吉田松陰の母 を読む7
吉田松陰の母 を読む7
◆ 母性愛に寅次郎は泣く
◇ 母性愛に溢れる瀧子の手紙
つれない運命に弄(もてあそ)ばれて、思う事、為す事、すべてが志と違い、再び野山獄に引かれる吾が子・寅次郎の不憫さ・可憐さにを胸に抱いて、独りで夜毎に熱い涙に袖を
潤おした母の瀧子は、12月5日、寅次郎、又々投獄と聞いてからは、如何にあの気丈夫な瀧子も幾夜となく悲しい思いに悩んだことであろう。
せめて冷たい獄中生活に障りのないようにと、それ以来と云うものは、日毎夜毎に容易万端、準備を整えて、『獄中蒲団2枚、重ねセン、小蒲とん、夜着で、酒気が解けぬ内に(*夜が)明けた。』と、入獄の翌日、先生自らが云って報告しておられるように、蒲団や夜着の用意を整え、それに暫(しば)しの別れとあって、どうぞ健康で、あれかし と、酒盃までも家人と さし交わさせて送り出した愛児・寅次郎が、いま絶食死を待つ、とあっては、誰よりも一段と深い悲しみと驚きを覚えたのは、母の瀧子であったろう。
瀧子は、この悲報、この驚報を耳にすると、熱い涙を払い、直ちに一書を認(したた)めて、(*以下、意訳。ひらがな は解る範囲で漢字に置き替えています。)
一寸、申し参らせ下さい。
そもじ[*其方(そなた)]様、如何、御暮らしなされているでしょうか。
先ほどに不慮の事、うすうす耳に入り、あまり気使いさに 申し進め参らせます。
昨日より御食事、御断ち とか申し事の由、驚き入りました。
万一、それで 御果てなされては、不幸、大一、口惜しい大志に存じ参ります。
母、事も病多く、弱っております。
長生きも、難しく、たとえ野山屋敷に御出でになられても、御無事にさえ、これあれば、
勢(せい・*勢い)になり、力になると申します。
短慮を御止め、御長らえの程、祈り参らせます。
此の品、わざわざ整え、差し送りますので、母に対し、御食べ(*ることを)頼み参らせます。
幾重にも、幾重にも御心、御引きかえ、返す返すも祈り参らせます。
目出度 かしこ
大 様 はゝ より (*以上、意訳)
と、切々たる悲しき涙に人文を綴っている。
―――――
父母 叔父の手簡(一) *上記、意訳の原文。
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第3巻の口絵の写真および説明文より]
(*上段が父よりの手簡・下段が母よりの手簡)

安政6年正月、松陰は野山獄に在り、時事日に非なるを見て、憤激絶望の餘、遂に自ら食を絶ち、死生を天に聴こうとするに至った。
この報を得て松陰の両親も叔父 玉木文之進も驚き悲しみ、夫々諫止の書簡を送った。
父のは言葉短くして意味深く、厳なる中に限りなき慈しみの溢れるゝものがあり、母のは その日 わざわざ調えた食べ物に添えて持たせた手紙である。
温かき母の愛の惻々として胸に泌(*にじ)むものあるを感ぜしめられる。
父から松陰に宛てた手紙も少ないが、母からのものは これが唯一のものであるらしい。
ともあれ、この父母と叔父とは、松陰の多難なる生涯を、これ等の手紙からも想像出来るように、無限の慈愛を以て見守り、気遣い、慰めたのである。

*本篇・吉田松陰の母の口絵。
*説明文は逆転(父と母)が正しい。

―――――
『うすうす耳にした』と、昨秋以来の事のかずかずに瀧子は陽に陰に心を砕いて、わが子も身上を案じ暮していたようである。
それが遂に絶食徒死となっては、瀧子の心は裂けんばかりであったろう。
『不幸、大一、口おしきだいし』と云って、血を吐く思いに泣いている。
大次郎よ、親に先立って死ぬと云う不幸の大事を考えてくれないのか。
幼少の頃より、あらゆる艱難辛苦をなめつつ、お前をこうして育てて来たのも、お国のために御奉公させたい母の心の山々からであった。
それに今一念、短慮から絶食死を待つとあっては、これこそ、ほんとの犬死である。
かねてから子供を尊攘義戦の第一線に送り出してからは、死は覚悟の前であって、別にかなしみも悔やみもしないが、どうぞ お国のために死んでくれ、万世不朽の人間となるために死んでくれ、それに絶食とは何事であろうか。
母のこの悲哀心痛を考えてくれるなれば、如何に時世が非、如何に素志が通じないにしても、一時の憤激で徒(いたずら)に死を急ぐとは、どうしたことであろうか。
お前は最早、気がくるったか。
日頃の お前には似合わぬ仕打ちではあるまいか。
この母には、これが口惜しくてたまらない、と慈愛と真情とを込めて諫め、且つ、慰めている。
それに、この母も近頃は、とかく病が多くて大分、弱って来ている。
これでは、もう長生きもむつかしいことであろう。
せめて私の存命中に、お国のために働けるだけ働いて御奉公してもらいたい。
たとえ獄中生活なりとは云え、無事であって頂ければ、その中には運命も開けて志の通じる時もあろう、母はお前の無事と云うことが何よりの心の慰めである。
母に免じて、私の愛と誠をこめて作った食品を送るから、是非、食べておくれ、早く、早くと、母性愛の溢れる真心のあらん限りを尽くしてわが子・寅次郎を諫(いさ)めている。
思えば楠木正行のもろ手より懐剣を奪って諫めた母よりも、もっと愛がこもっている。
そして、庭先の柿で作った吊るし柿を送っている。
柿の糖味は勢力恢復の最妙薬と昔から語り伝えていたからであろう。
世の母として、わが子に対する愛情には何ら変わりのあるべきものではない。
子を思う親の心は誰人も同じである。
しかし、その愛児が不幸であれば不幸なる程、不運なれば不運なるほど、母親としての焦心、苦慮は増すものであろう。
それに父も母も兄も妹なども、皆々、この不運、不幸の殉国熱血児・寅次郎に対しては、
何れも心から その夙志(しゅくし・* 幼少・若年のころからの志)大志を成就させようと朝な夕なに神かけ念願して力をつけていたのであった。
したがって松陰先生の幕禁失敗に当たって、父も母も、叔父も、たとえ謹慎責罪に問われても、些々(ささ)たる不満もなければ、不平もなかった。
小言一つ云わないで、喜んで松陰先生の再挙殉国への勇猛心を願うと云った、それは一家一族、挙(こぞ)っての殉難ぶりであった。
それだけ松陰先生のような人傑が、絶食死と云うような敢えなき死に様に対しては、口惜しき残念の極みであったろうと共に、先生のような忠誠偉大な殉国士の出来たことも、決して偶然ではない。
それにしても純真な母性愛の誘導が、どれほど力強かったことであろうか。
松陰先生は、母のこの手紙を受け取って、冷たい獄中に端座(たんざ)のまま、一字一読、一句再読、感謝の涙に咽(むす)ばれつつ、感謝の熱情で胸一杯になり、涙のとどめようもなかったのである。
幾度か押し戴いては読み、押し戴いては感泣されて、遂に母のせいになり、力になり申さねばならない、母に対して食べねばなりない、と感念されて、その日の夕刻から、あの母の真心の籠った吊るし柿一つと、水一椀とを飲まれて思い止まられたのである。
思えば母性の心力程崇高なものはない。
母性愛ほど強いものはない。
この母の強い心と愛とが、あの吉田松陰と云う幕末維新の尊攘殉国士を育て上げたのである。
◇ 諄々(じゅんじゅん)と説く父・百合之助の手紙
(*以下、意訳)
愚父の事も病気は全く平癒(へいゆ)し、一昨日、国相府へ快気届に出かけました。
御手元 唐船方その他、御用所内へ廻礼を相、済ませ、昨日は内居、休息して、今日は早朝から廻礼に出て、薄暮比(うすぐれごろ)帰ったところ、御同囚の安富氏から報じられた趣き、夕飯後に熟へ申し参った由で、小田村、佐世、岡部(*などの)諸人、ことのほか愁嘆(しゅうたん)し、種々、心配しているところへ私が帰って来た。
(*そこで)梅太郎を其元(*そこもと[同等、目下の者に使う。]・*そなた)へ遣わし、食事など御勧め致し、現場を見届けて、孰(いず)れも安心致したく、早速、梅太郎を呼びに僕(朴・*下男)を登らせたけれども、行き先が相、分からず申し、ただ、有余出来ず、
(*増野)徳民を差し越したので、何卒、父母、叔父などの異見(いけん・*異なった見解)を用いるようにと、母からの送りの品を御食すことを祈り申します。
幾重にも、この度の御思い立ちは甚(はなは)だ宜しからず短慮の至りで、委細は(*玉木)文之進その他より存じより申すので、(*其元は)号泣してこれに従い、なお、己を捨てて
同志の人に御従うことを祈る所であります。
25日
百合之助
寅次郎様 (*以上、意訳)
と、父の百合之助は病気も癒(なお)って病中見舞いの返礼や、寅次郎投獄、延期の御礼やらで、役所方を廻礼して帰ってみると、思いがけなくも絶食待死のこの始末、百合之助の驚きは一方ではなかったろう。
