京都史蹟散策251 伊藤若冲の寿塔銘を読む
京都史蹟散策251 伊藤若冲の寿塔銘を読む
● 伊藤若冲(いとう じゃくちゅう)は、江戸中期の京で活躍した絵師 である。
名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。
初めは春教(しゅんきょう)と号したと云う。
別号、斗米庵(とべいあん)。
生前、『平安人物志』で、大西酔月、円山応挙と肩を並べる人気と知名度があった。
後、明治、大正と一般的に忘却的な時を乗り越え、1970年、辻惟雄の『奇想の系譜』出版後、注目を浴びる。
後、文庫本(ちくま学芸文庫)などになり、広く読まれ、飛躍的にその知名度と人気を上げる。
● 石峰寺 (せきほうじ)
伏見区深草にある黄檗宗の寺院。
平安中期、摂津国多田郷、沙羅連山石峰寺に発する。
1713年、黄檗山大本山萬福寺の第6世、黄檗流の能書家で知られた千呆性侒(せんがいしょうあん)が開創。
石峯寺とも表記する。
石峰寺 (せきほうじ)には、若冲が絵を米一斗と交換し自分で描いた下絵を10年をかけて石工に彫らせた五百羅漢があるが、以前は撮影可であったが現在は厳しく、スケッチ、撮影共、禁止になっている。 拝観は可。
石峰寺 山門

石峰寺の駒札によると・・・
(前略)
本堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。
これは、江戸時代の画家伊藤若冲(じゃくちゅう)が当寺に庵を結び、当寺の住職 密山とともに制作したもので、釈迦の生涯を表している。
なお、境内には、若冲の墓及び筆塚が建てられている。
(後略)・・・
石峰寺にある墓(京都通百科事典より)

五百羅漢(京都通百科事典より)
![04・SekihoujiSekizou34[1]★日記3.gif](https://kyotoshiryo.up.seesaa.net/image/04E383BBSekihoujiSekizou345B15DE29885E697A5E8A898EFBC93-thumbnail2.gif)
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伊藤 若冲の実家は、青物問屋、通称「枡源(ますげん)」で錦小路にあった。
伊藤若冲 生家跡
往時、この付近に青物問屋、通称、枡源(ますげん)があった。
現在の錦市場・西側入口付近。

錦市場。
高倉通り側の入口にある令和6年6月からの「タペストリー」です。
若冲の描いた絵画をモチーフに、京都工芸繊維大学が制作したものです。

そして、この地よりすぐの浄土宗・宝蔵寺が、伊藤家の檀家であった。
父母、弟たちの墓は同境内にあるが、若冲のものはない。

宝蔵寺
【位置】中京区裏寺町
【交通】阪急電鉄・四条河原町、徒歩約5分。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下で 利用可のものより。
ライセンスされているものより。

駒札

駒札によると・・
宝蔵寺
宝蔵寺は、浄土宗西山深草派本山誓願寺に属する。
本尊の阿弥陀如来立像は、元禄13年(1700)の作。
弘法大師空海の創立と伝えられ、元西壬生郷に開基された。
天正9年(1581)に玉阿律司によって中興再建された後、天正19年(1591)豊臣秀吉の寺町整備により、現在の裏寺町に移転した。
天明8年(1788)「天明の大火」と元治元年(1864)「禁門の変」の際の火災により全焼。
現在の本堂は昭和7年(1932)に建立された。
江戸時代中期の画家・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)(1716-1800)の菩提寺で、若冲が建立した父母の墓石、末弟・宗寂の墓碑が残り、次弟・白歳の墓碑も建てられている。
若冲は、当時の京都画壇を代表する画家であり、また生家のあった錦市場が営業停止になったとき、弟の白歳とともに、再開に向け力を尽くした人物。
代表作に「動植綵絵三十幅」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)がある。
若冲の誕生日に当たる2月8日には、毎年生誕会を催し、併せて宝蔵寺所蔵の若冲四十代前半頃に描かれた初期作品「竹に雄鶏図」や白歳筆「羅漢図」などを一般公開している。
と、ある。
2017年当時の展示では、新聞にも掲載されていた若冲の弟子・意冲の中国風の寺院や山が題の「山寺図」が初公開されていた。
山寺図のような山水画は若冲一派の中では珍しいとの事。
また、若冲初期の「牡丹(ぼたん)図」など15点も展示されていた。
また、この期間、若冲のドクロの限定御朱印(髑髏図(どくろず)と竹に雄鶏図)を入手できて、御朱印収集家にとっても、魅力あるものであった。
境内・撮影可。 展示拝観・有料であった。
以前、墓石は、墓域にあったが、近年、寄付を募り整備され、屋根付きで本堂・左前に移転している。

2016年2月7日、伊藤家の墓石の保存修理が完了。
左・若冲の建立による末弟・宗寂の墓。
中・次弟・宗厳(白歳)の墓。
右・若冲の建立による両親・先代の墓。
生誕会(2月8日)では、錦市場からの野菜が供えられる。


