京都史蹟散策282 京都霊山護国神社・長州の人々 その2
京都史蹟散策282 京都霊山護国神社・長州の人々 その2
今回の京都霊山護国神社での「長州の人々 その2」の墓碑は、黄色枠の囲みにあります。

本編は、
贈位諸賢伝一・二 国友社(昭和2年)、
宮内省蔵版 修補 殉難録稿(昭和8年)、
甲子殉難士伝(明治30年)、以上、国立国会図書館所蔵のもの、
幕末維新全殉難者名鑑(昭和61年)、
霊山護国神社・霊山祭神の研究、ウィキペディアなどを参照しました。
* は、投稿者の付記。
長州の人々

○ 佐方 熊三郎
【墓名】
長州
佐方熊三郎之墓
元治元年甲子七月十九日歿

寺社組士・佐方 謙二の弟で熊二郎とも称した。
福原越後に属し、元治元年7月19日の禁門の変で負傷し、同夜、桜宮の淀川の船中で自決。享年20

○ 田中 誠助(田中誠輔)
【墓名】
長州
田中誠助之墓
元治元年甲子七月十九日歿

かつて浦賀および兵庫の兵役に従う。
元治元年6月、福原越後が江戸に行くに従い伏見の駅に至り、越後脱藩の士の鎮撫の為に止めて、行かず。
7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い負傷し、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、捕らわれる。
誠助は、戦うこと出来ず、遂に割腹して死す。享年35歳

○ 和智 金槌(和智 金熊)
【墓名】
長州
和智金槌之墓
元治元年甲子七月十九日歿

和智 金熊は、姓は藤原、諱(*いみな)は美郷。
かつて世子の親兵となる。
元治元年6月、福原越後が江戸に行くに従い伏見の駅に至り、越後脱藩の士の鎮撫の為に行かず。
7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い重傷を負い、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、割腹して死す。享年24歳

○ 山田 千吉
【墓名】
長州
山田千吉之墓
元治元年甲子七月十九日歿

7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い重傷を負い、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、割腹して死す。享年25歳

○ 出羽 虎槌 (出羽 孫四郎 いずは まごしろう)
【墓名】
長州
出羽虎槌之墓
元治元年甲子七月十九日歿

出羽 孫四郎は姓は伴、諱は實秀、初め虎槌と称する。
福原越後に従い、 7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い重傷を負い、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、割腹して死す。享年20歳

○ 山県 友右衛門
【墓名】
徳山仲隊兵員
山県友右衛門薫友墓
慶応四戊辰正月廿三日病死
千河原町営中 行稔二十七歳

徳山藩士で徳山中隊に属する。
明治元年1月23日、京都河原町陣営にて病死。享年27

○ 桂 勝三郎
【墓名】
長州
桂勝三郎之墓
元治元年甲子七月十九日歿

桂 勝三郎、姓は大江、諱は孝政と云う。
桂 小五郎の養子である。
福原越後に従い、 7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い重傷を負い、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、割腹して死す。享年17歳

○ 高橋 与三
【墓名】
長州
高橋與三之墓
元治元年甲子七月十九日歿

高橋 与三は、姓は源、諱は光標、槍術を能くする。
福原越後に従い、 7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い重傷を負い、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、割腹して死す。享年24歳

○ 佐分利 徳三郎
【墓名】
長州
佐分利徳三郎之墓
元治元年甲子七月十九日歿
姓は藤原、諱は重忠で地下医師・顕民の弟。
かつて奇兵隊伍長で、福原越後に従い7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い負傷し、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、割腹して死す。享年21歳

○ 今津 宇三郎(今津卯三郎)
【墓名】
長州
今津宇三郎之墓
元治元年甲子七月十九日歿

清末藩士、御膳夫・清吉の二男。
かつて奇兵隊に入り、福原越後に従い7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い負傷し、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、割腹して死す。享年20歳
下関市桜山神社にも墓がある。

○ 弘 勝之進 (弘 勝之助)
【墓名】
長州
弘勝之進之墓
元治元年甲子七月十九日歿

名は忠貞、東明と号する。
山口藩、八組士・九郎右衛門の嫡子である。
嘉永6年、浦賀警護の際、先鋒隊となって、その地を守り、次いで兵庫警衛の任を命じられる。
文久2年、藩主父子が尊攘を唱える時、京都に留まりて聖旨の貫徹に力(つと)める。
後、久坂義助などと赤間関赴き外船砲撃に参加し、再び上京すると朝議が一変し、本藩が禁門の警衛を解かれるにより、去って兵庫に匿れる(かくれる)。
元治元年4月、主命により藩兵の鎮撫のため上京したが、鎮撫に行かず、7月19日の変を醸す。
これより八幡隊に属し書記となり、禁門の変となるに及び、鷹司邸内において、宮闕(きゅうけつ・宮廷)を拝し、更に西に向かい藩主に罪を謝して自刃する。年28
贈正五位。
山口市秋穂二島 朝日山護国神社にも墓がある。
上記の列の左側に高杉晋作などの墓が並ぶ

