京都史跡散策274-2 詩仙堂と石川丈山 2 丈山の墓へ

京都史跡散策274-2 詩仙堂と石川丈山 2 丈山の墓へ

国史跡・石川丈山の墓へ
石川丈山が亡くなり、後、その遺体は、東山・瓜生山の西の山・舞楽山の中腹に丈山が自ら、生前に建立した墓に葬られた。
そして、1928年1月18日、史跡名勝天然記念物に指定された。
すなわち、(*カタカナを平仮名に変換しました。)

「詩仙堂の東南舞楽寺中山の山頂に在り景勝の地にして 墓碑の石階敷石等現存せり
墓誌銘は 野間三竹の撰するところなり
(*野間三竹 (のま さんちく) は、京都出身。名は成大。字(あざな)は子苞。
江戸前期の医師、儒者で江戸幕府の奥医師に列し、東福門院 (徳川秀忠の娘・和子)に仕えた。
後、松永尺五(せきご) に儒学を学び、丈山と親交を結び、詩友でもあった。)
石階(*の階段)の側に門人平岩仙桂 (ひらいわ せんけい。*京都生まれで、加賀藩の儒官、
後、京都に戻る。)  の墓あり
丈山寛文十二年五月二十三日 詩仙堂に於て歿しこの地に葬れり生前壽壙を築き 又 一大石を山中に得て 三竹に嘱するに 碑誌の事を以てせり
今の墓 即ちこれなり」

石川丈山の墓へは、近隣の金福寺の前の道を右に沿って道なりに少し行く。
すると、左側・南面に八大天王社宮跡がある。
(京都史蹟散策247 八大神社 4 舞楽寺・八大天王社宮跡 参照)
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さらに行くと、突き当たるので、右へ道なりに行くと小さな小屋が現われる。
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これを右側に行くと、すぐに民家があり、また行くと、山道である。
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天王山の山道ほどではないが、非常に滑りやすく、充分、注意が必要。
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石川丈山の墓
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丈山の門人・平岩仙桂(ひらいわ せんけい) の墓
平岩仙桂は京都生まれで、加賀藩の儒官、後、京都に戻る。
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上述の平岩仙桂の墓の少し上側には、
【石碑】
(表側) 史蹟 石川丈山の墓
(左側) 天然記念物保存法二依リ
昭和三年一月十八日 内務大臣 指定
       と、ある。

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石川丈山の墓の原文

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●墓碑
聘君石 六六山人 墓誌
(*六六山人は、丈山の別の号。
これは、友人の儒者・野間三竹の揮毫による。)

柳谷散人埜子苞父識
(*野間三竹が記す、の意。
柳谷は、野間三竹の号。子苞は、野間三竹の字。)

公姓源 氏石川 諱重之 始號嘉右衛門
後改左親衛
一 諱凹 字丈山 六六山人其別稱 而世三州人也
清和帝七世孫 源義家第六子
左兵衛尉義時號石川 之迺石川之處自出者也
義時十五世孫 大炊助信貞 任源長親君
君者東照大臣君之高祖而 信貞者公之五世之祖也
信貞生信治 
信治仕神君之藝祖清康君 攻尾州熊谷城 而有軍功矣
子正信仕神君之皇考贈亞相廣忠君 與今川義元
攻三州安城而抜焉 正信先登 君賞之賜長吉之佩刀
而后奉仕東照大臣君 戦死長久手
其子信定属石川長門守 攻駿州田中城 被衝左股
奪其槍矣
信定有三男二女 長乃公也
公幼而岐嶷 四歳而健歩 行道里餘 頗敏過人
能知二歳之時事 十六歳而奉仕神君
常陪侍左右 恩偶異常 元和乙卯夏五月 秀頼反
神君至難波 自帥師征之
公至戦伐之日 而獻犯軍令 竊出螢中 而先登矣  
岡山之戦 交槍被創 又至城門
與敵佐佐某者及従者力戦 遂獲二人首
班師之後 屏居洛汭 與羅浮子杏菴玄同等
為騒雅之交 而后親炙北肉藤先生
待聞聖賢道學之風
始學禅教 後拾異學而醇如
誠卓乎非文武雙才耶 母老家貧 遊宦西州
其臨将行 謂羅浮子玄同子曰
此業也 豈素志宿心哉 母終天年 則身将退
不敢食言矣 公事老母至孝 居有年
老母没 居喪盡哀 服闋而后 捨官婦洛
遍尋名山 而遂肥遯台嶺之林麓一乗之邑凹凸窩中
築詩仙堂置其中 撰間晋唐栄作者三十六人
而畫之掲之
蓋擬諸我邦之歌仙 是迺詩仙之觴濫也
羅浮子為之記 園中境有十 景有十二
羅浮子洎請向陽讀耕賦之詩
而後公咏和歌 而再不渡鴨河 再不入京師
頗彷彿指門前之鍬況又一生不近粉黛、
亦無有妻孥人以此諸元魯山 三逕塵除 半夜燈閑
閑淡寡欲 一裘一葛 未敢取于人
其行己也 剛而直 廉而潔
其嗜學也 如食郰芻豢
四十年来 社門養疴 未嘗接俗士 未嘗問俗事
所交遊為僅六七人 余亦其列
洽聞博記 捜討無遺 特巧詩律 而筆端高妙
私淑唐體 而得浣花之髓
奚翅當世之宗工鉅匠而己哉