若冲は、30歳を過ぎ、一時期、狩野派も手掛けるが、本格的に絵を独学で学び始める。
30代の半ば頃、売茶翁(ばいさおう)・高遊外(こうゆうがい)を通じ、相国寺の大典(梅荘)顕常(だいてん けんじょう)と知遇する。
若冲37歳、大典34歳の頃であった。
高遊外は、江戸時代の黄檗宗の僧で、煎茶の中興の祖。
後、若冲は宝蔵寺から離れ、相國寺と密接な関係を持つ。
そして、最高傑作「動植綵絵」三十幅を相國寺に寄進する。
後、大典、相國寺との親密な関係は、以降、20年ほど続いたが、相國寺と袂を分かち、絶縁する。
後、若冲58歳の時に黄檗山・萬福寺に帰依。
末寺の伏見区深草の石峰寺に、晩年の創作の全てを尽くす。
1800年9月10日、石峰寺にて85歳没。

一方、大典は、慈雲院の住持となるが、前和尚の三周忌後、隠退、相国寺を離れる。
この年、1759年。大典は影ながら若冲を推挙。
(若冲、鹿苑寺大書院の障壁画を描く)
後、十数年、相国寺を離れ1771年、相国寺第113世・住持となる。
後、天明大火後の復興に尽し、若冲没の半年後、1801年2月、慈雲院にて寂。
佛学、経義、詩文に通じた当代隋一の学僧だった。
大典(梅荘)顕常
大日本名家肖像集
経済雑誌社、明治40年 より


*主な伊藤若冲作品・所蔵先。
非展示の場合あり。
【京都】
*京都国立博物館 「蔬涅槃図、石峯寺図」ほか多数。
*相国寺・承天閣美術館「動植綵絵、釈迦三尊像、鹿苑寺大書院障壁画」など。
*細見美術館「糸瓜群虫図、瓢箪図、伏見人形図」ほか多数。
ほか、泉屋博古館、建仁寺・両足院。
相国寺・承天閣美術館(京都)

相国寺・伊藤若冲の生前墓

【滋賀】
*MIHO MUSEUM「巨大名作・象鯨図屏風」など。
ほか、義仲寺、滋賀県立琵琶湖文化館。
【大阪】
西福寺(豊中市)年に一度公開 「仙人掌群鶏図」ほか。
ほか、サントリー美術館、黒川古文化研究所(兵庫県西宮市)。
【香川】
*金刀比羅宮 基本的に非公開。
金刀比羅宮奥書院障壁画「花弁図」。
【東京】
*宮内庁・三の丸尚蔵館「動植綵絵(全30幅)旭日鳳凰図」など。
*大倉集古館「拓版画・乗興舟」。
ほか、東京国立博物館、東京芸術大学大学美術館。
【千葉県】
*佐野市立吉澤記念美術館 「ユーモラスな・菜蟲譜」ほか。
ほか、千葉市美術館「鸚鵡図、海老図」ほか関連作品。
国立歴史民俗博物館
*静岡県立美術館「樹花鳥獣図屏風」。
愛知県美術館など 各所で所蔵。

