京都史蹟散策272 京都霊山護国神社・ 京都のひと・小林良典のこと
京都史蹟散策272 京都霊山護国神社・ 京都のひと・小林良典のこと
今回の京都霊山護国神社での小林良典の墓碑は、黄色枠の囲みにあります。

本編は、
贈位諸賢伝一・二(昭和2年)、国友社、
宮内省蔵版 修補 殉難録稿(昭和8年)、
維新の史蹟(昭和14年)、
安政大獄関係志士遺墨集(民友社、昭和5年)、以上、国立国会図書館所蔵のもの、
霊山護国神社・ 霊山祭神の研究 などを参照しました。
* は、投稿者の付記。
○ 小林良典(こばやし りょうすけ)
【墓名】民部権大輔 小林良典 霊
京都霊山護国神社 小林良典 の墓碑

小林良典は京都の人で、父を太宰少貮元次と云う。
その先祖は藤原氏に出て、世々、鷹司家の諸太夫であった。
小林良典の人となりは、高慢にして武事を好み、安政の始めに正四位下に叙され、民部権大輔に任じられ筑前守を兼ねる。
そして、常にその主を助けて王政を復古せねばと思い、秘かに青蓮院宮および近衞左大臣、三条内大臣、その他の公卿の門を伺い、又、日下部 信政(*薩摩藩士・日下部 伊三治)、橋本 綱紀(*福井藩士・橋本 佐内)などと大いに尊攘の議を唱える。
~~~~
贈正四位 小林 良典 肖像(富岡鉄斎 筆)
安政大獄関係志士遺墨集(民友社、昭和5年)
国立国会図書館所蔵のものより。
小林 良典 自筆書翰(同上)

~~~~
その頃、鷹司太閤政通は幕府に心を寄せていたので、三条家以下の人々は、これを憂いておられると云うことを聞き、小林良典は太閤政通を諌め(いさめ)ようと参り、ある夜に忍んで御前に伺い、いと(*非常に)思い入りたる面持ち(おももち)で、こう云った。
「殿下には長々、御重職に在らせられ、首尾よく、ただ今の御境界(*境遇)に在らせ為される事、返す、返すも、めでたく、臣も(*私も)若年の頃よりして仕えて参りましたが、最早、老い、御奉公の間は、行くほど(*それほど)も及びません。
よって、この度は、一生の御願いであります。
如何に御聞き入れ、下されませんでしょうか。」
「そ(*そち)は、又、何事、なりや。」と、(*政通に)尋ね問われると、良典は進んで声をひそめ、
「余の事にもございますが、世は、早く相、成りますので、当今には未だ、御齢も長くさせ給わず(*歳はも行かず)、誰を頼み思召されるのでしょうか。
殿下では、まだ御力に成り奉る人があるとも存ぜず、そうすれば、朝廷の御為に御心を尽くされようとすることは、臣下の一生の御願いにございます。」と述べると、太閤(*政通)は感じ入りて、頻りに(しきりに)落涙があった。
良典は、得たり、となお様々に、説明を勧めて罷り出た。
~~~~
従一位 鷹司政通公 筆
安政大獄関係志士遺墨集(民友社、昭和5年)
国立国会図書館所蔵のものより。
~~~~
次の日、三条家に行き、その模様を物語ると、人々は大いに喜び合い、青蓮院宮(*久邇宮朝彦親王)も自ら太閤方に入り、同じく説を勧めると、太閤は遂に志を翻し(ひるがえし)たのであった。
こうして又、有志の人々は、一橋慶喜を幕府の世嗣にしようと計るに及び、橋本 綱紀(*福井藩士・橋本 佐内)は、池内大学と打ち連れて、小林良典を訪れ、一橋慶喜に指名の勅書が下されるように周旋を頼んだのであった。
そして小林良典は、橋本 綱紀(*福井藩士・橋本 佐内)に打ち向かって「この事は、極めて重大であり、軽率には計らい難し。
但し、松平越前殿(*松平春嶽こと松平慶永)より、直々(じきじき)の頼みでもあれば答えるけれども。」
その後、二人(*橋本 佐内・池内大学)から越前守の頼み状が到来して、小林良典の方へ伝達すると、この上は、と、又もや(*小林良典は)太閤を説いて、やがて、「右(*上)の事は早晩、定めて相、成るように必ず仰せ達せられるので、なおも迅速に働くように。」との旨を小林良典は告げて、その志を励ましたのであった。