早速、兄・梅太郎を野山獄窓に差し向けて、諫言を与えようとしたが梅太郎は不在、さりとて猶予は出来ないとあって、先生の愛弟子の増野 徳民に父と母と玉木叔父との書状を持参させて、親達の意見を用いよ、と諫(いさ)めつつ、『此の度の御思立ち宜しからず、短慮の至りなり』と、温和な中にもげんぜんとして、その不心得を諭し意見を加えている。
そして、こうした興奮時には、父として正面から余り強く云うのもどうか、と考えたものと見えて、叔父の玉木に思う存分に意見を加えさせて、それにしたがえよ、と云っている。
また、号泣して自分を捨て同志の人々に従えよと、言葉少ないその中にも、真情・真愛のこもった言葉を以て、絶食死の即時中止を勧告している。
さらに『母より送った品、御食し祈り申します』と云って、日頃より一しお、お前を可愛がっている母の心中にもなってみるがよい、と先生の至高な純情に訴えている。
あの熱血有情、至高の松陰先生としては、さだめし寒風が身にしむ野山の鉄窓より、韓人峰下の松本の空を望みつつ、熱い涙に泣き伏せられたことであろう。
ああ、孝ならんか、忠ならんか、生きて甲斐なく、死のうとして死ぬこと出来ず、事、悉(ことごと)く志とは違い、また尊攘の大義滅することなきかと、それこそ衷心から号泣、慟哭された事であろう。
―――――
父母 叔父の手簡(一) *上記、意訳の原文。
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第3巻の口絵の写真および説明文より]
(*上段が父よりの手簡)

―――――
◇ 玉木叔父の厳然たる勧告
(*以下、意訳)
松陰、汝、一両日、絶食致されたとの由、さてさて、驚き入る事に存じます。
かよう見識の違う事は あるまいと兼ねてより存じているところ、さてさて、驚き入りました。
今般の儀、もし餓死に及べば短慮と誠に世上の笑種、口惜しいと申すに余りある事であるます。
且つ、勤王の一義において何の益があるだろうか。
平生、短急の性質、その上、道理の見違いもあるかなと、見受けられる事も、段々これあるけれども、とかく、義を以て恩を破る事もあるかな、と考え、厳しき存じ寄りも申さずと聞き、素より私見を逞しくする一段、近頃、別して相、募るように見えるけれども、先ず強いてこの儀も、これはないと、恩愛の情に引かれ、苒荏(じんぜん・*なすことのないまま歳月が過ぎるさま)、年月が経つ内、このような大間違いに至っては、大恩の父母へ御嘆きを懸(か)け奉り、恐れ奉ります。
大罪人に陥るようにと申せば、例の私見を逞し、大義には親を滅する。
父母の嘆き位は、何かと申すかなと存じますが、汝、獄中の餓死は大義において何の益があるや。
とかく、安富(*惣輔)とか(*から)与えられた書の通り、汝の食飲の学を講じ、生を養い心を練り、出獄を待って、その後、大いに国恩を報じると、他人へ申し聞き事には真の道理かと見えるところを見つけ、自身の事に至れば、暗闇に成る段、真に怪しむべき事にある。
安富(*惣輔)へ吾は一般ではないと申し贈ったが、一般にこそ、これがあるはずで、
一般の訳でないのは、一円、分からないと申すもので、とにもかくにも、それらの道理は、後日、追々往復して論弁致すようにするので、今晩からは食を復して、父母から受ける身体、養生が肝要の事に存じます。
せっかく、この内から焼酎、薬などと、獄中の無病にこれが必要かと、御心配も、これあり、中に絶食、餓死共と申す事は、何とも合点が参らず、後日の論々、大いに急ぐ事、
病を勉め筆を執り、前後錯乱、幸いに御推覧、愚(*私目)が心を察し、梅兄へ御口答を待ち入ります。以上。
25日 文之進
寅二郎様
(*以上、意訳)
―――――
父母 叔父の手簡(二) *上記、意訳の原文。
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第10巻の口絵の写真および説明文より]

叔父 玉木 文之進は、松陰を5、6歳頃から手しおにかけて育てた師匠である。
条理を尽くした訓誨(*くんかい・教え諭すこと)に犯すべからざる威厳が あらわれ、
然も事急なれば道理の説明を後に譲ってと云うところにも、又 病を勉めて筆を執り 前後錯乱と云うところにも、なみなみならぬ至誠の松陰の心を動かすものがある。
―――――
ああ、この手紙ほど情理を兼ね尽くせるものはあるまい。
肉身の真の慈愛より迸(ほとばし)り出た諫言(かんげん)であり勧告状である。
松陰先生を幼少の頃から自ら親しく手塩にかけて育て上げた叔父であり、全心魂を打ち込んで尊攘の大義に殉じさせようとした唯一の師匠である。
ことに政府要路(*重職)者でさえ、玉(ぎょく)先生と呼んで畏服していたと云う玉木 文之進だけあって、威丈(いだ)け高(だか)となって、厳然秋霜のように、『松陰汝』と呼びかけて絶食餓死とは何事じゃ。
松陰、気が狂うたか。
世間の笑い種が口惜しくて、この叔父は、もはや生きている心地がしない。
松陰、よく考えてみるがよい。
今日まで、そちの所業に対しては、随分、云い聞かせたい事も数々あったが、大義殉国の義心に免じて余り多く云わなかったが、絶食餓死が勤王の大義に何の益があるか。
これ位のことは、俺(わし)が日頃に教育指導によって少しは解っているはすである。
それに、ややもすれば理屈を並べて大義には親を滅す、などと云っている。
獄中の餓死が、そもそも大義において何の益があり関係があるか。
父母に嘆きをかけ、大不孝の人となって、それでなお人倫が許されると思うのか。
他人には生を養い心を練って大いに国恩を報じるように、などと道学を講じるお前が、自分の事になっては、さらに道理も弁じず恩義も解せず、迷いに迷って絶食餓死とは、そも何事であろうか。
さあ、議論があれば思う存分するがよい。
この叔父がすべてを引き受けて、何とでも論弁してみせる。
この叔父が永年、真情を尽くして全魂力を打ち込んだ今日までの教育は、そんなものではなかった、松陰、どうじゃ、よく解ったか、心の迷いが解けたか、両親にこれ以上の心配、悲嘆をかけず、兄妹などの心にもなってやれ、憂悩している門人達にも安心させるように、直に思い止まって、母の心尽くしの食事をとるがよい、病を押して、この叔父は大急ぎで筆を走られせた、お前の口より直接、梅太郎兄に否応の返事をしてくれよ、これが叔父の願いであり、その返事のみを待っている、と、言々句々、涙に導かれつつ、滴(したた)る生血に筆を染めて、ぐっと強く深く松陰先生の心魂に徹する底の意見を加えたのであった。
思えば、この手紙は叔父・玉先生の高遇な識見によって認(したた)められたものである。
しかし、こうした思いは叔父のみではなかったろう。
父の思いも母の思いも兄妹の思いも門生達の思いも、皆々、同じことであったろう。
父と母と叔父から、こうした愛と厳の響き合わせる勧告状を受け取られた松陰先生は、泣いて感激されつつ、すまなかった、と『水 一椀、釣柿 一つ食べもうし、先ず、ご安心願い奉る。』と、野山北房の寒風に身をさらしつつ、前非を悔いて泣きあやまっておられるのである。
ここに松陰先生の あの純真な尊い反省を見出さずにはいられない。
実際、先生ほど純情で無垢で崇厳な高潔な人格者ななかったのである。
そこで松陰先生は、遂に絶食死の初心を翻(ひるがえ)し、父母・叔父の この慈愛溢れるありがたい誠心を押し頂きつつ、骨を削られる思いをして、食事を取られるに至ったのであって、その時、左(*下)の一詩を賦しておられる。
ああ、思えば母の瀧子の愛と真心とが遂に、あの勇猛な松陰先生を征服したのであって、
仰ぐべき尊ぶべき偉大なる母性の神力が顕われていると云うべきであろう。
断食慮驚父母心。 断食、父母の心を驚かせるを慮(おもんばか)り
只於酒肉自為箴。 只 酒肉においては、自ら箴(いましめ)と為す
平生交友情皆絶。 平生の交友、情 皆 絶(た)つ
憂国思兼夜漏深。 憂国の思いは 夜漏(やろ)(夜の更けること)と兼(とも)に深し
◆ 明けやすき最後の一夜
◇ 五月雨の獄中、悲涙愁傷
野山再投獄後の松陰先生は、冷たい鉄窓、5ヶ月の間、百憂万苦の事案が次から次へと去来輻輳(ふくそう・*いろいろなものが同じ箇所に集中して混雑する状況)して、いわゆる松陰先生の『心蹟百変(しんせき ひゃくへん)』となって、数多の辛酸難苦に思い乱れられたのであった。
