京都史蹟散策251  伊藤若冲の寿塔銘を読む

京都史蹟散策251  伊藤若冲の寿塔銘を読む

● 伊藤若冲(いとう じゃくちゅう)は、江戸中期の京で活躍した絵師 である。
名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。
初めは春教(しゅんきょう)と号したと云う。
別号、斗米庵(とべいあん)。

生前、『平安人物志』で、大西酔月、円山応挙と肩を並べる人気と知名度があった。
後、明治、大正と一般的に忘却的な時を乗り越え、1970年、辻惟雄の『奇想の系譜』出版後、注目を浴びる。
後、文庫本(ちくま学芸文庫)などになり、広く読まれ、飛躍的にその知名度と人気を上げる。

● 石峰寺 (せきほうじ)
伏見区深草にある黄檗宗の寺院。
平安中期、摂津国多田郷、沙羅連山石峰寺に発する。
1713年、黄檗山大本山萬福寺の第6世、黄檗流の能書家で知られた千呆性侒(せんがいしょうあん)が開創。
石峯寺とも表記する。
石峰寺 (せきほうじ)には、若冲が絵を米一斗と交換し自分で描いた下絵を10年をかけて石工に彫らせた五百羅漢があるが、以前は撮影可であったが現在は厳しく、スケッチ、撮影共、禁止になっている。 拝観は可。

石峰寺 山門
01・IMG_0337★山門。 .JPG 


02・IMG_0347★日記1 ■山門。 .JPG

石峰寺の駒札によると・・・
(前略)
本堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。
これは、江戸時代の画家伊藤若冲(じゃくちゅう)が当寺に庵を結び、当寺の住職 密山とともに制作したもので、釈迦の生涯を表している。
なお、境内には、若冲の墓及び筆塚が建てられている。
(後略)・・・

石峰寺にある墓(京都通百科事典より)
03・石峰寺・伊藤若冲の墓★日記1.gif

五百羅漢(京都通百科事典より)
04・SekihoujiSekizou34[1]★日記3.gif

05・SekihoujiSekizou35[1]★日記2.gif



伊藤 若冲の実家は、青物問屋、通称「枡源(ますげん)」で錦小路にあった。

伊藤若冲 生家跡
往時、この付近に青物問屋、通称、枡源(ますげん)があった。
現在の錦市場・西側入口付近。

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錦市場。
高倉通り側の入口にある令和6年6月からの「タペストリー」です。
若冲の描いた絵画をモチーフに、京都工芸繊維大学が制作したものです。

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そして、この地よりすぐの浄土宗・宝蔵寺が、伊藤家の檀家であった。
父母、弟たちの墓は同境内にあるが、若冲のものはない。



宝蔵寺
【位置】中京区裏寺町
【交通】阪急電鉄・四条河原町、徒歩約5分。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下で 利用可のものより。
ライセンスされているものより。

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駒札
08・IMG_3415.JPG

駒札によると・・
宝蔵寺
宝蔵寺は、浄土宗西山深草派本山誓願寺に属する。
本尊の阿弥陀如来立像は、元禄13年(1700)の作。
弘法大師空海の創立と伝えられ、元西壬生郷に開基された。
天正9年(1581)に玉阿律司によって中興再建された後、天正19年(1591)豊臣秀吉の寺町整備により、現在の裏寺町に移転した。
天明8年(1788)「天明の大火」と元治元年(1864)「禁門の変」の際の火災により全焼。
現在の本堂は昭和7年(1932)に建立された。
江戸時代中期の画家・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)(1716-1800)の菩提寺で、若冲が建立した父母の墓石、末弟・宗寂の墓碑が残り、次弟・白歳の墓碑も建てられている。
若冲は、当時の京都画壇を代表する画家であり、また生家のあった錦市場が営業停止になったとき、弟の白歳とともに、再開に向け力を尽くした人物。
代表作に「動植綵絵三十幅」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)がある。
 若冲の誕生日に当たる2月8日には、毎年生誕会を催し、併せて宝蔵寺所蔵の若冲四十代前半頃に描かれた初期作品「竹に雄鶏図」や白歳筆「羅漢図」などを一般公開している。
           と、ある。

