京都史蹟散策280 京都霊山護国神社・高松 平十郎と富田 織部

京都史蹟散策280 京都霊山護国神社・高松 平十郎と富田 織部

今回の京都霊山護国神社での高松 平十郎と富田 織部の墓碑は、黄色枠の囲みにあります。
無記名 - 高松 平十郎と富田 織部.JPG

本編は、
贈位諸賢伝一・二(昭和2年)、国友社、
宮内省蔵版 修補 殉難録稿(昭和8年)、
以上、国立国会図書館所蔵のもの、
霊山護国神社・霊山祭神の研究 ウィキペディアなどを参照しました。

  * は、投稿者の付記。


○ 高松 平十郎

【墓名】 高松 平十郎信行奥城 

京都霊山護国神社 高松 平十郎 
IMG_1482高松 平十郎  488◆.JPG 

足利三代木像梟首事件(あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん)
文久3年2月22日深夜、京都の等持院霊光殿に安置されていた室町幕府初代・足利尊氏、2代・義詮、3代義満の木像の首と位牌が持ち出された。
首は賀茂川の三条河原に晒され(さらされ)、「正当な皇統たる南朝に対する逆賊」とする罪状が掲げらていた。
これは、足利氏に仮託して徳川討幕の意を表現した尊攘運動のひとつであった。(ウィキペディアより)


等持院・三門
IMG_0515■山門。  (2013_10_07 22_15_30 UTC).JPG 

高松信行
通称は平十郎。
信濃國更科郡若宮村の農夫・佐五兵衛の次男で、同姓の郡太夫の養子である。
嘉永年間、江戸の塚田孔平の弟子となり剣術を学び、上達して師の名代となり諸国を巡り、その門人を取立て、領主からも礼遇されたと云う。
文久2年、国に帰り、程なく都に上り、次の年2月23日、木像梟首の群れに入り、事が顕われ、(*文久3年2月27日)衣棚二条の寓居(*長尾武雄の別邸)において仙石隆明(*仙石佐多雄)と共に戦い(*捕手の追跡に抗戦して)、遂に叶わず討死する。
そして同盟の士・三輪田 元綱が捕えられて久しく獄中にあり、明治維新の初め、罪を許されて、後、6年、自ら思い立ち、いくらかの費用を惜しまず高松信行の遺骨を掘り出し、洛東の霊山に改葬し石碑を建て、その表背の文を紙に摺り、高松信行の今わの際の書類を取り添えて、父・佐五兵衛の元に遺したが、父方では、高松信行が家を出てから余多(あまた)の年月で音信は絶え果て、その上、国も隔たっていて何も知らなかったが、輪田 本綱の取り計らいで、これを知り、悦ぶこと限りなく、やがて、その遺書などを見ると、郡太夫方を離別して、元の家に立ち戻る送籍の書もあったのであった。
これは他日(*いつの日か)大事に身を果たす事がある時に、養父の方に連塁がないように、との心構えと思われた。
次に年の9月、その筋(*明治政府)より高松信行の生前の篤志を憐れんで祭祀料として少しの金子を賜った。
 上述、宮内省蔵版 修補 殉難録稿を参照。
郷里の長野県埴科郡戸倉町若宮(若宮山麓)に平田 銕胤(ひらた かねたね)の撰による碑文がある。
又、長野県千曲市・佐良志奈神社(さらしなじんじゃ)に三輪田 元綱(みわだ もとつな)撰による碑文がある。
贈従五位。享年28



○ 富田 織部

【墓名】 贈正五位冨田織部 

京都霊山護国神社 富田 織部 
IMG_5949 富田 織部 488◆.JPG

伯耆西泊郡尾高(大高村)のひと。
後藤千秋の子で、通称、一郎、、名を基建と云う。
壮時(*壮年時)、江戸に遊学し、後、京都に還り、三条実万(さんじょう さねつむ)の家臣となり、富田氏を冒す((おかす・*名乗る)。
常に三条実万の左右に在り、公子・三条実美(さねとみ)の侍講として教育の事に任じられ、兼ねて国事の機密に当たる。
安政戊午の獄に捕らわれて押し込みに処せられる。
三条実万の薨後(*死後)、三条実美に事を経て終始、国事に斡旋する。
元治元年、又、幕府の嫌疑により獄に投じられる。
時に三条実美は西竄中(せいざんちゅう・*西へ逃れている最中)であった。
程なく赦されて獄を出て、京都・梨木の本邸に留まり、家政を整理し、秘かに内外の声息(せいそく・*連絡)を通じ、終始、三条実美の服心となり、回復に力を注いで、もって維新中興に及んだのであった。
明治元年9月5日、病に歿する。享年52

梨木神社・神門
IMG_6872●神門 (1280x960).jpg 

梨木神社については、京都史蹟散策187 梨木神社の全貌 を参照。
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/492864541.html?1765105258

この編、了。

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