伊藤若冲の相國寺の墓は生前墓で、墓の正面を除く3面には、風雪に耐え、大典が若冲に依頼されて書いた「釈文」が刻まれ、現存している。
大典は、慈雲院・第9世。
後、前述の如く1771年、61歳で相国寺第113世・住持となる。
相国寺の寿塔(生前墓)「若沖寿塔銘を読む」
●は、原文。 ○は、読み下し、意訳。
* は、投稿者の付記です。
● 居士名汝鈞、字景和、
平安人、本姓伊藤、
改為藤氏、父名源、
母近江武藤氏、
以享保元祀二月八日生居士于城中之錦街、
○ 居士の名前は、汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。
平安の人で、本姓は伊藤、改めて藤氏となる。
父の名は源、母は近江に武藤氏である。
(母は)享保元祀二月八日(*正徳6年6月22日に享保元年に改元となったので、正確には正徳6年2月8日である。)に居士(*こじ)を城中の錦街に生む。
● 居士為人断同無它技、唯絵事是好、
従為狩埜氏之技者游既徹其法、
一日自謂日、是法也狩埜氏法也、
即吾能出於藍、亦不超狩埜氏圏繢、
不如舎面宋元也、於是取宋元學之、
臨移累十百本既又自謂日、
○ 居士の人となりは、断固として主な技術はなく、ただ、絵、これを好み、狩埜氏(かのうし・*狩野派)に学び、すでに その画法を取得した。
一日(ある日)、自ら言うところでは、この法は、狩野派の法である。
すなわち、私がこれを能くしても、狩野派の枠を超えることはできない。
又、(どれほど)狩野派の画法を獲得しても、狩野派の枠を越えることはできないと、狩野派を捨てて、宋元画を学ぶことにした。
そして、模写すること、1000 点を超えるおびただしい数に上った。
● 歩超之技肩終不可比較邪、
且彼描物者邪吾又描其所描、
是隔一屑矣、
不如親即物而舐筆也、
○ 歩超の技は肩を終わりに比較すべからざるや、かつ、彼はものを描くものなるや、我、またその描くところを描くは、これ一層、隔たるものである。
親から物に即して筆を真似るようなものである。
(*人が描いたものを自分がまた写しているにすぎないのではないか。
宋元の名手は、ものそのものを見て描くが、自分はその絵を真似て描くだけであり、その隔たりは、云うまでもない。)
● 物乎物乎吾何執、當今之時、
無有褒公卾 公及夫冒雪吟詩者之態、
而露䯰月額褊祓之人弗堪也山水所目、
○ 物か、物か、われ、何をか執らん。
今の時に当って、襄公【1】、卾公【2】とその屈辱、詩を吟ずるところではなく、しかも露䯰で、月額(つきびたい・*額に白い斑(まだら)がある)で、被祓(はつはつ・*お祓いを受ける)の人は堪えられない。
*䯰は、たぶさ。かんざしで髪の毛を頭の上で束ねたところ、の意。
山水の目にする所(山水画において)もまた、いまだに、その領域で実力がある人に会ったことがない。
【1】褒公。じょうこう・中国春秋時代の宋の君主。
自軍不利にも拘わらず、身の程知らずの情で敵軍の渡河を許し惨敗・泓水(おうすい)の戦い。
【2】卾公。がくこう・殷(いん)朝 最後の第30代王・帝辛(てい しん)の家臣。謀反の疑いで処刑。
● 亦未過上幅者無己、則動植之物乎、
孔翠鸚鵡會不可恒覯、
唯司晨之禽、閭閻所馴、
其毛羽之彩可色施五則吾自比始矣、
○ また、やむを得なければ、則ち動物、植物であろうか。
孔翠(孔雀・くじゃく)、鸚鵡(オウム)は、すなわち、常に見られるもの(鳥)ではない。
ただ雌の鶏は禽(きん・鳥)で、閭閻所馴(りょえん しょじゅん・*よく言われるには)、その毛羽の彩(いろどり)は五色を施すべきである。
則(すなわ)ち、私は、ここらから始めようと。
● 畜鶏數十窓下、極其形状、寫之有年矣
然後周及草木之英、羽毛虫魚之品、
悉其貌、會其神心得、而手應其下筆賦彩、
盡以意匠出之無、一毫踏襲、雖於古人韻致、
加有不合、而骨力精錬之工可以卓然名
(→ 以下、北面の碑文へ)家矣、
○ 鶏(にわとり)を数十羽、窓の下に飼って、その形状を極めて(観察し)、これを写生して、年月が経過する。
その後(のち)、あらゆる草木の春秋(の模様)、鳥類の羽毛、虫、魚などに至るまで、その容姿をことごとく描き、その真髄を見極める。
そして、新しい筆で彩(いろどり)を施し、残らず創作によって完成させ、わずかに(その作品を)踏襲するひとはいない。
昔のひとの風流な趣に則しているといえども、その力強い筆力や精巧さは巧みで、きわだってすぐれており、名家(その道に優れたひと)である。
● 又喜用白帋易惨者作墨画、乃其就所惨界濃淡、
而花之瓣與羽鱗之次、歴歴區分為態、
蓋筆之所至圓熟不殢也、
一種風流世未曾威有、
然居士質直少飾、不欲以技術當世、覯者服其妙、
○ また、好んで白幣(はくし・白い紙)の滲(にじ)みやすいものを用いて墨画を作成する。
すなわち、その滲みやすい性質を利用して濃淡を表し、花弁や(鳥の)羽や(魚)鱗などの区別をはっきりさせて作画をした。
確かに筆のいたることころに円熟味があり、作画が停滞するようなことはなかった。
一種(独特の)風流で、未だ世に、このようなもの(技術)は見たことがなく、これを見たものは咸(みな・皆)、その妙味に感心した。
● 遂以此易斗米取給於是乎有斗米葊之號、
嘗造丹青三十大幅、実愜心合度之作、
又模張士恭迦文殊普賢三福、精絢無耻其本、
○ (居士は、)遂にこれ(絵画)でわずかな米を得て生計を立てる。