『僕 投獄以来、外は日々、怪事を聞き、内は日々、古人激烈悲壮の文を読み、内外、相 抗(こう)し、遂に絶食死を求めるに至る。』と云われ、その藩主 参観の伏見要駕策に対しては、早くも門生間に反対論が起こり、『平生の所謂(いわゆる)同志、今は乃(すなわ)ち国賊なり』とまで言って、憤怒されている。
遂には『吾 一日もこの世にいる事を欲せず、一死を賜るよう御周旋下さりたく存じる』と門生に依頼しておられるように鬱々憤懣(ふんまん)の心境であった。
終始、こうした苦窮難迫(くきゅう なんぱく)と戦いつつ、夢も静かに結び得られない獄中生活も、遂に五月雨(さみだれ)暗い5月14日の江戸檻送(かんそう)事件となったのである。
5月14日の朝、兄の梅太郎は、野山獄舎に寂しく弟・寅次郎を訪ねて、『寅次郎、お前は近く江戸に行かねばなるまい。』と、言葉すくなに報じて、後は悲痛の狂乱がひしひしと胸に迫り来った様子であった。
それに対して松陰先生は、『そうか・・・・』とただ、黙然としておられた。
しかし間もなく、先生の面上には悲痛にも不動の決意が濃く現れてきたのであった。
それ以来と云うものは、親兄妹は勿論、親戚、故旧を始め門生の一同に対し、細々とそれぞれ書信を発して、最後の別れを書翰や詩文に認(したた)められ、また自己の身辺の後始末や、この後の指針などを書きしめしておられる。
今、その一、二を摘録(てきろく)すれば、父の百合之助に対しては、『この度の東行は国難に代る存念であるので、兼ねての狂悖(きょうはい・非常識で不道徳な言動をすること)には、随分、出かしたると存じ奉る、云々』と云われ、妹などに対しては、『各々、その家を斎(ととの)え、夫を敬い、子を教え、親族の胆(きも)をやかさないようにするのが第一なり』と説かれ、土屋 蕭海(つちや しょうかい)や小田村 伊之助には借覧書籍の後始末を依頼させられ、さらに入江 杉蔵には『我慢徹底しないで死ぬほどであるなら、猛士、大恥辱である。』と江戸行きの決意を語っておられる。
松陰先生の最後は実に血涙中の奮闘であり、奮闘中の血涙とも云うべきであった。
ことに父百合之助には、左(*下)の一詩を贈っておられる。
平素縐庭違訓誨。 平素(日頃)庭に縐(はし)り(子が親の教えを受けること)
斯行獨識慰厳君。 斯の行・獨り厳君を慰めるを識る
耳存文政十年詔。 耳に存す・文政十年の詔(みころのり)
口熟秋洲一首文。 口に熟(じゅく)す・秋洲一首の文
小少尊攘志早決。 小少より尊攘の志 早く決す
蒼皇輿馬情安粉。 蒼皇(きゅうこう)(慌ただしいこと)輿馬(よば・護送と云うのと同じ、)、情 安んぞ粉(ふん)せん
温■剰得留兄弟。 温■(おんせい)(孝養をなすこと)剰(あま)し得て・兄弟に留め
直向東天掃怪雲。 直に東天に向って 怪雲を掃(はら)わん。
■の漢字

と、真にその親を知る子である、と云うべきであろう。
松陰先生は親を慰める真(しん)の孝養を知っておられたのである。
また妹などに対しては
心あれや 人の はゝたる いましらよ
かゝらむことは ものゝふのつね
と、一首の歌を書き残しておられる。
実に千歳不朽の女子鑑(じょしかん)とも云うべきであろう。
(*1行、略)
妹なども、はかない兄の今の境遇に熱い涙を濺(そそ)ぎつつも、この一首の歌に厳然と心を取り直して、兄の将来に、この上、憂きことがないようにと、祈ったに違いあるまい。
この10日間、獄中である、とは云え、松陰先生にとっては、なかなか忙しい毎日であった。
まるで夢の間のように過ぎ去った24日の夜、いよいよ最後の別れの日が来たのであった。
◇ 松陰先生 獄を出て実家に帰られる
獄司で門人の福川 犀之介(さいのすけ)は、これが最後の永訣(えいけつ)であるかも知れない、子弟の情義として、せめて両親を始め一族の人々や門生達にも最後の面かいをさせて、名残りの一夜を明かさせたいと思う一念から、藩府の諒解も得ないで、久坂 玄瑞と計って先生を松本の実家に帰したのであった。
実家に帰られた先生の心中は、既に再び萩の故地(こち)を踏むことは出来まいと覚悟されつつも、流石(さすが)に母親には、その意中を打ち明けられることが出来なかったのであった。
杉家では内證(ないしょう)に訪ねて来る親戚や門生などを集め、松陰先生を中心として心ばかりの決別の小宴が催されたのである。
旧懐談もあったであろうが、さだめし悲痛の場面でもあったろう。
その席上の手料理は、さだめし母の瀧子の心尽くしであったことでもあろう。
その最中に一枚の紙が展べられて、早速、寄せ書きがはじまったのであった。
(口絵参照)
再掲

玉木 正弘は忠(○)と書き、倉橋 直之介が臣(○)と書き、馬島 甫仙が報(○)と書けば、藤野 荒次郎が國(○)と書き加えた。
更に、妻木 壽之進が罪(○)と書き、国司 仙吉が死(○)と書き、岡田 耕作が不(○)と書き、敏三郎が悔(○)と書いた。
こうして『忠臣報國罪死不悔』(*忠臣報国、死罪を悔やまず)と出来上がったのであった。
(*玉木 )正弘は松陰先生の従弟(いとこ)であり、敏三郎は弟であり、倉橋(*直之介)は親戚であり、馬島や国司や妻木は門人であった。
岡田 耕作は、正月元旦、10歳で入門して大いにほめられた神童である。
そして、妹婿の小田村 伊之助は『金剛山 野山の中に在り(*漢文)』と書き、松陰先生は「武士(もののふ)の別れの莚(えん)雪の梅』と一句を書き残したおられる。
側で見ていた瀧子の心情はどうであったろうか。
如何にも部門の家の志士の別れに、ふさわしい小宴(しょうえん)であった。
かつて門人の渡辺 蒿蔵翁が、当時の場景を懐舊(かいきょう)されつつ話された一節があった。
先生のお母さんが、みんな居並んでいた部屋の仏壇に燈明を灯して、もう一度、ぜひ、無事に帰させて頂きます、と礼拝されたことを、よく記憶している。
その時は、皆、シーンとして、一言も発する者がなかった。
涙に打ちしめる決別の夜の有様が見えるようである。
これより先、母の瀧子は、松陰先生が久々振りに野山獄から帰宅されたので非常に喜び、早速、風呂をたきつけて入浴の用意を進めたが、先生の帰宅を伝え聞いて門人や親戚どもの来訪が多く、そのため落着いて話し合う暇もなかった。
瀧子は風呂場に行って先生の背中をながしつつ、『此度の江戸行は、何となく気遣わしい、寅次郎よ、今一度、江戸から無事で帰って機嫌のよい顔をみせておくれ』と、しみじみ語ったのであった。
松陰先生も覚えず親に先立つ死出の不孝さよ、と断腸の思いを秘められつつ、『母上様よ、それは いと易いことでございます、必ず無事に帰って お目にかかりますから御心配、御無用でござります。』と、欣然(きんぜん)答えられたものの、心の中には血涙がほとばしっていたことであろう。
子を思う母の情愛、しみじみと見に浸み込んで、いっそう感慨深きものがあったことであろう。
しかし、先生にもまして永の獄中生活で、やつれ衰えられた先生の背中を流した母の瀧子の心情はどんなであったろうか。
しかも、今は愛児が江戸・死獄への門出である。
いかに気魄(きはく)に富んだ女丈夫でも、断腸の血涙で胸が一ぱいになったことであろう。
久し振りでの松陰先生の帰宅である。
訪ね来る多くの親戚や門人たちの応対に相当忙しかったようである。
こうした24日の夜は、だんだんと更けて行った。
結ぶにひまなき東光寺の明けの鐘は、先生の胸底に寂しく響いたことであろう。
それにもまして、母の瀧子の心中は、どうであったろうか。
夜もすがら眠りもやらで、愛児の越し方、行く末を思い煩いて、乱れがちな心に一夜を明かしたことであろう。
◆ この母にして この児 あり
◇ 松陰先生 江戸への護送
5月25日の朝。
梅雨はしとしと 降りしきっている。
萩野街はずれの金谷天神の前で、見送って来た門生達と前後の別(わかれ)を告げられて、松陰先生の檻輿は、東に去って行く。
萩から山口に通じる街道、大谷千坊師の廻り角に涙松と云う老木がある。
萩から旅立つ人は、ここで萩城を見おさめとして惜別の涙を流し、旅から帰る者は、萩城を望みみて喜びの涙を催す、これより、誰云うとなく涙松と云えり、と昔から云い伝えている。
松陰先生は、この老松の下において
かえらじと 思い定めし 旅ならば
ひとしほ ぬるゝ 涙松かな と、その純真な熱情と江戸死獄への決心とを示して、この涙松に帰らない涙を濺(そそ)がれつつも、なお一念、憂国の丹誠は、いやが上にも燃え上がって
かくまくも 君の国だに 安かれば
身と捨つることこそ 濺(しう)がほい(本意)なれ
五月雨(さみだれ)の くもりに身をば 埋むとも
君の御光(みひかり) 月と晴れてよ
と、心に堅く誓いつつ、国の前途に思いを砕いておられる。
