大久保利通 年譜 7・45歳 から47歳まで

大久保利通 年譜 7
明治7年 1873 45歳 から 明治9年 1876 47歳まで

明治7年 1873 45歳  
●1月10日 利通、内務省の事務を開始する。
勧業、警保、戸籍、駅逓、土木、地理の六寮および測量の一局を置く。【167】
【167】これらの業務は、大蔵・司法・工部省から移され、検閲機能も付加し、地方行政・治安維持の体制も整備された。

1月14日 高知県氏族・武市熊吉ら赤坂、喰違において岩倉具視・右大臣を要撃する。【168】
【168】喰違の変(くいちがいのへん)
赤坂喰違の変、岩倉具視遭難事件とも。
襲撃者、武市熊吉・武市喜久馬、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、中西茂樹、沢田悦弥太。
彼らは、前年、西郷や板垣に従い、職を辞した元官僚・軍人であった。
岩倉具視は、一命を取り留め、2月23日に公務に復帰した。

十時過ぎ吉井子より一封来る。
岩倉右大臣殿 皇居参内帰り途、喰違御門において狼藉者、馬車へ切りかかりお怪我有り。
直ちに宮中へお立ち帰り相成り候・・ (大久保利通日記より)

1月15日 警視庁を内務省に於き、川路利良【169】を大警視とする。
【169】川路利良(かわじ としよし)
薩摩藩、出身。
幕末、禁門の変、鳥羽伏見の戦いで活躍し、西郷隆盛・大久保利通に高く評価される。
維新後、西郷隆盛の招きで東京府大属。
後、欧州各国の警察を視察。
フランス警察制度を参考に警察制度を確立。
前年、西郷隆盛が下野するも、私情を捨て警察に献身。
後、西南戦争に活躍するも大久保利通の暗殺の遠因になったとも云われる。

1月17日 板垣退助、後藤象二郎、江藤新平ら、民選議院設立の建白書を左院に提出する。

1月25日 木戸孝允参議、文部卿を兼任する。

1月25日 (同日)、榎本武揚を海軍中将に任じ、ロシア公使を命じ、樺太事件を談判せしむ。

●1月26日 利通、朝鮮問題および台湾蕃地問題調査委員を命ぜられる。

●1月 利通、大蔵卿と連署し、華士族授産【170】に関することを地方官に令達する。
【170】維新後、武士階級は、その地位を取り上げられ、その不平不満として反政府運動が多発した。
この膨大な失業士族に対応すべく、殖産興業政策の推進が政府への国家的要請となっていた。
具体的には、農・工・商業への転職の推進、官林荒蕪(こうぶ)地の安価での払い下げ、北海道移住の奨励などの施策が採られた。

2月1日 江藤新平および島義勇ら、佐賀に乱を起す。【171】
【171】佐賀の乱。佐賀の役、佐賀戦争とも。
江藤新平・島義勇らを中心に佐賀で勃発した初の大規模反乱。
政府の対応が早く、激戦の末に鎮圧された。
なお、佐賀の乱については、平成16年6月末に、新聞各紙が一斉に、佐賀の乱は、大久保利通の陰謀と報じ、後、論議を醸し、大久保利通・謀略説がある。
(参考・前年の征韓論に対する政府内部の図式)
武力開国(派)。西郷隆盛・江藤新平・板垣退助など
国内制度充実(派)。伊藤博文・大久保利通など。

●2月6日 利通、大隈重信と連署して、台湾蕃地処分。
要略および朝鮮遺使に関する取調書を提出する。

●2月7日 利通、自ら佐賀に出張し、擾乱鎮定の任に当たらんことを請う。【172】
【172】朝、福岡県その他廣島鎮台、出火、蓮池城出火の電報ありにつき、(小子)ぜひ、実地に派出し、処分いたし度の旨、建白いたし候。  (大久保利通日記より)

