京都史蹟散策196 赤穂義士ゆかり寺・瑞光院の全貌

瑞光院(ずいこういん)
山科区安朱堂ノ後町
JR琵琶湖線・地下鉄東西線科・京阪京津線 山科駅から毘沙門堂へ行く途中、徒歩、約15分。

■正門。 ●IMG_9648 (1280x960).jpg

一般寺院で観光寺院ではない。
参拝は可(要依願・12月14日は除く)。

以前の駒札によると・・・
由緒由来
當院は慶長18年(1613年)浅野長政候の旧蹟地に因州(鳥取県八頭郡)若櫻城主山崎左馬允家盛(やまざき さまのすけいえもり)候が大徳寺の琢甫宗林和尚を開基として創建された。
*(創建者)山崎左馬允家盛は、山崎氏初代当主。

関が原の戦後、1600年、因幡若桜藩は三万石で所領範囲は、但馬国「馬場ノ平城」まで及んだ。
1614年、卒。
創建当初は「伝正院(でんしょういん)」家盛の没後、戒名にちなみ「瑞光院」となった。
家盛の家系は、長政の本家から分家。

明暦3年山崎家断絶後、第二世陽甫和尚播州赤穂城主浅野内匠頭長矩候の内室瑤泉院(ようぜいいん)と俗縁にあり、且つ浅野家遠祖の旧蹟たる等の因縁により赤穂浅野家の祈願寺となる。
元禄14年3月(1701年)長矩候江戸城において吉良上野介に刃傷並に赤穂浅野家は断絶となる。
同年8月大石良雄當院に長矩候の衣冠を埋め、亡君(冷光院殿)の石塔を建立し以後墓参の都度同志密議の慮とした。
元禄15年12月赤穂義士吉良邸に討入本懐を遂げし後、院主宗湫和尚一僧を江戸に遣わし義士46人の髻を預かり君主長矩候の墳墓の傍に埋めたのが現存している遺髪塚である。
昭和37年堀川鞍馬口より當地に移転す。・・・ とあった。



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紫雲山と号し、臨済宗大徳寺派に属する。  
赤穂浪士の遺髪が埋葬されている、「忠臣蔵」ゆかりの寺院である。
慶長18年(1613)に因幡(いなば)国(現在鳥取県)若桜城主山崎家盛が大徳寺琢甫和尚を開山に請じて一寺を建立したが、家盛の没後、その法号にちなんで瑞光院と称したのが当寺の起こりである。
もと上京区の堀川鞍馬口にあったが、昭和37年(1962)11月にこの地に移った。
元禄(げんろく)初期には当院第3世陽甫(ようほ)和尚が播州(現在の兵庫県)赤穂城主・浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)夫人瑤泉院(ようぜいいん)と族縁に当ることから、浅野家の祈願所となった。
元禄14年(1701)長矩が江戸城中で吉良上野介(きら こうずけのすけ)に忍傷に及んで切腹したとき、当院内に供養塔が建てられ、また翌年上野介を討った大石良雄らが切腹した際、その遺髪が寺内に葬られた。  
境内には長矩、良雄ら46義士の墓のほか、良雄が生前愛したという梅の古木がある。  
12月14日の義士討入りの日には義士ゆかりの寺として参詣する人が多い。
京都市        と、ある。



往時、
都名所図会
秋里籬島 著[他] (河内屋太助[ほか], 天明6 [1786])
(著作権満了)によると・・

瑞光院は安居院(*安居院西法寺[あぐい さいほうじ])の北にあり
(*現在の駒札・・もと上京区の堀川鞍馬口にあったが、)むかしは浅野弾正の第宅なり 
鎮守の神を浅野稲荷と称す 
播州赤穂城主 浅野内匠頭長矩 其外の家臣の塔 一基あり 
 大石内蔵介良雄を始 義臣四十六人の姓名を記す 
當院の什物に内蔵介の画像 辞世の詩歌 書翰等あり  と、ある。

IMG_2561 瑞光院●(1280x960) - コピー.jpg



「もと上京区の堀川鞍馬口にあった」瑞光院の地には、現在、
「瑞光院 赤穂義士 四十六士遺髪塔跡」の石碑がある。

■旧・瑞光院跡。 IMG_9774● (1280x960).jpg

案内板
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案内板の下の写真
■旧・瑞光院跡。 当時の写真。 IMG_9778 (1280x960).jpg