これにより、斗米庵(と べいあん)の号がある。
しかし居士は、質素で飾ることなく、絵画の技術で、ことさら才能や 知識をひけらかすことを望まなかった。
かつて丹青三十大幅(若冲の動植綵絵(さいえ)・全三十幅のこと。30幅の動植物を描いた彩色画。その大きさは、縦142.1x横79.2cm。)の作成は、実に心に叶ったものであった。
また、(若冲は)張思恭の迦文、文殊、普賢の三幅を模倣する。
(*京都・東福寺に張思恭の筆として伝えられる釈迦三尊像のこと。
釈迦如来像は、米国クリーブランド美術館、文殊菩薩像と普賢菩薩像は東京・静嘉堂美術館で所蔵。)
その精巧さ、絢爛さは、その原画に恥じることは、ない。
● 概然以為舊之一時不如傳之身後供之
世俗不如蔵之名山、
乃盡喜捨諸相國禅寺、以充荘厳具云
○ 嘆かわしくは、考えるに、これを一時、売ったことで、後年に伝わる名声にそぐわないことである。
これを世俗に供せずに、これを名山に収めた方が良かった。
すなわち、ことごとく相国寺に喜捨(きしゃ・*寄付)して、荘厳具(しょうごんぐ・*種の宝や華で仏・菩薩身を装飾する、即ち、立派に飾ること)にすると云うことである。
● 錦街鮭菜之肆、旦々負膽者輻湊為市、
塞戸偪墻、即居士家、日租其地、亦足以為利、
乃居士則耽繪事、不欲外物櫻之、
属家其仲而異宅焉、
久不剃頭、不食葷肉、無妻子、
欲以季某為後、先亡、
○ 錦街(現・錦市場)は、魚菜類の宝庫で、それに関わる者が、一か所に集まり市(いち)を為し(*なし)、場所を占めて(人家の)垣根に迫る。
すなわち、居士の家は、その地を貸して利益を得ていた。
そこで、居士は、それにより絵事に耽り、絵事の他のものには興味がなく、欲がなかった。
家は(市の)傘下に入り、自宅は別であった。
(*すなわち、青物問屋・枡屋、通称、枡源(ますげん)で、生産、仲買、小売りの商人に場所を提供し、使用料をとっていた。)
(居士は)過去、長く頭を剃り、葷肉(くんにく・魚類や肉類)を食さず、妻子もなく、ある若者を跡取りにしようとするも、先に亡くなられてしまった。
● 於是預圖百歳後事也、
與里人約輟宅為里有、歳分其假貸之?施諸相國、
以奉父母及己祠、請其子院松鴎、掌香火事、
既又乞松鴎之地三尺、卜佳城所立碣表焉、
○ これにおいて、あらかじめ百年の後の事を図り、土地のひとと約束して、家業を放棄して家業の財産を分けて、諸般のものを相国寺に寄進し、もって、父母及び己 を祀り献じた。
相国寺の塔頭・松鴎(しょうおう)和尚に請いて香火の事を(焼香などを)司どってもらい、やがて又、(*相国寺の塔頭)松鴎庵に三尺(*約91cm四方)の土地を願い、佳城(*墓地)を決めてもらい、碑(いしぶみ)を建て、表記しようとした。
● 而碣之不可無銘也来謁于余、余日、
異哉可以銘乎、昔者陶潜以分自祭、
司空圖坐壙(→以下、東面の碑文へ)
而賦時、
王績白居易為竃穸誌皆老而自遺也、
○ にもかかわらず、碑の銘はなく、(そこで)私のところに謁見に来た。
私は、言った。
何と、非凡であるか。
なので、銘を刻むべきか。
昔者(せきしゃ・昔)、陶潜(とうせん・中国、東晋、宋の文人・陶 淵明(とう えんめい)のこと)は、文を以つて祭り、司空図(しくうと・*中国,晩唐の詩人)は、野原に座り詩を作り、王績(おうせき・*中国の唐の詩人)、白居易(はくきょい・*中国の中唐の詩人)らは、窀穸(*墓穴のこと)の誌文を書いているが、皆、老いてから自ら遺したものである。
● 吾子歳僅半百、其自果也如是夫、
雖然吾子所以家于技者名遂矣、事畢矣、
山斯以往、将何所営、
乃腰不折而斗米可得優游以卒歳、
則所謂睾宰墳鬲之望、
知所息於今日也且余與吾子交十有余年
○ 吾子(ごし・きみ)は年、50歳、其の自ら 果たすことは、このようなものなのか。
そうだと言ったところで、きみの技法を元にする者は、名を遂げ、そのなすべきことは終わった。
これによってなお住む(生活する)以上、まさに何の生活の営みがあるのだろうか。
すなわち、働かずに米を得ようと、のんびりと心のままに年をとれば、すなわち、所謂(いわゆる)、睾宰(こうさい)墳鬲(ふんれき)(*墓は高く盛り上がって大きな方が良い)の望みで、今、それがあこがれていることなのだ、と云うことを知る。
なお且つ、きみと交ること10余年、
● 自顧羸弱恐不能後吾子夫吾子之知所息、
與余之恐不能後、是宜若可以錦然、
然吾佛有言日、心加工画師無法而不造、
則吾子苟擇於自造也、事徒描士恭所描為得哉、
是眞知所息矣、是為銘銘日、生耶死耶、
劫蓋而土安者此耶、逝将固済子耶
○ 自ら顧みると、体が衰え、おそらくは、きみ(の最期)を見届けることはできないであろう。
つまり、きみのあこがれていることを知ると、私は、きみ(*の最期)を見届けることが恐ろしい。
そう云うことで、銘を記すべきようだ。
しかし、わたしは、仏に、こう問われる。
心は巧みな画師の如く、法として造ってはならないと。
すなわち、きみがもしも、自分でこれを造る道を選べば、どうして恭(うやうや)しく描いているところを描いて、そう思い込ませないのだ。
是れを銘とする。
● 生耶死耶、
劫蓋而土安者此耶、逝将固済子耶
○ 生や死や、劫尽きて土安き者は此れか。
逝 (つい)に、まさに子を固済(*救おうと)せんとするや。
明和三年丙戌十一月 淡海竺常大典 撰