我邦自有二皇子之味以降 言詩者數十百家
數十百家之中 不見出公之右者矣
寛永丁丑 韓客来朝輿學士権侙筆語
侙一讀其詩為日東之李杜
有是哉 外國之人之賞之也 厚好之也深
圖書推案 家無儋石 膏宇廓然無所碍
安貧楽道 俯仰無愧
誠飄飄淳静好古之隠君子也
素能隷書 羅浮子曰 如隷書也者
本邦所未嘗見者也
其平生之吟稿 曰覆別醤集 行于世
今茲春夏之交 臥床而不起
臨終謂其左右曰 結纓易簀之志 未嘗忘焉
其端正如此
嗚呼悲哉 西山之日己迫
寛文壬子夏五月二十三日
日将晡而端坐而逝 享年九十歳
貴介達官 識輿不識 共無不哀惜焉
歛了葬其處其地 村民會葬者 百有餘人
其平生之恵之所及 不言可以知焉
門生等来告 而請誌及銘不侫
不侫忘年之交數十年所 何敢辞
涕泣筆之 且係之以名銘曰
  有器識 居林巒
  安義節 泥蝉冠
  懿哉徳 天地寛



● 石川丈山の墓の意訳

(意訳)
(*石川丈山)公は、姓は、石川、氏は源氏( 石川源氏は、官位、知名度から疑わしき
点もあるが、源 義家の六男・源義時を祖先とする河内源氏の義時流石川氏のこと、とされる。 )で、諱は、重之。
始め嘉右衛門と号し、後、左親衛と改める。
【*その他、四明山人、凹凸か詩仙堂、大拙、烏麟、山木、山村、藪里、東溪、
三足などがある。】

初めの諱は、凹(おう)、字は、丈山で、六六山人は、その別称で、代々、三州(さんしゅう・参州とも表記。
東海道・三河国の別名。)のひとである。
清和帝七世の孫である源義家の六男、左兵衛の尉 義時(*を祖先とする。)石川と号して、
これ、すなわち、(*義時流)石川のところから出た者である。

(*源) 義時の十五世孫・信貞は、(*官位) 大炊助(おおいすけ) に仕じられ、源(*松平) 長親に仕える。
(*松平)長親は、東照大臣 (*松平清康) の高祖(こうそ・遠い先祖)で、信貞は、(*石川丈山)公の五世の祖先である。

~~~~~~

【簡潔系図】
*(源) 義時
義時の15世の孫・信貞  主君・源(*松平) 長親
丈山の祖々父・信治    主君・亞相・松平清康  
丈山の祖父・正信     主君・家康の父・松平広忠
丈山の父・信定      主君・徳川家康
●石川丈山