●2月7日 利通、文武諸般の全権を帯て、佐賀に出張の命を拝する。

●2月10日 利通、陸軍省に至り、西郷従道、野津鎮雄らと佐賀鎮定のことを商議する。

●2月10日 利通、参内優詔を賜い、翌日、出発する。
木戸孝允、参議内務卿を兼任する。

同日、島津久光、内旨を奉して、鹿児島に帰る。

●2月16日 利通、大坂に抵り、翌日、野津鎮雄、三浦少将らと会議し、大坂鎮台を佐賀に出兵させる。

●2月19日 利通、博多に到着して福岡に本営を置く。

2月20日 官軍、三道より賊を進撃する。

●2月23日 政府、東伏見宮 嘉彰親王を征伐総督に任じ、山縣有朋、伊藤祐麿を参軍となす。
利通の兵事、御委任を解かれる。

2月28日 官軍、佐賀城を復す(取り戻す)。

●3月1日 利通ら、佐賀城に入る。江藤新平ら遁走する。【173】
【173】2時、これより、拙者はじめ山田、河野ら、同・佐賀 宗龍寺本陣に着く。
賊の有様を探ぐるに江藤新平・島 義勇はじめ巨魁の者は遁走、兵は解体。
何も異常なし故に、すぐに探索、捕亡の手順をたて、諸県へも夫々(それぞれ)達し取り計らい候。  (大久保利通日記より)

同日、(政府)高島侍従を佐賀に遣わし、慰労の御沙汰書および酒肴料金50圓を賜う。

●3月14日 御委任権限に関し、東伏見宮 嘉彰親王・  征伐総督に上申する。

4月2日 江藤新平らを高知に捕縛する。

4月4日 台湾征伐のため、西郷従道中将【174】、台湾事務部督となり、大隈重信参議、台湾蕃地事務局長となる。
【174】西郷従道(さいごう じゅうどう・つぐみち)
つぐみち、とよく言われるも西郷家によれば、「じゅうどう」が正訓とのこと。
長兄・隆盛の影響で精忠組に参加後、尊王攘夷運動に、まい進後、戊辰戦争に従軍するも鳥羽伏見の戦いで、重傷を負うも、各地を転戦、後、 新政府に出仕していた。

4月13日 江藤新平、島義勇ら、処刑される。

●4月17日 利通、佐賀を発し、同月24日、帰京する。

●4月25日 利通、東伏見宮嘉彰親王と共に参内、 復命し、優諚【175】(ゆうじょう)を賜る。
【175】励ましなどの思いやりのあるお言葉。
だが、犬養毅内閣が桜田門事件の引責で辞任を決意した時、優諚をもって政治的寿命を延ばし、これを利用したこともあった。

