京都史蹟散策273 京都霊山護国神社・ 村井 修理、宮地 宜蔵などの人たち
京都史蹟散策273 京都霊山護国神社・ 村井 修理、宮地 宜蔵などの人たち
今回の京都霊山護国神社での村井 修理、宮地 宜蔵などの墓碑は、黄色枠の囲みにあります。

本編は、
贈位諸賢伝一・二(昭和2年)、国友社、
宮内省蔵版 修補 殉難録稿(昭和8年)、
近江人物志(大正9年)滋賀県教育会編
水戸藩死事録 下編、
以上、国立国会図書館所蔵のもの、
霊山護国神社・ 霊山祭神の研究 などを参照しました。
* は、投稿者の付記。
○ 村井 修理
【墓名】村井修理少進藤原朝臣政禮碑
京都霊山護国神社 村井 修理 の墓碑

村井修理少進
名は正礼で斎聖寺権少僧・某(なにがし)の子である。
弊冠子、紫門、又群玉堂の号がある。
早く京都に住し、村井 某(なにがし)の家を嗣ぎ、蔵人所衆となり、正六位に叙せられる。
人となりは慷慨・義を重んじ、広く国漢の史籍を通覧し、兼ねて兵法に達する。
平生より幕府の専政を憤り(いきどおり)、皇室の回興を心に強くその思いを寄せる。
嘉永・安政の間、天下の志士と交わりを結んで、尊攘の大義を唱える。
戊午の難では、嫌疑に罹り、ようやくにして免れる。
文久2年(*1862年)に松延次郎と変名し、武市瑞山などのために尽力し、又、薩長連合の殊に奔走したのであった。
文久3年9月、幕吏に逮捕されて、永く獄に在り、慶応3年12月12日、斬に処せられる。
年35。 贈正五位。

○ 宮地 宜蔵
【墓名】宮地宜蔵正寛神霊
京都霊山護国神社 宮地 宜蔵 の墓碑

宮地 宜蔵
名な正覚で、土州高岡郡能津村の庄屋・田村 某(なにがし)の長男。
故ありて姉の夫の宮地 景太郎の姓を冒す(おかす・*名乗る)。
高知に出て間崎 哲馬に学び、同門・吉村 寅太郎と意気投じ、刎頸の交わり(ふんけいのまじわり・*たとえ、首を刎ねられても後悔しないほどの深い友情)を結ぶ。
文久2年(*1862年)の初め、相、共に武市瑞山の尊攘論に同盟し、吉村 寅太郎と同じく長州に行き、同志を誘い京都に留まる。
この時、寺田屋事変があり、嫌疑により藩獄に収監される。
文久3年、恩赦に遇って、三条家護衛の選に当たり、再び京都に到る。
文久3年7月28日、藩邸に帰途後、病を発して死す。年26。

○ 江幡定彦
【墓名】江幡定彦墓
京都霊山護国神社 江幡定彦 の墓碑

江幡廣光。
定彦と称する。
水戸藩士。
新番組・定衛門矩美の長子。
牀几(しょうぎ)廻に選ばれる。
文久3年春、慶篤に従い京都に入る。
留まりて禁門を守衛する。
文久3年6月、監軍正親町公董、長門に赴く。
江幡廣光、藩命をもって、これに従う。
後、又、命を受け、一橋慶喜に属する。
その公用人・平岡円四郎の所為を悪み(にくみ)、林 正義忠五郎などと議して云う。
「彼は浮靡軽佻(けいちょう ふはく・*言動に思慮が足りず、気持ちが浮ついていること)、遠大な策なく、私に洋風を慕い、旧俗を変更しようとする。
その国体を毀損すること、もっとも甚だしい。
戮せざるべからず(必ず殺されるべきである)、と。
元治元年6月16日夜、林 正義忠五郎などと平岡円四郎を道に要して(*待ち伏せして)これを殺し、重傷を蒙り、三条坊千本に至り、自刃して死す。 年26.
君がため すめし宮去をまもりして
しぐるる秋を けふもくらしつ
(水戸藩死事録 下編4 などより)
又、東山区長楽寺・水戸藩兵留碑の裏面に、その名がある。
資料の京都史蹟散策 92 長楽寺の全貌 5 を参照。

