の流れ 吉田松陰・金子重輔 行状 ● は、原文。 ○ は、 意訳。 * は、付記です。 *金子 重輔は、 金子 重之輔(かねこ しげのすけ)のこと。 ●金子重輔行状 安政乙卯正月十一日、金子重輔病死乎獄中、 友人吉田矩方已哭而慟之、乃略状其行曰、 蓋聞有苗而不秀、秀而不實者、其斯人之謂邪、 ○金子重輔(…
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京都史蹟散策58 吉田松陰拝闕詩碑

京都史蹟散策58 吉田松陰拝闕詩碑 【交通】市バス・京都会館美術館前 【位置】左京区岡崎成勝寺町 京都府立図書館内 平安神宮・大鳥居傍 外観 石碑 【石碑】 山河襟帯自然城東来無不日憶 神 京今朝盥嗽拝 鳳闕野人悲泣 不能行 上林零落非復昔空有山河無変更聞説 今皇聖明徳 敬天憐民発至誠鶏鳴…
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