京都史蹟散策201 藤本鐡石寓居之址

【交通】地下鉄東西線・京都市役所前
【位置】中京区御幸町通三条上る東側

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【石標】
藤本鐡石寓居之址
京都市教育会 昭和三年五月

此処は、藤本鉄石の寓居跡を示すもの。

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京都霊山護国神社の説明によると・・・
天誅組の人々
文久3年(1863年)8月13日、大和行幸の詔が出るや「攘夷親征の奉迎」と土佐の吉村寅太郎をはじめ、三河刈谷の松本謙三郎・備前の藤本鉄石(津之助)等は、侍従中山忠光を盟主に立て、京都東郊の方広寺に集まり、倒幕のため挙兵に出た奈良県五條代官所を襲撃、成功を収めたが、8月15日の政変により事態は急変、行幸は中止となり、直ちに幕府は諸藩に彼らの追討を命じ、応戦するも十津川郷士の離反などから敗走を重ね、秀でた志士を失うこととなる(。)
(中略)
天誅組総裁・藤本鉄石は、同志中最年長の48歳にして文人墨客で、昼は一心に絵を描き、夜は志士たちと会談を重ね回天の策をめぐらすという二重生活を送る(。)
(後略)
天誅組は討幕の急先鋒であり、憂国の士の集団であったが、彼らの純粋な想いだけを残し短期に壊滅した(。)
        京都霊山護国神社 と、ある。

藤本鉄石 寓居の址
維新の史蹟(昭和14年)
(著作権満了のものより)
藤本鉄石は、この地で文政6年、ここで書店を開いていた西川 太助を父として誕生した。
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鉄石先生自画像
花土文太郎著 偉人藤本鐡石(昭和8年)
(著作権満了のものより)
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岡山藩士。
天保11年(1840年)脱藩、入洛し、軍学を学ぶ。
後、伏見奉行・内藤正縄に招かれ、伏見京町・言志塾(碧梅寒店)で国典・武道を教授。
後、中山忠光を奉じ天誅組の総裁のひとりとなる。
鷲家口(わしけぐち)で和歌山藩兵に囲まれて戦死。48歳
吉野郡東吉野村鷲家・湯の谷墓地
・・・岡山市中区・東川原・住宅地の一角に生誕地の碑・藤本鐡石君生誕地。
吉野郡・東吉野村・紀州藩本陣跡に、藤本鉄石 福浦元吉戦死之地石碑。
吉野郡・東吉野村・龍泉寺前に 藤本鉄石遺詠。
雲をふみ 岩をさくみし もののふの
よろひの袖に 紅葉かつちる
(*この一首は大和義挙のさなか、十津川郷 長殿山を越えるときにに詠んだものである。)
岡山市中区・弘徳学園南の墓地に藤本鉄石・先祖の墓。

藤本鉄石関係・京都史跡散策から。
24  ハリー・パークス襲撃事件
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/201308article_16.html
61 富岡鉄斎邸跡
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/201311article_2.html
70 儀兵衛の墓・顕彰碑と勤皇志士・山口直の墓 冷聲院
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/201401article_1.html

藤本鉄石の詳細は、上記、花土文太郎著・偉人藤本鐡石(昭和8年刊行)に詳しい。

護国神社 藤本鉄石の墓
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  (了)


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