そんなところへ、鵜飼幸吉(*水戸藩士・鵜飼 知信)が又、訪ね来たりて談話の末、(*鵜飼幸吉の)我が主である前中納言斉昭(*徳川斉昭)へ、幕府に代わって勅諚、遵奉すべき綸旨などのあらましを云うと、小林良典が答えて云うには、「今、関東では井伊大老が威権の主筋をも圧するほどであると聞いている。
もし、これに向かって誰でも一発を打ち込んで、一乱を生じたならば、これを取り鎮めるべきである、と、初めて綸旨を江戸へ下す機会を得るべきであると語ったのであった。
そしてしばらくすると、諸有志の謀りし事は敗れ、安政5年(1859年)9月、日下部 信政(*薩摩藩士・日下部 伊三治)、橋本 綱紀(*福井藩士・橋本 佐内)を始め皆々、捕われるに及び、小林良典が彼らのこれ等を計った事が幕吏の耳に入ったのであった。
そして早速、小林良典をも差し出すべき旨が、幕府より鷹司家に沙汰があったけれども、太閤の御用、これ有り、などと、様々に云い立てて差し出さなかったのであった。
しかし、幕吏により小林良典の家の辺りのほとりである物を商う家を借り、(小林良典が)その外に出るのを伺い、やにわに小林良典を捕えて町奉行所に送り遣わした。
小林良典はあちこちに至っても、更に屈する景色なく、ある時などは揚屋に途中で、縄取りの者共が眺める振る舞いがあると、痛く腹立って、足をもって、はたと蹴倒し、「咎めようとするなら長州を呼び来たれ。 我、云い聞かすべき仔細あり。 汝らが知る事ではない。」と、大声で罵しる(ののしる)のであった。
長州とは、町奉行である小笠原長門守の事を云った。
維新の史蹟(昭和14年)によると・・
音もなく降る雪も淋しい安政5年師走5日の早暁、六角の獄を出で東へ向う八つの軍鶏籠(とうまるかご)があった。
籠の周囲には合羽(*かっぱ)に身を固めた与力、同心らが物々しくとり囲んでいる。
向こうは東江戸。
籠の中にしばられているのは、安政の大獄に不運 幕吏の魔手におちた小林良典、金田伊織、三国大学、鵜飼吉左衛門、同 幸吉(*知信)、宇喜多 一恵、同 松庵、池内大学ら勤王の八志士。
白く積もった雪の都大路を籠は進む。
はや都のはづれ東山蹴上げ(けあげ)の坂道に差しかかれば、知るも知らざるもこれを最後と無惨な彼らの姿をじっと見つめている。
やがて悲壮な思いに沈む志士を乗せた軍鶏籠も、護衛の者の冷たい姿も、降りしきる雪の中に溶け入ってしまった・・・
雪の蹴上交差点(南禅寺方面から)

このようにして(*捕縛され)、江戸に至り、榊原氏の邸に幽閉されて、又の年、安政5年(1859年)8月(*安政の大獄)、「容易ならぬ義を取り持ち、公武確執の場合とも相、成る始末、不届き成り、」とて、官位を褫い(うばい・*奪い)、遠島の刑に処す、とあるが、未だ配所に至らずして、11月19日、病にて獄中で薨まかった(みまかった・*亡くなった)。
時に年、54。
小林良典は、平生、人を人とも思わぬ気性であるので、その囚われている間は、少しも常と異なる様はなく、垢(あか)がついたと幾度となく衣服を替えて、肌寒いとて夜の物などを余多入れさせ、警護の者を視る事、奴僕(どぼく・*下男)の如くで、非常にわがままに振る舞ったけれども、身柄在る人なので、流石にのりこらされもせず、預かりの人々は、持て余(あま)したのであった。
獄中の歌に
わしたか(*鷹)の たけき(-猛き)心を むらすずめ(*村雀)
むりかりしとて 知らるへしやは
たをやめ(*女)も 国の為めをは 思うなれなと
ますらを(*男)の あた(*仇)にすこせる
などを見ても、その気の雄々しさが又、知られるのであった。
他に、墓が、長徳寺にある。
長徳寺は、京阪電車・鴨東線「出町柳」駅、徒歩2分にある。
長谷川宗仁の開基の浄土宗の寺であるが、近年は、オカメザクラで知られる。
オカメザクラは、カンヒガンザクラとマメザクラの交配種で、濃い桃色の一重の花弁でイギリスの桜研究家・イングラムが昭和42年に作出したもので、長徳寺のものは平成5年に植えられた.