○ 林 忠五郎
【墓名】林 忠五郎墓
京都霊山護国神社 林 忠五郎 の墓碑

林 正義
忠五郎と称する。
水戸藩士。
書院番組・伝衛門正清の四子、林 正徳の弟。
文久3年、京都に赴任し、明年、4月、藩命を奉じ、一橋慶喜に属し、江幡廣光などと事を共にし、同じく死す。年26。
(楠公)みなと川 身をしずめしも よそならず
かたりあるべき 人 しなければ
(水戸藩死事録 下編4 などより)
又、東山区長楽寺・水戸藩兵留碑の裏面に、その名がある。
資料の京都史蹟散策 92 長楽寺の全貌 5 を参照。

○ 西村 勇三郎
【墓名】西村勇三郎藤原正次之墓
京都霊山護国神社 西村 勇三郎 の墓碑

詳細不明

○ 西尾 忠兵衛
【墓名】西尾忠兵衛義秀 或いは 西尾忠兵衛義智
京都霊山護国神社 西尾 忠兵衛義秀 の墓碑

京都霊山護国神社 西尾 忠兵衛義智 の墓碑
(以前の状況)

(現在の状況)
詳細不明

○ 中谷 彪次郎 (なかや ひょうじろう)
【墓名】 長藩 中谷彪次郎直彪之墓
京都霊山護国神社 中谷 彪次郎 の墓碑

長州藩八組士(*長州藩の家臣団の「八組」に属する士族で、長州藩主毛利氏に仕え、藩内の重要な役割を果たしており、八組士は、重臣としての地位を持ち、萩城の守備や江戸藩邸の警備を担当していた。)
文久3年(1863年)1月21日、京都日ノ岡で同藩・香川助蔵を暗殺し河原町藩邸で自殺した。

○ 勝木 又三郎
【墓名】 長藩 勝木又三郎久徴之墓
京都霊山護国神社 勝木 又三郎の墓碑

長州藩八組士(*長州藩の家臣団の「八組」に属する士族で、長州藩主毛利氏に仕え、藩内の重要な役割を果たしており、八組士は、重臣としての地位を持ち、萩城の守備や江戸藩邸の警備を担当していた。)
文久3年(1863年)1月21日、京都日ノ岡で同藩・香川助蔵を暗殺し河原町藩邸で自殺した。

○ 樽崎 仲輔
【墓名】 長藩 樽崎仲輔源清武之墓
京都霊山護国神社 樽崎 仲輔の墓碑

長州藩八組士(*長州藩の家臣団の「八組」に属する士族で、長州藩主毛利氏に仕え、藩内の重要な役割を果たしており、八組士は、重臣としての地位を持ち、萩城の守備や江戸藩邸の警備を担当していた。)
文久3年(1863年)1月21日、京都日ノ岡で同藩・香川助蔵を暗殺し河原町藩邸で自殺した。

○ 松浦 富三郎
【墓名】 長藩 松浦富三郎道一之墓
京都霊山護国神社 松浦 富三郎の墓碑

長州藩八組士(*長州藩の家臣団の「八組」に属する士族で、長州藩主毛利氏に仕え、藩内の重要な役割を果たしており、八組士は、重臣としての地位を持ち、萩城の守備や江戸藩邸の警備を担当していた。)
文久3年(1863年)1月21日、京都日ノ岡で同藩・香川助蔵を暗殺し河原町藩邸で自殺した。

