京都史蹟散策282 京都霊山護国神社・長州の人々 その1

京都史蹟散策282 京都霊山護国神社・長州の人々 その1


今回の京都霊山護国神社での「長州の人々 その1」の墓碑は、黄色枠の囲みにあります。
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本編は、
贈位諸賢伝一・二 国友社(昭和2年)、
宮内省蔵版 修補 殉難録稿(昭和8年)、
甲子殉難士伝(明治30年)、以上、国立国会図書館所蔵のもの、
幕末維新全殉難者名鑑(昭和61年)、
霊山護国神社・霊山祭神の研究、ウィキペディアなどを参照しました。

  * は、投稿者の付記。

長州の人々
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○ 船越 清蔵

【墓名】 長州 精勇船越守愚之墓

京都霊山護国神社 船越 清蔵
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山口県下関市菊川町上岡枝にある船越清蔵旧宅跡にある説明板によると・・
船越 清蔵(ふなこし せいぞう)
船越 清蔵は文化2年(1805)この地で生まれました。
父は清末藩士 船越三九郎孟正(たけまさ)、母はトシ。
文政4年(1821) 17歳で清末藩学育英館を終え、日出(ひで)の帆足万里(ほあしばんり)の塾に、更に当時の最高学府とも言える日田の広瀬淡窓(しろせたんそう)の咸宜園(かんぎえん)と、足かけ8年間学びました。
清蔵は船越家の長男(男児は清蔵のみ)で、当時は長男が家督を継ぐことが常識でしたが、清蔵はあえて家督を継がないと決め、文政11年(1828)許可を得て24歳で故郷をはなれました。
当時の日本は鎖国をし、諸外国の船が日本沿岸に接近して開国を迫り、あるいは国土を侵す様子を見せるなどしていましたが、徳川幕府はそれに対処する力を備えていない状況でした。
清蔵は家を離れた後、長崎で西洋医学を学び、天保8年(1837) 江戸で医業につきましたが、密(ひそ)かに各地を歩いて日本の防衛を考え、同じ考えの吉田松陰とも交流をもっていました。
安政5年(1858)清蔵は萩に帰りました。清蔵は萩藩主の毛利敬親に、また清末藩、長府藩でも藩主に、更に藩校でも講義をしていました。安政6年、吉田松陰は刑死、翌年に桜田門外の変など日本は激しく動く中、清蔵は萩藩主に時代の実情を説き国防について述べていますが、文久2年(1862) 8月8日、萩からの帰途、美弥軍赤郷村絵堂(今の美祢市)で急死しました。清蔵が萩藩主に講義した内容が萩藩の重臣たちの強い反感を買い毒殺されたとの説が有力です。清蔵は縁者により密に小出の墓地に埋葬されました。
時代は変わり明治24年(1891) 明治政府は清蔵の生前の功績を認めて「従四位」の称号を贈りました。
    平成22年11月     菊川町観光協会
                     と、あります。
享年58 



○ 南木 四郎 (*みなき しろう)
(堤 松左衛門義次)

【墓名】南木四郎源善次之墓

京都霊山護国神社 南木 四郎
堤 松左衛門の変名とされる(*他説もあり)
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堤 松左衛門に就いては、京都史蹟散策 114 京都霊山護国神社探訪4 熊本藩 を参照。



○ 松浦 亀太郎 

【墓名】 長州 
  松浦亀太郎知新之墓
     文久二年壬戍四月十三日歿

京都霊山護国神社 松浦 亀太郎
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(*松浦 亀太郎) 名は知新、字は無窮、松洞と号する。
長州、萩の商家に生まれ、幼きより丹青(たんせい・*絵画)の技を能くし、
礀宗四郎(本名は益田時貞、天草四郎)を師とする。
好んで忠孝節義の人を貌し(*偲び)、世道を補益することを期す。
後、吉田松陰に従学し、久坂 玄瑞、中谷正亮などと交際を重ねる。
爾来(じらい・*それから後)、(*松浦 亀太郎) は藩主父子および師友の情義に感激し、身を家国に效そう(*尽力しよう)と誓い、尊攘のために尽瘁(じんすい・*自分の労苦を顧みることなく、全力を尽くすこと)する。
文久2年4月、竊(*ひそか)に同志を募り東上する。
たまたま長井 雅楽が献言した議国論に反するを憤り、これを要殺して天下に謝することを欲しが、人が止めるところとなりて果たせなかった。
しかしながら、その憤恚(ふんい・*憤り、怒ること)を禁じることが出来ず、同月(*2月)13日、粟田山中(*京都市東山区の粟田神社の背後、蹴上にぽっかり浮かぶ なだらかな山)に入り、割腹して死す。年26
まさしく粟田宮(*京都市東山区にある崇徳天皇を祀る霊社)の正義を慕い、死を馬前(*貴人や主君の面前のたとえ)に致すの意を寓した(*直接示さず、他の事物に託して表現すること)のであった。 贈正五位