この碑文は、若冲の経歴研究での基礎資料で、特に後半は、「後世の若冲伝は、全てこの銘文を参照している」といわれるものです ・・
● 伊藤若冲(いとう じゃくちゅう)は、江戸中期の京で活躍した絵師 である。
名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。
初めは春教(しゅんきょう)と号したと云う。
別号、斗米庵(とべいあん)。
生前、『平安人物志』で、大西酔月、円山応挙と肩を並べる人気と知名度があった。
後、明治、大正と一般的に忘却的な時を乗り越え、1970年、辻惟雄の『奇想の系譜』出版後、注目を浴びる。
後、文庫本(ちくま学芸文庫)などになり、広く読まれ、飛躍的にその知名度と人気を上げる。
● 石峰寺 (せきほうじ)
伏見区深草にある黄檗宗の寺院。
平安中期、摂津国多田郷、沙羅連山石峰寺に発する。
1713年、黄檗山大本山萬福寺の第6世、黄檗流の能書家で知られた千呆性侒(せんがいしょうあん)が開創。
石峯寺とも表記する。
石峰寺 (せきほうじ)には、若冲が絵を米一斗と交換し自分で描いた下絵を10年をかけて石工に彫らせた五百羅漢があるが、以前は撮影可であったが現在は厳しく、スケッチ、撮影共、禁止になっている。 拝観は可。
石峰寺 山門
石峰寺の駒札によると・・・
(前略)
本堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。
これは、江戸時代の画家伊藤若冲(じゃくちゅう)が当寺に庵を結び、当寺の住職 密山とともに制作したもので、釈迦の生涯を表している。
なお、境内には、若冲の墓及び筆塚が建てられている。
(後略)・・・
石峰寺にある墓(京都通百科事典より)
五百羅漢(京都通百科事典より)
伊藤 若冲の実家は、青物問屋、通称「枡源(ますげん)」で錦小路にあった。
伊藤若冲 生家跡
往時、この付近に青物問屋、通称、枡源(ますげん)があった。
現在の錦市場・西側入口付近。
錦市場。
高倉通り側の入口にある令和6年6月からの「タペストリー」です。
若冲の描いた絵画をモチーフに、京都工芸繊維大学が制作したものです。
そして、この地よりすぐの浄土宗・宝蔵寺が、伊藤家の檀家であった。
父母、弟たちの墓は同境内にあるが、若冲のものはない。
宝蔵寺
【位置】中京区裏寺町
【交通】阪急電鉄・四条河原町、徒歩約5分。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下で 利用可のものより。
ライセンスされているものより。
駒札
駒札によると・・
宝蔵寺
宝蔵寺は、浄土宗西山深草派本山誓願寺に属する。
本尊の阿弥陀如来立像は、元禄13年(1700)の作。
弘法大師空海の創立と伝えられ、元西壬生郷に開基された。
天正9年(1581)に玉阿律司によって中興再建された後、天正19年(1591)豊臣秀吉の寺町整備により、現在の裏寺町に移転した。
天明8年(1788)「天明の大火」と元治元年(1864)「禁門の変」の際の火災により全焼。
現在の本堂は昭和7年(1932)に建立された。
江戸時代中期の画家・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)(1716-1800)の菩提寺で、若冲が建立した父母の墓石、末弟・宗寂の墓碑が残り、次弟・白歳の墓碑も建てられている。
若冲は、当時の京都画壇を代表する画家であり、また生家のあった錦市場が営業停止になったとき、弟の白歳とともに、再開に向け力を尽くした人物。
代表作に「動植綵絵三十幅」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)がある。
若冲の誕生日に当たる2月8日には、毎年生誕会を催し、併せて宝蔵寺所蔵の若冲四十代前半頃に描かれた初期作品「竹に雄鶏図」や白歳筆「羅漢図」などを一般公開している。
と、ある。
2017年当時の展示では、新聞にも掲載されていた若冲の弟子・意冲の中国風の寺院や山が題の「山寺図」が初公開されていた。
山寺図のような山水画は若冲一派の中では珍しいとの事。
また、若冲初期の「牡丹(ぼたん)図」など15点も展示されていた。
また、この期間、若冲のドクロの限定御朱印(髑髏図(どくろず)と竹に雄鶏図)を入手できて、御朱印収集家にとっても、魅力あるものであった。
境内・撮影可。 展示拝観・有料であった。
以前、墓石は、墓域にあったが、近年、寄付を募り整備され、屋根付きで本堂・左前に移転している。