あの熱血感激性の松陰先生は、沿道諸所の風物に関し、その所、その人、その史実に対し、
いつも無限の感慨と痛憤の熱情を燃やして、詩に歌に志を述べられている。
その京都通過に当たっては、
帯涙弧囚有孰悲。 涙を帯びる・弧囚(こしゅう)(松陰先生)孰(た)れあってか悲まん
檻輿今日過京師。 檻輿(かんよ)・今日・京都を過ぎる
上林暑到■陰縮。 上林(御所のこと)暑は至って・■陰(せいいん)は縮まり
大道霖餘蔓草滋。 大道霖餘(りんよ)・蔓草(まんそう)は滋る。(この句はこうしつの式微を云う。*霖(りん)は長く降り続く雨)
生死於吾非大事。 生死 吾に於ては大事にあらず
乾坤無慚是男児。 乾坤(けんこん)慚(は)づなきは、これ男児(*乾坤は、天下の意で、慚[ざん]は恥ずかしいの意。)
他年若遇源公問。 他年・若(*も)し源公(大原三位公、先生、知遇を承けられる)の問いに遇(あ)えば
為報寅終不負知。 為(ため)に報ぜよ・寅(松陰先生)終に知(遇)に負(そむ)かず
と、血涙一詩を賦して、皇室に御衰微(ごすいび)を憂憤せられ、神奈川を過ぎては、
金港泊夷艦。 金港(神奈川港)夷艦(いかん・*外国の軍艦)を泊す
三檣七隻高。 三檣(しょう)七隻(三本マストの七隻)高し
輿窓思友人。 輿窓・故友(金子 重輔)を思う
虜氛炎暑腥。 虜氛(りょふん)(外夷のこと)炎暑(えんしょ)腥(なまぐさ)し
と、
かつて生死を契って米艦をこの地に追いかけられた金子 重輔(かねこ じゅうすけ)を思い出されつつも、また外夷横暴を悲憤されて、こうした檻輿(かんよ)の日々を過ごして
6月24日、江戸長州藩・桜田邸に着かれ、護送の人々に
かえるさに はつかりかねの 聲きかば
我が 音信(おとづれ)と おもひ いでゝよ
こうして7月8日に、町奉行・石谷因幡守(いわやいなばのかみ)より、明日、松陰先生を評定所に出頭させよ、との命が桜田藩邸に下ったので、9日の朝、六ツ半(今の朝7時頃)評定所に出頭、一応、調べを受けられた後、云わば、いまの未決囚(みけつしゅう)として伝馬町の牢獄に収容されることになったのである。
これからが松陰先生、最後の江戸獄生活であって、至誠一念を以て幕吏に応接され、急迫する内外の国勢を詳(つまびらか)にして、赤心奉公の大義と君臣殉国の名分とを説破して、尊攘の魁(さきがけ)になろう、とされた最後の至誠憂国の活躍場面であった。
それにまた、門生達に対する最後の遺訓をも考えられたことであろう。
あるいは、同志連中に対する将来の謀策など細々、思いを回(めぐ)らされたことであろう。
獄中とは云え、心の緩みもなければ閑時(かんじ)もなく、なかなか忙しい様子であった。
ちょうど8月4日、この日は松陰先生の思いで多い誕生日であった。
あの至高な先生には、今の不運な境遇に引き比べて、越し方、行き末と いろいろの思いが浮かんだことであろう。
許国之身敢顧親。 国に許すの身・敢えて親を顧みんや
安然坐獄亦吾真。 安然として獄に坐す・吾が真
忽逢父母痀労日。 忽ち 父母苦労の日に逢う
復被西風愁殺人。 復(また)西風に愁殺(しゅうさつ・*非常に嘆き悲しむ)される
と、一詩を賑(ふ)しておられる。
思えば、君国に殉じようと一旦、心に許した身であれば、どうして親などに心のひかれることがあろうか、したがって獄中独座、静かに君国の前途を憂う、それが自分の真情である。
しかし、今日は8月4日であって、わが誕生日である。
自分の生まれた時には、さだめて母上は生死の苦痛をなされ、父上は出産は如何にと
心配されたことであろう。
この父母の苦労の日に逢い感慨深いものがあるのに、しかも獄窓に吹き入る西風は憂思に
耽(ふけ)る吾を無常にも愁殺させる所であるとされたものであって、獄中、父母を思慕される切なる情懐が読者の胸底を強く打ちぬくものがある。
自分が生まれた時に、あれ程、母上に生死の苦しみを与えた松陰が、いま江戸獄中にあって、至誠を以て幕吏を感格させることも出来ず、御奉公どころか、こうした身の上であるかと思えば、実に相すなないことであると、獄窓にもたれて涙にくれておられる先生の姿には、何人(なにびと)も思わず涙を催さないものはあるまい。
◇ 親思う心に まさる親ごころ
こうした幾日かを経て、松陰先生も、いよいよ刻々と命の旦夕(たんせき・*朝夕)に迫り来るのが感じられ、10月20日付で、左(*右)の永訣の書を認(したた)めて郷里の家人(かじん)に送っておられたのである。
(*以下、意訳)
平生の学問、浅薄(せんばく)にして至誠天地を感格する事出来ると申さず、非常の変に立ち到る。
さぞ、さぞ、御愁傷(ごしゅうしょう)と拝察 遊ばされ仕(つかまつ)ります。
親思う こころにまさる親心
けふ(*今日)の音づれ 何ときくらん
しかしながら、去る年(*去年)11月6日、差し上げました書を得て、ご覧遊ばされれば、
左(*下)まで御愁傷も、及ばないと存じ奉ります。
なお又、当5月に出立の節、心事を一々申し上げ置く事につき、今更、何も思い残す事はございません。
この度、漢文で相、認(*したた)め、諸友に語る書も御覧阿遊ばれますように。
幕府の正義は丸(まる)に御取用これなく、夷狄(いてき・*外国人)は縦横自在に御府内(ふない・*江戸市中)を跋扈(ばっこ・*踏みにじる)しているけれども、神国(*日本のこと)は未だ地に堕ちるとは申さず、上に聖天子(せいてんし)あり、下に忠魂義魄(ちゅうこん ぎはく・*忠義のために死んだ人の魂)が充ち々 致しているので、天下の事も余り御力を御落しなさらないように存じ願い奉ります。
随分、御気分を御大切に遊ばされ、御長寿を御保たれてますように両北堂様(りょう ほくどうさま)(実母と養母)、随分、御気体を御厭(いと)い専一と存じ奉ります。
私は誅(*ちゅう)され(*成敗され)て、首までも葬(ほうむ)り呉れる人もあれば、未だ天下の人々には棄てられ申さずと御一咲(ひとさき)願い奉ります。
児玉、小田村、久坂の三妹へ5月に申し置いたこと、忘れぬ様申し聞かせるようお頼み奉ります。
くれぐれも人を哀れむよりは、自ら勤めることが肝要であります。
私の首は江戸に葬り、家祭(かさい)には、私の平生用の硯(すずり)と11月6日に呈上した書とを神主(しんしゅ)となさるように願い奉ります。
硯(すずり)は、巳酉の7月か赤間関を廻浦(かいほ・*曲がり巡る)の節に、買い得たものであります。
10年余、(*私の)著述を助けた功臣であります。
松陰二十一回猛士 とのみ御記し願い奉ります。
と、松陰先生は実に至誠の人であり、至忠至孝の人であった。
至誠の一念は、日月を貫く勢いを示して、すべてのものを至誠の二文字で焼き尽くそうとする感がある。
殉国の一念は、上に聖天子あり、下に忠魂義魄(ちゅうこん ぎはく)充々としていると、最後の痛憤の雄叫びを響かせておられる。
至孝の純情は、天下の事も余り御力落しなきように、と却って天下の衆目に血涙を催させておられる。
すなわち、横暴非道な幕吏は、譎詐悪辣(けっさ あくらつ・*偽りとあくどいこと)の限りを尽くして、遂に先生を評定所に呼び出し、遮二無二(しゃにむに)に死罪を宣告したのであった。
噫(ああ)。
思えば、『平生の学問、浅薄(せんばく)にして至誠天地を感格する事出来ると申さず、・・・御愁傷(ごしゅうしょう)と拝察 遊ばされ仕(つかまつ)ります。』と云う一句こと、まさに天地もさだめし感格して熱涙を落すの心地がする。
『親思う こころにまさる親心 けふ(*今日)の音づれ 何ときくらん』と松陰先生は自分の詩を忘れて親に死の思いを与えるかの思いをして、ドッと泣き崩れておられる。
あゝ純情至高の松陰先生。
子の死を父母に告げる程、苦しい思いはなかったことであろう。
それに可愛いわが子を決死護国の躍動に三十年来、指導、薫育して来た父母の心情は、松陰先生みずからも、よくしっておられる。
それだけ、一しお心の苦しみがふかかったことであろう。
しかし憂国の父母と殉国の松陰先生である。
覚悟は平生より十分に定まっていた。
『神国(*日本のこと)は未だ地に堕ちるとは申さず・・・御気分を御大切に遊ばされ、御長寿を御保たれてますように』と互いに天下の事にはさらに力を落されない。
しかし、この悲痛無残な訪れに力を落さない親があろうか。
随分御大切に遊ばされたし、と云われるわが子松陰先生の刑死を聞かれては、長寿も何かと思われたことであろう。
こうした親子の情愛は、萩と江戸、三百里の雲山にもつれ合ったことであろう。