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「瑞光院 赤穂義士 四十六士遺髪塔跡」の石碑
■旧・瑞光院跡。  IMG_9771 (1280x960).jpg

■旧・瑞光院跡。 IMG_9775 (1280x960).jpg



現在の瑞光院
■正門。 IMG_9647 (1280x960).jpg

正門・左側
■正門。IMG_9734 (960x1280).jpg

正門・右側
■正門前。IMG_9650 (1280x960).jpg

浅野稲荷
正門を入ると、右側に浅野稲荷がある。
以降は、住職さんの御厚意により撮影許可をいただきました。

■浅野稲荷。IMG_9653 (1280x960).jpg

■★浅野稲荷。日記付録2-2IMG_9731 (1280x960).jpg


案内額
■案内額(記念碑)IMG_9707 (960x1280).jpg

案内文
■案内額。日記付録1-1 ★  IMG_9710 (1280x960).jpg

案内文によると・・・
赤穂義士遺跡  瑞光院由来
◆創建
慶長18年(1613年) 因州若狭(わかさ)城主
(鳥取県八頭郡若桜町)山崎左馬允家盛(さまのすけ)
家盛公が、大徳寺の琢甫宗林和尚を開基として創建された。

◆浅野家との縁
[浅野稲荷の由来] 往古、朝野宿祢魚養(あさのすくねなかひ)なる公家清和天皇(第56代・1505年前)の胞衣(エナ・出産時に出る胎児を包む膜=後産とも言う)を埋め社を建て、≪朝野稲荷≫と称した。

時過ぎて、豊臣秀吉に仕えた浅野長政公がこの社の地に下屋敷(別荘)【1】を建て≪朝野稲荷≫を≪浅野≫稲荷と読み変え鎮守とした。

その後この長政の下屋敷の跡地に、瑞光院を建立し浅野稲荷も境内に祭り鎮守として現在に至る。

浅野長矩候の内室(瑤泉院)の母は、浅野長治公の側室(寿光院)で当院の第二世陽甫和尚の姪にあたる。
このような≪地縁、人縁≫により赤穂浅野家は当院を祈願寺として年々供米百石を寄進された。

◆大石良雄、当院に長矩(ながのり)公の墓を建立
浅野家断絶(1701年)の後、元禄14年8月14日大石良雄、当院の境内に長矩公の短刀 衣冠を埋め墓を建立し、以後墓参の都度同志と会し密議の所とした。

*長矩公の墓(後述、参照)
■長矩の墓と46士の石塔。 IMG_9663 (960x1280).jpg

◆遺髪塔の由来
元禄16年2月4日、46士切腹に際し、院主宗海和尚は使者の僧を遣わし大石に最後の別辞を伝え、遺書を預かると共に他の各預かり先の大名家を廻り46士の毛髪を預かり持ち帰り、大石の遺志により主君長矩公の墓則に埋め石塔を建立した。
石塔には、46人の位の順に姓名、戒名が刻んである。
尚、義士うち寺坂吉衛門は切腹していないので、遺髪塔には刻名されていない。
46士の墓碑は、享保4年2月(1719年)義士17回忌に建立されたものである。

*追薦會の石燈籠 の奥(後述、参照)
■遺髪塔石塔。 IMG_9667 (1280x960) - コピー.jpg

他に、
◆大石良雄が、主君浅野長矩公の石塔を建立した時の、寄附状の原文。

■元禄16年2月2日(義士切腹の2日前)大石良雄が瑞光院の院主に宛てた書状。
「先にたつ 思いはかるし
身の上に しばし 迷いの
雲とても なし」。

■伝・大石良雄鎧下
大石良雄が、元禄15年(1702) 12月15日未明、吉良邸討ち入りの際に鎧の下着として着用していたもの。
これは、安政4年(1857) 3月14日に赤穂浅野家の縁戚にあたる中務少輔浅野長祚が浅野家の京都祈願寺でもある瑞光院に奉納したと伝えられる。
麻製で、家紋も右回り双ツ巴が染め込まれている。
(瑞光院所蔵)
xIMG_9713 (1280x960).jpg