2016年2月7日、伊藤家の墓石の保存修理が完了。
左・若冲の建立による末弟・宗寂の墓。
中・次弟・宗厳(白歳)の墓。
右・若冲の建立による両親・先代の墓。
生誕会(2月8日)では、錦市場からの野菜が供えられる。
若冲は、30歳を過ぎ、一時期、狩野派も手掛けるが、本格的に絵を独学で学び始める。
30代の半ば頃、売茶翁(ばいさおう)・高遊外(こうゆうがい)を通じ、相国寺の大典(梅荘)顕常(だいてん けんじょう)と知遇する。
若冲37歳、大典34歳の頃であった。
高遊外は、江戸時代の黄檗宗の僧で、煎茶の中興の祖。
後、若冲は宝蔵寺から離れ、相國寺と密接な関係を持つ。
そして、最高傑作「動植綵絵」三十幅を相國寺に寄進する。
後、大典、相國寺との親密な関係は、以降、20年ほど続いたが、相國寺と袂を分かち、絶縁する。
後、若冲58歳の時に黄檗山・萬福寺に帰依。
末寺の伏見区深草の石峰寺に、晩年の創作の全てを尽くす。
1800年9月10日、石峰寺にて85歳没。
一方、大典は、慈雲院の住持となるが、前和尚の三周忌後、隠退、相国寺を離れる。
この年、1759年。大典は影ながら若冲を推挙。
(若冲、鹿苑寺大書院の障壁画を描く)
後、十数年、相国寺を離れ1771年、相国寺第113世・住持となる。
後、天明大火後の復興に尽し、若冲没の半年後、1801年2月、慈雲院にて寂。
佛学、経義、詩文に通じた当代隋一の学僧だった。
大典(梅荘)顕常
大日本名家肖像集
経済雑誌社、明治40年 より
*主な伊藤若冲作品・所蔵先。
非展示の場合あり。
【京都】
*京都国立博物館 「蔬涅槃図、石峯寺図」ほか多数。
*相国寺・承天閣美術館「動植綵絵、釈迦三尊像、鹿苑寺大書院障壁画」など。
*細見美術館「糸瓜群虫図、瓢箪図、伏見人形図」ほか多数。
ほか、泉屋博古館、建仁寺・両足院。
相国寺・承天閣美術館(京都)
相国寺・伊藤若冲の生前墓
【滋賀】
*MIHO MUSEUM「巨大名作・象鯨図屏風」など。
ほか、義仲寺、滋賀県立琵琶湖文化館。
【大阪】
西福寺(豊中市)年に一度公開 「仙人掌群鶏図」ほか。
ほか、サントリー美術館、黒川古文化研究所(兵庫県西宮市)。
【香川】
*金刀比羅宮 基本的に非公開。
金刀比羅宮奥書院障壁画「花弁図」。
【東京】
*宮内庁・三の丸尚蔵館「動植綵絵(全30幅)旭日鳳凰図」など。
*大倉集古館「拓版画・乗興舟」。
ほか、東京国立博物館、東京芸術大学大学美術館。
【千葉県】
*佐野市立吉澤記念美術館 「ユーモラスな・菜蟲譜」ほか。
ほか、千葉市美術館「鸚鵡図、海老図」ほか関連作品。
国立歴史民俗博物館
*静岡県立美術館「樹花鳥獣図屏風」。
愛知県美術館など 各所で所蔵。
伊藤若冲の相國寺の墓は生前墓で、墓の正面を除く3面には、風雪に耐え、大典が若冲に依頼されて書いた「釈文」が刻まれ、現存している。
大典は、慈雲院・第9世。
後、前述の如く1771年、61歳で相国寺第113世・住持となる。
相国寺の寿塔(生前墓)「若沖寿塔銘を読む」
●は、原文。 ○は、読み下し、意訳。
* は、投稿者の付記です。
● 居士名汝鈞、字景和、
平安人、本姓伊藤、
改為藤氏、父名源、
母近江武藤氏、
以享保元祀二月八日生居士于城中之錦街、
○ 居士の名前は、汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。
平安の人で、本姓は伊藤、改めて藤氏となる。
父の名は源、母は近江に武藤氏である。
(母は)享保元祀二月八日(*正徳6年6月22日に享保元年に改元となったので、正確には正徳6年2月8日である。)に居士(*こじ)を城中の錦街に生む。
● 居士為人断同無它技、唯絵事是好、
従為狩埜氏之技者游既徹其法、
一日自謂日、是法也狩埜氏法也、
即吾能出於藍、亦不超狩埜氏圏繢、
不如舎面宋元也、於是取宋元學之、
臨移累十百本既又自謂日、
○ 居士の人となりは、断固として主な技術はなく、ただ、絵、これを好み、狩埜氏(かのうし・*狩野派)に学び、すでに その画法を取得した。
一日(ある日)、自ら言うところでは、この法は、狩野派の法である。
すなわち、私がこれを能くしても、狩野派の枠を超えることはできない。
又、(どれほど)狩野派の画法を獲得しても、狩野派の枠を越えることはできないと、狩野派を捨てて、宋元画を学ぶことにした。
そして、模写すること、1000 点を超えるおびただしい数に上った。
● 歩超之技肩終不可比較邪、
且彼描物者邪吾又描其所描、
是隔一屑矣、
不如親即物而舐筆也、
○ 歩超の技は肩を終わりに比較すべからざるや、かつ、彼はものを描くものなるや、我、またその描くところを描くは、これ一層、隔たるものである。