○ 豊田 美稲
【墓名】 豊田美稲之墓
京都霊山護国神社 豊田 美稲の墓碑

◆ 近江人物志、(大正9年) 滋賀県教育会編 [意訳・投稿者より]
* は、投稿者の付記。
豊田 美稲
豊田美稲(*とよだ よしね)の初名は徳隣、通称は謙次、字は有秋で、蛟潭と号して甲賀郡池田村[龍池村大字]の人である。
性は鋭敏で読書を好み剣法に達する。
年、20にして武者修行に出て、美濃の人・高田 某(なにがし)に従い、諸国を遊歴し、江戸に入り塚田 孔平の門人となり、岩瀬肥後守邸に寄寓する。
すると、まもなく川路 聖謨が長崎に赴くことがあり、豊田美稲は随行し、水口を過ぎる時、親族が固く家に帰るべきを告げて、その意に従った。
こうして世間は大いに騒がしく、尊皇佐幕の論が盛んな時期であった。
豊田美稲は慷慨(こうがい・*世の中の不義不正や自分の不運を憤り歎くこと)に堪えず、再び出でて長防備伯(現在の中国地方)の諸州を遊歴し、志士と謀略を通じる。
文久元年(1861年)、作州土居・安東桂次郎が郷黌(ごうこう・*江戸時代から明治の初年にかけて、藩士の教育や庶民の教育のために各地に設けられた学校)を起こし、豊田美稲を長たらしむ(・*首領にした)。
豊田美稲は知己の志に感じ、力を尽くしてこれを教授する。
しかし、時事はいよいよ、切迫し、豊田美稲は慨然(がいぜん・*憂い嘆く)志を決して、元治元年(1864年)春、門人・安東鉄馬と入京し奔走する。
宮部 鼎蔵などは大いに計画するところがあり、豊田美稲は、これに与(くみ)する。
しかし、同年6月5日の夜、会津藩兵が襲って宮部 鼎蔵などを殺す。
豊田美稲は当時、水口に居たために難を免れる。
これにより豊田美稲は再度、作州(*現・岡山県)に入り同志を募(つの)る。
後、長州の兵が都に上りて戦さが起こり、幕吏が志士を捕える事が急になったので、豊田美稲破片相思、その後を晦ます(くらます・*隠れる)ことに力(つと)め、(*長州へ向かう途上、)備前国周辺の旅宿・橘屋 弥十郎に逗留した日、津山藩士・田原 平左衛門と云って来訪した者が、突然、豊田美稲を刺す。
豊田美稲は一度、これを追ったが、傷が重く遂に死す。
時に慶応元年12月25日、享年34であった。
墓は岡山県赤盤郡佐伯木村(*現在・岡山県和気町佐伯)に在り、(*又、甲賀市水口町・大岡寺にも墓があり) 明治34年12月、特旨をもって正五位を贈られる。
(勤王列士伝、鹿深遺芳録、人名辞書、大正6年6月近江新報、碑文[*原文ママ] )
豊田 美稲 書(河瀬太宰[川瀬太宰]宛の書翰)
同上・近江人物志より

