京都史蹟散策222-2 広重の東海道五十三次、80余年後を読んで観る 2

京都史蹟散策222-2 広重の東海道五十三次、80余年後を読んで観る 2

本篇は、保永堂版(天保4年)を元にした「広重画五拾三次 現状写真対照 東海道」東光園(大正7年)を、文語体文から現代語文に直して読んで観ます。
* は、投稿者の付記です。
版画、写真の外枠は画像処理済です。


第9・大磯
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大磯は相模国 中郡の海浜に臨む一小都会である。
古(いにしえ)の余綾郡伊蘇郷で、今(*大正7年)、小磯および高麗寺村を合併して大磯町と云う。
延喜(*901~922年)の頃より既に駅路と定められ、大磯小磯と連称されるに至ったが、「源平盛衰記」「東鑑」などに、その名が多く散見するのを見る。
中でも建仁元年(*1201年)6月、源 頼家が江の島参詣の途(*道)すがら、この地に宿し、遊女を聚めて(*集めて)歌舞燕樂(えんらく・*酒宴を開いて遊興すること)を催したことがあった。
又、かの名高き曽我兄弟が遊女虎および少将と馴染を重ね、兄弟の討死後、二人の遊女が尼となり、操を全うしたようなことは、最も遍く(あまねく)人、口に噲炙(かいしゃ・*人々の口に上りもてはやされること) する。
なお又、詩聖・西行法師が秋色の寂しさを見て、「心なき身にも哀れは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮」と歌いたる 鴫立沢(*しぎたつさわ)の閑境は、寛永年中(*1624~43年)、俳人・(*大淀)三千風(*みちかぜ) が草庵を結んで以来、長く俳諧の道場であった。
その海岸は、すなわち、こゆるぎ(*少し揺れ動くこと)の磯にして、風光明媚、又、捨てがたいものがある。



第10・小田原
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小田原は鎌倉時代において、既に海道の一駅であったと云えども、その名は、なお顕われず、明応4年(1495年)、北条早雲が伊豆に起りて当国を略するに及び、この地をもって、その府城とする。
これより四民(*士農工商)が来集して漸く(ようやく)繁華となり、その極盛期においては鎌倉にも優れる感があった、と云う。
そして、天正18年(*1590年)、豊臣秀吉は大軍を率いて、来たり攻め、城主・北条 氏政は屠腹して城は、遂に陥り(おちいり)、超えて、徳川家康の世には、大久保 忠隣、これが主となり、さらに慶長19年(*1614年)、徐封、改易されて稲葉氏が入部したが、貞享3年(*1686年)、大久保 忠朝の封土となり、子孫、相、伝えて明治維新に至る。
城址は今(*大正9年)なお、町の北方の丘上に存し、壘廟濠徨(防禦とした陣地や祠や濠)の跡は、歴然である。
広重の図は、すなわち、小田原町の近郊を流れる酒匂(*さかわ)河畔より城郭および箱根の峯巒(ほうらん・*山の峰)が森立する形勢は、非常に雄偉なる様(さま・*情景)を描いたものであり、今(*大正7年)や、川には長橋を架け、電車がこれを通るなど、四辺の風物は、その趣(おもむき)を異にするけれども、山姿水態は、概ね(おおむね)昔のままで、河畔の松籟(しょうらい・松の梢こずえに吹く風)は長く、往時の栄華を物語りつつある。



第11・箱根
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箱根は坂東(ばんどう・*東国のうち、奈良時代初頭頃までに定着した足柄峠・碓氷峠の坂の東辺り)随一の天嶮(てんけん・*自然につくられた険しい所)であり、海道の古駅路は、その山中を過ぎる。
世に箱根八里と云うのは、すなわち、これである。
そして、この通路は遠く延暦年間(*782~805年)、始めて開かれたが、程なく廃れ(すたれ)、中世以後は、足柄・箱根の両道が相、並んで行旅の往来があり、しかも、その後、駅路が度々、変革されたのことにより、その道筋は明らかではない。
徳川氏の初め、山上の芦ノ湖畔に新関(*新しい関所)を設け、元和4年(1618年)、現に旧道と称するところの大路を開き、よって海道の管路と定め、爾来(*以来)、明治初年に至るまで鬱蒼(うっそう)とした樹間は、常に人馬の響きが絶えなかったのであった。
広重は、図註して「湖水岡」とある。
その地は、今(*大正7年)、何処を指すものか判明せず、又、芦ノ湖岸の峯巒(ほうらん・*山の峰)が重畳(ちょうじょう・* 幾重にも重なること)して森立すると云えども、なおこの図において見るように峯頭が突き出し、峭壁(しょうへき・*切り立った険しいがけ) が削り立つものはない。
恐らくは、これでないかの駒ヶ岳の山容を描くのに、広重が、殊更、奇警(きけい・*発想・言動などが奇抜で並はずれていること)、瓢逸(ひょういつ・*世俗のわずらわしさを気にしないでのびのびしていること) の筆を弄(もてあそば)したのではないであろうか。
遮莫(*さもあればあれ)、一幅の画面、才情を隈なく(くまなく)汪溢(おういつ・*水がみなぎりあふれること) して、風物が悉く躍動し、真に古今の名画として推賞するに足りるものがある。
*令和の現代でも、上記の説を採って、旅人の登山の苦痛を嶮しい山として、誇張に表現したとされ、北斎の如く名所を主題とせず、広重のそれは、[情景の想い]を描き出している箇所がある、とされる。



