京都史跡散策197 安井金毘羅宮
安井金毘羅宮(やすいこんぴらぐう)
【位置】東山区東大路松原上ル下弁天町
【交通】市バス・東山安井
安井金毘羅宮・東側(東大路通)


駒札によると・・
祭神として崇徳(すとく)天皇、大物主神(おおものぬしのかみ)、源頼政(みなもとのよりまさ)の三神を祀る。
(断ち切り祈願から悪縁断ち・良縁祈願、商売繁盛、金運、開運、交通安全、美願などの信仰あり。)
社伝によれば、保元の乱(1156)に敗れて讃岐(香川県)で崩じた崇徳上皇の霊を慰めるため、健治年間(1275~1277)に大円法師が建立した光明院観勝寺(かんしょうじ)が当社の起こりといわれている。
その後、観勝寺は応仁の兵火により荒廃し、元禄8年(1695)太秦(うずまさ)安井(右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され【1】、その鎮守として、崇徳天皇に加えて、讃岐金毘羅宮より勧請した大物主神と源頼政を祀ったことから、安井の金毘羅さんの名で知られるようになった。
【1】都名所図会「安永9年(1780年)に町人・吉野屋為八が計画、刊行した京都の地誌」では、安井観勝寺として掲載されている。
明治6年、蓮華光院は、右京区大覚寺山内へ。後、廃絶。
跡地に昭和11年、太秦第二尋常小学校、開設。
(昭和22年、現・安井小学校に改称。)
一方の蓮華光院跡地(現在地)は、金刀比羅宮が残され、安井神社となり、後、昭和20年、安井金比羅宮と改称し、現在に至る。)
本殿東の絵馬館には、当社に奉納された大小様々な絵馬が陳列されており、江戸時代の画家・山口素絢(そけん)【2】等の作品も含まれている。
【2】円山応挙の弟子。応門十哲の一人。
優美な和美人画で著名で倭人物画 譜、素絢画譜などがある。
また境内にある「久志(くし)塚」は、古い櫛の供養のために築かれた塚で、毎年9月の
第四月曜日に櫛祭(くしまつり)が行われる。
京都市
安井金毘羅宮の鳥居(出入口)は、東側(東大路通)、南側、北側に3ヵ所あるが、
大正3年建造の東側(東大路通)の石鳥居は、四角柱である。
四角柱の石鳥居と額

社号の石標


安井金毘羅宮・東側(東大路通)から、鳥居を潜って行くと、この参道が、
○絵馬の道 である。
IMG_4303●絵馬の道 2015年10月15日(1280x960)
突き当たりには、石碑がある。

これを右手に回ると、左側に、社務所、金毘羅会館があり、その右手に●縁切り縁結び碑(いし) がある。
金毘羅会館

縁切り縁結び碑(いし)

説明板

説明板によると・・
縁切り
悪縁を切る 碑(いし)
縁結び
奉製 石刻画家 山田光蔵
当宮の主祭神崇徳天皇自ら国家安泰を祈られもろもろ一切を断って祈願されたと云う故事に習い江戸時代より断ちもの祈願のならわしが続けられ縁切り祈願が生まれました。
旧きを脱皮し常に新しい新鮮な自分を蘇らせる縁切り、もろもろの祈願を成就にみちびく縁結び共に歓迎。
これは神道本来の祓いに通じる道と覚えます。
上部からの亀裂をつたって神の力は中央の円形に注がれ、夫々願いを素直に神礼に記し、円形に向かって表から裏に(縁切り)裏から表に(縁結び)をそれぞれ心に祈りを決めて
くぐりぬけて下さい。
くぐりぬけられた後に、神礼を石面に貼ってくだい。
当宮では毎朝拝時に必ずこの碑にお祓いを行いお清めをつづけて参ります。
文 前宮司 鳥居 博愛
とある。

縁切り縁結び碑(いし)の右側には、拝殿、本殿がある。
拝殿から見た本殿

本殿


また、この背後(東側)に、何やら古めかしいが、○絵馬館があり、社に奉納された大小様々な絵馬が陳列されている。


この手前に、第62代・村上天皇・安井の藤の歌碑があり、貴船石の一種の石に下記の句が刻まれている。
この頃、この地は、藤の名所でもあった。
まとゐしてみれとも あかぬ藤なみの
たゝまくをしきけふ にもあるかな
安井の藤の歌碑