○ 豊田 丈太郎
【墓名】 豊田丈太郎之墓
京都霊山護国神社 豊田 丈太郎の墓碑

◆ 贈位諸賢伝・二(昭和2年)、国友社 [意訳・投稿者より]
* は、投稿者の付記。
豊田 小太郎(*豊田 丈太郎のこと)
水戸藩儒臣で、[「大日本史」の完成に大きく貢献した] 彦二郎亮(*豊田天功)の長子で、名は靖、香窓と号する。
幼時に家学を受け、後、弘道館に入り文武の業を修める。
天保の初め、藩主・徳川斉昭(なりあき)が蘭学者・下間 良弼を招聘するにあたり、選ばれて講習生となる。
次いで、盛岡藩士・大島 高任を招聘するについて、蘭学を修め得るところがあった。
安政3年(1856年)、牀几(しょうぎ)廻に班し、鈴木豊大と洋学世話掛を命じられる。
安政4年(1857年)、蘭学の進歩により賞賜あり、この年、京都に到り、修史史料の天文音楽取調べに従事する。
当時、池内大学(*儒者)と交わり、縁により青蓮院宮(*久邇宮朝彦親王)および三条実万(さんじょう さねつむ・*三条実美の父)などに攘夷の意見を呈したのであった。
万延元年(1860年)、家督を受けて150石を食み(はみ)、大番組総裁代役に進む。
慶応2年(1866年)、幕府の要路(*重職)に密議を堤しようとして事が洩れる。
同志の桑原 力太郎は捕に就き、豊田 小太郎は加藤木 賞三などと江戸より潜行し、7月に京都に上り、すなわち、本圀寺本藩の警衛に投じる。
そして、開国進取の長計を建てて京都を世界的に中心にさせようとの意見を抱き、斡旋、奔走する中、9月2日の夜、堀川を通行の際、同藩の異論者のために難に逢う。
年33。 贈従五位。
*茨城県水戸市松本町・常盤共有墓地(水戸藩草創期から功績のあった藩士や幕末から明治維新にかけて、活躍または殉難した志士の墓が点在し、現在、水戸市の史跡に指定されている)にも墓がある。
*又、豊田 香窓(*豊田 小太郎のこと)の妻は、日本の女子高等教育の開拓・発展に大きく貢献した女子高等教育の先駆者、日本の幼稚園教育の開拓者などとも云われる豊田 芙雄(とよだ ふゆ)で、茨城県立水戸第二高等学校前に平成4年に建立の銅像がある。

○ 安藤 鉄馬
【墓名】 安藤鐵馬之墓
京都霊山護国神社 安藤 鉄馬の墓碑(右側)

○ 安藤 鉄馬 と ○ 安藤 誠之助 とは同一人物です。
*青字は、過去に掲載されたものを参照して下さい。
○ 安藤 誠之助
▲京都史蹟散策【10-3】 池田屋騒動跡、安藤 誠之助 を参照。