親から物に即して筆を真似るようなものである。
(*人が描いたものを自分がまた写しているにすぎないのではないか。
宋元の名手は、ものそのものを見て描くが、自分はその絵を真似て描くだけであり、その隔たりは、云うまでもない。)
● 物乎物乎吾何執、當今之時、
無有褒公卾 公及夫冒雪吟詩者之態、
而露䯰月額褊祓之人弗堪也山水所目、
○ 物か、物か、われ、何をか執らん。
今の時に当って、襄公【1】、卾公【2】とその屈辱、詩を吟ずるところではなく、しかも露䯰で、月額(つきびたい・*額に白い斑(まだら)がある)で、被祓(はつはつ・*お祓いを受ける)の人は堪えられない。
*䯰は、たぶさ。かんざしで髪の毛を頭の上で束ねたところ、の意。
山水の目にする所(山水画において)もまた、いまだに、その領域で実力がある人に会ったことがない。
【1】褒公。じょうこう・中国春秋時代の宋の君主。
自軍不利にも拘わらず、身の程知らずの情で敵軍の渡河を許し惨敗・泓水(おうすい)の戦い。
【2】卾公。がくこう・殷(いん)朝 最後の第30代王・帝辛(てい しん)の家臣。謀反の疑いで処刑。
● 亦未過上幅者無己、則動植之物乎、
孔翠鸚鵡會不可恒覯、
唯司晨之禽、閭閻所馴、
其毛羽之彩可色施五則吾自比始矣、
○ また、やむを得なければ、則ち動物、植物であろうか。
孔翠(孔雀・くじゃく)、鸚鵡(オウム)は、すなわち、常に見られるもの(鳥)ではない。
ただ雌の鶏は禽(きん・鳥)で、閭閻所馴(りょえん しょじゅん・*よく言われるには)、その毛羽の彩(いろどり)は五色を施すべきである。
則(すなわ)ち、私は、ここらから始めようと。
● 畜鶏數十窓下、極其形状、寫之有年矣
然後周及草木之英、羽毛虫魚之品、
悉其貌、會其神心得、而手應其下筆賦彩、
盡以意匠出之無、一毫踏襲、雖於古人韻致、
加有不合、而骨力精錬之工可以卓然名
(→ 以下、北面の碑文へ)家矣、
○ 鶏(にわとり)を数十羽、窓の下に飼って、その形状を極めて(観察し)、これを写生して、年月が経過する。
その後(のち)、あらゆる草木の春秋(の模様)、鳥類の羽毛、虫、魚などに至るまで、その容姿をことごとく描き、その真髄を見極める。
そして、新しい筆で彩(いろどり)を施し、残らず創作によって完成させ、わずかに(その作品を)踏襲するひとはいない。
昔のひとの風流な趣に則しているといえども、その力強い筆力や精巧さは巧みで、きわだってすぐれており、名家(その道に優れたひと)である。
● 又喜用白帋易惨者作墨画、乃其就所惨界濃淡、
而花之瓣與羽鱗之次、歴歴區分為態、
蓋筆之所至圓熟不殢也、
一種風流世未曾威有、
然居士質直少飾、不欲以技術當世、覯者服其妙、
○ また、好んで白幣(はくし・白い紙)の滲(にじ)みやすいものを用いて墨画を作成する。
すなわち、その滲みやすい性質を利用して濃淡を表し、花弁や(鳥の)羽や(魚)鱗などの区別をはっきりさせて作画をした。
確かに筆のいたることころに円熟味があり、作画が停滞するようなことはなかった。
一種(独特の)風流で、未だ世に、このようなもの(技術)は見たことがなく、これを見たものは咸(みな・皆)、その妙味に感心した。
● 遂以此易斗米取給於是乎有斗米葊之號、
嘗造丹青三十大幅、実愜心合度之作、
又模張士恭迦文殊普賢三福、精絢無耻其本、
○ (居士は、)遂にこれ(絵画)でわずかな米を得て生計を立てる。
これにより、斗米庵(と べいあん)の号がある。
しかし居士は、質素で飾ることなく、絵画の技術で、ことさら才能や 知識をひけらかすことを望まなかった。
かつて丹青三十大幅(若冲の動植綵絵(さいえ)・全三十幅のこと。30幅の動植物を描いた彩色画。その大きさは、縦142.1x横79.2cm。)の作成は、実に心に叶ったものであった。
また、(若冲は)張思恭の迦文、文殊、普賢の三幅を模倣する。
(*京都・東福寺に張思恭の筆として伝えられる釈迦三尊像のこと。
釈迦如来像は、米国クリーブランド美術館、文殊菩薩像と普賢菩薩像は東京・静嘉堂美術館で所蔵。)
その精巧さ、絢爛さは、その原画に恥じることは、ない。
● 概然以為舊之一時不如傳之身後供之
世俗不如蔵之名山、
乃盡喜捨諸相國禅寺、以充荘厳具云
○ 嘆かわしくは、考えるに、これを一時、売ったことで、後年に伝わる名声にそぐわないことである。
これを世俗に供せずに、これを名山に収めた方が良かった。
すなわち、ことごとく相国寺に喜捨(きしゃ・*寄付)して、荘厳具(しょうごんぐ・*種の宝や華で仏・菩薩身を装飾する、即ち、立派に飾ること)にすると云うことである。