○ 松尾 甲之新   

【墓名】 長州 
  松尾甲之進則信之墓
     文久三癸亥年八月廿日歿

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(望月亀弥太の変名)
望月亀弥太 義澄
変名は、松尾甲之進。
同盟簿に記載なし。
土佐郡小高坂の出身で、当時、壬生を襲撃前。
元治元年(1864年)6月5日、京都 三條小橋・池田屋で闘死。
享年、27歳。贈従四位。



○ 周田 半蔵 
【墓名】 長州
   周田半蔵越智正順之墓
    文久三癸亥年九月六日歿

京都霊山護国神社 周田 半蔵
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周田半蔵正順、留之允とも。
八組士 小源太の嫡子。奇兵隊。
文久3年9月6日、京都で憂憤、病死。23才
山口県下関市上新地町 桜山神社に招魂碑がある。



○ 吉田 稔磨 

【墓名】 長州
   吉田稔磨立花秀美神霊
    元治紀元甲子六月五日闘死 行年二十四

京都霊山護国神社 吉田 稔磨

IMG_1603吉田 稔磨◆ 488.JPG

京都史蹟散策 10-2 池田屋騒動跡 その2(リニューアル版) を参照。



○ 杉山 松介  (杉山 松助)

【墓名】 長州
杉山松介源律義之墓
  元治元年甲子六月五日被創翌日歿行年二十

京都霊山護国神社 杉山 松介
IMG_1604杉山 松介 (杉山 松助)◆  488.JPG

京都史蹟散策 10-2 池田屋騒動跡 その2(リニューアル版) を参照。




○所山 五六郎  (野老山 吾吉郎)

【墓名】 長州
    所山五六郎神霊
   元治紀元甲子六月五日歿行年二十

京都霊山護国神社 所山 五六郎
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野老山 吾吉郎
名は輝朗、後 姓名を変じて所山 五六郎と仮称する。
高知藩士・山野辺 万平の次男である。
才名 衆に超え、別に藩碌を受けて、氏を野老山と改める。
文久3年、京都警衛を命じられ、河原町の邸舎に住する。
爾来(じらい・*それから後)尊攘のため報效(ほうこう・*功を立てて恩に報いること)を期して奔走する。
元治元年(1864年)6月5日、三条池田屋に同志を訪ね、密談に時を移し、まさに帰邸しようとするに当たり、会津藩兵の囲むところとなり、奮闘、負傷し、ようやく脱して藩邸に潜んだが、6月27寧、創(きず)のため死す。年19 贈従五位。



○ 湯川 庄三 (湯川庄蔵)

【墓名】 長州
   湯川庄三之墓
     元治紀元甲子七月十九日歿

京都霊山護国神社 湯川 庄三
IMG_1606湯川 庄三  湯川庄蔵  488.JPG


湯川庄蔵とも。
長州藩八組士で剣術に長けて八組士 遊撃隊の参謀となる。147石。
7月19日の変(*禁門の変)で来島政久、那須正武と同じく討死する。享年 31歳
他に相国寺・長州藩士戦亡霊塔碑に名がある。
山口県室積峨眉山に墓がある。



○ 弘中 与惣左衛門  (弘中 与三右衛門)

【墓名】長州
   弘中與三右衛門恒忠之碣

IMG_1607弘中 与惣左衛門(弘中与三右衛門)  488.JPG
   
弘中 与惣左衛門と称する弘中 常忠は、峨洋園と号する。
長州の重臣・児玉 親常の従者である。
安政4年、(*児玉) 親常(*ちかつね)と共に浦賀の頓戌(とんの・*安産祈願に関連する行事)に赴き、その会計を掌る(*つかさどる)。
事が終わり国に帰ると、行役中のつひえ(行事中の出費)が殊の外、多いとして、とやかくと讒言(ざんげん・*虚偽の事実を告げる事)人がいて、遂に越度として身分を貶しめられる(おとしめられる・*ひとの価値を下げられる)。
しかし、(*弘中)常忠は、山水の眺めに心を遣りて、憂う様は見えなかった。
文久3年の秋には、(*児玉) 親常の嫡子・親相(*ちかすけ)に従い前田に頓戌(とんの・*安産祈願に関連する行事)し、又の年の7月、(*児玉) 親相が脱藩の共柄(*者共)を取り鎮めようと都に上るに共に従い、7月19日の大変(*禁門の変)に出会い、味方の軍が敗れたので、京都・桃山にて切腹して亡くなった。 時に年40
(*弘中)常忠は、この日の戦いに、兼ねて来島政久から贈られた烏帽子をかぶり威儀(いぎ・*振る舞い)を整へ、真っ先に陣頭に立って働いたのであった。



○ 佐藤 市郎

【墓名】 長州
   佐藤市郎之墓
     元治紀元甲子七月二十日歿


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京都史蹟散策10 池田屋騒動跡 その3(リニューアル版)を参照。
長州藩士。京都藩邸吏。
元治元年(1864年)6月5日、宮川町小倉春方で会津藩士に捕えられ、7月20日、六角獄で斬首された。享年41歳。


上記の列の左側に高杉晋作などの墓が並ぶ
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この編、了。




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