長徳寺・小林良典の墓(同上・維新の史蹟より)
この頃(安政5年)などは、小者のブログ・
歴史の流れ 防長回天史を読む44 第二編 嘉永安政萬延記
第十五章 安政5年の大勢 歴史の流れ 防長回天史を読む44を参照して下さい。
https://kyotoshiryo-boucho.seesaa.net/article/490125315.html?1761733756
今回の京都霊山護国神社での小林良典の墓碑は、黄色枠の囲みにあります。
本編は、
贈位諸賢伝一・二(昭和2年)、国友社、
宮内省蔵版 修補 殉難録稿(昭和8年)、
維新の史蹟(昭和14年)、
安政大獄関係志士遺墨集(民友社、昭和5年)、以上、国立国会図書館所蔵のもの、
霊山護国神社・ 霊山祭神の研究 などを参照しました。
* は、投稿者の付記。
○ 小林良典(こばやし りょうすけ)
【墓名】民部権大輔 小林良典 霊
京都霊山護国神社 小林良典 の墓碑
小林良典は京都の人で、父を太宰少貮元次と云う。
その先祖は藤原氏に出て、世々、鷹司家の諸太夫であった。
小林良典の人となりは、高慢にして武事を好み、安政の始めに正四位下に叙され、民部権大輔に任じられ筑前守を兼ねる。
そして、常にその主を助けて王政を復古せねばと思い、秘かに青蓮院宮および近衞左大臣、三条内大臣、その他の公卿の門を伺い、又、日下部 信政(*薩摩藩士・日下部 伊三治)、橋本 綱紀(*福井藩士・橋本 佐内)などと大いに尊攘の議を唱える。
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贈正四位 小林 良典 肖像(富岡鉄斎 筆)
安政大獄関係志士遺墨集(民友社、昭和5年)
国立国会図書館所蔵のものより。
小林 良典 自筆書翰(同上)
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その頃、鷹司太閤政通は幕府に心を寄せていたので、三条家以下の人々は、これを憂いておられると云うことを聞き、小林良典は太閤政通を諌め(いさめ)ようと参り、ある夜に忍んで御前に伺い、いと(*非常に)思い入りたる面持ち(おももち)で、こう云った。
「殿下には長々、御重職に在らせられ、首尾よく、ただ今の御境界(*境遇)に在らせ為される事、返す、返すも、めでたく、臣も(*私も)若年の頃よりして仕えて参りましたが、最早、老い、御奉公の間は、行くほど(*それほど)も及びません。
よって、この度は、一生の御願いであります。
如何に御聞き入れ、下されませんでしょうか。」
「そ(*そち)は、又、何事、なりや。」と、(*政通に)尋ね問われると、良典は進んで声をひそめ、
「余の事にもございますが、世は、早く相、成りますので、当今には未だ、御齢も長くさせ給わず(*歳はも行かず)、誰を頼み思召されるのでしょうか。
殿下では、まだ御力に成り奉る人があるとも存ぜず、そうすれば、朝廷の御為に御心を尽くされようとすることは、臣下の一生の御願いにございます。」と述べると、太閤(*政通)は感じ入りて、頻りに(しきりに)落涙があった。
良典は、得たり、となお様々に、説明を勧めて罷り出た。
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従一位 鷹司政通公 筆
安政大獄関係志士遺墨集(民友社、昭和5年)
国立国会図書館所蔵のものより。
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次の日、三条家に行き、その模様を物語ると、人々は大いに喜び合い、青蓮院宮(*久邇宮朝彦親王)も自ら太閤方に入り、同じく説を勧めると、太閤は遂に志を翻し(ひるがえし)たのであった。
こうして又、有志の人々は、一橋慶喜を幕府の世嗣にしようと計るに及び、橋本 綱紀(*福井藩士・橋本 佐内)は、池内大学と打ち連れて、小林良典を訪れ、一橋慶喜に指名の勅書が下されるように周旋を頼んだのであった。
そして小林良典は、橋本 綱紀(*福井藩士・橋本 佐内)に打ち向かって「この事は、極めて重大であり、軽率には計らい難し。
但し、松平越前殿(*松平春嶽こと松平慶永)より、直々(じきじき)の頼みでもあれば答えるけれども。」
その後、二人(*橋本 佐内・池内大学)から越前守の頼み状が到来して、小林良典の方へ伝達すると、この上は、と、又もや(*小林良典は)太閤を説いて、やがて、「右(*上)の事は早晩、定めて相、成るように必ず仰せ達せられるので、なおも迅速に働くように。」との旨を小林良典は告げて、その志を励ましたのであった。