絵馬館の左側には、右から、
○厳嶋社
○三玉稲荷社
○三社 が、並ぶ。
三社

これらの社の参道を挟んで、○安井天満宮があり、その横に●久志塚(櫛塚)があり、説明板がある。
○安井天満宮
祭神は菅原道真

久志塚

久志塚由来記
説明板によると・・

櫛に感謝の誠を捧げ、使い古したり痛んだりした櫛に供養する第一回櫛まつりが昭和36年9月4日に、風俗研究家の故・吉川観方先生の御賛意を得て、当宮氏子で美容家の故・南 ちゑ氏を中心とする多くの美容家によって始められました。
更に翌年には当宮神域のここに「久志塚」が建立されました。
爾来、時代風俗の着付けと結髪の正しい伝承を目的として、京都美容文化クラブが設立れ、
櫛まつり実行委員会を置いて、久志塚の前で秋の花が供えられ櫛まつりが斉行され、時代風俗行列が行われています。
当初は櫛の日にちなんで9月4日に開催されていましたが、昭和50年より敬老の日(当時)の9月15日となり、現在9月の第四月曜日に行われています。
当日は久志塚前に奉納された櫛を供え、宮司が祝詞を奏上し供養を行い、その後 奉納舞や時代風俗解説に続いて、古墳時代から現代舞妓までの核時代の装束や衣装を着け、かつらを使わず地毛で結い上げた髪型をした女人風俗行列が当宮を出発して祇園界隈を練り歩き、多くの参列者や観覧者で賑わいます。
久志塚の傍らの像は、彫刻家 江里敏明氏による「吉川観方先生小直衣像」で、櫛まつりに幾多の御協力をいただきました報恩のあかしとして昭和54年9月15日に安置し、ご功績を明記いたしております。
と、ある。

吉川観方は、大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家。
京都で初めて木版役者絵を制作した。
昭和54年、逝去。享年84。
吉川観方小直衣之像

ちなみに、京都市北区鷹峯北鷹峯常照寺、参道脇にも銅像がある。
常照寺の吉川観方先生小直衣の像

また、その左側には、○八大力尊社 が、ある。
祭神:八大力尊(8つの御石)
この地にあった蓮華光院(れんげこういん)の御堂の柱を支えた力石といわれる.
(この編、了)
【位置】東山区東大路松原上ル下弁天町
【交通】市バス・東山安井
安井金毘羅宮・東側(東大路通)
駒札によると・・
祭神として崇徳(すとく)天皇、大物主神(おおものぬしのかみ)、源頼政(みなもとのよりまさ)の三神を祀る。
(断ち切り祈願から悪縁断ち・良縁祈願、商売繁盛、金運、開運、交通安全、美願などの信仰あり。)
社伝によれば、保元の乱(1156)に敗れて讃岐(香川県)で崩じた崇徳上皇の霊を慰めるため、健治年間(1275~1277)に大円法師が建立した光明院観勝寺(かんしょうじ)が当社の起こりといわれている。
その後、観勝寺は応仁の兵火により荒廃し、元禄8年(1695)太秦(うずまさ)安井(右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され【1】、その鎮守として、崇徳天皇に加えて、讃岐金毘羅宮より勧請した大物主神と源頼政を祀ったことから、安井の金毘羅さんの名で知られるようになった。
【1】都名所図会「安永9年(1780年)に町人・吉野屋為八が計画、刊行した京都の地誌」では、安井観勝寺として掲載されている。
明治6年、蓮華光院は、右京区大覚寺山内へ。後、廃絶。
跡地に昭和11年、太秦第二尋常小学校、開設。
(昭和22年、現・安井小学校に改称。)
一方の蓮華光院跡地(現在地)は、金刀比羅宮が残され、安井神社となり、後、昭和20年、安井金比羅宮と改称し、現在に至る。)
本殿東の絵馬館には、当社に奉納された大小様々な絵馬が陳列されており、江戸時代の画家・山口素絢(そけん)【2】等の作品も含まれている。
【2】円山応挙の弟子。応門十哲の一人。
優美な和美人画で著名で倭人物画 譜、素絢画譜などがある。
また境内にある「久志(くし)塚」は、古い櫛の供養のために築かれた塚で、毎年9月の
第四月曜日に櫛祭(くしまつり)が行われる。
京都市
安井金毘羅宮の鳥居(出入口)は、東側(東大路通)、南側、北側に3ヵ所あるが、
大正3年建造の東側(東大路通)の石鳥居は、四角柱である。
四角柱の石鳥居と額
社号の石標