~~~~~~

信貞の子は信治で、信治は、神君(*徳川家康)の芸祖(*祖父)・清康に仕える。
(*松平)清康は、尾州熊谷城を攻め軍功があり、(*信治の子)正信は、神君(*徳川家康)の皇考(こうこう・先代)に仕えた。
(*松平)清康(きよやす)は、亞相【あしょう・丞相(じょうしょう)に亜(つ)ぐ、大納言の唐名。】を贈られた。
その子(*松平)広忠(ひろただ)は、今川義元に加勢し、三州安城(現・愛知県安城市)の(*織田氏との)闘いで、抜きでた活躍をしたが、その先登(せんとう・さきがけ)は、
(丈山の祖父)正信で、これを賞され、刀・長吉の帯刀を賜う。
その後、正信は、東照大臣(*松平清康) に仕えるも、(*丈山の祖父)正信は、長久手(*の戦い、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康陣営の間での戦い。)で戦死した。
(*丈山の父)信定は、大垣城主・石川長門守に属し、駿州・田中城を攻め、(*槍で)左股を衝かれるも槍を奪った。
信定には、三男二女があり、長男が(*丈山)公である。
   
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(*丈山)公は、幼くして岐嶷(*いこよか・背が高く堂々としている)で、4歳にして歩行し、1里(*約4km)余りを行く。
非常に鋭敏なひとであり、2歳の時のことをよく覚えている。
16歳で神君(*徳川家康) に仕える。
(丈山公は) 常に、(*徳川家康) の左右に侍してお供をし、その恩偶(おんぐう・厚遇)は異常なものであった。
元和元年(*1615年)夏五月、(*豊臣)秀頼、叛反。
神君(*徳川家康)、難波に行き、自ら先頭に立って指揮を執る。(*大阪夏の陣である。)
(*丈山)公は、戦争に行き、云うには、独り軍令を破り、密かに陣地を出て、先駆けをする。
(*また丈山公は、)岡山の戦いで、槍を交えて負傷し、城門に至り、敵人・佐々某(*なにがし)と、その従者と力戦して、遂に二人の首を獲る。
終戦後、京都に蟄居して、(*丈山、35歳。)羅浮子(らふし・*林羅山。朱子学派儒学者。)
堀 杏庵(ほり きょうあん・朱子学者)、管玄同(*朱子学者)らと、文場(ぶんじょう・詩文の著作、批評など)な交わりをし、その後、評判となり、藤原惺窩(ふじわら せいか・*儒学者。
家名 の冷泉を名乗らず、籐(とう)を公称した。
北肉山人とも号する。朱子学派の先駆で、いわゆる京学の租。)と親交し、聖賢道学の風を聞いて(*当時、断絶していた聖賢の学風が復興されていた。)その学を開いた。
(*丈山公は、)始め禅教を学び、後、異学(いがく・*朱子学以外の儒学)を捨て、純粋に朱子学だけのようであった。
誠に優れ、文武(*両道のように)、双才ではなかった。
(*後)母、老いて、家は貧しく、(*丈山公は、)官吏となり、芸陽・広島に赴く。(*丈山、41歳。)
その(*芸陽)に、まさに行くに当たり、羅浮子(*林羅山)、管玄同に云うに、「芸陽へ行くこと、どうして、(*私の)素志(そし・*平素の志)であろうか。
母が天寿を全うすれば、私は、官を退く。
敢えて、ことばは、言わない。」と。
(*丈山公)老母に孝行して、一年ばかりはいた。
(*後、芸陽に行き、)老母は、亡くなり、喪に服し、哀しむ。
その後、官を捨て、京都に帰る。
(*芸陽にいること14年、丈山53歳であった。)
         