さらに、この手紙の追而書(おってがき)を見れば、又々新しい涙が催して来る。
両北堂様と云って、実母の瀧子や養母の久満(くま)や、また三人の妹などにまでも呼びかけて、先生は肉身のそれぞれに、一々籠蟹挨拶を述べておられる。
そして、『人を哀れむよりは、自ら勤めることが肝要であります。』と戒めておられる。
自分の死をも顧みず、その身を捨てて妹などに婦道(ふどう)と孝道(こうどう)とを説いておられる。
この哀れにも崇高な松陰先生の大精神には誰人も泣かされずにはおられまい。
まさに、これぞ敬うべき、慕うべき、仰ぐべき真個の殉忠、殉孝、殉国、殉道の真人と
云うべきであろう。
しかし思えば、これにもまして、この親思うも一首である。
先生は自分の死に直面する心の苦しみ、情愛の結ばれ、生前死後のさまざまな思いの乱れを打ち忘れて、愛児を失う親の心の悲哀が如何ばかりなるや、と、親思う心にまさる親心と詠んでおられるのである。
その哀哀切々たる心情は、最早、筆にも言葉にも尽くし難いところであって、著者も、只々、涙にくれて筆も進め得ないのである。
ああ、この血潮のしたたる親心が母の瀧子の心であった。
蘇峰(*徳富 蘇峰)老先生の題字『斯母而(*この母にして)有斯子(この子あり)、
斯子而有斯母(*この子にして、この母あり)』の一句、文字は少ないが、千万無限の深意が響いている。
徳富 蘇峰先生 題字
(本篇の口絵より)

別に新しい言葉でもない。
しかし泣かずには読まれない文句である。
千古の金言(きんげん)が、この肉の中に厳然と光を放っている。
味わえば味わう程、甘露の味が備わっている。
これほど味わうべき、尊ぶべき、ありがたい言葉はない。
吉田松陰の母・瀧子の全生涯、真生命も、まさに、この題字の一句に意が尽くされている。
◆ 夢路に通う慈母の心
◇ ああ、悲しいかな 松陰先生の最後
松陰先生は江戸在獄、約4ヶ月の間、前後3回、評定所の訊問(じんもん)を受けられ、遂に間部要撃事件で死刑の宣告を受けられたのであった。
10月27日朝。
評定所で宣告を受けられた松陰先生は、直に引き立てられ、続いて朗々と声高に、
吾今為国死。 吾(われ)いま国のために死す
死不負君親。 死して君親に負(そむ)かず
悠々天地事。 悠々、天地の事
鑑照在明神。 鑑照(かんしょう)、明神に在り
と、辞世の一詩を吟誦(ぎんしょう)された。
松陰先生は、いまや初一念である殉国奉公の秋が来た、思われたことであろう。
至誠公明な心事を満天下の人心に訴えるべき秋が来たと考えられた事であろう。
純潔丹心の大精神を悠々たる天地明神に捧げる秋が来たと観念されたわけである。
時には父母の心苦を煩わし、あるいは兄妹の憂慮を深め、あるいは主君への煩累を重ね、
または門生などへの痛嘆をも与えたが、これは畢竟(*ひっきょう・究極)、尊攘の大義を樹てようとの至誠殉国の一念からであった。
30年の生涯を顧みて少しもやましいところはない。
いまとなっても敢えて『死して君親に負(そむ)かず』やであり、尊皇護国の大精神が、もしも一時の物議を生じたとしても、死後必ずや『鑑照(かんしょう)、明神に在り』やである。
これで自分の本望が達せられた。
これで日頃の祝願成就が果たせたわけである。
皆人(みなびと)、この松陰の最期をよく見届けて、一刻も早く尊皇護国の大義に殉じてくれよ、と、天を仰いで朗に高誦(こうしょう)されたのであった。
この憂国の雄叫びに幕吏、護卒も暫(しば)し、我を忘れて聞き入っていた。
ふと気が付いて場所柄も弁(わきま)えない行動である、と大いに狼狽して、先生を駕籠に押し入れ、『ああ、惜しき者なれど、是非もなし』と、嘆息する同志の声を後ろに、大勢の護卒は、飛ぶように評定所の門を出て、伝馬町の獄へと急いだのであった。
このして、10時過ぎに獄舎に帰られ、廊下で裃紋付(かみしも もんつき)の上に荒縄をかけられ、いよいよ獄内の刑場に引き立て行かれたのである。
この時、松陰先生は、同囚の志士などへの最後の告別として、あの留魂録の始めに書き残された『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし 大和魂』の歌と、この辞世の詩とを吟誦し終わって、各室の人々に黙礼して立ち去られたのであった。
こうして伝馬町獄内の所定の刑場につかれたのであるが、その間、悠然として服装を正し、さて『鼻をかもうと静かに用意して』と、端座(たんざ*行儀正しく座り)瞑目の中に、斬罪役・浅右衛門が振り上げた3尺に余る大太刀に、ハッと秋水一閃(いっせん)、この純忠至誠の大偉人・松陰先生は身首(しんしゅ)所を異にして、この現世(うつしよ)を去られたのであった。 (拙著「吉田松陰の最後」参照)
◇ 愛児を思う瀧子の心情
丁度この頃、郷里・萩 松本の実家にあっては、兄の梅太郎が、ふとしたことから熱病に罹り、続いて三女の艶子もまた病の床に伏していた。
両親は、夜の目も ろくろく休まず、日夜、打ち続く二人の愛児の看護に就かれて、うとうとと、うたた寝をしていたのであったが、ふと夢から醒めた父の百合之助は、『今、私は首を斬られた夢を見たが、誠によい心地であった。』
すると、また、その側にうっとりとしていた母の瀧子も『私もまた、寅次郎が只今、江戸から帰った夢を見ましたが、非常によい血色でありました。』と、云いつつ互いに顔を見合わせ、どうも不思議なことおあるものである。
江戸の寅次郎の身上に何か異変でもなければよいがな、と共に気遣い、心配されたのであった。
そして、その後、数日を経て、松陰先生の刑死の報が来たので、日数を考え合すと丁度その日であったのであった。
ああ、思えば先生が『親思う 心にまさる親心 けふ(*今日)の音づれ 何ときくらん』と詠まれた、その親思いの心が伝馬町刑場から山河三百里を隔てた家郷の両親に通ったものであろう。

永訣書(萩市松陰神社蔵)
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第6巻の口絵の写真および説明文より]

安政6年10月20日、死刑の宣告近きを知って、実父 杉 百合之助、叔父 玉木 文之進、家兄 杉 梅太郎(原文、宛名の第三行、家「大人」は 家「大兄」の誤記であろう)に宛てた永訣書である。
『親思ふ 子ゝろに まさる親こゝろ』云々の絶唱も亦この中にある。
一読 まことに哀切至痛であるが、また永遠の人の心構、泰然自若たるものあるを感ぜしめられる。
なほ萩市松陰神社のかんぬしは、この書の末尾にかかれてある通りになって居る。

しかし、これも愛児思いの母の瀧子の心が、また先生の心を親の枕辺に引き寄せたものでもあろう。
子を思う親の心は一つであっても、母はちちよりも涙にもろい。
父は胸中に万斛(ばんこく・*一石の万倍。はかりきれないほどに多い分量)の涙を隠しても厳として愛児に対す、母は血涙を袖に包んで愛児の心情に泣き伏す、この悲報を得ては母の瀧子もさだめし泣き崩れたことであろう。
11月20日には、江戸から飛脚が萩に着いた。
杉家の一族と共に村塾の門生なども松陰先生の殉難最後の様子を知り、また遺言および留魂録をも届けられた。
当時、来島 又兵衛が桂 小太郎に宛て『松下塾の一統は申すに及ばず、有志の面々、愁傷筆、紙に尽くすことが出来ず、御推察下されるよう。』と云っているのが、先生を知る萩中のすべての人の心情であったろう。
父の百合之助は、その遺書を父祖の霊前に供え、怡然(たいぜん・*心が穏やかで満ち足りる)快心の一言を捧げて、『ああ、わが児、一死国に報ず、真に その平生に背(そむ)かず。』と、微笑して礼拝したのであった。
母の瀧子も、さだめし夫と列座拝伏(れつざ はいふく)したことであろう。
武門の習いとは云え、この親にして、この子あり、と云うべきであろう。
◆ 一家 一門の悲運
◇ 松陰先生 刑死後の杉家の人々
松陰先生 刑死後の杉家は、陰雲に覆われて物毎に涙の種となることが多かったようである。
それに愛児・寅次郎に多難な君国に御奉公させようとした親の念願も、今は はかなき夢となって一層、心寂しく力の落ちたことであろう。
こうした場合に母の悲しみは、父よりも一段と深いものである。
木枯らし寒い安政6年(*1859年)年の冬も暮れて、万延元年の春となった。
樹々亭畔の梅花が漸(ようや)く、ほころぼうとする2月7日が松陰先生の百日祭であった。
久坂 玄瑞と中心とする門生達は杉家に集まって心ばかりの小祭(しょうさい)を催し、この日、先生の前髪を団子巌の墓地に葬ったのであった。
母・瀧子の思い出でも、一塩深かったことであろう。