● 錦街鮭菜之肆、旦々負膽者輻湊為市、
塞戸偪墻、即居士家、日租其地、亦足以為利、
乃居士則耽繪事、不欲外物櫻之、
属家其仲而異宅焉、
久不剃頭、不食葷肉、無妻子、
欲以季某為後、先亡、
○ 錦街(現・錦市場)は、魚菜類の宝庫で、それに関わる者が、一か所に集まり市(いち)を為し(*なし)、場所を占めて(人家の)垣根に迫る。
すなわち、居士の家は、その地を貸して利益を得ていた。
そこで、居士は、それにより絵事に耽り、絵事の他のものには興味がなく、欲がなかった。
家は(市の)傘下に入り、自宅は別であった。
(*すなわち、青物問屋・枡屋、通称、枡源(ますげん)で、生産、仲買、小売りの商人に場所を提供し、使用料をとっていた。)
(居士は)過去、長く頭を剃り、葷肉(くんにく・魚類や肉類)を食さず、妻子もなく、ある若者を跡取りにしようとするも、先に亡くなられてしまった。
● 於是預圖百歳後事也、
與里人約輟宅為里有、歳分其假貸之?施諸相國、
以奉父母及己祠、請其子院松鴎、掌香火事、
既又乞松鴎之地三尺、卜佳城所立碣表焉、
○ これにおいて、あらかじめ百年の後の事を図り、土地のひとと約束して、家業を放棄して家業の財産を分けて、諸般のものを相国寺に寄進し、もって、父母及び己 を祀り献じた。
相国寺の塔頭・松鴎(しょうおう)和尚に請いて香火の事を(焼香などを)司どってもらい、やがて又、(*相国寺の塔頭)松鴎庵に三尺(*約91cm四方)の土地を願い、佳城(*墓地)を決めてもらい、碑(いしぶみ)を建て、表記しようとした。
● 而碣之不可無銘也来謁于余、余日、
異哉可以銘乎、昔者陶潜以分自祭、
司空圖坐壙(→以下、東面の碑文へ)
而賦時、
王績白居易為竃穸誌皆老而自遺也、
○ にもかかわらず、碑の銘はなく、(そこで)私のところに謁見に来た。
私は、言った。
何と、非凡であるか。
なので、銘を刻むべきか。
昔者(せきしゃ・昔)、陶潜(とうせん・中国、東晋、宋の文人・陶 淵明(とう えんめい)のこと)は、文を以つて祭り、司空図(しくうと・*中国,晩唐の詩人)は、野原に座り詩を作り、王績(おうせき・*中国の唐の詩人)、白居易(はくきょい・*中国の中唐の詩人)らは、窀穸(*墓穴のこと)の誌文を書いているが、皆、老いてから自ら遺したものである。
● 吾子歳僅半百、其自果也如是夫、
雖然吾子所以家于技者名遂矣、事畢矣、
山斯以往、将何所営、
乃腰不折而斗米可得優游以卒歳、
則所謂睾宰墳鬲之望、
知所息於今日也且余與吾子交十有余年
○ 吾子(ごし・きみ)は年、50歳、其の自ら 果たすことは、このようなものなのか。
そうだと言ったところで、きみの技法を元にする者は、名を遂げ、そのなすべきことは終わった。
これによってなお住む(生活する)以上、まさに何の生活の営みがあるのだろうか。
すなわち、働かずに米を得ようと、のんびりと心のままに年をとれば、すなわち、所謂(いわゆる)、睾宰(こうさい)墳鬲(ふんれき)(*墓は高く盛り上がって大きな方が良い)の望みで、今、それがあこがれていることなのだ、と云うことを知る。
なお且つ、きみと交ること10余年、
● 自顧羸弱恐不能後吾子夫吾子之知所息、
與余之恐不能後、是宜若可以錦然、
然吾佛有言日、心加工画師無法而不造、
則吾子苟擇於自造也、事徒描士恭所描為得哉、
是眞知所息矣、是為銘銘日、生耶死耶、
劫蓋而土安者此耶、逝将固済子耶
○ 自ら顧みると、体が衰え、おそらくは、きみ(の最期)を見届けることはできないであろう。
つまり、きみのあこがれていることを知ると、私は、きみ(*の最期)を見届けることが恐ろしい。
そう云うことで、銘を記すべきようだ。
しかし、わたしは、仏に、こう問われる。
心は巧みな画師の如く、法として造ってはならないと。
すなわち、きみがもしも、自分でこれを造る道を選べば、どうして恭(うやうや)しく描いているところを描いて、そう思い込ませないのだ。
是れを銘とする。
● 生耶死耶、
劫蓋而土安者此耶、逝将固済子耶
○ 生や死や、劫尽きて土安き者は此れか。
逝 (つい)に、まさに子を固済(*救おうと)せんとするや。
明和三年丙戌十一月 淡海竺常大典 撰
この碑文は、若冲の経歴研究での基礎資料で、特に後半は、「後世の若冲伝は、全てこの銘文を参照している」といわれるものです ・・
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。


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