・・・の案内文が掲げられている。



【境内】

記念植樹。義士會の石標。
■記念植樹。義士會の石標。  IMG_9724 (960x1280).jpg

■記念植樹。義士會の石標。  IMG_9723 (1280x960).jpg



●大石が院主に宛てた書状の石標
先にたつ 思いはかるし
身の上に しばし 迷いの
雲とても なし
■大石が院主に宛てた書状の石標。先にたつ・・  IMG_9658 (1280x960).jpg

■大石が院主に宛てた書状の石標。先にたつ・・IMG_9657 (1280x960).jpg



●大石大夫遺愛梅の石標
■大石大夫遺愛梅の石標。IMG_9660 (960x1280).jpg

裏面に富岡春姥植継とある。
富岡鉄斎夫人・春子が育てていたのを瑞光院へ植え替えた記念と推察できる。
また、春子は、境内、後述の「小野寺十内室円丹招魂碑」の建立者のひとりなので、瑞光院との関わりが深かったのだろうか。

石標と梅
■大石大夫遺愛の梅の石標と梅。  IMG_9722 (1280x960).jpg

振り返ると・・
■内蔵助遺愛の梅の古木。 日記3 ★IMG_9720 (960x1280).jpg


前方には、墓群がある。
■境内。  IMG_9728 (960x1280).jpg



○ 墓域概略図
(義士遺髪復旧碑は、45度程左に傾いてあります。)
IMG_7593 -●墓域概略図(1280x960) - コピー - コピー.jpg

○ 浅野内匠頭長矩の墓。
  (立札によると以下の写真にあるのが浅野内匠頭長矩の墓である。)
立札
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■長矩の墓と46士の石塔。 IMG_9663 (960x1280).jpg

■長矩の墓  IMG_9703 (960x1280).jpg


■遺髪塔と46士の石塔。IMG_9717 (1280x960).jpg

横面
■長矩の墓と46士の石塔。 IMG_9709 (1280x960).jpg

追薦會の石塔
■追薦會の石塔。 IMG_9715 (960x1280).jpg

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○ 遺髪塔
(立札によると、以下の写真にあるのが遺髪塔です。)
■境内。  IMG_9726 (1280x960) - コピー.jpg


中央の遺髪塔とそれを囲む46士の石塔
■遺髪塔石塔。 IMG_9667 (1280x960) - コピー.jpg

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○ 義士遺髪復旧碑
この碑は、明治43年、京都府師範学校が瑞光院の義士遺髪塚に桜を寄進。
その植樹中に遺髪を発見した。
それらを遺髪塚へ戻した経緯を記した碑である。
■義士遺髪復旧碑IMG_9681 (960x1280).jpg

北から見た墓域で、枠内が義士遺髪復旧碑
■北から見た  IMG_9680 (1280x960) - コピー.jpg

【本文】
(表面)
義士遺髪復舊之記【篆額】
往年範黌職員進一桜樹栽之
塔北時土中獲壷壷破髪出則
為義士之遺髪明矣黄梅院主
今茲欲瘞之碣下以復其旧余
乃膺其任焉因略記其由刻石
以立之於碣側以諗来者
(裏面)
大正癸丑夏
 京都 能勢規建

【意訳】
(表面)
義士遺髪復舊之記
先年、範黌(師範学校)の職員が一本の桜を寄進し、これを塔の北側に栽培した時、土中から壺を獲得し、壺を破ると髪の毛が出できた。
よって、これは義士の遺髪であることは明白である。
大徳寺・黄梅院主は、今、ここにその遺髪を土下に埋め、以てそれを復そうと欲した。
余(私・能勢 規)は、その任を膺(う)けた。
これに因み、その由縁を略記して石に刻み、もって碣(遺髪塔)の側(そば)に立て、もって来訪者に告げるものである。
(裏面)
大正癸丑(2年)夏
 京都  能勢 規  建立