この編、了。
今回の京都霊山護国神社での「長州の人々 その2」の墓碑は、黄色枠の囲みにあります。
本編は、
贈位諸賢伝一・二 国友社(昭和2年)、
宮内省蔵版 修補 殉難録稿(昭和8年)、
甲子殉難士伝(明治30年)、以上、国立国会図書館所蔵のもの、
幕末維新全殉難者名鑑(昭和61年)、
霊山護国神社・霊山祭神の研究、ウィキペディアなどを参照しました。
* は、投稿者の付記。
長州の人々
○ 佐方 熊三郎
【墓名】
長州
佐方熊三郎之墓
元治元年甲子七月十九日歿
寺社組士・佐方 謙二の弟で熊二郎とも称した。
福原越後に属し、元治元年7月19日の禁門の変で負傷し、同夜、桜宮の淀川の船中で自決。享年20
○ 田中 誠助(田中誠輔)
【墓名】
長州
田中誠助之墓
元治元年甲子七月十九日歿
かつて浦賀および兵庫の兵役に従う。
元治元年6月、福原越後が江戸に行くに従い伏見の駅に至り、越後脱藩の士の鎮撫の為に止めて、行かず。
7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い負傷し、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、捕らわれる。
誠助は、戦うこと出来ず、遂に割腹して死す。享年35歳
○ 和智 金槌(和智 金熊)
【墓名】
長州
和智金槌之墓
元治元年甲子七月十九日歿
和智 金熊は、姓は藤原、諱(*いみな)は美郷。
かつて世子の親兵となる。
元治元年6月、福原越後が江戸に行くに従い伏見の駅に至り、越後脱藩の士の鎮撫の為に行かず。
7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い重傷を負い、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、割腹して死す。享年24歳
○ 山田 千吉
【墓名】
長州
山田千吉之墓
元治元年甲子七月十九日歿
7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い重傷を負い、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、割腹して死す。享年25歳
○ 出羽 虎槌 (出羽 孫四郎 いずは まごしろう)
【墓名】
長州
出羽虎槌之墓
元治元年甲子七月十九日歿
出羽 孫四郎は姓は伴、諱は實秀、初め虎槌と称する。
福原越後に従い、 7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い重傷を負い、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、割腹して死す。享年20歳
○ 山県 友右衛門
【墓名】
徳山仲隊兵員
山県友右衛門薫友墓
慶応四戊辰正月廿三日病死
千河原町営中 行稔二十七歳
徳山藩士で徳山中隊に属する。
明治元年1月23日、京都河原町陣営にて病死。享年27
○ 桂 勝三郎
【墓名】
長州
桂勝三郎之墓
元治元年甲子七月十九日歿
桂 勝三郎、姓は大江、諱は孝政と云う。
桂 小五郎の養子である。
福原越後に従い、 7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い重傷を負い、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、割腹して死す。享年17歳
○ 高橋 与三
【墓名】
長州
高橋與三之墓
元治元年甲子七月十九日歿
高橋 与三は、姓は源、諱は光標、槍術を能くする。
福原越後に従い、 7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い重傷を負い、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、割腹して死す。享年24歳
○ 佐分利 徳三郎
【墓名】
長州
佐分利徳三郎之墓
元治元年甲子七月十九日歿
姓は藤原、諱は重忠で地下医師・顕民の弟。
かつて奇兵隊伍長で、福原越後に従い7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い負傷し、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、割腹して死す。享年21歳
○ 今津 宇三郎(今津卯三郎)
【墓名】
長州
今津宇三郎之墓
元治元年甲子七月十九日歿
清末藩士、御膳夫・清吉の二男。
かつて奇兵隊に入り、福原越後に従い7月19日の禁門の変の折、藤森で戦い負傷し、船に乗り淀川を下ると敵兵が桜宮におり、割腹して死す。享年20歳
下関市桜山神社にも墓がある。
○ 弘 勝之進 (弘 勝之助)
【墓名】
長州
弘勝之進之墓
元治元年甲子七月十九日歿
名は忠貞、東明と号する。
山口藩、八組士・九郎右衛門の嫡子である。
嘉永6年、浦賀警護の際、先鋒隊となって、その地を守り、次いで兵庫警衛の任を命じられる。
文久2年、藩主父子が尊攘を唱える時、京都に留まりて聖旨の貫徹に力(つと)める。
後、久坂義助などと赤間関赴き外船砲撃に参加し、再び上京すると朝議が一変し、本藩が禁門の警衛を解かれるにより、去って兵庫に匿れる(かくれる)。
元治元年4月、主命により藩兵の鎮撫のため上京したが、鎮撫に行かず、7月19日の変を醸す。
これより八幡隊に属し書記となり、禁門の変となるに及び、鷹司邸内において、宮闕(きゅうけつ・宮廷)を拝し、更に西に向かい藩主に罪を謝して自刃する。年28
贈正五位。
山口市秋穂二島 朝日山護国神社にも墓がある。
上記の列の左側に高杉晋作などの墓が並ぶ
この編、了。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。


この記事へのコメント