2017年当時の展示では、新聞にも掲載されていた若冲の弟子・意冲の中国風の寺院や山が題の「山寺図」が初公開されていた。
山寺図のような山水画は若冲一派の中では珍しいとの事。
また、若冲初期の「牡丹(ぼたん)図」など15点も展示されていた。
また、この期間、若冲のドクロの限定御朱印(髑髏図(どくろず)と竹に雄鶏図)を入手できて、御朱印収集家にとっても、魅力あるものであった。
境内・撮影可。 展示拝観・有料であった。

以前、墓石は、墓域にあったが、近年、寄付を募り整備され、屋根付きで本堂・左前に移転している。
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2016年2月7日、伊藤家の墓石の保存修理が完了。
左・若冲の建立による末弟・宗寂の墓。
中・次弟・宗厳(白歳)の墓。
右・若冲の建立による両親・先代の墓。
  生誕会(2月8日)では、錦市場からの野菜が供えられる。

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若冲は、30歳を過ぎ、一時期、狩野派も手掛けるが、本格的に絵を独学で学び始める。
30代の半ば頃、売茶翁(ばいさおう)・高遊外(こうゆうがい)を通じ、相国寺の大典(梅荘)顕常(だいてん けんじょう)と知遇する。
若冲37歳、大典34歳の頃であった。
高遊外は、江戸時代の黄檗宗の僧で、煎茶の中興の祖。
後、若冲は宝蔵寺から離れ、相國寺と密接な関係を持つ。
そして、最高傑作「動植綵絵」三十幅を相國寺に寄進する。
後、大典、相國寺との親密な関係は、以降、20年ほど続いたが、相國寺と袂を分かち、絶縁する。
後、若冲58歳の時に黄檗山・萬福寺に帰依。
末寺の伏見区深草の石峰寺に、晩年の創作の全てを尽くす。
1800年9月10日、石峰寺にて85歳没。



一方、大典は、慈雲院の住持となるが、前和尚の三周忌後、隠退、相国寺を離れる。
この年、1759年。大典は影ながら若冲を推挙。
(若冲、鹿苑寺大書院の障壁画を描く)
後、十数年、相国寺を離れ1771年、相国寺第113世・住持となる。
後、天明大火後の復興に尽し、若冲没の半年後、1801年2月、慈雲院にて寂。
佛学、経義、詩文に通じた当代隋一の学僧だった。

大典(梅荘)顕常
大日本名家肖像集
 経済雑誌社、明治40年 より
11・IMG_7505 - コピー - コピー●.JPG



*主な伊藤若冲作品・所蔵先。
非展示の場合あり。

【京都】
*京都国立博物館 「蔬涅槃図、石峯寺図」ほか多数。
*相国寺・承天閣美術館「動植綵絵、釈迦三尊像、鹿苑寺大書院障壁画」など。
*細見美術館「糸瓜群虫図、瓢箪図、伏見人形図」ほか多数。
ほか、泉屋博古館、建仁寺・両足院。

相国寺・承天閣美術館(京都)
12・IMG_0072●承天閣美術館.JPG

相国寺・伊藤若冲の生前墓
13・IMG_0314 相国寺・伊藤若冲の墓★日記2.JPG

【滋賀】
*MIHO MUSEUM「巨大名作・象鯨図屏風」など。
ほか、義仲寺、滋賀県立琵琶湖文化館。

【大阪】
西福寺(豊中市)年に一度公開 「仙人掌群鶏図」ほか。
ほか、サントリー美術館、黒川古文化研究所(兵庫県西宮市)。

【香川】
*金刀比羅宮 基本的に非公開。 
金刀比羅宮奥書院障壁画「花弁図」。

【東京】
*宮内庁・三の丸尚蔵館「動植綵絵(全30幅)旭日鳳凰図」など。
*大倉集古館「拓版画・乗興舟」。
ほか、東京国立博物館、東京芸術大学大学美術館。  

【千葉県】
*佐野市立吉澤記念美術館 「ユーモラスな・菜蟲譜」ほか。
ほか、千葉市美術館「鸚鵡図、海老図」ほか関連作品。
国立歴史民俗博物館 

*静岡県立美術館「樹花鳥獣図屏風」。

愛知県美術館など  各所で所蔵。



伊藤若冲の相國寺の墓は生前墓で、墓の正面を除く3面には、風雪に耐え、大典が若冲に依頼されて書いた「釈文」が刻まれ、現存している。
大典は、慈雲院・第9世。
後、前述の如く1771年、61歳で相国寺第113世・住持となる。