義士遺髪復旧碑
■義士遺髪復旧碑★日記3-3  IMG_9704 (960x1280).jpg

――――――――

○内蔵助の墓

内蔵助の墓(枠内) 
■内蔵助の墓IMG_9666 (1280x960) - コピー.jpg

■内蔵助の墓碑IMG_9669 (1280x960).jpg

――――――――

〇 四十六士の墓碑
元禄快挙録・(岩波文庫) / 福本日南 著 (岩波書店、 1940)を参照。
村上浪六 著 (至誠堂書店、 1924)  を参照。

●【南側から北面の全体】左から右へ
(水野家御預)
南01・刄澤蔵 剣信士 間 十次郎光興●
南02・刄湫跳 剣信士 奥田貞右衛門行高●
南03・刄擲振 剣信士 矢頭右衛門七教兼●
南04・刄清元 剣信士 村松三太夫高直●
南05・刄太及 剣信士 間瀬孫九郎正辰●
南06・刄響機 剣信士 茅野和助常成●
南07・刄常水 剣信士 横川勘平宗利●
南08・刄珊瑚 剣信士 三村次郎左衛門包常●
南09・刄利教 剣信士 神崎与五郎則休●

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○ 墓域概略図
IMG_7593 -●墓域概略図(1280x960) - コピー - コピー.jpg

――――――――

南01・刄澤蔵 剣信士 間 十次郎光興●
南02・刄湫跳 剣信士 奥田貞右衛門行高●
南03・刄擲振 剣信士 矢頭右衛門七教兼●

■46士の石塔。 IMG_9682 (1280x960).jpg

――――――――

南04・刄清元 剣信士 村松三太夫高直●
南05・刄太及 剣信士 間瀬孫九郎正辰●
南06・刄響機 剣信士 茅野和助常成●
南07・刄常水 剣信士 横川勘平宗利●

■46士の石塔。  IMG_9683 (1280x960).jpg

――――――――

南06・刄響機 剣信士 茅野和助常成●
南07・刄常水 剣信士 横川勘平宗利●
南08・刄珊瑚 剣信士 三村次郎左衛門包常●
南09・刄利教 剣信士 神崎与五郎則休●

■46士の石塔。  IMG_9684 (1280x960).jpg



▲【西側から東面の全体】 左から右へ
(細川家預)
西01・刄仲光 剣信士 吉田忠左衛門兼亮▲
西02・刄峰毛剣信士 原惣右衛門元辰▲
西03・刄勘要 剣信士 片岡源五右衛門高房▲
西04・刄誉道 剣信士 間瀬久太夫正明▲
西05・刄以串 剣信士 小野寺十内秀和▲
西06・刄泉如 剣信士 間 喜兵衛光延▲
西07・刄周求剣信士 礒貝十郎左衛門正久▲
西08・刄随露 剣信士 近松勘六行重▲
西09・刄毛知 剣信士 堀部弥兵衛金丸▲
西10・刄勇相 剣信士 富森助右衛門正因▲
西11・刄牕空 剣信士 潮田又之丞高教▲
西12・刄破了 剣信士 早水藤左衛門満尭▲
西13・刄廣忠 剣信士 赤埴源蔵重賢▲
西14・刄察周 剣信士 奥田孫太夫重盛▲
西15・刄法参 剣信士 矢田五郎右衛門助武▲
(松平家預)
西16・刄上樹 剣信士 大石主税良金 ▲
西17・刄寛徳 剣信士 大石瀬左衛門信清 ▲
西18・刄雲輝 剣信士 堀部安兵衛武庸▲
西19・刄露白 剣信士 中村勘助 正辰▲
西20・刄道互 剣信士 千馬三郎兵衛光忠▲
西21・刄観祖 剣信士 不破数右衛門正種▲
西22・刄水流 剣信士 菅谷半之丞政利▲
西23・刄囘逸 剣信士 岡野金右衛門包秀▲  

====================

左から右へ
西10・刄勇相 剣信士 富森助右衛門正因▲
西11・刄牕空 剣信士 潮田又之丞高教▲
西12・刄破了 剣信士 早水藤左衛門満尭▲
西13・刄廣忠 剣信士 赤埴源蔵重賢▲
西14・刄察周 剣信士 奥田孫太夫重盛▲
西15・刄法参 剣信士 矢田五郎右衛門助武▲
西16・刄上樹 剣信士 大石主税良金 ▲
西17・刄寛徳 剣信士 大石瀬左衛門信清 ▲
西18・刄雲輝 剣信士 堀部安兵衛武庸▲
西19・刄露白 剣信士 中村勘助 正辰▲
西20・刄道互 剣信士 千馬三郎兵衛光忠▲
西21・刄観祖 剣信士 不破数右衛門正種▲
西22・刄水流 剣信士 菅谷半之丞政利▲
西23・刄囘逸 剣信士 岡野金右衛門包秀▲ 

