京都史蹟散策279 京都霊山護国神社・ 水戸藩士・住谷 寅之介、吉田 采女などの人たち
京都史蹟散策279 京都霊山護国神社・ 水戸藩士・住谷 寅之介、吉田 采女などの人たち
今回の京都霊山護国神社での水戸藩士・住谷 寅之介、吉田 采女などの墓碑は、黄色枠の囲みにあります。

本編は、
贈位諸賢伝一・二(昭和2年)、国友社、
宮内省蔵版 修補 殉難録稿(昭和8年)、
以上、国立国会図書館所蔵のもの、
水戸藩殉難死節之者履歴 (明治7年)国立公文書館所蔵のもの、
霊山護国神社・霊山祭神の研究 などを参照しました。
* は、投稿者の付記。
○ 住谷 寅之介
【墓名】 水戸藩住谷寅之介君墓
京都霊山護国神社 住谷 寅之介
名は信順(のぶずみ)で、水戸勘定奉行・長太夫信成の長子である。
弘化甲辰(*弘化元年(1844年)に水戸藩主・徳川斉昭(烈公)が幕府から隠居謹慎の処罰を受けた事件)の際、父に従い京都にいて、藩主・徳川斉昭の寃罪を雪ごうと(そそごうと)しようと欲し、単身、独りで水戸に還る。
しかし、事が吏議に洩れて父は、このために職を罷め、信順は家に禁錮させられる。
安政の初め、小十人徒士目付を経て馬廻組に班し、軍制改正、海防整備の事に参加する。
戊午の変で江戸に到りて建議するところがあった。
*戊午の密勅とは、日米修好通商条約の無勅許調印を受け、安政5年8月8日に孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜した事件。
そして、勅書が水戸に降るに及んで、その伝達に尽力する。
すなわち、高橋 愛諸(*高橋 多一郎)、金子 教孝(*金子 孫二郎)などと謀り、密かに(ひそかに)藩を脱して西南諸藩に遊説を決する。
名を加藤 於蒐之介と変じて大胡 資敬(*大胡 聿蔵)と共に北陸から南海諸藩に到り、志士の奮起を結束する。
幕府はさらに水戸に厳命して、勅書の返納を促すことが非常に急であった。
この際に有志は、悉く(ことごとく)罰せられて信順は又、職禄を削がれて蟄居を命じられる。
まもなくして、桜田の変で形勢がようやく動き、勅書返納の事が止む。
信順は桜田の挙功を奏すると云えども、幕閣の後継の主脳を除かなければ、快復は望めないと、すなわち、弟・信等を西上させて謀るところがあった。
文久2年正月、平山 繁義などが坂下門外に事を挙げたのは、まさしく、その計画に出でたのであった。
大勢は、快復に向かい、勅使・大原重徳、次いで三条実美の東下に及び、建議するところがあった。
そして将軍朝観の事が行われるのであった。
信順は、殊に山内豊信(*山内 容堂)に親近し、屡々(しばしば)、論議するところがあった。
文久3年、藩主・徳川慶篤(よしあつ)が上京に大番組軍用掛り心得を命じられて扈従(こしょう・*貴人に付き従うこと)中、姉小路公知を始め、諸紳(*諸君の意)に見え、策論するところが多かった。
元治甲子(*元治元年)の春、京都の警衛指揮役により、本圀寺別院に屯在する。
爾来(*それ以後)汎く(ひろく)天下の士と交わり、共に国事一心を謀る。
慶応3年6月13日の夜、土州人・山本旗郎の暗殺の遇う。時に年50であった。
贈正五位。
又、東山区長楽寺・水戸藩兵留碑の裏面に、その名がある。
資料の京都史蹟散策 92 長楽寺の全貌 5 を参照。
水戸藩兵留碑の裏面


