京都史跡散策198 方広寺とその周辺

京都史跡散策198 方広寺とその周辺

方広寺(ほうこうじ)

【位置】東山区大和大路正面茶屋町
【交通】市バス・三十三間堂前 徒歩7分

豊国神社の北隣にある。

本堂
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豊国神社・稲荷大明神を右手に見ながら行くと、右手に鐘楼が見えてくる。
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鐘楼
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方広寺は、通称、大仏、大仏殿。

天台宗山門派の寺院。
比叡山延暦寺で2派に分かれた内、比叡山を本山とする派で円仁を流祖とする。
もう一派・円 珍派は比叡山を去り三井寺へ。

天正14年(1586年)、豊臣秀吉が奈良東大寺に倣い、大仏建立を発願。
開山は木食応其。
文禄4年(1595年)、殆ど完成し、妙法院で千僧供養を行う。
(京都史蹟散策175-2 妙法院・境外仏堂 三十三間堂2・百僧供養碑 を参照。)
慶長元年7月(1596年)大地震により、築地とも倒壊。
後、秀吉の遺志を継ぎ秀頼が再建行うも、焼失。

後、慶長15年(1610年)再建開始し徳川家康も援助。
この再建資材運搬のために角倉了以が高瀬川を開削する。
2年後、大仏・大仏殿、完成。


大仏殿
都名所図会(1780年刊行)
(著作権満了のものより)
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説明文には、
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大仏殿方広寺(だいぶつでん ほうこうじ)は後陽成院御字、天正6年、豊臣秀吉のご建立なり。
本尊は蘆舎那仏の座像、御丈6丈3尺。
仏殿は西にして、東西27間 南北は45間なり。
楼門には金剛力士を置き、長(*さ)は1丈4尺なり。
門の内には高麗犬あり。
金色にして7尺。(これは豊国のやしろにありしという)
廻廊は南北120間、東西100間なり。
堂前に建つる石燈篭には列国諸侯の名を刻む。
仏殿の敷石また正面石垣の大石には、国々の名あるいは諸侯の紋所等あり。
廻廊の外には桜・紅葉を交えて植えたり。
慶長7年12月4日には仏殿回禄す。
同15年 右大臣 秀頼公ことごとく再営ある。
寛文2年、本尊銅像を改めて木像とし給う。
大綱秀吉公の石塔婆は仏殿の南にあり。
豊国崩れて後 これを営みしという。
塔前の石灯籠には慶長10年9月あり。
撞鐘堂は南廻廊の外にあり。
四間四方にして柱の数は12本なり。
鏡の高さ1丈4尺、指私は9尺2寸、厚さ1尺。
      と、ある。


その2年後、慶長19年4月(1614年)、南禅寺・清韓文英らの銘文による梵鐘が完成。
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同年、7月、徳川家康の異議により、開眼供養(8月3日)、中止。【1】
【1】鐘銘事件については後述。
後、地震で小破、後、木像で再造されるも、後、落雷で焼失。
壊れた大仏の方は、寛永通宝の原料とされた。

円山応挙作・五条橋大仏殿眺望図(*1700年代・後半)
手前の五条大橋から方広寺大仏殿が描かれる。
(クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下で利用可のものより。)
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天保年間(1830-44年)に、もとの一割ほどの大きさの木造半身像と仮殿が寄進されるも
昭和48年3月28日、焼失。
平成12年、大仏殿(基壇・台座)の発掘調査が行われた。
大仏殿の規模は、現・大阪城の2倍半ほどと判明した。


現在の鐘楼前の建物の前に、横たわる【道標】がある。
横たわる道標
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右 三十三間堂 大興徳院 方面
左 大谷 清水寺 方面

左 西大谷  清水寺 方面
京都市観光課

(昭和5年に京都市役所内に設置され、昭和10年代に多数の道標を設置)が、それである。

桓武天皇の勅命で伝教大師(最澄)彫刻の大黒尊天あり。秀吉、これを気に入り、護持仏とした、ものが祀られている大黒天堂が、本堂右横に、石標とともにある。


方広寺鐘銘事件
片桐 且元(かつもと)。
秀吉から長く、助作と呼ばれていた且元、柴田勝家との賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで七本槍の一人と云われたのも昔。
秀吉亡き後、今は秀頼の重鎮、三度目の大仏復興・方広寺大仏殿の総奉行である。
家康より、開眼法要を8月3日、堂法要は、豊臣秀吉の命日・18日との指示を受けていた。
愈々、明日は、その当日・8月2日。
且元、始め、大坂方は、明日の準備に懸命である。
すると、京都所司代・板倉勝重が来訪するに、棟札、鐘の銘に疑わしき句、これあり。