相国寺の寿塔(生前墓)「若沖寿塔銘を読む」

●は、原文。 ○は、読み下し、意訳。
* は、投稿者の付記です。

● 居士名汝鈞、字景和、
平安人、本姓伊藤、
改為藤氏、父名源、
母近江武藤氏、 
以享保元祀二月八日生居士于城中之錦街、

○ 居士の名前は、汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。
平安の人で、本姓は伊藤、改めて藤氏となる。
父の名は源、母は近江に武藤氏である。
(母は)享保元祀二月八日(*正徳6年6月22日に享保元年に改元となったので、正確には正徳6年2月8日である。)に居士(*こじ)を城中の錦街に生む。

● 居士為人断同無它技、唯絵事是好、
従為狩埜氏之技者游既徹其法、
一日自謂日、是法也狩埜氏法也、
即吾能出於藍、亦不超狩埜氏圏繢、
不如舎面宋元也、於是取宋元學之、
臨移累十百本既又自謂日、

○ 居士の人となりは、断固として主な技術はなく、ただ、絵、これを好み、狩埜氏(かのうし・*狩野派)に学び、すでに その画法を取得した。
一日(ある日)、自ら言うところでは、この法は、狩野派の法である。
すなわち、私がこれを能くしても、狩野派の枠を超えることはできない。
又、(どれほど)狩野派の画法を獲得しても、狩野派の枠を越えることはできないと、狩野派を捨てて、宋元画を学ぶことにした。
そして、模写すること、1000 点を超えるおびただしい数に上った。

● 歩超之技肩終不可比較邪、
且彼描物者邪吾又描其所描、
是隔一屑矣、
不如親即物而舐筆也、

○ 歩超の技は肩を終わりに比較すべからざるや、かつ、彼はものを描くものなるや、我、またその描くところを描くは、これ一層、隔たるものである。
親から物に即して筆を真似るようなものである。
(*人が描いたものを自分がまた写しているにすぎないのではないか。
宋元の名手は、ものそのものを見て描くが、自分はその絵を真似て描くだけであり、その隔たりは、云うまでもない。)
  
● 物乎物乎吾何執、當今之時、
無有褒公卾 公及夫冒雪吟詩者之態、
而露䯰月額褊祓之人弗堪也山水所目、 

○ 物か、物か、われ、何をか執らん。
今の時に当って、襄公【1】、卾公【2】とその屈辱、詩を吟ずるところではなく、しかも露䯰で、月額(つきびたい・*額に白い斑(まだら)がある)で、被祓(はつはつ・*お祓いを受ける)の人は堪えられない。
*䯰は、たぶさ。かんざしで髪の毛を頭の上で束ねたところ、の意。

山水の目にする所(山水画において)もまた、いまだに、その領域で実力がある人に会ったことがない。
【1】褒公。じょうこう・中国春秋時代の宋の君主。
自軍不利にも拘わらず、身の程知らずの情で敵軍の渡河を許し惨敗・泓水(おうすい)の戦い。
【2】卾公。がくこう・殷(いん)朝 最後の第30代王・帝辛(てい しん)の家臣。謀反の疑いで処刑。

● 亦未過上幅者無己、則動植之物乎、
孔翠鸚鵡會不可恒覯、
唯司晨之禽、閭閻所馴、
其毛羽之彩可色施五則吾自比始矣、

○ また、やむを得なければ、則ち動物、植物であろうか。
孔翠(孔雀・くじゃく)、鸚鵡(オウム)は、すなわち、常に見られるもの(鳥)ではない。
ただ雌の鶏は禽(きん・鳥)で、閭閻所馴(りょえん しょじゅん・*よく言われるには)、その毛羽の彩(いろどり)は五色を施すべきである。
則(すなわ)ち、私は、ここらから始めようと。