○ 今瀬 健男
【墓名】 遊軍隊 故健男今瀬君墓
下野国那須郡健武村
京都霊山護国神社 今瀬 健男

水戸藩士。
京都市東山区長楽寺・水戸藩兵留碑の裏面に、その名がある。


○ 吉田 采女
【墓名】 吉田 采女之墓
京都霊山護国神社 吉田 采女の墓碑

吉田 采女重則
水戸のひと。
旧水戸領の神宮で元水戸常陸国・茨城郡下吉影村、鎮守鹿島明神の祠官で、天保7年3月15日、同所で生まれる。
文久3年正月、水戸殿の上京に扈従し5月に帰村する。
同年8月、那珂群湊村の郷校で衆人と国事を衆議する。
同年9月、旧水戸藩より壮年の者の人選にて江戸檪川邸宅の守衛を命じられる。
また、一橋殿の守衛となる。
同年10月、一橋殿の守衛を免じられ、品川台場の大砲打ち手を命じられ、山国 喜八郎(*山国 兵部)と随従するも12月に免じられる。
元治元年正月、水戸・徳川 余八麻呂(*徳川 昭武(とくがわ あきたけ)の上京の御供で11日に出立し、27日に京都に着し、本圀寺下陣に住む。
同年、4月8日、一橋殿(*一橋慶喜)の守衛となり、4月11日、御館に繰り込み、床机隊に組入り、日々、参内の御供をし、同年7月、禁門の変の際、御所内の御守衛を相、勤めたが、一橋殿の守衛を免じられ、再び、余八麻呂殿の御付きとなり、同年12月、余八麻呂殿が清水家の相続以来、禁門の守衛を相、勤める。
慶応3年6月10日、病没。年32。
水戸藩殉難死節之者履歴4(国立公文書館所蔵のものを参照。)
又、東山区長楽寺・水戸藩兵留碑の裏面に、その名がある。


○ 大越 伊予之介
【墓名】大越伊予之介君之墓
京都霊山護国神社 大越 伊予之介 の墓碑

水戸藩士、小日高野出身。
慶応元年、水戸天狗党の挙兵に加わり元治元年7月10日に死亡。
又、東山区長楽寺・水戸藩兵留碑の裏面に、その名がある。(赤印)


○ 真野 筆次郎
往時、京都府山城国乙訓郡久世村の平民。
【墓名】大越伊予之介君之墓

熊本県玉名市高瀬字横町の高瀬官軍墓地の合祀塔(*昭和38年に改装)に、その名がある。
筆次郎は、西南戦争で政府軍・大坂鎮台歩兵の第九聯隊の第二大隊第二中隊の兵卒として参戦し、熊本県下の肥後国山本郡・田原坂で明治10年3月9日に負傷後、玉名郡の高瀬病院で翌日に死亡した。享年24才。
(*霊山護国神社の殉難志士履歴では3月12日に戦死とある。)