4月27日 島津久光、左大臣に任じられる。

●同日、これより先、征台につき、諸外国、局外、中立を通告せるを以て、さらに事件を処理せんが為、自ら長崎に出張せんことを請う。

●4月28日 利通、長崎出張を命ぜられ、翌日、東京を発す。

●5月3日 利通、長崎に着し、翌日、大隈重信、西郷従道らと議論し、台湾出兵に関する内外要務を協定する。

●5月6日 利通、長崎を発し、15日帰京し、即日、参朝、復命する。

5月13日 木戸孝允参議、征蕃の挙を喜ばず職を辞し、宮内省に出任する。
幾何(いくばく・やがて、の意)もなく去って、県に帰る。

●5月25日 利通、島津久光の建白書により辞職を請う。 允可されず。

6月2日 我軍、台湾・牡丹社(ぼたんしゃ)の生蕃を討伐する。
尋ねて、蕃地を平定する。

6月22日 政府、地方官を正宗する。

●7月3日 利通、蕃地処分に関する意見書を三條実美に提出する。

7月7日 伊藤博文、参議、地方官会議・議長にとなる。
対清、時局切迫につき会議を開くに至らず。

●8月1日 利通、全権弁理大臣として清国へ差し遣いを命じられる。

8月2日 議長・伊地知正治、陸軍卿・山縣有朋、開拓長官・黒田清隆ら、共に参議となる。

●8月5日 聖上(天皇)、特に利通を召見して勅諭を賜う。

●8月6日 利通、文武諸随員と共に東京を発す。
伊藤博文参議、内務卿を兼務する。

●8月10日 利通、長崎に着し、高崎正風【176】、小牧昌業【177】の二人を北京に先行させる。

【176】高崎 正風(たかさき まさかぜ)
薩摩藩士。官僚、二条派の歌人。
お由羅騒動で切腹を命じられた 高崎五郎右衛門の子。
奄美大島に流罪後、帰藩。
8月18日の政変を導き、京都留守役となる。
後、武力討幕府に反対し、藩の主流派から距離を置いた。
【177】小牧昌業(こまき まさなり)
薩摩藩。漢学者。
維新後、黒田 清隆に仕え、開拓使幹事、明治天皇侍講などを務める。
後、奈良県、愛媛県知事を歴任後、貴族院議員。

●8月16日 利通、軍艦・龍驤(りゅうしょう)に搭乗、長崎を発す。
19日、上海に着す。

●8月16日 利通、孟春艦【177a】に乗船し上海を発す。
【177a】慶応3年、イギリスより佐賀藩が購入。
孟は、初めの意で、孟春は、陰暦の新年。

●9月10日 利通、北京に着す。
9月14日より、清朝當路の大官・恭親王以下と談判を開始する。

●10月5日 利通、清廷・総理衙門【178】、諸大臣と折衝を重ねるも同日、談判不調を以て、断然、帰国に及ぶべき旨を通告する。
【178】総理各国事務衙門(そうりかっこくじむがもん)
通称、総理衛門。
清朝後期、外交や洋務を管轄した官庁。

●10月29日 イギリス公使・ウェード氏の調停により清国政府、遂に我が要求に応じ、償金【179】を約し、和議、成立する。
【179】土壇場にきて、利通は、論点、すなわち、台湾蕃地は中国の領土に非ずから、償金の支払いに論点を移した。
利通側からすれば、償金の支払い = 中国の領土でないから払う。自国の領土であれば、償金など支払うことはない、と云う理屈になる。

●11月1日 利通、北京を発し帰朝の途につく。
岩村高俊【180】、小牧昌業を先発で帰朝させる。
【180】岩村 高俊(いわむら たかとし)
土佐藩士。坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺に関し大いに憤慨。
復讐のため陸奥宗光、中井庄五郎ら16人で天満屋を襲うも果たされず。
後、戊辰戦争で長岡城を攻略し偉功により禄200石。
後、明治4年宇都宮権参事、6年神奈川県権参事。
明治7年、利通の認可により、兄・通俊の佐賀権令の後任となり、佐賀の乱にも活躍し、利通の随行員として、この談判に参加していた。

●11月3日 利通、天津に抵り、李鴻章【181】 (り こうしょう)と会見、和議の成立を喜び、日清親善を談じる。
【181】李鴻章(り こうしょう)
この後、明治28年、清国は、日清戦争に敗れ、鴻章は、清国の日清講和条約の全権大使となる。

●11月7日 利通、上海に抵り、10日、償金の第1回分として10萬両を受領する。

●11月11日 利通、神奈川丸に搭乗し上海を出帆、13日、厦門【182】に着す。
【182】厦門(せきもん)
中華人民共和国・福建省・南部に位置し、華僑の故郷としても知られ、アモイとも云われる。

●11月16日 利通、厦門より台湾・打狗に抵り、西郷従道総督と会して撤兵の協議を遂げ、戦趾を巡視し、18日出帆し、22日、長崎に着す。

(同日、利通、詩を詠む
王師一至懲兇酋 戦克三千兵氣雄
請見皇威及異域、石門頭上旭旗風
(大久保利通日記より)
王師(官軍)一たび至って兇酋(生蕃)を懲す、
戦 克つて三千兵気雄なり、
請を見よ皇威(天皇の威光) 異域(台湾) に及ぶを
石門の頭上 旭旗(日本の旗)の風 )