愛児を忍ぶ涙もまた新たなことであったろう。
しかし、愛児が教え子の門生達が集まって恩師慕のこうした営みは、また寂しい瀧子の心をいたく慰めたことでもあったろう。
こうした思い出深い悲しみの日々をおくっている中に、百合之助は、松陰先生の監督不行き届きの故を以て逼塞(ひっそく・*門を閉ざし、昼間の出入りを許さないもの。閉門より軽く、50日間と30日間の2種類があった。)に処せられ、5月4日には退隠(たいいん)を命じられ、兄の梅太郎が相続することになった。
武士の妻、武士の習い、かねて覚悟のこととは云え、瀧子は人知れず心を痛めたことであろう。
夫を慰める言葉もなく、妻として、どれほど道場したことであろうか。
続いて11月には親戚の玉木 文之進、久保 清太郎、児玉 太兵衛なども親戚として監督不行き届きのかどを以て、これまた遠慮(えんりょ・*軽い謹慎刑で、自宅での籠居(ろうきょ)を命じたもの)を申し付けられたのであった。
わが子の不首尾とは云え、そもそも寅次郎の夙志(しゅくし・*幼少・若年のころからの志)は、尊攘大義への犠牲であり、至誠殉国への蹉跌(さてつ・*挫折)であった。
それに、これまで親戚の者共にまでも罪累をおよぼしたのかと思えば、百合之助も瀧子もさだめて断腸の苦しみをしたことであったろう。
こうした鬱々陰暗な空気に包まれて文久元年(*1861年)も過ぎ、2年の11月に至って漸(ようや)く松陰先生の大忠誠も辞世の変伝と共に功名をかざして、その罪を免じられることになり、父の百合之助の懲罰、退隠を解き、兄の梅太郎は、再び士官することになった。
足掛け3年に亘(わた)る杉家の哀愁・悲痛の陰雲も漸く晴れて、身も軽く心も豊かにとしを越して一陽来復(いちよう らいふく・*冬が終わって春(新年)が来ること)と云う
文久3年(*1863年)の春を迎え、村塾畔の梅花も今年こそは馥郁(ふくいく・*よい香りがただよっているさま)として、清香(せいこう)を放ち来ったのであった。
しかし、こうした晴朗な生活も はかなき夢の間であった。
人生は禍福の交錯、なえる縄のようであって、好事魔多しと云った杉家の運命であった。
自世は、幾度が急転、変遷して国難はますます急迫して来た。
愛児・寅次郎の教え子などは、恩師の大志を継承して尊攘の旗高く、復古・討幕の雄叫びに鼓を鳴らして、京洛の山河を震動させていた。
遂に元治元年(*1864年)の夏、7月には、かつて松下村塾の参謀であり、いまは洛外、天王山駐屯・長州軍の指揮者である女婿・久坂 玄瑞は、禁門の戦に鷹司邸内において、不運にも25歳を一期として戦傷・自刃し、夏草の露と消え去ったのである。
20歳を出たばかりの妻の文子が、やもめ暮らしをする頼りない、あわれにも、愛しい姿を見るにつけては、母の瀧子の心は一しお曇ったことであろう。
時に『村塾第一流』と云われた女婿・(*久坂)玄瑞を思い出し、いまの愛娘・文子と思い合わせて人知れず熱い涙に袖をしぼったことでもあろう。
しかし、あの気丈夫な瀧子は、これも部門の習いであると慰め、いたわりつつ文子の心を継殻強く引き立ててやったことであろう。
それに、この禁門の戦争においては、村塾時代に御風呂や御飯や洗濯などの世話までして、わが子のように育てて来た門人の入江九一や寺島 忠三郎など多くの門生達が、愛児・松陰の大志に心身を捧げつつ、女婿・久坂の指揮で死を共にしたかと思えば、瀧子の心は吾が愛児、吾が女婿の死と同じ悲しみに深く沈んだことであろう。
これが武士の妻のしゅくめいがと、天をも仰いだことでもあろう。
禁門の変に敗れた長州藩の運命は、危急存亡の岐路に立って生死の命は、旦夕(たんせき・*朝と晩)に迫って来た。
外には馬関における外艦砲撃事件があり、内には征長の怒涛が四境に押し寄せて来た。
そして藩内には、急進的正義派と囚循的俗論派とが抗争し、しかも、遂に俗論党の天下藩治となって来たのである。
このために正義派である多くの憂国志士達も牢獄に投じられ、あるいは、いたわしき刑死の惨害をも蒙るに至ったのである。
◇ 瀧子の尊き精神と不動の面影
こうして醒風(せいふう)吹き荒(すさ)んだ元治元年の年の暮れには、壽子の嫁いだ小田村 伊之助の兄・松島 剛蔵(贈正四位)は、不運にもこの俗論党のために野山獄で無惨にも斬罪(ざんざい)に処せられ、続いて小田村も又、彼らの毒牙にかかって野山獄に繋がれると云う実に悲痛惨憺(さんたん)たることばかりであった。
瀧子の心は、どんなものであったろうか。
狂わんばかりの思いの乱れたことであったろう。
しかし、雄々しくも武士の妻である瀧子の誇りは世の人の嘲(あざけ)りも疑惑も心に留めることもなく、この悲痛哀愁の中にも力強く勇み立って、彼を野山獄に見舞い、慰問しているのである。
小田村はあまりの感激に
すてられて ものゝ数にも あらぬ身を うとまぬ人は 君ならで誰ぞ
と、瀧子の真心の いつくしみを拝謝しつつ、帰り行く義母の瀧子の後ろ姿を合掌したのであった。
それにまた慶応元年(*1865年)正月には、玉木の男、彦助が俗論党と闘って25歳の若い盛りを あたら花と散って行ったのであった。
一難去って一難来たり、一哀去って一愁来たり、一悲さって また 一悲加わる。
この年月の幾辛苦に対し、乱れがちな心を取りなおしつつ雄々しくも立ち働ける、その艱難に練れた母性・瀧子の尊き精神と その不動の面影とが眼前に浮かんで来る。
夫・百合之助は、その後、一時、元の盗賊改方に復活はしていたが、小田村の漸(ようや)く許されて出獄した頃からは次第に、その健康が弱って来た。
あの謹厳な百合之助の気質として、官を軽くしてはならないと云うので退官し、待つものと里で静かに老後を養いつつ、読書三昧に残世を楽しんでいたのであった。
しかし夏頃かれは、その好きな読書も医師に止められて、病はだんだんと重くなって行った。
いよいよ臨終ちかくなった時に、何か遺言でもないか、と妻の瀧子が問うと、
『朝日が窓に映るのが見えるのは、今日はさだめし天気がよいからであろう。
玉木を呼んでもらいたい。
人の忘れてはならないことは、君と父との御恩である。
藩主から賜った上下(かみしも)を玉木に着せて、藩主の御墓と父上の墓とに参詣させてもらいたい。
そうすれば父上も地下において、定めて悦ばれることであろう。』と云い、
また特に瀧子に向かって、
『寅次郎は斬罪(ざんざい)となったけれども、その精神は朝廷において必ず御覧になることであろう。
私は決して悲しみもしなければ寅次郎を哀れとも思わない。
我が家の子孫は、充分、先祖の気風を継いでお国のために勉強しなくてはならない。』と云い残して、衣服を改め端座のまま、従容として瞑目(めいもく)したのである。
時に慶応元年(*1865年)8月29日、62歳であった。
瀧子は夫の病辱(びょうじょく)に就いて以来と云うものは、身も心も打ち忘れて、梅太郎夫妻と共に看護にあらん限りの心を尽くしたのあるが、衰弱は加わるのみであった。
木綿の搔巻(かいまき・*半纏の一種で長着を大判にしたような形状で、首から肩を覆うことによって保温性に富む)ではさすがに寮へ行く身には重苦しいことであろうと思って、紬(つむぎ)の搔巻を拵(こしら)えて勧めてみても、『身に余る、もったいない、外(木綿を指す)のを着せよ。』と云って、百合之助は着なかった程に、身を持する倹素なことは万事、この通りであった。
それだけ瀧子の心は焦りもすれば、また、いじらしくも思ったことであろう。
これと共に瀧子の一生の質実さも思いやられる。
ああ、百合之助は瀧子をのこして不帰(ふき)の客となった。
貞淑な瀧子は、老いの身も労(*いたわ)しく59歳で、寂しくも、頼み少なき寡婦生活に入ったのである。
思えば瀧子ほど家庭的に恵まれない境遇はなかった。
まして胸中に万斛(ばんこく・*一石の万倍。はかりきれないほどに多い分量)の涙を宿すと云っても、秋毫(しゅうごう・*きわめて微細なこと)さえも憂愁の色を外に現わすことはなかった。
如何に心中の乱れはあっても、どんな辛苦難事に遭遇しても、悠揚(ゆうよう・*落ち着いているさま)として迫らず、心のゆとりを示して、動じる色は見せなかった。
愛児に先立たれ、夫と死別し、女婿を失い、親戚縁者の不孝を目前に眺めながらも、些々たる周章(しゅうしょう・*あわてふためく)狼狽の様子もなく、起居動作、あたかも平生に異なることなく、泰然自若、不動の心を示していた。
(以下、1行、略します。)
◆ 雄々しき節婦 烈女の亀鑑
◇ 前原 一誠の覧と瀧子の態度