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(*そして)諸山の名勝を悉く訪ねて、台嶺の林麓・一乗寺の村・凸凹な土地に建てた住処内を嘉遁(かとん・仙人になるための家出)の地とし、詩仙堂を築き、その中に、(*漢の)晋・唐・栄の詩人36人を選び、(*その像を)書いて掲げた。
(*嘉永18年(1641年)、丈山59歳であった。)
確かに、彼らは、我国の歌仙ではなく、これは、すなわち、詩仙の觴濫(らんしょう・
*始まり)である。
羅浮子(*林羅山)、これを書き記す。
庭園のなかには、十境、或いは、十二景がある。
羅浮子(*林羅山)、晴耕雨読(*悠々自適で)その詩を作る。
そして、(*丈山)公は和歌を作り、以後、鴨川を渡らず、京都に入らず、非常に佛のようで、門前の桑を彷徨する。
いわんや、又、一生、粉黛(ふんたい・美人)に近づかず、また、妻を娶(めと)ることはなく、人は、もって、その人の大きさを魯山(ろざん・*中国の山東省にある山)に比した。
庭内の3本の小径の塵を除け、(*一点の塵が無く)半夜(はんや・*夕方から夜半まで)燈(あかり)なく、一裘一葛(いっきゅういっかつ・この上なく暮らし貧しく)、敢えて人に未だ付き合わなかった。
それが、自分の行うことで、剛にして真っ直ぐで、廉にして(*清くして)潔かった。
学びを嗜み、食事は自分の欠点の如く、40年来、柴扉の門は閉ざし、俗客とは接せず、
俗事とは関わらず、交友する者はわずか6,7人で、私は又、その中にいた。
遍く伝記を読み、探すことはなかった。
特に詩律に巧みで、その筆端(ひったん・筆の運び)は、優れていた。
私は密かに唐に行き、浣花の真髓を得た。
名言は、当世の宗師、巨匠自身であろうか。
我国の南北朝は長く、以降、詩者は、数十百家と云う。
数十百家の内、(*丈山)公の右に出る者は見ない。
寛永14年(1637年)、朝鮮通信使が来朝し、(*随行員の)学士権式(*語学教授)が(*丈山公と)筆談し、権式は、その(*丈山公の)詩を一読して、(*丈山公を)日東の李杜である、と云った。
(*李杜(りと)は、 李白(りはく)と杜甫(とほ)の併称。)
これは、何と外国人の賞賛で、意味深い。
(*丈山公の)図書を読むと、家には、米がなく、心が晴れわたり、わだかまりがない。
        

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安貧楽道(*貧乏なので、かえって気楽)、俯仰無愧(*仰ぎ見て、恥じることなく)、誠に、飄々と、その落ち着いたさまは、古き時代を好む隠君子(*いんくんしん・俗世を離れ隠れ住む有徳の人)である。
(*丈山公は)もとより隷書(れいしょ・中国、秦代に程 邈 (ていばく) が創始した漢字の書体)を能くし、羅浮子(*林羅山)が、云うには、「(*中国では)隷書を能くする者が
いるが、本邦では、かつて見たことがない者である。」と。
平生は、(*詩文の)稿を吟じ、覆醤集(ふしょうしゅう・*詩文集)を著す。
今、ここに春夏を交え(*月日が流れ)、(*丈山公は)床に臥して、(*再び)
起きられず。
(*寛文12年(1672年)3月)、終りに臨み、(*丈山公)左右のひとに云うに、「曽子が簾(すだれ)を取り替え、子路が冠のひもを結ぶ志(*すなわち、隠者の志)
を、かつて忘れたことがあろうか。」
(*曽子(そし)、子路(しろ)は孝子の弟子。)
その端正(*たんせい・姿勢の正しさ)は、このようなものであった。
ああ、悲しいかな。
西山(*にしやま・京都の西側の山)の日は、すでに迫り、(*寛文12年(1672年) 5月23日、日、まさに夕方になろうとして、
(*部屋の) 端に座り、逝く。享年九十歳。
高い身分の官に達し、(*丈山公を)知るも知らぬ者も、共に哀惜の念、ここにあり。
願い終って、此処、この地に葬る。
村民の会葬者は、百有余人。
(*丈山公、)平生の恵みの及ぶところであり、云わなくても知られるところである。
門生らが来て、(*私に)銘を記すことを請う。
飽きずに友交すること数十年、何故、それを(*銘を記すこと)を辞せようか。
涙を流して筆を執り、これをもって銘(*功績を刻む、の意。)とする。
  有器識 居林巒
  安義節 泥蝉冠
  懿哉徳 天地寛
(才能あり、山麓に住し、
他人のために尽くし、泥をかぶる。
うるわしいかな、その徳、心、緩やかなり。)

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この編、了。



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