●11月26日 利通、横浜に着す。
聖上(天皇)、坊城式部頭【183】を勅使として慰問させられる。
【183】坊城俊政(ぼうじょうとしただ)
近代宮中の祭祀典礼の基礎作りに尽力。神社祭式を作成。
坊城家は、藤原北家勧修寺流。
式部は、宮内庁の内部の部局のひとつ。
式部頭(しきぶのかみ)は、責任者。

●12月24日 利通、伊藤博文参議の斡旋により、 木戸孝允との会見のため有馬湯治に名を託し、26日大坂に抵る。

12月27日 西郷従道都督、台湾より凱旋し、征台の状を 奏する。

●同月、岩倉具視右大臣、利通の清国談判の労を感謝し、銀盃、一対を贈る。



明治8年 1874 46歳  
●1月4日 利通、神戸に行き、木戸孝允の来着を迎え、共に大坂に赴く。

●1月4日 利通、木戸孝允と三橋楼に会し、意中を告げて、その興起を求む。

●1月14日 利通、五代友厚【184】、吉井友実を誘い有馬温泉に浴する。
【184】五代友厚(ごだい ともあつ)
薩摩藩士。実業家。通称、才助。
14才の時に、 世界地図を模写し藩公に献上した才人。
明治元年、外国事務局判事。大阪商工会議所、初代会頭。
東の渋沢栄一と並び称される

●1月22日 伊藤博文参議、東京より下坂し、木戸孝允に勧説する。

●1月29日 伊藤博文の旅館において木戸孝允と会し、両者の意見一致を見る。
竟に木戸孝允、出京の決心を告ぐ。

●2月5日 利通、少暇を得て、五代友厚、税所篤と共に、大坂を発し、金剛山に遊猟を試み千早城址より楠公誕生地、赤坂城址、四条畷などを経て8日、帰坂する。

●2月9日 利通、木戸孝允・伊藤博文の両人と会し、施政の綱領を議定する。
いわゆる大阪会議なるもの、これにおいて成る。

●2月11日 利通、大坂・北浜・花外楼において、木戸孝允および板垣退助と会し、意見を交換する。【185】

【185】明治政府の要人・利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪に集い、今後の政府の方針・立憲政治の 樹立および参議就任等の案件について協議した。
だが、板垣が後、参議を辞任するなど、半年で崩壊した。
大阪市中央区北浜に大阪会議開催の地の石碑がある。

●2月16日 利通、神戸を出帆し、18日帰京する。

●2月19日 利通、三條実美に謁見し、大阪会議の経過を報告する。

3月9日 木戸孝允、参議となり、12日、板垣退助、参議に就任する。

●3月17日 利通、木戸孝允・板垣退助・伊藤博文と共に政体取調掛を命じられ、政体に関する建白書を提出する。

4月14日 天皇、左右両院を拝し、元老院、大審院を置き、地方官会議の制を設け、立法、司法、行政の三権を確立し、尋ねて立憲政体樹立の詔勅を発せられる。

(4月25日 勝海舟、参議・海軍卿から元老院議官に 異動になるも2日後、辞表を提出。
11月28日、元老院議官を辞す。
後、明治21年、枢密顧問官。
明治32年1月19日、死去。
晩年は、子供たちの不幸、孫の非行など孤独な 生活だったと云われる。
東京都大田区南千束、洗足池公園に夫妻の墓があり、隣に勝が自費で建てた西郷隆盛 留魂碑が建つ。)

●4月30日 利通、地租改正事務局総裁となる。
同日、またアメリカ大博覧会事務局総裁を命じられる。

5月7日 ロシアとの千島樺太交換条約【186】、成る。
11月10日、これを公布する。
【186】署名した場所からサンクトペテルブルク条約とも。
結果、樺太での日本の権益を放棄の代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡、及び、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた。