慶応元年(*1865年)と云えば、藩政府は俗論党の掌中にあって、正義党一派の追討を企てていた最中である。
そして長子(*長男)の梅太郎は杉 孫七郎、笠原 半九郎などと共に鎮静会(ちんせいかい)なるものを組織して大いに正義派擁護のために力を致していた時であった。
続いて梅太郎は、藩・世子公の侍講(じこう)ともなて、だんだんと出世の道を辿(たど)るのみであった。
愛児・寅次郎を失い、夫・百合之助に別れた瀧子にも長子のこうした御奉公に、心潜(ひそか)に喜んでいたことであろう。
寡婦となった瀧子は、長子・梅太郎の国事奔走と立身出世を頼りに、痛々しい心を慰めつつ、ひたすら夫や愛児・松陰や、また国に斃(たお)れた その弟子達の冥福を祈るために深く佛門に帰依したのであった。
山河の眺め静かな松本の里にあって、朝な夕なに浄土三昧の佛光を仰ぐ外は、とかく国事のために外にありがちであった梅太郎の子供達を愛撫しつつ、一門故舊(こきゅう)とも睦まじく交わって留守居の余生を心静かに楽しんでいたのであった。
ところが計らずも、明治9年10月、萩で前原一誠の殉国軍の騒動が起こったのであった。
前原は前名(ぜんめい)を佐世 八十郎と云って、夙(つと)に松下村塾に入って松陰先生の尊攘殉国精神を力強く打ち込まれた愛弟子の一人であった。
松陰先生も かつて『八十は勇(ゆう)あり、智あり、誠実は人に過ぐ、その人物は完全であり、父母に事(つか)えては至孝である』とまで激賞されている程の人物である。
また玉木 文之進の人格的教養をもうけて、松門三俊傑とも云われていた程であった。
夙(つと)に師・松陰先生の勤王護国の大精神を継承して国事に尽瘁(じんすい・*力を尽くし、倒れるほどに苦労する)し、維新の際には各地に転戦し、ことに北越官軍の参謀となって偉大な武勲を樹て、明治新政府の樹立と共に兵部大輔の重職に任じられたのであるが、軍備拡張論や征韓論などで廟義と意見が一致せず、西郷隆盛などと共に職を辞して『十年閑却(かんきゃく・*打ち捨てて置く)す 故山(こざん・*故郷)の花』と感慨を述べて、巴城(*はぎ)故山の花を再び見んもの、と辞任、帰国と途に就いたのが明治3年の春であった。
爾来(じらい・*それ以後)、所謂、その故山の花である巴城(*はぎ)の地にあって、時世の幾変遷に憂国の血涙を濺(そそ)ぎつつ、日夜、悶々の情黙し難く、遂に師・松陰先生の至誠殉国の大義心を奉じよう覚悟し、殉国軍なるものを組織して萩で挙兵し、君側の姦を芟除(せんじょ・*刈り除くこと)しようと奮起したのが、すなわち、この萩の内覧であった。
これは遂に失敗に終わって、前原など一味は島根県下・宇龍港でとらえられ、同年12月3日、斬刑(ざんけい)に処せられたのである。
この萩の乱に際し、玉木 文之進は、かつての教え児であった前原の動静に、稍(やや)、
解し難い点があると云うので、機会ある毎に大義を解き、名分を諭して暗に、その軽挙を戒めていたのであるが、遂に前原の挙兵が失敗に終わったので、『これ、吾が平生教育の誤るが故である、いかにしてか地下の父老に相 見ゆることが出来ようか』と云って、先祖の墓前で自刃したのであった。
ああ、教え児の罪を吾が教育の誤りである、として、自己の死を以て、これを償う、実にこれ程、崇高な師たるものの儀表(ぎひょう・* 手本)は、あるまい。
これほど尊き教育誠心は、あるまい。
瀧子としては、夫 亡き後のただ一つの力の頼みたる独りの義弟・文之進をも、またまた失ったのであった。
瀧子は、どんなに失望、落胆したことであろうか。
それに、また先に松陰先生の後継(あとつぎ)となって吉田家に行き、第二の松陰になろうと、一家中の者共が、希望の力を入れていた孫の小太郎(梅太郎の子)は、前原の行動は祖父・松陰先生の大志を継承しての護国大義に殉じるものである、として前原党に参加し、あの純情無垢な19歳の青春を あたら花と散らして討死(うちじに)したのであった。
瀧子の心情は、どうであったろうか。
思い返せば過ぐる日、銃声が聞こえた朝、一寸、杉家に立ち寄って、それとなく最後の別辞を残して出て行った孫・小太郎の後姿が目の前にちらついて熱い涙に胸は裂けんばかりであったろう。
あの可愛い孫が、血にまみれて斃(たお)れたか、と思った時には、瀧子もさだめし泣き崩れたことであろう。
それのみならず玉木家の相続人であり、梅太郎の長女、瀧子のためには孫の豊子の婿である玉木 正誼(せいぎ)(の儀将軍の弟)も参謀格で前原党に参加し、萩の海岸・越ヶ浜で追っ手の兵と戦い、遂に斃れるに至ったのであった。
日頃から、その憂国の至誠は兄(乃木将軍)にもまさる雄々しさであって、杉家一門の誉(ほまれ)である、と、皆々、末を頼みにしていた養子・正誼であった。
瀧子の心は重ね重ね乱れ曇ったことであろう。
◇ 乱に処して 一糸乱さぬ沈着心
思えば、静かなりし孫を相手の信仰生活も実に、つかの間であった。
有為転変(ういてんぺん)は、世の常なりとは云え、すべてが夢のようであった。
いまは、また数年前のように杉家一門 受難の時が来て、一大災難が降りかかって来たのである。
前原の内乱に一家一族のこうした不幸悲運の上に、近寄れば何時不慮の災禍罪累が及ぶかも知れないとあって、日頃、昵懇(じっこん・*親しく交わる)な近所の者さえも後難を恐れて寄り付かないと云う状態であった。
ことに玉木 文之進は、前原党の示唆者であるとの官の嫌疑で厳しい家宅捜査までも受けなければならず、それに玉木の死骸の後始末も講じなければならないと云う、実に乱れに乱れた荊棘(いばら)の中にあって、瀧子一人の決断措置に待たねばならない立場であった。
常であれば、唯一の相談相手である玉木がいる。
しかし玉木は自刃した。
ただ頼りの一人である長子・梅太郎は軍奉行として遠く隔てた玖珂(くが)の山代に勤めていて、到底、急場の間には合わない。
近所の人々には相談どころか、慰めの言葉一つも交えてくれる者もない。
嵐の中の走馬灯のように暗黒界に再び沈んだ あの憂悶の家庭、この粉々と乱れに乱れた家事、この心寂しい日々の中にあって、気丈夫な瀧子は、平然と一糸乱さず沈着不動の心を示して、これらの乱れ襲い来ることの数々の後始末を、少しも誤ることなく処理して行って、余の人の後ろ指一つ、指されることなく立派に家政を切り抜け整(ととの)えて行ったのである。
思い返せば、瀧子も愛児・寅次郎の刑死の時は、未だ夫・百合之助が元気であった。
百合之助と死別した時には、梅太郎もいれば玉木もいて、瀧子も老いたり、とは云え、まだ59歳であった。
しかし明治9年には、既に瀧子は71歳の高齢に達していた。
そして、一族の長老である玉木 文之進、愛孫の小太郎、それに末を頼みにしていた養子・正誼など、一時に3人の肉身をうしなっては、如何に気丈夫な瀧子と云っても、老いの骨身に この世の悲哀が、しみじみと徹したことであろう。
(*以下、11行、略します。)
◆ 静謐なる瀧子の晩年
◇ 宏大無辺の聖恩が愛児の枯骨に及ぶ
乱運去来し、醒風惨雨(さんう・*むごい雨)の吹き荒(すさ)んだ幕末維新と云う大修羅場の嵐も漸く晴れて、討幕復古となって明治新政府が、いよいよ創始されるに至ったのである。
しかし、明治10年頃迄は、未だ戦雲の飛翔もあって神風連党や佐賀、萩などの内覧ともなったが、西南の役を最後として明治維新の曙光は、いよいよ麗しい採霞に包まれて、中空に輝くようになって来た。
そして時世が治まれば治(はじ)まるにつれて、時代が静まれば静まるにつれて、世人(せじん)も過ぎし幕末維新の風雲を思い返すようになって来た。
従って当時、君国に殉じて一死奉公の赤誠を致した幾多の尊い勤王烈士の英霊を追慕して、その 人となり や その勲積を礼讃(らいさん)するようになり、また彼らの崇高な血潮を分けた肉身の遺族や忘れ形見などに対する敬愛思慕の 情けやみ難いもの があるようになって来たのは、まさに日本人としての本然の心であり、伝統的な至情でもあったろう。
したがって松陰先生のような(*人は)、まさに その雄なるものの一人であった、と共に『吉田松陰の母 瀧子』も夙(つと)に世に顕われて、その主なるものの一人であった。
それであるから、前にも述べたように、遠くから書状を寄せて、写真を請う者さえもあったような次第であり、明治16年には三条公の手を経て、畏(かしこ)くも天覧に供せられるところとなり、また皇后陛下の御慈(いつくし)み深い、あの品川 弥二郎(品川 弥二郎書翰参照・*本篇・◇昭憲皇太后(*明治天皇の皇后)の御仁愛 を参照。
)への御言葉を賜うことにもなったのであった。