○ 西村 均平
【墓名】 水口 西村均平之墓
京都霊山護国神社 西村均平の墓碑

水口藩士.
明治3年2月14日、歿。
この編、了。
今回の京都霊山護国神社での村井 修理、宮地 宜蔵などの墓碑は、黄色枠の囲みにあります。
本編は、
贈位諸賢伝一・二(昭和2年)、国友社、
宮内省蔵版 修補 殉難録稿(昭和8年)、
近江人物志(大正9年)滋賀県教育会編
水戸藩死事録 下編、
以上、国立国会図書館所蔵のもの、
霊山護国神社・ 霊山祭神の研究 などを参照しました。
* は、投稿者の付記。
○ 村井 修理
【墓名】村井修理少進藤原朝臣政禮碑
京都霊山護国神社 村井 修理 の墓碑
村井修理少進
名は正礼で斎聖寺権少僧・某(なにがし)の子である。
弊冠子、紫門、又群玉堂の号がある。
早く京都に住し、村井 某(なにがし)の家を嗣ぎ、蔵人所衆となり、正六位に叙せられる。
人となりは慷慨・義を重んじ、広く国漢の史籍を通覧し、兼ねて兵法に達する。
平生より幕府の専政を憤り(いきどおり)、皇室の回興を心に強くその思いを寄せる。
嘉永・安政の間、天下の志士と交わりを結んで、尊攘の大義を唱える。
戊午の難では、嫌疑に罹り、ようやくにして免れる。
文久2年(*1862年)に松延次郎と変名し、武市瑞山などのために尽力し、又、薩長連合の殊に奔走したのであった。
文久3年9月、幕吏に逮捕されて、永く獄に在り、慶応3年12月12日、斬に処せられる。
年35。 贈正五位。
○ 宮地 宜蔵
【墓名】宮地宜蔵正寛神霊
京都霊山護国神社 宮地 宜蔵 の墓碑
宮地 宜蔵
名な正覚で、土州高岡郡能津村の庄屋・田村 某(なにがし)の長男。
故ありて姉の夫の宮地 景太郎の姓を冒す(おかす・*名乗る)。
高知に出て間崎 哲馬に学び、同門・吉村 寅太郎と意気投じ、刎頸の交わり(ふんけいのまじわり・*たとえ、首を刎ねられても後悔しないほどの深い友情)を結ぶ。
文久2年(*1862年)の初め、相、共に武市瑞山の尊攘論に同盟し、吉村 寅太郎と同じく長州に行き、同志を誘い京都に留まる。
この時、寺田屋事変があり、嫌疑により藩獄に収監される。
文久3年、恩赦に遇って、三条家護衛の選に当たり、再び京都に到る。
文久3年7月28日、藩邸に帰途後、病を発して死す。年26。
○ 江幡定彦
【墓名】江幡定彦墓
京都霊山護国神社 江幡定彦 の墓碑
江幡廣光。
定彦と称する。
水戸藩士。
新番組・定衛門矩美の長子。
牀几(しょうぎ)廻に選ばれる。
文久3年春、慶篤に従い京都に入る。
留まりて禁門を守衛する。
文久3年6月、監軍正親町公董、長門に赴く。
江幡廣光、藩命をもって、これに従う。
後、又、命を受け、一橋慶喜に属する。
その公用人・平岡円四郎の所為を悪み(にくみ)、林 正義忠五郎などと議して云う。
「彼は浮靡軽佻(けいちょう ふはく・*言動に思慮が足りず、気持ちが浮ついていること)、遠大な策なく、私に洋風を慕い、旧俗を変更しようとする。
その国体を毀損すること、もっとも甚だしい。
戮せざるべからず(必ず殺されるべきである)、と。
元治元年6月16日夜、林 正義忠五郎などと平岡円四郎を道に要して(*待ち伏せして)これを殺し、重傷を蒙り、三条坊千本に至り、自刃して死す。 年26.
君がため すめし宮去をまもりして
しぐるる秋を けふもくらしつ
(水戸藩死事録 下編4 などより)
又、東山区長楽寺・水戸藩兵留碑の裏面に、その名がある。
資料の京都史蹟散策 92 長楽寺の全貌 5 を参照。
○ 林 忠五郎
【墓名】林 忠五郎墓
京都霊山護国神社 林 忠五郎 の墓碑
林 正義
忠五郎と称する。
水戸藩士。
書院番組・伝衛門正清の四子、林 正徳の弟。
文久3年、京都に赴任し、明年、4月、藩命を奉じ、一橋慶喜に属し、江幡廣光などと事を共にし、同じく死す。年26。
(楠公)みなと川 身をしずめしも よそならず
かたりあるべき 人 しなければ