● 畜鶏數十窓下、極其形状、寫之有年矣
然後周及草木之英、羽毛虫魚之品、
悉其貌、會其神心得、而手應其下筆賦彩、
盡以意匠出之無、一毫踏襲、雖於古人韻致、
加有不合、而骨力精錬之工可以卓然名 
(→ 以下、北面の碑文へ)家矣、

○ 鶏(にわとり)を数十羽、窓の下に飼って、その形状を極めて(観察し)、これを写生して、年月が経過する。
その後(のち)、あらゆる草木の春秋(の模様)、鳥類の羽毛、虫、魚などに至るまで、その容姿をことごとく描き、その真髄を見極める。
そして、新しい筆で彩(いろどり)を施し、残らず創作によって完成させ、わずかに(その作品を)踏襲するひとはいない。

昔のひとの風流な趣に則しているといえども、その力強い筆力や精巧さは巧みで、きわだってすぐれており、名家(その道に優れたひと)である。

● 又喜用白帋易惨者作墨画、乃其就所惨界濃淡、
而花之瓣與羽鱗之次、歴歴區分為態、
蓋筆之所至圓熟不殢也、
一種風流世未曾威有、
然居士質直少飾、不欲以技術當世、覯者服其妙、

○ また、好んで白幣(はくし・白い紙)の滲(にじ)みやすいものを用いて墨画を作成する。
すなわち、その滲みやすい性質を利用して濃淡を表し、花弁や(鳥の)羽や(魚)鱗などの区別をはっきりさせて作画をした。
確かに筆のいたることころに円熟味があり、作画が停滞するようなことはなかった。
一種(独特の)風流で、未だ世に、このようなもの(技術)は見たことがなく、これを見たものは咸(みな・皆)、その妙味に感心した。

● 遂以此易斗米取給於是乎有斗米葊之號、
嘗造丹青三十大幅、実愜心合度之作、      
又模張士恭迦文殊普賢三福、精絢無耻其本、

○ (居士は、)遂にこれ(絵画)でわずかな米を得て生計を立てる。
これにより、斗米庵(と べいあん)の号がある。
しかし居士は、質素で飾ることなく、絵画の技術で、ことさら才能や 知識をひけらかすことを望まなかった。
かつて丹青三十大幅(若冲の動植綵絵(さいえ)・全三十幅のこと。30幅の動植物を描いた彩色画。その大きさは、縦142.1x横79.2cm。)の作成は、実に心に叶ったものであった。
また、(若冲は)張思恭の迦文、文殊、普賢の三幅を模倣する。
(*京都・東福寺に張思恭の筆として伝えられる釈迦三尊像のこと。
釈迦如来像は、米国クリーブランド美術館、文殊菩薩像と普賢菩薩像は東京・静嘉堂美術館で所蔵。)
その精巧さ、絢爛さは、その原画に恥じることは、ない。

● 概然以為舊之一時不如傳之身後供之
世俗不如蔵之名山、
乃盡喜捨諸相國禅寺、以充荘厳具云

○ 嘆かわしくは、考えるに、これを一時、売ったことで、後年に伝わる名声にそぐわないことである。
これを世俗に供せずに、これを名山に収めた方が良かった。
すなわち、ことごとく相国寺に喜捨(きしゃ・*寄付)して、荘厳具(しょうごんぐ・*種の宝や華で仏・菩薩身を装飾する、即ち、立派に飾ること)にすると云うことである。

● 錦街鮭菜之肆、旦々負膽者輻湊為市、
塞戸偪墻、即居士家、日租其地、亦足以為利、 
乃居士則耽繪事、不欲外物櫻之、
属家其仲而異宅焉、
久不剃頭、不食葷肉、無妻子、  
欲以季某為後、先亡、      

○ 錦街(現・錦市場)は、魚菜類の宝庫で、それに関わる者が、一か所に集まり市(いち)を為し(*なし)、場所を占めて(人家の)垣根に迫る。
すなわち、居士の家は、その地を貸して利益を得ていた。
そこで、居士は、それにより絵事に耽り、絵事の他のものには興味がなく、欲がなかった。
家は(市の)傘下に入り、自宅は別であった。
(*すなわち、青物問屋・枡屋、通称、枡源(ますげん)で、生産、仲買、小売りの商人に場所を提供し、使用料をとっていた。)
(居士は)過去、長く頭を剃り、葷肉(くんにく・魚類や肉類)を食さず、妻子もなく、ある若者を跡取りにしようとするも、先に亡くなられてしまった。