―――――――
梵鐘に今も残る「国家安康」「君臣豊楽」の銘文
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―――――――

よって、大御所様ご立腹、明日の式は取り止めて戴きたい。

且元。
拙者、無学者故、鐘の銘の意味、存ぜぬが、この責任、切腹してお詫び申す故、明日の式だけは、是非とも・・

・・だが、勝重は、もとより家康の一腹心。

いや、その儀、確く相成りませぬ。
理由は存ぜぬが、詳細は、大御所の方へ、とにかく、拙者の役目、式は相成りませぬ。
・・と要件を述べると、サッサと立ち去る。

且元、顔色なく、すぐに銘文作の南禅寺・清韓文英を呼び出し問い質す。

文英、答えて拙僧、思慮を盡して筆を執り申した。
よって、謄本を作らせ、近日、とりあえず、電覧にて江戸へ呈出させまする。

・・で、駿府、到達は、8月5日。だが、家康、且元より先に、中井大和守正清より送らせた鐘銘の謄本を既に見ていたので、文英の電覧を見るに眉、ひとつ動かさなかったと云う。

そして、家康は厳命した。
かねてより、その文は南都東大寺の鐘銘に倣うように沙汰して置いたにも関わらず、要なき事を長々と書き続け、最後に及び国家安康など、【暗に我が名の字を割って点入したるやに見ゆる】など、不審の条々少なからぬ。
又、棟札の書様も前例に相違する。
これをそのままに差し置いては、天下国家後世に我等の法度が立たぬ。
なお又、供養当日の座班に就いても(比)叡山は、桓武天皇以来、暦朝後崇敬の御事にもあれば、之を第一に定むべきに、天台・真言(宗)を各座にするなど、何としても合点が行かぬ。
きっと是等を取り糺せ。

これが家康の豊臣家打倒計画の発端に。
では、その後の鐘は・・
家康に潰されることなく時は流れ、維新前後、この付近は土佐藩・山内容堂の館となり、鐘堂なき・雨ざらしの姿であった。
維新史蹟図説 京都の巻。大正13年1月、東山書房(著作権満了)に、その様子が見られる。
IMG_4086 方広寺の鐘●(1280x960).jpg



方広寺周辺・方広寺石塁および石塔

この方広寺、今回は、豊国神社側から寺に入ったが、本来は、豊国神社・方広寺の西側の通り・大和大路通りが玄関口となる。
この玄関口に、【石標】がある。

【石標】大仏殿石垣

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  天正十四年
大仏殿石垣     
  豊臣秀吉築造

京都史蹟会建之
昭和四年四月
   が、それである。

天正14(1586年)年、豊臣秀吉は、約88メートル X 約54メートル の壮大な仏殿を建立。
その周囲を巨大な石垣で囲った。
この石垣は、昭和44年、国指定史跡・方広寺石塁および石塔 に指定された。

大仏殿石垣
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この石塁は、ここから、方広寺を一部・取り巻き、現・国立博物館まで、続いており、
その西側には、8月の中頃にもなると百日紅の花が咲き揃う。
(後述、図、参照)

大仏殿石垣
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国立博物館
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百日紅の花
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さて、石塁は有為転変の歴史の流れに翻弄されながらも、これほど現在まで、その姿が残っているのは、奇跡と云っても過言ではない。
そして、この大仏殿の正面が、現在の豊国神社の鳥居の前にあたる。(後述、図、参照)
従って、この前の東西の通りは、大仏殿の正面にあたることから、正面通と云われる。
(少し横道にそれるが)その先、川端通りの交差点を川端正面、また、鴨川に架かる橋は、正面橋と云う。

また、豊国神社の鳥居から、正面通の南側には、耳塚公園(その名の理由は、後述)があり、その先に、【石標】がある。

耳塚公園
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正面通の【石標】
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明治天皇御小休所下京第廿七区小学校阯
明治五年五月三十日御小休
昭和十六年三月三十日 京都府建

さらに、
明治天皇は、明治5年5月、東京から軍艦で三重→伊勢神宮→大阪→伏見→ここ・下京第二十七区小学校(貞教校)で休憩→京都御所に。後、還御。
(明治10年、この小学校は、上堀詰町へ移転)
このような要旨の碑文が、隣の【石標】にある。
」 は、改行。

