京都史蹟散策278  「徳川慶喜追討令」を読んでみる

京都史蹟散策278  「徳川慶喜追討令」を読んでみる

「太政類典・第一編」より
〇「徳川慶喜追討令」1868年(慶応4)1月7日

正月七日征討大號令
德川慶喜天下ノ形勢不得已ヲ察シ大政返上將軍職辭退相願候ニ付朝議ノ上斷然被聞食候處只大政返上ト申而已ニテ於朝廷土地人民御保チ不被遊候テハ御聖業難被爲立候ニ付尾越二藩ヲ以テ其實効御訊問被爲遊候節於慶喜ハ奉畏候得共麾下并會桑ノ者共承服不仕萬一暴擧可仕哉モ難計ニ付只管鎭撫ニ盡力仕居候旨尾越ヨリ及言上候間朝廷ニハ慶喜眞ニ恭順ヲ盡シ候樣被思食

既往ノ罪不被爲問寬大ノ御處置可被仰付候處豈圖ランヤ大阪城ヘ引取候ハ素ヨリノ詐謀ニテ去ル三日麾下ノ者ヲ引率シ剩前々御暇被遣候會桑等ヲ先鋒トシ闕下ヲ奉犯候勢現在彼ヨリ兵端ヲ開キ候上ハ慶喜反状明白始終奉欺朝廷候段大逆無道最早於朝廷御宥恕ノ道モ絶果不被爲得已追討被仰付候

兵端既ニ相開候上ハ速ニ賊徒御平治萬民塗炭ノ苦ヲ被爲救度叡慮ニ候間今般仁和寺宮征討將軍ニ被任候ニ付テハ是迄偸安怠情ニ打過或ハ兩端ヲ抱キ候者ハ勿論假令賊徒ニ從ヒ譜代臣下ノ者タリ共悔悟憤發爲國家盡忠ノ志有之候輩ハ寬大ノ思食ニテ御採用可被爲在候

依戰功此行末德川家ノ儀ニ付歎願ノ儀モ候ヘハ其筋ニヨリ御許容可有之候然ルニ此御時節ニ至リ不辨大義賊徒ト謀ヲ通シ或ハ潛居爲致候者ハ朝敵同樣嚴刑ニ可被處候間心得違無之樣可致候事
 
但シ征討大將軍被置候上ハ即時前件號令可被發ハ勿論ニ候ヘ共猶旗下粗暴ノ徒壅蔽爰ニ至リ候事哉ト彼是深重之思召ヲ以御遲延ノ處三日ヨリ今七日ニ至リ坂兵日々雖敗走益出兵呉々不得止斷然本文ノ通被仰出候各藩陪從吏卒ニ至ル迄方向ヲ定メ爲天下奉公可有之候事

二条城 東南隅櫓
IMG_4421 ★日記1 東南隅櫓.JPG

二の丸庭園
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慶応4年(1868)1月7日 
朝廷、徳川慶喜 追討令を発す。
以下は、内容理解の助となるべく投稿者が口語訳したものです。

徳川慶喜、天下形勢、不徳と察し、大政返上、将軍の辞退を願い出たが、朝議の上 明確に聞き及ぶところでは、ただ、大政返上と申すだけで、朝廷では土地人民を安全に確保できず天子の行う業、成り難いので、尾張、越後の両藩を以てその實効を詰問させると、慶喜においては恐れ入るも、配下、並びに会津・桑名藩の者共は、承服せず、万一、暴挙に出ても厄介なので、鎮撫に尽力を尽せよとの旨を尾張、越後より言及させる間に、朝廷におかれては慶喜に、恭順を尽すように思召しがあった。

過去の罪は問わず、寛大なご処置されるべきところ、意外にも、大坂城へ引き取るとは、もとより、これは策謀で、1月3日、配下の者を引し、そればかりか、前に暇を出した会津・桑名等を先鋒とし天子の御前を汚し、いま、これより兵端(戦いの端緒)を開く上は、慶喜の反状は明白で、全て朝廷を欺く段、大逆無道で最早、朝廷において罪を許す道も絶え、追討を仰せつけられた。

兵端、相、開いたうえは、速やかに賊徒を平治し、万民のひどい苦しみを救うために思慮する間、今般、仁和寺宮(小松宮彰仁親王・あきひと)、征討将軍に任じられるについては、【これまで、偸安・怠惰を抱き、また、それに打ち過ごすはもちろんのこと縦令の賊徒に従い、譜代の臣下の者】であろうとも、国家に忠を尽くすため、悔悟憤発、志のある者は、寛大なる思し召しで、採用されるものである。

この戦功により、徳川家の行末に歎願の義あれば、その筋により許容されるものである。
しかるに、この時節に至り大義を述べず、賊徒に味方し気脈を通じ、あるいは、隠れたりする者は、朝敵同様に、厳刑に処されるので、心得違いのないように致すべき事。

但し、征討大将軍を置いた以上、即時、前件の号令が発っせられれば、勿論だが、【なお、大将の旗印のもと、粗暴の徒を塞ぎ覆うこと、ここに至り、あれやこれや、深重の思し召を以て遅延していたところ】、三日より今・七日に至り、大坂の兵は、日々、敗走。
だが、出兵は、くれぐれも止めず、何を言われようと本文の通りと、仰せられた。
各藩は付き従い、下級の官吏に至るまで方向を定め、天下のため、奉公すべきである事。

二条城天守閣跡より比叡山を遠望
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この編、了。



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