第12・三島
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箱根より西に山中、市山を経て三島に出る。
三島は、(*大正7年)伊豆国 田方郡の町であり、徳川時代の諸侯参勤の衝(しょう・*交通の要所の意)に当たり、人馬の往来が多く繁栄を極めたのであった。
広重の図の三島大社は、町の東端に鎮座し、中世以降、東海道の名祠であり、今(*大正7年)官弊大社に列する。
そして、その創建は何時代にあるか詳らかにあらずと云えども、思うに延喜・延長(*901~930年)以後の事であろう。
祭神は大山祇命であるとも云い、又、事代主命であるとも称し、未だに確かに定め難し。
往昔、源 頼朝が伊豆に兵を起こした際、これに祈請し、遂にかのような戦勝を得たことにより、爾後(*以後)、鎌倉武家の崇敬が大いに加わり、しかも、その地が海道の衝(しょう・*交通の要所の意)に当たることにより、賽者(さいしゃ・*神社仏閣に参詣する人)
は踵を接し(くびすをせっし・*前後の人のかかとが接するほど、次から次へと人が続くこと)、兵の名は、ますます著われたのであった。
境域は、今(*大正7年)、なお極めて広く、楼門、社殿は壮麗にして誠に東海第一の大社であることを失わず。
写真は、広重の図と同一の箇所を撮影したもので、社前の大鳥居およびこれを圍繞(いじょう・*まわりを取り囲むこと)して立つ堂々たる老杉などは、昔ながらの俤(おもかげ)を伝へ、神威は、今更、厳然であることを覚える。



第13・沼津
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沼津は、駿河国 東偏の一都会であり、狩野川口に臨み、泊船の便、あり。
今(*大正7年)、沼津港は東西1町南北3町、但し、水、浅くして高潮においても水深6尺(*182cm)に過ぎない。
沼津城は三枚橋城(*さんまいばしじょう)とも云い、又、観潮城とも称し、同町大字の城内に、その址(あと)を残す。
文明年中(*1469~86年)、今川氏が創(*はじ)めて築き、永禄年中(*1558~69年)、武田氏の有に帰し、元亀元年(*1570年)、武田氏の将・高坂 昌宣が修補して、これに居り、次いで徳川氏が駿河を領すると、松平 康親をここに封じ、爾来(*以来)、数回、主を換えて、一時、その城は廃されたが、安永6年(*1777年)、水野 忠友が幕命により、これを復興し、累世して明治維新に至る。
又、この地で有名は千本松原は、狩野川口の以西、海岸一帯の称である。
白砂の間に無数の蒼松が繁茂する。
伝え云う、天文(*1532~54年)の頃、沼津の東運寺の開祖・増誉上人は海風を防ぐためにこれ(*蒼松)を植える、と。
しかし、天正8年(*1580年)、武田 勝頼が北条氏と、この地に戦うと敵の伏(*伏兵)に備えるために、悉く(ことごとく)松樹を斧伐(*樹木を切ること)したのであった、と云えば、今(*大正7年)存するのは、まさしく、後人が栽植したものであろう。
広重の図は、この町の郊外を描かれたもの、又、彼が傑作の一たるを失わなかったのであった。