●5月17日 利通、岩倉具視より支那談判の慰労として銀杯および酒肴を贈られる。

●5月24日 利通、内務省施政の目的を定むべきの議を建白する。

6月2日 木戸孝允参議、地方官会議議長を兼任する。

6月3日 利通、琉球処分のため内務大丞・松田道之【187】、出任・伊地知貞馨【188】を琉球に派遣する。
【187】松田道之(まつだ みちゆき)
幕末、尊王攘夷運動に傾倒、維新後、内務官僚。
明治5年、大津県令、翌年、初代・大津県令に就任。
後、明治12年、琉球処分断行に尽力。
同年、第7代・東京府知事。明治15年 死去。

【188】伊地知貞馨(いじち さだか)
薩摩藩出身。誠忠組に参加。
盟友・利通と並ぶ久光側近として活躍。
文久元年12月、国元からの指示で江戸藩邸を自焼。
翌年、幕府により薩摩藩の自作自演であることが発覚。
以後、薩摩藩の政治活動の第一線から退く。
後、薩摩のイギリス・オランダとの貿易交渉に従事していた。

●6月13日 利通、新宿勧業寮出張所に赴き、養蚕の改良、実験を観る。

6月20日 政府、初めて地方官会議を開く。
聖上(天皇)、親臨勅語を賜う。

7月5日 政府、元老院開院式を行い、聖上、臨御、あらせらる。

●同日、利通、北海道御巡幸のことを奏請する。

●7月29日 利通、海運業奨励の方策について建議書を三條実美に提出する。
廟議、これを容れ帝国の開運政策、初めて定まる。

●8月14日 利通、上野に博物館を設置せんことを建議する。
11月に至り図書館(浅草文庫)と共に開館する。【189】
【189】現・東京国立博物館。
この前年、書籍館を浅草に移転し、浅草文庫と改称していた。
博覧会事務局が内務省の所管となり博物館と改称した。
翌年、上野公園が博物館所管となる。

9月7日 政府、華氏族の米給を金禄に改正する。

●9月25日 利通、下総に出張し、矢作、取香、高野などの各地を視察し国立牧場を選定する。
28日、帰京する。

●9月 利通、国産奨励のため諸官衛の需要品は、内地品を使用すべき旨を地方官に訓令する。

●10月8日 利通、王子製紙工場を視察する。

●10月10日 利通、我国輸出品を以て外貨償却の上申する。

●同月、利通、海外貿易直輸出の基業を開くの議を議を建言する。
勧業寮に勧業基金の制を設け、農・工・商、実業の奨励、保護に充つ。

●10月30日 天皇、清国との講和調印一周年に相当するを以て、特に勅使を遣わされ、利通に銀盃一組および酒肴を賜う。

●11月6日 利通の勧めに従い、両石原家に嫁したる二妹・きち子、みね子の二妹、鹿児島より出京する。

●11月18日 利通、有栖川宮に随行し、習志野に出張し、20日、帰京する。

●11月28日 利通、霞が関・自邸、改築につき永田町・宮内省附属邸を拝借、移住する。

(11月29日 新島襄、同志社英学校を設立)

●12月2日 内田政風【190】、海江田信義【191】、来訪、島津久光の建白採用のことを論ずる。
【190】内田政風(うちだ まさかぜ)
薩摩藩士。通称は仲之助。
幕末、島津久光の側近として、禁門の変や戊辰戦争で軍需品の供給にあたる。
維新後、明治4年、初代・石川県令。
4年後、官僚を辞し、島津家に再度、仕えた。
【191】海江田信義(かいえだ のぶよし)
薩摩藩士。通称は武次(たけじ)。
当初、お由羅騒動に巻き込まれ藩を追われるも新藩主・斉彬により、復帰。
後、誠忠組の結成に参加、後、江戸藩邸に勤め、水戸藩邸に出入りし、藤田 東湖らに尊王論を学ぶ。
後、桜田門外の変に参加。
後、戊辰戦争で東海道先鋒総督参謀。
維新後、利通の尽力で、明治3年に官職に復帰し、奈良県知事に。後、再度、左院・四等議官となるも、この年、左院の廃止で御用滞在となっていた。