安井金毘羅宮・東側(東大路通)から、鳥居を潜って行くと、この参道が、
○絵馬の道 である。
IMG_4303●絵馬の道 2015年10月15日(1280x960)
突き当たりには、石碑がある。
これを右手に回ると、左側に、社務所、金毘羅会館があり、その右手に●縁切り縁結び碑(いし) がある。
金毘羅会館
縁切り縁結び碑(いし)
説明板
説明板によると・・
縁切り
悪縁を切る 碑(いし)
縁結び
奉製 石刻画家 山田光蔵
当宮の主祭神崇徳天皇自ら国家安泰を祈られもろもろ一切を断って祈願されたと云う故事に習い江戸時代より断ちもの祈願のならわしが続けられ縁切り祈願が生まれました。
旧きを脱皮し常に新しい新鮮な自分を蘇らせる縁切り、もろもろの祈願を成就にみちびく縁結び共に歓迎。
これは神道本来の祓いに通じる道と覚えます。
上部からの亀裂をつたって神の力は中央の円形に注がれ、夫々願いを素直に神礼に記し、円形に向かって表から裏に(縁切り)裏から表に(縁結び)をそれぞれ心に祈りを決めて
くぐりぬけて下さい。
くぐりぬけられた後に、神礼を石面に貼ってくだい。
当宮では毎朝拝時に必ずこの碑にお祓いを行いお清めをつづけて参ります。
文 前宮司 鳥居 博愛
とある。
縁切り縁結び碑(いし)の右側には、拝殿、本殿がある。
拝殿から見た本殿
本殿

また、この背後(東側)に、何やら古めかしいが、○絵馬館があり、社に奉納された大小様々な絵馬が陳列されている。
この手前に、第62代・村上天皇・安井の藤の歌碑があり、貴船石の一種の石に下記の句が刻まれている。
この頃、この地は、藤の名所でもあった。
まとゐしてみれとも あかぬ藤なみの
たゝまくをしきけふ にもあるかな
安井の藤の歌碑

絵馬館の左側には、右から、
○厳嶋社
○三玉稲荷社
○三社 が、並ぶ。
三社
これらの社の参道を挟んで、○安井天満宮があり、その横に●久志塚(櫛塚)があり、説明板がある。
○安井天満宮
祭神は菅原道真
久志塚
久志塚由来記
説明板によると・・
櫛に感謝の誠を捧げ、使い古したり痛んだりした櫛に供養する第一回櫛まつりが昭和36年9月4日に、風俗研究家の故・吉川観方先生の御賛意を得て、当宮氏子で美容家の故・南 ちゑ氏を中心とする多くの美容家によって始められました。
更に翌年には当宮神域のここに「久志塚」が建立されました。
爾来、時代風俗の着付けと結髪の正しい伝承を目的として、京都美容文化クラブが設立れ、
櫛まつり実行委員会を置いて、久志塚の前で秋の花が供えられ櫛まつりが斉行され、時代風俗行列が行われています。
当初は櫛の日にちなんで9月4日に開催されていましたが、昭和50年より敬老の日(当時)の9月15日となり、現在9月の第四月曜日に行われています。
当日は久志塚前に奉納された櫛を供え、宮司が祝詞を奏上し供養を行い、その後 奉納舞や時代風俗解説に続いて、古墳時代から現代舞妓までの核時代の装束や衣装を着け、かつらを使わず地毛で結い上げた髪型をした女人風俗行列が当宮を出発して祇園界隈を練り歩き、多くの参列者や観覧者で賑わいます。
久志塚の傍らの像は、彫刻家 江里敏明氏による「吉川観方先生小直衣像」で、櫛まつりに幾多の御協力をいただきました報恩のあかしとして昭和54年9月15日に安置し、ご功績を明記いたしております。
と、ある。
吉川観方は、大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家。
京都で初めて木版役者絵を制作した。
昭和54年、逝去。享年84。
吉川観方小直衣之像
ちなみに、京都市北区鷹峯北鷹峯常照寺、参道脇にも銅像がある。
常照寺の吉川観方先生小直衣の像

また、その左側には、○八大力尊社 が、ある。
祭神:八大力尊(8つの御石)
この地にあった蓮華光院(れんげこういん)の御堂の柱を支えた力石といわれる.
(この編、了)
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