■46士の石塔。 IMG_9665 (1280x960).jpg

左から右へ
西01・刄仲光 剣信士 吉田忠左衛門兼亮▲
西02・刄峰毛剣信士 原惣右衛門元辰▲
西03・刄勘要 剣信士 片岡源五右衛門高房▲
西04・刄誉道 剣信士 間瀬久太夫正明▲

■46士の石塔。IMG_9685 (1280x960).jpg

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西02・刄峰毛剣信士 原惣右衛門元辰▲
西03・刄勘要 剣信士 片岡源五右衛門高房▲
西04・刄誉道 剣信士 間瀬久太夫正明▲
西05・刄以串 剣信士 小野寺十内秀和▲
西06・刄泉如 剣信士 間 喜兵衛光延▲

■46士の石塔。IMG_9686 (1280x960).jpg

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西07・刄周求剣信士 礒貝十郎左衛門正久▲
西08・刄随露 剣信士 近松勘六行重▲
西09・刄毛知 剣信士 堀部弥兵衛金丸▲
西10・刄勇相 剣信士 富森助右衛門正因▲

■46士の石塔。IMG_9687 (1280x960).jpg

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西09・刄毛知 剣信士 堀部弥兵衛金丸▲
西10・刄勇相 剣信士 富森助右衛門正因▲
西11・刄牕空 剣信士 潮田又之丞高教▲

■46士の石塔。IMG_9688 (1280x960).jpg

■46士の石塔。IMG_9689 (1280x960).jpg

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西11・刄牕空 剣信士 潮田又之丞高教▲
西12・刄破了 剣信士 早水藤左衛門満尭▲
西13・刄廣忠 剣信士 赤埴源蔵重賢▲

■46士の石塔。IMG_9690 (1280x960).jpg

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西13・刄廣忠 剣信士 赤埴源蔵重賢▲
西14・刄察周 剣信士 奥田孫太夫重盛▲
西15・刄法参 剣信士 矢田五郎右衛門助武▲

■46士の石塔。IMG_9691 (1280x960).jpg

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西14・刄察周 剣信士 奥田孫太夫重盛▲
西15・刄法参 剣信士 矢田五郎右衛門助武▲
西16・刄上樹 剣信士 大石主税良金 ▲

■46士の石塔。IMG_9692 (1280x960).jpg

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西16・刄上樹 剣信士 大石主税良金 ▲
西17・刄寛徳 剣信士 大石瀬左衛門信清 ▲
西18・刄雲輝 剣信士 堀部安兵衛武庸▲

■46士の石塔。IMG_9693 (1280x960).jpg

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西17・刄寛徳 剣信士 大石瀬左衛門信清 ▲
西18・刄雲輝 剣信士 堀部安兵衛武庸▲
西19・刄露白 剣信士 中村勘助 正辰▲
西20・刄道互 剣信士 千馬三郎兵衛光忠▲
西21・刄観祖 剣信士 不破数右衛門正種▲

■46士の石塔。IMG_9694 (1280x960).jpg

――――――――

(南側から北面) 左から右へ▲
西21・刄観祖 剣信士 不破数右衛門正種▲
西22・刄水流 剣信士 菅谷半之丞政利▲
西23・刄囘逸 剣信士 岡野金右衛門包秀▲ 
(北側から南面)  左から右へ◎
北01・刄通普 剣信士 木村岡右衛門貞行◎
北02・刄電石 剣信士 貝賀弥左衛門友信◎

■46士の石塔。  IMG_9695 (1280x960).jpg



◎【北側から南面の全体】左から右へ
(松平家預)
北01・刄通普 剣信士 木村岡右衛門貞行◎
北02・刄電石 剣信士 貝賀弥左衛門友信◎
北03・刄無一 剣信士 大高源五忠雄◎
(毛利家預)
北04・刄袖拂 剣信士 岡島 八十右衛門常樹◎
北05・刄當掛 剣信士 吉田沢右衛門兼貞◎
北06・刄性春 剣信士 武林唯七隆重◎
北07・刄鍜錬 剣信士 倉橋伝助武幸◎
北08・刄模唯 剣信士 間 新六光風◎
北09・刄有梅 剣信士 村松喜兵衛秀直◎
北10・刄可仁 剣信士 杉野十平次次房◎
北11・刄量霞 剣信士 勝田新左衛門武尭◎
北12・刄補天 剣信士 前原伊助宗房◎
北13・刄風颯 剣信士 小野寺幸右衛門秀富◎

