京都史蹟散策199 藤原鎌足 創建・山階寺跡
奈良・興福寺の前身、藤原鎌足 創建・山階寺跡推定地
【位置】山科区御陵大津畑町
【交通】京阪バス・五条別 すぐ
石標・山階寺跡(推定地)

【石標】
[正面] 山階寺跡(推定地)
[左側] 平成二十年三月建立
おこしやす“やましな”協議会
【石標】の右側に解説のパネルがある。

それによると・・
山階寺(やましなでら)跡推定地
山階寺は七世紀後半、藤原鎌足により創建された寺院。
中大兄皇子(天智天皇)と共に大化改新を成し遂げた鎌足の「山階陶原家(やましなのすえはらのいえ)付属の持仏堂」が始まりと推定される。
藤原鎌足 肖像
(雑古十種 古画肖像、松平定信・編。
著作権満了のものより)

奈良時代の興福寺に関する史料(『興福寺流記』所引「宝字記」)には、
「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造ることを発願した。
事が成就した後、山階の地で造像を行った。
やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。
これが山階寺の始まりである」と記されている。
その所在地は大宅廃寺説(**白鳳時代の瓦を出土し、その西、400mの地に瓦窯跡がある。)や中臣遺跡説もある。
**山階寺瓦窯及び出土花瓦
(京都の古建築、京都市観光課編、昭和13年)

しかしながら、山科駅西南、御陵大津畑町を中心とした地域にあったとする説が有力である。
付近から有力な遺跡は見つかっていないが、この辺りは大槻里と呼ばれ、西隣の陶田(すえた)里にかけてが陶原であったらしい。
鎌足の子の不比等が育った「山科の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)らの家」も近くにあった。
山階寺はその後、大和(*藤原京・現在の橿原市石川町で正確な位置は不明。伝承地とされる土壇が今に残る。)に移り厩坂寺(うまやさかでら) と呼ばれ、更に平城京に移り(*和銅3年(710年)、藤原不比等の計画により寺も移され)、興福寺となる。
このため興福寺(*平成10年に世界遺産に登録)は山階寺とも呼ばれた。
天智天皇の腹心であり、藤原氏の始祖となる鎌足は、山科と深い関係があったのである。
と、ある。

(了)
【位置】山科区御陵大津畑町
【交通】京阪バス・五条別 すぐ
石標・山階寺跡(推定地)

【石標】
[正面] 山階寺跡(推定地)
[左側] 平成二十年三月建立
おこしやす“やましな”協議会
【石標】の右側に解説のパネルがある。

それによると・・
山階寺(やましなでら)跡推定地
山階寺は七世紀後半、藤原鎌足により創建された寺院。
中大兄皇子(天智天皇)と共に大化改新を成し遂げた鎌足の「山階陶原家(やましなのすえはらのいえ)付属の持仏堂」が始まりと推定される。
藤原鎌足 肖像
(雑古十種 古画肖像、松平定信・編。
著作権満了のものより)

奈良時代の興福寺に関する史料(『興福寺流記』所引「宝字記」)には、
「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造ることを発願した。
事が成就した後、山階の地で造像を行った。
やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。
これが山階寺の始まりである」と記されている。
その所在地は大宅廃寺説(**白鳳時代の瓦を出土し、その西、400mの地に瓦窯跡がある。)や中臣遺跡説もある。
**山階寺瓦窯及び出土花瓦
(京都の古建築、京都市観光課編、昭和13年)

しかしながら、山科駅西南、御陵大津畑町を中心とした地域にあったとする説が有力である。
付近から有力な遺跡は見つかっていないが、この辺りは大槻里と呼ばれ、西隣の陶田(すえた)里にかけてが陶原であったらしい。
鎌足の子の不比等が育った「山科の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)らの家」も近くにあった。
山階寺はその後、大和(*藤原京・現在の橿原市石川町で正確な位置は不明。伝承地とされる土壇が今に残る。)に移り厩坂寺(うまやさかでら) と呼ばれ、更に平城京に移り(*和銅3年(710年)、藤原不比等の計画により寺も移され)、興福寺となる。
このため興福寺(*平成10年に世界遺産に登録)は山階寺とも呼ばれた。
天智天皇の腹心であり、藤原氏の始祖となる鎌足は、山科と深い関係があったのである。
と、ある。

(了)
この記事へのコメント