12月9日 江華島雲揚艦、砲撃事件【192】を以て、参議・黒田清隆を特命弁理大臣となし、議官・井上馨を副大臣となし、朝鮮へ差し遣せらる(翌日6日出発)
【192】朝鮮・釜山の日本公館に妨害や非難が起り、これを機に、ソウルに近い江華島で測量中に(挑発とも)草芝鎮の砲台が発砲し交戦となった事件。

●12月 利通、賞典禄を返献して、殖産興業の資(本)とせんことを請う。


明治9年 1876 47歳  
1月14日 両陛下、延遼館へ行幸。
アメリカ大博覧会出品物を天覧あらせらる。

●1月15日 利通、霞が関・新邸落成し、移転する。

1月21日 黒田清隆弁理大臣ら、朝鮮当局者と談判し、27日、条項条約を交換する。

●2月12日 利通、長女・芳子、生まれる。
後、男爵・伊集院彦吉【186】に嫁ぐ。
【186】伊集院彦吉(いじゅういん ひこきち)
薩摩藩士・伊集院吉次の長男。
明治23年、東京帝国大学卒業後、外務省に入省。
後、外交官の道を歩む。
後、大正12年、第2次山本権兵衛内閣で外相。

●2月12日 利通、警視庁に至り、親しく事務 警官訓練、監獄などを視る。
同月、内国勧業博覧会を上野に開設する議を建議する。
同月、廟議、利通の議により上州新町・屑糸紡績所を設置するに決する。

3月4日 黒田清隆弁理大臣ら、朝鮮より帰朝。
      翌日、復命する。

●3月13日 利通、新設の上野公園地を検分する。

3月28日 木戸孝允参議を罷免し、内閣顧問に任ぜらる。

4月18日 利通、大いに府県の廃合を行う。

●4月19日 聖上(天皇)、利通の霞が関・新邸に臨幸あり。
家族一同に親しく拝謁を賜い、且つ左(下)の優渥なる(手厚い)勅語を賜う。
  汝、利通、維新の始(め)より国事に
  鞅掌(精励)し、今や幸に平安に属す。
  之、汝等、輔翼(ほよく・補佐)の
  功に因る所なり。朕、茲(ここ)に親臨し
  偕に(ともに)歓を尽くすを欣う(喜ぶ)。

4月 車駕(しゃが・天子が行幸の際に乗る車)、東北巡幸の旨を布告せしめらる。

●5月9日 両陛下、新設の上野公園【187】に行幸あり。
利通、外国使臣らを公園に招待する。
【187】 上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)
上野公園は、通称。台東区の町名でもある。
現・公園内には博物館、動物園等、多数の文化施設がある。

5月16日 内務省に勧商局を置く。
 (後、6月12日勧商局は、民間の佐賀商人・笠野熊吉を用達に任命。
直輸出を担当する機関・広業商会を設立させた。
半官半民の会社で明治18年にほぼ目的を達成し解散した。)

●5月20日 政府、利通の議を容れ、特別を以て内務省の予算定額を増加する。

●5月22日 利通、内務卿5等官以上を自邸に招待する。

●5月23日 天皇、東北地方御巡幸につき、利通、先発する。
到る所、学校を視察し、篤志者に接見。
殖産興業を奨励し、且つ、公益事業功労者、および孔子節婦の(顕彰の)取調べを行う。