第14・原
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原は、駿河国 駿東郡(*大正7年)の町で、浮島原の中に在るので、昔は浮島原の宿と呼ばれていた。
抑も(そもそも)浮島原と云うのは、同国 愛鷹山の裾(すそ)、須戸沼附近の原野45里の間を云い、承久3年(*1221年)8月、中納言・藤原 宗行が北条氏に捕えられて、この地を過ぎ、運命を決する事があった。
又、その後、源平両氏の戦場として世に顕わる。
「曾我物語」によれば、この原は、もと海であったのを大国から足高と云う山が、富士を丈比べ(たけくらべ)をしようとして来るに、権現が蹴崩したので、その山が海に浮いて、浮島が原になったと云う。
さて、この原町は、中世に浮島が原の東辺り(あたり)に建てられた宿駅であり、沼津と
隔たること1里27町、吉原へ35町、今(*大正7年)は、鉄道停車場がある。
名物・駿河半紙は、天明(*1781~88)の頃、里人・渡辺 某(*なにがし)が、富士山麓で紙料に適する一灌木を発見して、三椏(*みつまた)と名づけ、この近傍に培養したが、その後、次第に繁殖して遂に今日(*大正7年)の如き莫大な産出額を見るに至ったのであった。



第15・吉原
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吉原は、駿河国 富士郡(*大正7年)の町で、原より2里35町、蒲原へ3里1町、鈴川停車場は東南30町余の所にあり。
鈴川、大宮間の鉄道馬車は、これを通過する。
そして、この吉原は、もと、ここより東南に当たり、今(*大正7年)の元吉原と称する地にあったが、古来、度々、激浪のために漂蕩(ひょうとう・*水にただようこと) され、遂に天和2年(*1682年)の大海嘯(かいしょう・*海鳴りを伴いながら海岸に波が押し寄せて来る現象)で甚大なる損害を被り、今の地に移ったのであった、と云う。
この附近の名所、旧蹟は、見るべきもの、少なからず。
すなわち、先ず(まず)、「田子の浦に 打ち出でて見れば 白妙の 富士のたかねに雪はふりつゝ」(*原文ママ)の歌により、名高き田子の浦は、本郡の田子の浦村の海浜を云い、
停車場より約4丁、富士山の眺望、海道第一の称あり。
又、建久4年(*1193年)夏5月、富士の卷狩(まきがり・*狩り場を四方から囲み、その中に獣を追い込んで捕らえる狩りの方法) に乗じて井出の屋形(やかた・*館)に忍び入り、仇敵・工藤 祐経を討ち取った曽我兄弟の墓は、停車場を距たる(へだたる)1里余の地、本郡(*富士郡、大正7年)鷹岡村字 入江の福泉寺の境内にあり、香煙、今なお縷々(るる・*まちまち)として尽きず。 
ちなみに、広重の図は、現状(*大正7年)の写真と対照として、その間は、殆ど何ら相違なきを見る。
すなわち、「東海道」画帖中、街道の姿、並木の形、山のたたずまい、又、このように酷以しているのは稀である。
 *福泉寺は、令和の現代、静岡県富士市久沢にあり、柳島と天間にも同名の寺があり、寺号を曽我寺(福泉寺)と改めている。



第16・蒲原
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蒲原は、駿河国(*大正7年)庵原郡の東南隅に位置し、富士川に近い海浜に在る。
古の蒲原庄は文治年間(*1185~89年)、後白河法皇の御領であった。
字 蒲原の南、古松が蒼然たる間に、半ば頽廃する古墳があり、里俗の伝えに云うには、源 義経が奥州下向の際、浄瑠璃姫が、その後を慕いて三河の矢作から来て、この地において憊死したのを士民が憐みて、その屍を斂め(*おさめ)葬る、と。
又、旧街道の北、町の西の向田と云う所に蒲原城址が存する。
永禄12年(*1569年)、小田原北条氏の将・北条 新三郎綱重が、これにより甲斐の武田氏の大軍を激しく、克(よ)く戦い、容易に屈せないので、(*武田)進言は一策を案じて、陽に退軍して、これを誘い、(*北条 新三郎)綱重の城を空にして追撃するに乗じて、急に(*武田)勝頼に城に迫らせる。
(*そして)(*北条 新三郎)綱重は殊に(ことに・*とりわけ)戦いて、遂に憤死する。
ちなみに、蒲原以東、富士川に至るまでの間を吹上の浜と云い、三保の松原を望み、風景、極めて明媚である。
 *ここで広重の画に違和感を感じる。
すなわち、この地は温暖な気候の地で現地の70代の人に聞いても、生まれてこの方、雪が降ったのは2度ほどで積雪はなかった、とのことが、TV「歴○探偵」の中で証言されていた。
すなわち、この図も、第11・箱根 の図と同様に、冬と云う季節の[情景の想い]を誇張に表現し描き出した、と令和の現代では、そのように解される。



次回に続きます。



この記事へのコメント

酒井正士
2025年08月24日 16:00
大変興味深く拝見しました。
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對中如雲著『司馬江漢「東海道五十三次」の真実』に触発され、私も「東海道五十三次の写生場所」について調査しています。
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もし可能ならば情報交換させて頂ければありがたく存じます。 酒井