(水戸藩死事録 下編4 などより)
又、東山区長楽寺・水戸藩兵留碑の裏面に、その名がある。
資料の京都史蹟散策 92 長楽寺の全貌 5 を参照。
○ 西村 勇三郎
【墓名】西村勇三郎藤原正次之墓
京都霊山護国神社 西村 勇三郎 の墓碑
詳細不明
○ 西尾 忠兵衛
【墓名】西尾忠兵衛義秀 或いは 西尾忠兵衛義智
京都霊山護国神社 西尾 忠兵衛義秀 の墓碑
京都霊山護国神社 西尾 忠兵衛義智 の墓碑
(以前の状況)
(現在の状況)
詳細不明
○ 中谷 彪次郎 (なかや ひょうじろう)
【墓名】 長藩 中谷彪次郎直彪之墓
京都霊山護国神社 中谷 彪次郎 の墓碑
長州藩八組士(*長州藩の家臣団の「八組」に属する士族で、長州藩主毛利氏に仕え、藩内の重要な役割を果たしており、八組士は、重臣としての地位を持ち、萩城の守備や江戸藩邸の警備を担当していた。)
文久3年(1863年)1月21日、京都日ノ岡で同藩・香川助蔵を暗殺し河原町藩邸で自殺した。
○ 勝木 又三郎
【墓名】 長藩 勝木又三郎久徴之墓
京都霊山護国神社 勝木 又三郎の墓碑
長州藩八組士(*長州藩の家臣団の「八組」に属する士族で、長州藩主毛利氏に仕え、藩内の重要な役割を果たしており、八組士は、重臣としての地位を持ち、萩城の守備や江戸藩邸の警備を担当していた。)
文久3年(1863年)1月21日、京都日ノ岡で同藩・香川助蔵を暗殺し河原町藩邸で自殺した。
○ 樽崎 仲輔
【墓名】 長藩 樽崎仲輔源清武之墓
京都霊山護国神社 樽崎 仲輔の墓碑
長州藩八組士(*長州藩の家臣団の「八組」に属する士族で、長州藩主毛利氏に仕え、藩内の重要な役割を果たしており、八組士は、重臣としての地位を持ち、萩城の守備や江戸藩邸の警備を担当していた。)
文久3年(1863年)1月21日、京都日ノ岡で同藩・香川助蔵を暗殺し河原町藩邸で自殺した。
○ 松浦 富三郎
【墓名】 長藩 松浦富三郎道一之墓
京都霊山護国神社 松浦 富三郎の墓碑
長州藩八組士(*長州藩の家臣団の「八組」に属する士族で、長州藩主毛利氏に仕え、藩内の重要な役割を果たしており、八組士は、重臣としての地位を持ち、萩城の守備や江戸藩邸の警備を担当していた。)
文久3年(1863年)1月21日、京都日ノ岡で同藩・香川助蔵を暗殺し河原町藩邸で自殺した。
○ 豊田 美稲
【墓名】 豊田美稲之墓
京都霊山護国神社 豊田 美稲の墓碑
◆ 近江人物志、(大正9年) 滋賀県教育会編 [意訳・投稿者より]
* は、投稿者の付記。
豊田 美稲
豊田美稲(*とよだ よしね)の初名は徳隣、通称は謙次、字は有秋で、蛟潭と号して甲賀郡池田村[龍池村大字]の人である。
性は鋭敏で読書を好み剣法に達する。
年、20にして武者修行に出て、美濃の人・高田 某(なにがし)に従い、諸国を遊歴し、江戸に入り塚田 孔平の門人となり、岩瀬肥後守邸に寄寓する。
すると、まもなく川路 聖謨が長崎に赴くことがあり、豊田美稲は随行し、水口を過ぎる時、親族が固く家に帰るべきを告げて、その意に従った。
こうして世間は大いに騒がしく、尊皇佐幕の論が盛んな時期であった。
豊田美稲は慷慨(こうがい・*世の中の不義不正や自分の不運を憤り歎くこと)に堪えず、再び出でて長防備伯(現在の中国地方)の諸州を遊歴し、志士と謀略を通じる。
文久元年(1861年)、作州土居・安東桂次郎が郷黌(ごうこう・*江戸時代から明治の初年にかけて、藩士の教育や庶民の教育のために各地に設けられた学校)を起こし、豊田美稲を長たらしむ(・*首領にした)。
豊田美稲は知己の志に感じ、力を尽くしてこれを教授する。
しかし、時事はいよいよ、切迫し、豊田美稲は慨然(がいぜん・*憂い嘆く)志を決して、元治元年(1864年)春、門人・安東鉄馬と入京し奔走する。
宮部 鼎蔵などは大いに計画するところがあり、豊田美稲は、これに与(くみ)する。