●5月25日 日光に抵り、満願寺の行在所を検分する。
 (日光町は、産業なく、神社仏閣が生活の支えであった。
 後、政府の廃仏毀釈より、移転地もなく問題が深刻。
これを町民は、大久保利通に嘆願。
岩倉具視右大臣、木戸孝允らにも推進していた。
この日、日光代表は、草加に行き直訴。
明治天皇は、有数の名所の荒廃を残念に思い、お言葉と御手許金を賜され、日光の景観が保守された)

●5月28日 白川城址を訪れ、戊辰役戦死者の墓前に石燈籠を建立する。

同月、内藤新宿に農業修学場【188】を設け、各府県より生徒を募集する。後、駒場野に移す。
駒場農学校、これにして東京帝大農学部の前身なり。
【188】一方、明治5年に開設された(北海道)開拓使学校は、明治8年札幌に移転し、札幌学校と改称し、これは、この年、札幌農学校に開祖された(北海道大学農学部の前身)。
初代・教頭はW.S. クラーク(→内村鑑三・新渡戸稲造らの思想家を生む)だった。

6月2日 車駕(しゃが)、東京を発す。

●6月9日 置賜県【189】成田村に抵り、特に佐々木宇右衛門【190】の養蚕場および製糸場を視る。
【189】置賜県(おぎたまけん)  置賜は、山形県南部・米沢盆地とその周辺部。

同年、8月21日、2次府県統合で山形県に合併した。
【190】佐々木宇右衛門(ささき うえもん)家。
成田村・下長井を代表する豪商。
唯一、民家で藩主・上杉家の本陣とされていた。
また、県下で一番早く機械製糸工場(民営・末広社)を創設していた。

●6月23日 利通、車駕(しゃが)を宮城県下、岩沼に迎え、翌日、行在所に伺い候し、御還幸は海路に後治定あらんことを奏請する。

同月、イタリア主催蚕糸業国際会議に政府委員を派遣する。

●7月11日 七戸に抵り、廣澤安任【191】の牧牛場を視る。

【191】廣澤安任(ひろさわ やすとう)
会津藩士。通称が富次郎。
鳥羽伏見の戦い後、松平容保らの立場を新政府に嘆願するも投獄される。明治2年釈放。
戊辰戦争後の会津藩は、廃藩置県により斗南県となるも困窮にあえぎ、自県の救済策として、弘前県(現・青森県)を建言し受容された。
また、貧困に苦しむ旧会津藩士のため現・三沢市に洋式牧場・開牧社を開設していた。
後、利通に政界への勧誘あるも固辞、畜産・酪農に生涯を捧げた。

●7月12日 利通、再び、車駕(しゃが)を七戸に迎う。

●7月14日 利通、青森より函館に抵り、19日、車駕に先ち、海路、帰京する。

●7月20日 利通、横浜に赴き、聖上の御着艦を奉迎する。

●7月29日 利通、士族授産に関する意見書を提出する。

同月、官立・上州富岡製糸工場に各府県当業者および工女を選抜し、講習を行う。
修業期間三か年とする。

●8月2日より利通、腫物【192】のため引き篭る。
聖上、侍医を遣わされ物を賜う。
【192】八月一日火曜日 ・・・過日以来、腫物いたし、今日より痛、強く、起臥、不自由。 (大久保日記・十巻より)

8月10日 政府、内務省に授産局を置く。

●同月、聖上、後巡幸中の労を慰し、ガラス蝋台、一対を、また、別に椅子・12脚と琉球上布2巻を賜う。

●同月、アメリカ人・ドクトル、ジョン、ベリー【193】氏の(要)請を許し、各地、監獄を視察せしめ,その報告を徴し、大いに改良の実を挙げしむ。
【193】ジョン・カッティング・ベリー
宣教師、医師。
アメリカンボードにより日本へ派遣される。
明治5年10月、来日。翌月に兵庫国際病院(現・神戸海星病院)の医事監督、後、兵庫県病院(現・神戸大学医学部附属病院の支配頭。
翌年(明治10年)神戸監獄でコレラが大流行。
後、ベリーは、利通の理解を得、大阪・京都・兵庫・播磨の監獄視察の報告書を作成。
これは、その後の行刑のあり方に影響を与えたとされる。