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(表面)
此ノ地ハ畏クモ 明治天皇御駐蹕ノ聖蹟ナリ
恭シク惟ルニ明治五年関西御巡幸ノ御事アリ」
扈従スル者参議西郷隆盛 陸軍少輔西郷従道
海軍少輔川村純義 宮内卿徳大寺実則宮内少輔
吉」井友実 侍従長河瀬真孝 其ノ外侍従侍医等
併セテ七十餘人ト聞ユ五月三十日大阪行在所発御」
アリ川船紅梅丸ニテ淀川御溯航伏見ニ御上陸
其所ヨリ御乗馬伏見街道ヲ一路北ニ進ミ給フ」
京都府知事長谷信篤先驅ヲ奉仕シ御中途藤森及
大仏前ニ御休憩アラセラル大仏前ノ御休憩」
所ハ即チ下京第二十七区小学校ニシテ
耳塚ノ北辺ニ在リ今ノ貞教国民学校ノ旧舎
コレナリ」
茲ニ京都府参事槙村正直 御前ニ候ス既ニシテ
日暮ル燈ヲ点シテ発御京都御所ニ向ハセラ」
ル事具ニ記録ニ見ユ此ノ日沿道ノ臣庶子
集シテ堵ノ如ク久闊 錦旗ヲ拝シテ懽喜抃舞セサ」
ルナシ就中学校無比ノ寵栄ヲ荷ヒ区民ノ感激
言語ニ絶ス然レトモ星霜七十年次第ニ芳躅ノ」
堙滅センコトヲ恐ル仍ツテ学校当局有志者ト謀リ
古趾ニ記念ノ碑ヲ建テ光華ヲ無窮ニ伝ヘ」
教化ヲ永遠ニ敷カント欲ス由来此ノ地ヤ東ニ
弥峰ノ翠色ヲ望ミ西ニ鳧水ノ清流ヲ控ヘ淑気」
ノ常ニ集積スル所茲ニ於テ貞教ノ美名
更ニ千載ニ其ノ実ヲ添ヘン
  昭和十六年五月三十日
  宮内省図書寮御用掛 従六位猪熊信男謹撰
京都市貞教国民学校長正七位勲七等植村久道恭書

(意訳)
この地は、畏(おそれおおく)も 明治天皇の御駐蹕(ちゅうひつ・天子が行幸の途中、一時乗り物を止めること)の聖蹟である。
恭(うやうや)しく惟(おもんみ)るに、明治5年に関西御巡幸の御事があった。
扈従(こしょう・*付き従う)者、参議・西郷 隆盛、 陸軍少輔・西郷 従道、海軍少輔・川村 純義、宮内卿・徳大寺実則、宮内少輔・吉井 友実、侍従長・河瀬真孝、その他、従侍医など併(あわ)せて七十余人と聞える。
5月30日、大阪・行在所を発御され、川船・紅梅丸にて淀川を御溯航されk伏見に御上陸なされた。
其所より御乗馬で伏見街道を一路、北に進み給う。
京都府知事・長谷 信篤が先驅を奉仕し、御中途に藤森に及び、大仏前で御休憩在らせられる。
所は、即ち、下京第27区小学校にして、耳塚の北辺に在り、今の貞教国民学校の旧舎がこ、れである。
ここに京都府参事・槙村 正直が御前に伺う。
既にして、日が暮れ、燈火を点(とも)して発し、御京都御所に向わせる事が、共に、記録にみられる。
この日、沿道の臣、庶子が集まり、このように久闊(きゅうかつ・*久しぶりに挨拶をする)錦旗を拝して、歓喜などを舞ったのであった。
就中(なかんずく・*とりわけ)、学校は、無比の寵栄(ちょうえい・*天使などから寵愛を受けて時めくこと)を荷い、区民の感激は言語に絶する。
しかしながら、月日が流れ70年、次第に芳躅(ほうたく・*先人の業績・事跡を称えて云う語)が堙滅(いんめつ・*隠滅)することを恐れ、よって学校当局有志者と謀り、古趾に記念の碑を建て、光華(こうか・*光彩)を無窮(むきゅう・*無限に)に伝ヘ、教化を永遠に敷こうと欲する由来。  
此の地は、東に弥峰の翠色を望み、西に鳧水(*水鳥。狭義ではカモなど)の清流を控ヘ、淑気(しゅくき・*新春のめでたい気)が常に集積する所。
ここにおいて、貞教の美名、更に千載に、その実を添ヘんことを。

(裏面) 昭和十六年六月 貞教学区民建之
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とある。
ちなみに、これは、5月17日 大久保利通ら、アメリカに向かった5日後の明治天皇・西國御巡幸であった。



その右手に、大きな石塔がある。
耳塚(鼻塚)の石塔
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その前の説明板によると・・・
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史跡方広寺石塁および石塔
(昭和44年4月12日指定)
耳塚(鼻塚)
この塚は、16世紀末、天下統一をした豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592-1598年)にかかる遺蹟である。

秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本へ持ち帰った。
それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。
これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。

「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643年)の古絵図に認められ、
塚の築成から程ないころの創建と想われる。

秀吉が惹き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、いまに伝えている。
          京都市

よって、取扱いには注意を要する。
当然、この記事は、同時に韓国語でも表記され、ここでは、韓国観光客の参拝の姿が、よく見かけられる。

耳塚(鼻塚)
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耳塚(鼻塚)と耳塚修営供養碑

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耳塚の前に耳塚修営供養碑 がある。

」 は、改行。
(碑文・表面)
與隣敵交兵欲宣国威而已矣非悪其人而戮之也春秋*之役楚人請築京観楚王」
不可曰古者明王伐不敬取其鯨鯢而封之以為大戮於是有京観今罪無所而民皆」
尽忠以死君命又可以為京観乎論者以為盛徳然未若我豊太閤之仁及枯骨其徳」
為更深也按史征韓後役我軍連捷諸将有所斬獲截敵鼻献功其数幾万公喜其勝」
賞其功而愍彼士為国致命埋其獲於京都大仏之前為築墳塋立大卒塔婆名曰鼻」
塚請五山僧呂四百人大修供養資其冥福時慶長二年九月廿八日也相国寺承兌」
撰其文美公之不分恩讎不論彼我深垂慈仁以設平等供養夫恩及海外可謂広矣」
况於交戦之敵国乎推公此心謂之行今日赤十字社之旨於三百年前豈其不可哉」
世徒謂公豪雄英武誇大自喜因以此塚比京観而誰知其慈仁博愛而有礼如此之」
深哉塚後訛称曰耳塚物換星移豊氏絶祠而塚独儼存巍然為平安之偉観四方観」
光之客弔古之士無不徘徊顧望于其下欽当年之偉業感豊公之慈仁者此地旧属」
妙法院故以時修仏事而世変多故久委荒残矣今茲豊公功臣愛将之裔与同志者」
#謀将修公墓以行三百年祭而未及此塚心竊恨焉方広寺原董権大僧正泰良以」
此塚與大仏関係尤深欲修営建碑期豊公祭大修追弔供養之式予亦以妙門嘗掌」
豊国廟尤喜其事有所斡旋既得官準京都市給金若干円以助之其旧部内亦附以」
其前地於是広募資用以起其役乃築乃修材良工励以一月三日経始以三月廿日」
竣功宏荘完堅比旧時有加焉陸軍大将大勲位功二級彰仁親王聞而嘉之賜以題」
字可謂栄矣夫此塚者邦威拡張之符表豊公盛徳之遺物而朝鮮者与我輔車相依」
唇歯相保迩年我国率先万国扶其危匡其傾明其独立為之大戦以完隣邦之交誼」
則於其旧時亦能無感乎豊公既行之乎交戦之日今日則為友邦豈可不益尽其道」
哉嗚呼十方衆生一視同仁三界万霊平等利益希以此修営保其物以此供養資其」
福奮武之跡慈仁之挙大顕於世且両国隣交益加厚東洋平和永莫渝乃記其事勒」
貞珉以垂不朽
明治三十一年三月廿日
         陸軍大将大勲位功二級彰仁親王