しかし、同年6月5日の夜、会津藩兵が襲って宮部 鼎蔵などを殺す。
豊田美稲は当時、水口に居たために難を免れる。
これにより豊田美稲は再度、作州(*現・岡山県)に入り同志を募(つの)る。
後、長州の兵が都に上りて戦さが起こり、幕吏が志士を捕える事が急になったので、豊田美稲破片相思、その後を晦ます(くらます・*隠れる)ことに力(つと)め、(*長州へ向かう途上、)備前国周辺の旅宿・橘屋 弥十郎に逗留した日、津山藩士・田原 平左衛門と云って来訪した者が、突然、豊田美稲を刺す。
豊田美稲は一度、これを追ったが、傷が重く遂に死す。
時に慶応元年12月25日、享年34であった。
墓は岡山県赤盤郡佐伯木村(*現在・岡山県和気町佐伯)に在り、(*又、甲賀市水口町・大岡寺にも墓があり) 明治34年12月、特旨をもって正五位を贈られる。
(勤王列士伝、鹿深遺芳録、人名辞書、大正6年6月近江新報、碑文[*原文ママ] )
豊田 美稲 書(河瀬太宰[川瀬太宰]宛の書翰)
同上・近江人物志より
○ 豊田 丈太郎
【墓名】 豊田丈太郎之墓
京都霊山護国神社 豊田 丈太郎の墓碑
◆ 贈位諸賢伝・二(昭和2年)、国友社 [意訳・投稿者より]
* は、投稿者の付記。
豊田 小太郎(*豊田 丈太郎のこと)
水戸藩儒臣で、[「大日本史」の完成に大きく貢献した] 彦二郎亮(*豊田天功)の長子で、名は靖、香窓と号する。
幼時に家学を受け、後、弘道館に入り文武の業を修める。
天保の初め、藩主・徳川斉昭(なりあき)が蘭学者・下間 良弼を招聘するにあたり、選ばれて講習生となる。
次いで、盛岡藩士・大島 高任を招聘するについて、蘭学を修め得るところがあった。
安政3年(1856年)、牀几(しょうぎ)廻に班し、鈴木豊大と洋学世話掛を命じられる。
安政4年(1857年)、蘭学の進歩により賞賜あり、この年、京都に到り、修史史料の天文音楽取調べに従事する。
当時、池内大学(*儒者)と交わり、縁により青蓮院宮(*久邇宮朝彦親王)および三条実万(さんじょう さねつむ・*三条実美の父)などに攘夷の意見を呈したのであった。
万延元年(1860年)、家督を受けて150石を食み(はみ)、大番組総裁代役に進む。
慶応2年(1866年)、幕府の要路(*重職)に密議を堤しようとして事が洩れる。
同志の桑原 力太郎は捕に就き、豊田 小太郎は加藤木 賞三などと江戸より潜行し、7月に京都に上り、すなわち、本圀寺本藩の警衛に投じる。
そして、開国進取の長計を建てて京都を世界的に中心にさせようとの意見を抱き、斡旋、奔走する中、9月2日の夜、堀川を通行の際、同藩の異論者のために難に逢う。
年33。 贈従五位。
*茨城県水戸市松本町・常盤共有墓地(水戸藩草創期から功績のあった藩士や幕末から明治維新にかけて、活躍または殉難した志士の墓が点在し、現在、水戸市の史跡に指定されている)にも墓がある。
*又、豊田 香窓(*豊田 小太郎のこと)の妻は、日本の女子高等教育の開拓・発展に大きく貢献した女子高等教育の先駆者、日本の幼稚園教育の開拓者などとも云われる豊田 芙雄(とよだ ふゆ)で、茨城県立水戸第二高等学校前に平成4年に建立の銅像がある。
○ 安藤 鉄馬
【墓名】 安藤鐵馬之墓
京都霊山護国神社 安藤 鉄馬の墓碑(右側)
○ 安藤 鉄馬 と ○ 安藤 誠之助 とは同一人物です。
*青字は、過去に掲載されたものを参照して下さい。
○ 安藤 誠之助
▲京都史蹟散策【10-3】 池田屋騒動跡、安藤 誠之助 を参照。
○ 西村 均平
【墓名】 水口 西村均平之墓
京都霊山護国神社 西村均平の墓碑
水口藩士.
明治3年2月14日、歿。
この編、了。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。


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