● 於是預圖百歳後事也、
與里人約輟宅為里有、歳分其假貸之?施諸相國、
以奉父母及己祠、請其子院松鴎、掌香火事、
既又乞松鴎之地三尺、卜佳城所立碣表焉、

○ これにおいて、あらかじめ百年の後の事を図り、土地のひとと約束して、家業を放棄して家業の財産を分けて、諸般のものを相国寺に寄進し、もって、父母及び己 を祀り献じた。
相国寺の塔頭・松鴎(しょうおう)和尚に請いて香火の事を(焼香などを)司どってもらい、やがて又、(*相国寺の塔頭)松鴎庵に三尺(*約91cm四方)の土地を願い、佳城(*墓地)を決めてもらい、碑(いしぶみ)を建て、表記しようとした。

● 而碣之不可無銘也来謁于余、余日、
異哉可以銘乎、昔者陶潜以分自祭、
司空圖坐壙(→以下、東面の碑文へ)  
而賦時、
王績白居易為竃穸誌皆老而自遺也、

○ にもかかわらず、碑の銘はなく、(そこで)私のところに謁見に来た。
私は、言った。
何と、非凡であるか。  
なので、銘を刻むべきか。   
昔者(せきしゃ・昔)、陶潜(とうせん・中国、東晋、宋の文人・陶 淵明(とう えんめい)のこと)は、文を以つて祭り、司空図(しくうと・*中国,晩唐の詩人)は、野原に座り詩を作り、王績(おうせき・*中国の唐の詩人)、白居易(はくきょい・*中国の中唐の詩人)らは、窀穸(*墓穴のこと)の誌文を書いているが、皆、老いてから自ら遺したものである。

● 吾子歳僅半百、其自果也如是夫、
雖然吾子所以家于技者名遂矣、事畢矣、
山斯以往、将何所営、
乃腰不折而斗米可得優游以卒歳、
則所謂睾宰墳鬲之望、
知所息於今日也且余與吾子交十有余年

○ 吾子(ごし・きみ)は年、50歳、其の自ら 果たすことは、このようなものなのか。
そうだと言ったところで、きみの技法を元にする者は、名を遂げ、そのなすべきことは終わった。
これによってなお住む(生活する)以上、まさに何の生活の営みがあるのだろうか。
すなわち、働かずに米を得ようと、のんびりと心のままに年をとれば、すなわち、所謂(いわゆる)、睾宰(こうさい)墳鬲(ふんれき)(*墓は高く盛り上がって大きな方が良い)の望みで、今、それがあこがれていることなのだ、と云うことを知る。
なお且つ、きみと交ること10余年、

● 自顧羸弱恐不能後吾子夫吾子之知所息、
與余之恐不能後、是宜若可以錦然、
然吾佛有言日、心加工画師無法而不造、
則吾子苟擇於自造也、事徒描士恭所描為得哉、
是眞知所息矣、是為銘銘日、生耶死耶、
劫蓋而土安者此耶、逝将固済子耶      

○ 自ら顧みると、体が衰え、おそらくは、きみ(の最期)を見届けることはできないであろう。
つまり、きみのあこがれていることを知ると、私は、きみ(*の最期)を見届けることが恐ろしい。
そう云うことで、銘を記すべきようだ。
しかし、わたしは、仏に、こう問われる。
心は巧みな画師の如く、法として造ってはならないと。
すなわち、きみがもしも、自分でこれを造る道を選べば、どうして恭(うやうや)しく描いているところを描いて、そう思い込ませないのだ。
是れを銘とする。

● 生耶死耶、
劫蓋而土安者此耶、逝将固済子耶

○ 生や死や、劫尽きて土安き者は此れか。
逝 (つい)に、まさに子を固済(*救おうと)せんとするや。

  明和三年丙戌十一月  淡海竺常大典 撰

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この碑文は、若冲の経歴研究での基礎資料で、特に後半は、「後世の若冲伝は、全てこの銘文を参照している」といわれるものです ・・



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