篆額  
    前天台座主大僧正 妙法院門跡 村田 寂順
撰文

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(意訳)
耳塚修営供養碑

隣国と戦争をすることは、国威を宣言するためであり、人を殺戮するからではない。
中国春秋時代、楚の国の人は、京観(けいかん・*戦争で打ち取った敵兵の躯を積み上げるなどして埋葬して塚を作り、戦勝の記念碑とする風習。)を楚王に請うたが、楚王は、古の者が云うには、明王は、その鯨鯢(けいげい・*鯨の雄と雌、大悪人の例え)を敬わず征伐し、これを封じて以為(おもえらく・*考えるに)、これにおいて大殺戮を行った。
京観があって、今は罪がなく、しかし民は、皆、忠義を尽くし、もって、君命に死す、と。
又、考えるに京観は、論者であり、盛徳なのであろうか。
そうではなく、もし、わが豊太閤(豊臣秀吉)の仁が枯骨(ここつ・*死人の朽ち果てた骨)に及べば、その仁徳(*慈悲)はさらに深くなるのである。
歴史を調べるに、征韓後役(文禄・慶長の役)で、我軍は連捷(れんしょう・*連勝)で諸将は敵の鼻を斬り獲り、その功として、その数は幾万、(*そして)豊太閤は喜び、その勝と功績を賞えたが、彼士(*敵の兵士)の国のための戦死を憐れみ、京都大仏の前にその獲ったもの(*鼻)を埋め、墳塋(ふんえい・*墓)を築き、大卒塔婆(そとば・*故人を供養するためにお墓に立てられる縦長の木の板)を立てて鼻塚と名付け、五山の僧呂四百人を請い、大供養を修し冥福を資した。
時に慶長2年9月28日のことであった。
相国寺・承兌(さいしょう・*西笑 承兌。臨済五山派を総管し、方広寺大仏の供養導師でもあった)は、その撰文で、豊太閤が分け隔てなく恩義に報わぬ美は、豊太閤が慈悲を垂れ、もって、それぞれ(*敵味方)の平等の供養を設け、各々の恩は、海外にも広く耳塚と云われ、ましてや、交戦の敵国においてもであった。
推測するに、豊太閤のこの心は、今日、赤十字社の精神を三百年前において、その謂われとなる。
(*まさしく)どうして、そうでなかったかと云えようか。
世の人は、豊太閤を豪雄・英武を誇大に云っても、もって、この塚は、この京観で誰もがその慈仁博愛を知り、このように礼有り、深いのであろうか。
塚は、その後、耳塚と称し云われ、物換わり星移り、豊臣家の祠は絶へ、そして、塚は独り巍然(ぎぜん*高く聳え立ち)と存し、為に平安の偉観は、四方に観光の客を観て、古(いにしえ)の士を弔い、(*その魂は)徘徊することなく、その望みを顧みるのであろう。
その下で、当年の偉業は、豊太閤の慈仁(*じじん・情け深いこと)を感じるのである。
この地は、旧妙法院に属していた故、もって、同寺が仏事を修めて(*法事を行っていた)いたが、世は変わり、久しく荒れるに任せて残っていた。
今(明治31年)、ここに、豊太閤のゆかりの功臣らの子孫は、まさに豊太閤の墓(阿弥陀ヶ峰の墓)を修理することを諝謀(しゅぼう・*策略)し、もって、三百年祭を行おうとした。
しかし、その心は、この塚には及ばず、竊(ひそか)に、これを恨んでいたのであろうか。
方広寺の泰良権大僧正(すなわち、碑文の撰者・村田寂順の弟)は、この塚と(*方広寺)大仏殿に関与しており、塚の修営と建碑を深く欲し、豊公祭の弔いの供養の式の大修営が迫った。
私(*碑文の撰者・村田寂順)も又、妙法院が豊国廟を嘗掌(しょうしょう・*かつて掌握していた)のことをもって、その事を喜び、斡旋するところがあった。
又、既に(*私は)、官より若干の京都市の給金に準じる円(*お金)を得て、もって、その旧部内を助け、これにおいて広く資用(しよう・*品物や金銭)を募り、もって、その役を築く材木を修め、大工を励まし、もって、1月3日始めて3月20日に竣工した。
(*この塚は)宏荘(*こうそう・*広大で壮麗)で完堅(かんけん・*堅固)であり、ここに旧時の有り様を加えるのである。
陸軍大将大勲位功二級・彰仁親王は、聞いて、これを褒め、もって題字に栄と(*書いても、そのように)云うべきか。
それ、この塚はわが国の勢力の拡張の証(あかし)であり、豊太閤の盛徳の遺物である。
そして、朝鮮はわが国と相、組して、唇歯(しんし・*互いに利害関係が密接であること)の担保によって互いに助け、近年、我が国は率先して、その危機・その将来・その独立のための大戦(*日清戦争)を他の国に先がけて助け、もって、隣国の交誼を完(まっとう・*全う)した。
よって、その旧時(*昔)において、又、能く(よく)感じなかったか。
豊太閤は、既に、これを行っていたではないか。
交戦の日、今日の友国のために、利益にならないその道を尽くしたではないか。
ああ、十方(じっぽう・*あらゆる方向)の衆生(しゅじょう・*生きとし生けるもの)は、一視同仁(いっし どうじん・*全ての人を分け隔てなく平等に愛し)、万霊平等の利益を願い、もって、この塚の修営を保ち、もって、この供養に資し、その福運を戦さの跡に奮発し、慈仁の挙を世に大きく顕(あらわ)し、且つ、両国の隣交の益を厚く加え、東洋の平和を大きく永く記し、そのことを石碑に刻み、もって不朽のものとする。
*明治31年3月9日付 京都日出新聞・掲載碑文を参照。

また、説明板の石塔には、豊国神社で掲載した「馬塚」も含まれている。

馬塚の石塔(豊国神社内)
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      この編、完。

この記事へのコメント

TATSUMI
2023年01月05日 23:00
大変勉強になりました。