■46士の石塔。IMG_9664 (1280x960).jpg

====================

北01・刄通普 剣信士 木村岡右衛門貞行◎
北02・刄電石 剣信士 貝賀弥左衛門友信◎
北03・刄無一 剣信士 大高源五忠雄◎

■46士の石塔。  IMG_9696 (1280x960).jpg

――――――――

北04・刄袖拂 剣信士 岡島 八十右衛門常樹◎
北05・刄當掛 剣信士 吉田沢右衛門兼貞◎
北06・刄性春 剣信士 武林唯七隆重◎

■46士の石塔。  IMG_9697 (1280x960).jpg

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北05・刄當掛 剣信士 吉田沢右衛門兼貞◎
北06・刄性春 剣信士 武林唯七隆重◎
北07・刄鍜錬 剣信士 倉橋伝助武幸◎
北08・刄模唯 剣信士 間 新六光風◎

■46士の石塔。  IMG_9698 (1280x960).jpg

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北07・刄鍜錬 剣信士 倉橋伝助武幸◎
北08・刄模唯 剣信士 間 新六光風◎
北09・刄有梅 剣信士 村松喜兵衛秀直◎

 ■46士の石塔。  IMG_9699 (1280x960)

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北08・刄模唯 剣信士 間 新六光風◎
北09・刄有梅 剣信士 村松喜兵衛秀直◎
北10・刄可仁 剣信士 杉野十平次次房◎

■46士の石塔。  IMG_9700 (1280x960).jpg

――――――――
北09・刄有梅 剣信士 村松喜兵衛秀直◎
北10・刄可仁 剣信士 杉野十平次次房◎
北11・刄量霞 剣信士 勝田新左衛門武尭◎
北12・刄補天 剣信士 前原伊助宗房◎

■46士の石塔。  IMG_9701 (1280x960).jpg

――――――――
北11・刄量霞 剣信士 勝田新左衛門武尭◎
北12・刄補天 剣信士 前原伊助宗房◎
北13・刄風颯 剣信士 小野寺幸右衛門秀富◎

■46士の石塔。  IMG_9702 (1280x960).jpg



さらに、墓域の北側へ行くと瑞光院遺躅碑と小野寺十室丹子招魂碑が南面にある。

○ 瑞光院遺躅碑 
浅野長矩の子孫で、当時京都町奉行に任じられていた浅野長祚が、嘉永6年の瑞光院再興にあたり大石良雄の志を述べた碑。
京都坊目誌。上京之部 乾 上巻之首・五 などを参照。

■浅野長祚が大石良雄の志を述べた碑。★日記3-2  IMG_9670 (960x1280).jpg

■浅野長祚が大石良雄の志を述べた碑。 IMG_9679 (960x1280).jpg

■浅野長祚が大石良雄の志を述べた碑。 IMG_9678 (960x1280).jpg

【本文】
*  」は、碑文の改行。
*京都坊目誌を参照し、碑文の文節を区切りました。


瑞光院遺躅碑
碑者悲也紀悲也 如我宗家故臣大石良雄 
誰不悲其志焉 雒之西北 紫野大徳」
禅寺有子院 曰瑞光院実主宗家之香火 
元禄之辛巳宗家滅 良雄退寓山科村」
距雒不遠於是與院主湫禅師謀 
営冷光府君碣于院内且謂曰 吾心有丹者」
寸 在誓将報怨 果得報怨 死而可瞑 
雖則瞑矣 如魂気何所不之師其侘日一招」
我魂有以陪饗亡主之霊 則吾願足矣 
居無何良雄去而東與義衆報其所怨禅」
師聞之躍然 前於良雄等付刃之一月 
遣一苾芻東下竊得其鬚髪而帰瘞於」
府君碣側 列植磨石四十六柱 
各掲名氏以祭焉蓋償良雄遺志也 
嗚呼良雄之」
志誠可悲矣而如禅師可謂克有始終者已
既而禅師示寂灑掃不供 磨石日以」
圮壊無一存者大綱尊者今之耆禅也 
掛錫黄梅院兼主此院事 深悲良雄之志」
募縁四衆 累銖鳩寸至癸丑歳遂即廃址
而更新之 既成以書来請得余一言勒」
石以示于後嗚呼余也 辱承宗裔元禄之変 
耳熟之久矣 毎言及良雄等 未嘗不」
涙下尊者既悲良雄之志而有此挙 
余安可不為尊者紀良雄之志之可以悲者」
哉既而繁以銘其詞曰」
紫野之麓 水清草緑 精契所降 
猶尚在矚 仏唄仙梵 弔斯遺躅」
嘉永七年歳次甲寅秋七月   
中務少輔浅野長祚撰并書丹