○ 大高 銀之助
【墓名】大高銀之助重忠墓
(右・横面) 播磨國 林田藩
京都霊山護国神社 大高銀之助 の墓碑

林田藩士
林田藩は、江戸時代、播磨国揖東部にあった藩。
藩庁として林田(現・兵庫県姫路市林田町聖岡)に林田陣屋が置かれた。
大高銀之助の詳細は不明。
この編、了。
今回の京都霊山護国神社での水戸藩士・住谷 寅之介、吉田 采女などの墓碑は、黄色枠の囲みにあります。
本編は、
贈位諸賢伝一・二(昭和2年)、国友社、
宮内省蔵版 修補 殉難録稿(昭和8年)、
以上、国立国会図書館所蔵のもの、
水戸藩殉難死節之者履歴 (明治7年)国立公文書館所蔵のもの、
霊山護国神社・霊山祭神の研究 などを参照しました。
* は、投稿者の付記。
○ 住谷 寅之介
【墓名】 水戸藩住谷寅之介君墓
京都霊山護国神社 住谷 寅之介
名は信順(のぶずみ)で、水戸勘定奉行・長太夫信成の長子である。
弘化甲辰(*弘化元年(1844年)に水戸藩主・徳川斉昭(烈公)が幕府から隠居謹慎の処罰を受けた事件)の際、父に従い京都にいて、藩主・徳川斉昭の寃罪を雪ごうと(そそごうと)しようと欲し、単身、独りで水戸に還る。
しかし、事が吏議に洩れて父は、このために職を罷め、信順は家に禁錮させられる。
安政の初め、小十人徒士目付を経て馬廻組に班し、軍制改正、海防整備の事に参加する。
戊午の変で江戸に到りて建議するところがあった。
*戊午の密勅とは、日米修好通商条約の無勅許調印を受け、安政5年8月8日に孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜した事件。
そして、勅書が水戸に降るに及んで、その伝達に尽力する。
すなわち、高橋 愛諸(*高橋 多一郎)、金子 教孝(*金子 孫二郎)などと謀り、密かに(ひそかに)藩を脱して西南諸藩に遊説を決する。
名を加藤 於蒐之介と変じて大胡 資敬(*大胡 聿蔵)と共に北陸から南海諸藩に到り、志士の奮起を結束する。
幕府はさらに水戸に厳命して、勅書の返納を促すことが非常に急であった。
この際に有志は、悉く(ことごとく)罰せられて信順は又、職禄を削がれて蟄居を命じられる。
まもなくして、桜田の変で形勢がようやく動き、勅書返納の事が止む。
信順は桜田の挙功を奏すると云えども、幕閣の後継の主脳を除かなければ、快復は望めないと、すなわち、弟・信等を西上させて謀るところがあった。
文久2年正月、平山 繁義などが坂下門外に事を挙げたのは、まさしく、その計画に出でたのであった。
大勢は、快復に向かい、勅使・大原重徳、次いで三条実美の東下に及び、建議するところがあった。
そして将軍朝観の事が行われるのであった。
信順は、殊に山内豊信(*山内 容堂)に親近し、屡々(しばしば)、論議するところがあった。
文久3年、藩主・徳川慶篤(よしあつ)が上京に大番組軍用掛り心得を命じられて扈従(こしょう・*貴人に付き従うこと)中、姉小路公知を始め、諸紳(*諸君の意)に見え、策論するところが多かった。
元治甲子(*元治元年)の春、京都の警衛指揮役により、本圀寺別院に屯在する。
爾来(*それ以後)汎く(ひろく)天下の士と交わり、共に国事一心を謀る。
慶応3年6月13日の夜、土州人・山本旗郎の暗殺の遇う。時に年50であった。
贈正五位。
又、東山区長楽寺・水戸藩兵留碑の裏面に、その名がある。
資料の京都史蹟散策 92 長楽寺の全貌 5 を参照。
水戸藩兵留碑の裏面
○ 今瀬 健男
【墓名】 遊軍隊 故健男今瀬君墓
下野国那須郡健武村
京都霊山護国神社 今瀬 健男
水戸藩士。
京都市東山区長楽寺・水戸藩兵留碑の裏面に、その名がある。
○ 吉田 采女
【墓名】 吉田 采女之墓
京都霊山護国神社 吉田 采女の墓碑
吉田 采女重則
水戸のひと。
旧水戸領の神宮で元水戸常陸国・茨城郡下吉影村、鎮守鹿島明神の祠官で、天保7年3月15日、同所で生まれる。
文久3年正月、水戸殿の上京に扈従し5月に帰村する。
同年8月、那珂群湊村の郷校で衆人と国事を衆議する。
同年9月、旧水戸藩より壮年の者の人選にて江戸檪川邸宅の守衛を命じられる。
また、一橋殿の守衛となる。
同年10月、一橋殿の守衛を免じられ、品川台場の大砲打ち手を命じられ、山国 喜八郎(*山国 兵部)と随従するも12月に免じられる。
元治元年正月、水戸・徳川 余八麻呂(*徳川 昭武(とくがわ あきたけ)の上京の御供で11日に出立し、27日に京都に着し、本圀寺下陣に住む。
同年、4月8日、一橋殿(*一橋慶喜)の守衛となり、4月11日、御館に繰り込み、床机隊に組入り、日々、参内の御供をし、同年7月、禁門の変の際、御所内の御守衛を相、勤めたが、一橋殿の守衛を免じられ、再び、余八麻呂殿の御付きとなり、同年12月、余八麻呂殿が清水家の相続以来、禁門の守衛を相、勤める。
慶応3年6月10日、病没。年32。
水戸藩殉難死節之者履歴4(国立公文書館所蔵のものを参照。)
又、東山区長楽寺・水戸藩兵留碑の裏面に、その名がある。
○ 大越 伊予之介
【墓名】大越伊予之介君之墓
京都霊山護国神社 大越 伊予之介 の墓碑
水戸藩士、小日高野出身。
慶応元年、水戸天狗党の挙兵に加わり元治元年7月10日に死亡。
又、東山区長楽寺・水戸藩兵留碑の裏面に、その名がある。(赤印)
○ 真野 筆次郎
往時、京都府山城国乙訓郡久世村の平民。
【墓名】大越伊予之介君之墓
熊本県玉名市高瀬字横町の高瀬官軍墓地の合祀塔(*昭和38年に改装)に、その名がある。
筆次郎は、西南戦争で政府軍・大坂鎮台歩兵の第九聯隊の第二大隊第二中隊の兵卒として参戦し、熊本県下の肥後国山本郡・田原坂で明治10年3月9日に負傷後、玉名郡の高瀬病院で翌日に死亡した。享年24才。
(*霊山護国神社の殉難志士履歴では3月12日に戦死とある。)
○ 大高 銀之助
【墓名】大高銀之助重忠墓
(右・横面) 播磨國 林田藩
京都霊山護国神社 大高銀之助 の墓碑
林田藩士
林田藩は、江戸時代、播磨国揖東部にあった藩。
藩庁として林田(現・兵庫県姫路市林田町聖岡)に林田陣屋が置かれた。
大高銀之助の詳細は不明。
この編、了。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。


この記事へのコメント