9月6日 天皇、元老院議長・有栖川宮に勅して、憲法を起草せしめらる。
元老院議員4名、委員に命ぜらる。
 (明治)13年12月、草案なる。

●9月、利通、千住に製絨所(せいじゅうしょ)【194】創設の議を上申する。
 (明治)12年9月、工、成り、開業する。
【194】日本最初の近代的毛織物工場。
明治)2年に被服製造技術習得のためドイツに派遣の井上省三の帰朝により開業した。
(井上省三は、井上半右衛門の養子となり奇兵隊隊長となる。
倒幕に参加。 維新後、木戸孝允に随行し上京し、ドイツ留学)

●同月、利通らの奨励により、深川に民営新燧社、(しんすいしゃ・桜印の商標のマッチ製造社)創立される。

10月24日 熊本敬神党【195】200余人、鎮台司令長官および県令を襲い、これを殺(害)する。
翌日、鎮台兵、暴徒を撃退し乱、直ちに平定する。
【195】神風連の乱(しんぷうれんのらん)とも。
廃刀令に反対し、加屋 霽堅(かや はるかた)、斎藤求三郎ら、約170名によって結成され、起こされた。
この乱に呼応し、秋月の乱、萩の乱、西南戦争へと繋がる。

10月27日 秋月藩士・宮崎車之助ら、また、熊本の賊に応じ、兵を挙げる。鎮台兵のため(により)撃破せらる。【196】
【196】秋月の乱。
旧秋月藩・宮崎車之助ら約400名によって起こされた。
秋月郷土資料館(戸波半九郎屋敷跡)に関係者の遺墨が展示されている。


10月28日 前原一誠ら、また、長州・萩に兵を挙げる。
 翌月4日、乱、全く平らく。【197】

【197】萩の乱。
元参議・前原一誠ら約200名によって起こされた。
また吉田松陰の叔父・松下村塾塾頭・玉木 文之進は、養子・玉木正誼や、前原ら塾生らの関与の責任で自害した。

10月19日 茨城県・農民、地租改正を悦ばずして、騒擾する。
尋て三重県下の農民、石代貢租につき 蜂起せしも皆、鎮定する。

●12月26日 利通、地租軽減の議を建白する。【198】
【198】政府は地租改正反対一揆とこの時期の士族反乱との結びつきを恐れ、地租を地価の3%から2.5%に引き下げた。

●12月27日 利通、行政整理、および時幣、矯正のことを建白する。

●同年、内務権少丞・小花作助を小笠原島に派遣し、 全島を統轄せしむ。
翌年、利通、開拓碑を島内に建てる。

大久保日記は、この年、9月24日以降、12月31日まで、「所労中不記」となっている。
大久保利通文書・第七によると、9月27日には、病気見舞いを兼ね、木戸孝允へ書翰(木戸侯爵家蔵)を始めとして、これ以降、岩倉具視、伊藤博文、松田道之、前田密らと盛んに手紙の往来をしている。

また、勝田孫彌の大久保利通の伝記によると・・・
利通は、数月の間、病のために進退の自由を失い、参朝して、諸般の施設に当たること能(あた)わざりしが、
この間に熊本神風連の乱の暴挙、萩における前原一誠の騒乱、その他、茨城、佐賀、三重など諸県の暴動、蜂起したり、利通は病気にありて、臨機の指揮をなし、幸いに大事に至らずして鎮定せしといえども・・・とある。


次回、大久保利通 年譜 8
明治10年 1877 48歳から 明治11年 1878 49歳
(以降、没後 事暦)  に、続きます。
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この記事へのコメント

2025年05月04日 00:24
明治7年は1874年、明治8年は1875年です。