【意訳】
石碑の「碑」の字は、「悲」(と同音)であり、石碑は、悲しみを述べるものである。
我が宗家(赤穂藩主浅野家)の家臣・大石良雄を思えば,その志に誰もが悲かなしからずや。
洛(らく・*京都)の西北に大徳寺の子院に瑞光院があり、これは我が宗家の香火(菩提寺)である。
元禄の辛巳(かのとみ・*14年)、宗家は滅し、良雄(大石内蔵助)は山科村(現・京都市山科区)に退いて仮住まいをした。
ここは距離が京都から遠くなかった。
なので、(大石内蔵助は)瑞光院住職・宗湫(そうしょう)禅師と謀り、冷光府君(浅野長矩公)の墓を院内に造り、且つ、云うには、吾心は、まさに(主君の)怨を報いを果たすことを誓うに在り。
そうすれば、死に就ける。
死んだと云えども、魄は何所へでも行けて、その折には宗湫禅師が我が魂を招き、亡き主君の霊に陪饗出来れば、詫びることが出来、よって我が願いは足りる、と。
自然と大石内蔵助は東(江戸)に去り、義衆により その怨みを報し、宗湫禅師は、これを聞き躍然とした。
大石内蔵助などの切腹の一月前、一僧侶を東下させて密かにその鬚髪を得て、君主の墓前の側に列して埋め、列して四十六柱の碑を建てた。
そして、各々の名を掲げ祭祀を行った。
まさしく、これが大石内蔵助の遺志である。
ああ、内蔵助の志誠は、悲しからずや。
しかし、宗湫禅師の如きは、克く始終を果たしたと謂うべきである。
既に宗湫禅師は示寂し、寺は荒廃し、無一、生存する者無く、墓碑は壊れてしまった。
大綱尊者は、今の名僧である。
彼は、黄梅院に掛錫(けしゃく・行脚中の僧侶が、一時他の寺院に滞在すること)し、兼ねて、この院(瑞光院)を管理し、大石内蔵助の志を深く悲しみ、在家信者に募縁した。
すると僅かな寸志が累積し、癸丑歳(嘉永6年)に廃寺址に復興することが出来た。
そして、瑞光院は既に更新され、もって書が私の一言を石碑に刻みたいと依頼があり、これを後世に残したいと云うことであった。
私は元禄の変(赤穂浪士事件)は、久しくこれを屡々聞いていて、宗家(浅野長矩)の子孫を辱(かたじ)けなく承っていた。
大石内蔵助などのことを云うにつけて、かつて涙に暮れていた。
大綱尊者は、すでに大石内蔵助の志を悲しみ、そして、この瑞光院の再興に至ったのであった。
私が尊者の為にすることは当然である。
大石内蔵助の志は、悲しいものである。
そして、既にして繁忙であるが、銘をもって、以下の詞を述べる。
紫野之麓 水清草緑 精契所降 
猶尚在矚 仏唄仙梵 弔斯遺躅

[紫野の麓、水、清く、草は緑、精気が降る所、
なお又 眺め、仏歌を称え、仙人の清浄な世界、かの如く遺躅を弔う。]


○ 小野寺十室丹子招魂碑

夫の切腹後、秘密裡に江戸泉岳寺から墓を掘り起こし、西方寺(左京区)に墓を建て葬った。
後、断食し、夫の後を追ったと伝えられる。
経緯は田中緑紅『忠臣蔵名所』(1958年 京を語る会刊)に詳細あり。

■小野寺十内室円于招魂碑。 ★日記6-23 IMG_9677.JPG

■小野寺十内室円于招魂碑。  IMG_9671 (960x1280).jpg



           (完)

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