そんなところへ、鵜飼幸吉(*水戸藩士・鵜飼 知信)が又、訪ね来たりて談話の末、(*鵜飼幸吉の)我が主である前中納言斉昭(*徳川斉昭)へ、幕府に代わって勅諚、遵奉すべき綸旨などのあらましを云うと、小林良典が答えて云うには、「今、関東では井伊大老が威権の主筋をも圧するほどであると聞いている。
もし、これに向かって誰でも一発を打ち込んで、一乱を生じたならば、これを取り鎮めるべきである、と、初めて綸旨を江戸へ下す機会を得るべきであると語ったのであった。
そしてしばらくすると、諸有志の謀りし事は敗れ、安政5年(1859年)9月、日下部 信政(*薩摩藩士・日下部 伊三治)、橋本 綱紀(*福井藩士・橋本 佐内)を始め皆々、捕われるに及び、小林良典が彼らのこれ等を計った事が幕吏の耳に入ったのであった。
そして早速、小林良典をも差し出すべき旨が、幕府より鷹司家に沙汰があったけれども、太閤の御用、これ有り、などと、様々に云い立てて差し出さなかったのであった。
しかし、幕吏により小林良典の家の辺りのほとりである物を商う家を借り、(小林良典が)その外に出るのを伺い、やにわに小林良典を捕えて町奉行所に送り遣わした。
小林良典はあちこちに至っても、更に屈する景色なく、ある時などは揚屋に途中で、縄取りの者共が眺める振る舞いがあると、痛く腹立って、足をもって、はたと蹴倒し、「咎めようとするなら長州を呼び来たれ。 我、云い聞かすべき仔細あり。 汝らが知る事ではない。」と、大声で罵しる(ののしる)のであった。
長州とは、町奉行である小笠原長門守の事を云った。
維新の史蹟(昭和14年)によると・・
音もなく降る雪も淋しい安政5年師走5日の早暁、六角の獄を出で東へ向う八つの軍鶏籠(とうまるかご)があった。
籠の周囲には合羽(*かっぱ)に身を固めた与力、同心らが物々しくとり囲んでいる。
向こうは東江戸。
籠の中にしばられているのは、安政の大獄に不運 幕吏の魔手におちた小林良典、金田伊織、三国大学、鵜飼吉左衛門、同 幸吉(*知信)、宇喜多 一恵、同 松庵、池内大学ら勤王の八志士。
白く積もった雪の都大路を籠は進む。
はや都のはづれ東山蹴上げ(けあげ)の坂道に差しかかれば、知るも知らざるもこれを最後と無惨な彼らの姿をじっと見つめている。
やがて悲壮な思いに沈む志士を乗せた軍鶏籠も、護衛の者の冷たい姿も、降りしきる雪の中に溶け入ってしまった・・・
雪の蹴上交差点(南禅寺方面から)
このようにして(*捕縛され)、江戸に至り、榊原氏の邸に幽閉されて、又の年、安政5年(1859年)8月(*安政の大獄)、「容易ならぬ義を取り持ち、公武確執の場合とも相、成る始末、不届き成り、」とて、官位を褫い(うばい・*奪い)、遠島の刑に処す、とあるが、未だ配所に至らずして、11月19日、病にて獄中で薨まかった(みまかった・*亡くなった)。
時に年、54。
小林良典は、平生、人を人とも思わぬ気性であるので、その囚われている間は、少しも常と異なる様はなく、垢(あか)がついたと幾度となく衣服を替えて、肌寒いとて夜の物などを余多入れさせ、警護の者を視る事、奴僕(どぼく・*下男)の如くで、非常にわがままに振る舞ったけれども、身柄在る人なので、流石にのりこらされもせず、預かりの人々は、持て余(あま)したのであった。
獄中の歌に
わしたか(*鷹)の たけき(-猛き)心を むらすずめ(*村雀)
むりかりしとて 知らるへしやは
たをやめ(*女)も 国の為めをは 思うなれなと
ますらを(*男)の あた(*仇)にすこせる
などを見ても、その気の雄々しさが又、知られるのであった。
他に、墓が、長徳寺にある。
長徳寺は、京阪電車・鴨東線「出町柳」駅、徒歩2分にある。
長谷川宗仁の開基の浄土宗の寺であるが、近年は、オカメザクラで知られる。
オカメザクラは、カンヒガンザクラとマメザクラの交配種で、濃い桃色の一重の花弁でイギリスの桜研究家・イングラムが昭和42年に作出したもので、長徳寺のものは平成5年に植えられた.
長徳寺・小林良典の墓(同上・維新の史蹟より)
この頃(安政5年)などは、小者のブログ・
歴史の流れ 防長回天史を読む44 第二編 嘉永安政萬延記
第十五章 安政5年の大勢 歴史の流れ 防長回天史を読む44を参照して下さい。
https://kyotoshiryo-boucho.seesaa.net/article/490125315.html?1761733756
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。


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