ことに薄命不運の愛児・松陰先生は、明治22年2月11日、憲法発布の盛典に当たっては、正四位御贈位の御沙汰を拝されて、宏大無辺(こうだい むへん・*広くて大きく果てが無い)の聖恩枯骨(せいおん ここつ・*天子の恩恵が死人の朽ち果てた骨)に及び、母の瀧子は、血泣九拝(きゅうはい・*何度も頭を下げて敬意や謝意を示す)、感涙に咽(むせ)んだのであった。
―――――――
御贈位 宜旨
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第1巻の口絵の写真および説明文より]

明治22年2月11日 勤王の功を嘉せられ特旨を以て正四位を贈らる。
◇ 念佛唱名 往生楽土の佛光に浴す
瀧子は、こうした度毎に夫・百合之助と愛児・寅次郎との霊前に燈明をささげ、さながら人にものを云うように、その特旨を報告し、わが身独りが生きながらえて、その鴻恩(こうおん)に浴することを拝謝しては、相済まないと云って、先立った夫のことや不遇となった松陰先生のことなどを思い返して曇り勝ちであった、と云われている。
明治23年の秋、松下村塾の故址(こせき・*昔あった建築物の土台石)を修理し、また小祠を建てて、松陰先生の神霊を祭ることになった その上棟式(じょうとうしき)の時に、瀧子は、かねてより余りにも肥満していて起居も不自由で、多くは褥(しとね・*ふとん)を離れなかったのであったが、輿(こし)に乗って式に参列し、ありし世の数々を偲んで喜びの涙に咽(むせ)んだのであった。
式後、開宴の際は、終始、筵(むしろ)に列して盃を賓客に勧め、下々の職人までにも盃を廻し、満面喜悦の情に覆われた、と云われている。
こうしたところにも瀧子の平常の至情の心構えが、よく現れている。
晩年の瀧子は、敬虔な信仰生活に入り、嘗ては本願寺法主明如上人に参して直々に妙義を聴聞し、また島地黙雷・大洲鉄然・赤松連城など諸師の教えを受けて佛教の蘊蓄(うんちく)を極め、念佛唱名を以て往生楽土の佛光に浴しつつ、皇佛二恩の報恩感謝の日々を送っていたのであるが、明治23年8月23日、たまたま流行性感冒に罹り、同月、29日、84歳の長寿を保ち、念佛の声と共に溘焉(こうえん・* にわかであるさま。多くは、人の死の形容に用いられる)として涅槃(ねはん)の雲にはいり、長逝したのであった。
◇ 日本母性として永遠に輝く精神
不思議にも この8月29日、それは夫・百合之助の祥月命日(しょうつきめいにち・*一周忌以降、故人が亡くなった月の命日)である。
瀧子は夫・百合之助の死んだ その日に静かに瞑目(めいもく)して夫の側に帰って行ったのである。
幽冥界を隔てるとは云え、二人の心は常に親しく相 通って現世の契りのように朝な夕なに心の宿(やどり)があったっことであろう。
曾(ひいて)は愛児の霊に通い、今は夫の霊に結ぶ、実に瀧子の神霊ほど神秘にも崇高な神霊力のあったものはあるまい。
この霊、通い、これが神秘な日本人の血潮である。
(*一行、略します。)
神秘な霊的・瀧子の永眠7日の後、皇后陛下の思召を以て金百円を賜り、瀧子はまたも身に余る九重の恩寵(おんちょう)に浴したのであった。
また本願寺大谷法主夫人は、瀧子の訃を聞き使僧を派して左(*下)の挽歌をよせて
實成院釈智覚乗蓮の身まかりければ
国のため つくししのみか 伝えつる みのりの道は ふみもかがへず
と、弔うている。
この乗蓮(じょうれん)の諡号(しごう)は、大谷法主が嘗て瀧子にあたえたものであった。
ああ、瀧子が杉家に入って以来60有4年間の生涯は、世のあらゆる辛酸難苦をなめつくした所謂(いわゆる)波乱重畳の一生であった。
そしてその残生は、信仰心によって輝かしく静かに沈み行った生涯であった。
この艱苦と静寂の間に練られた心の源泉の清水は、汲めば汲むほど豊かなものであった。
その尽きることなく出づる瀧子の清水は、夫と日を同じくして死んだのみならず6人6様の子度に清く永(とこし)えにながれている。
しかも、あの忠誠殉国の吉田松陰と云う愛児を通じてこの世に遺した殉国大義の護国の大精神は昭和の現代(*本篇発行時は昭和16年)にまでもよどみなく清く濺(そそ)がれ流れているのである。
(*この時代の)婦人として、母性として、この永遠に濁りのない清水の心を汲まねばなるまい。
本篇

(了)
◆ 母性愛に寅次郎は泣く
◇ 母性愛に溢れる瀧子の手紙
つれない運命に弄(もてあそ)ばれて、思う事、為す事、すべてが志と違い、再び野山獄に引かれる吾が子・寅次郎の不憫さ・可憐さにを胸に抱いて、独りで夜毎に熱い涙に袖を
潤おした母の瀧子は、12月5日、寅次郎、又々投獄と聞いてからは、如何にあの気丈夫な瀧子も幾夜となく悲しい思いに悩んだことであろう。
せめて冷たい獄中生活に障りのないようにと、それ以来と云うものは、日毎夜毎に容易万端、準備を整えて、『獄中蒲団2枚、重ねセン、小蒲とん、夜着で、酒気が解けぬ内に(*夜が)明けた。』と、入獄の翌日、先生自らが云って報告しておられるように、蒲団や夜着の用意を整え、それに暫(しば)しの別れとあって、どうぞ健康で、あれかし と、酒盃までも家人と さし交わさせて送り出した愛児・寅次郎が、いま絶食死を待つ、とあっては、誰よりも一段と深い悲しみと驚きを覚えたのは、母の瀧子であったろう。
瀧子は、この悲報、この驚報を耳にすると、熱い涙を払い、直ちに一書を認(したた)めて、(*以下、意訳。ひらがな は解る範囲で漢字に置き替えています。)
一寸、申し参らせ下さい。
そもじ[*其方(そなた)]様、如何、御暮らしなされているでしょうか。
先ほどに不慮の事、うすうす耳に入り、あまり気使いさに 申し進め参らせます。
昨日より御食事、御断ち とか申し事の由、驚き入りました。
万一、それで 御果てなされては、不幸、大一、口惜しい大志に存じ参ります。
母、事も病多く、弱っております。
長生きも、難しく、たとえ野山屋敷に御出でになられても、御無事にさえ、これあれば、
勢(せい・*勢い)になり、力になると申します。
短慮を御止め、御長らえの程、祈り参らせます。
此の品、わざわざ整え、差し送りますので、母に対し、御食べ(*ることを)頼み参らせます。
幾重にも、幾重にも御心、御引きかえ、返す返すも祈り参らせます。
目出度 かしこ
大 様 はゝ より (*以上、意訳)
と、切々たる悲しき涙に人文を綴っている。
―――――
父母 叔父の手簡(一) *上記、意訳の原文。
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第3巻の口絵の写真および説明文より]
(*上段が父よりの手簡・下段が母よりの手簡)
安政6年正月、松陰は野山獄に在り、時事日に非なるを見て、憤激絶望の餘、遂に自ら食を絶ち、死生を天に聴こうとするに至った。
この報を得て松陰の両親も叔父 玉木文之進も驚き悲しみ、夫々諫止の書簡を送った。
父のは言葉短くして意味深く、厳なる中に限りなき慈しみの溢れるゝものがあり、母のは その日 わざわざ調えた食べ物に添えて持たせた手紙である。
温かき母の愛の惻々として胸に泌(*にじ)むものあるを感ぜしめられる。
父から松陰に宛てた手紙も少ないが、母からのものは これが唯一のものであるらしい。
ともあれ、この父母と叔父とは、松陰の多難なる生涯を、これ等の手紙からも想像出来るように、無限の慈愛を以て見守り、気遣い、慰めたのである。
*本篇・吉田松陰の母の口絵。
*説明文は逆転(父と母)が正しい。
―――――
『うすうす耳にした』と、昨秋以来の事のかずかずに瀧子は陽に陰に心を砕いて、わが子も身上を案じ暮していたようである。
それが遂に絶食徒死となっては、瀧子の心は裂けんばかりであったろう。
『不幸、大一、口おしきだいし』と云って、血を吐く思いに泣いている。
大次郎よ、親に先立って死ぬと云う不幸の大事を考えてくれないのか。
幼少の頃より、あらゆる艱難辛苦をなめつつ、お前をこうして育てて来たのも、お国のために御奉公させたい母の心の山々からであった。
それに今一念、短慮から絶食死を待つとあっては、これこそ、ほんとの犬死である。
かねてから子供を尊攘義戦の第一線に送り出してからは、死は覚悟の前であって、別にかなしみも悔やみもしないが、どうぞ お国のために死んでくれ、万世不朽の人間となるために死んでくれ、それに絶食とは何事であろうか。
母のこの悲哀心痛を考えてくれるなれば、如何に時世が非、如何に素志が通じないにしても、一時の憤激で徒(いたずら)に死を急ぐとは、どうしたことであろうか。
お前は最早、気がくるったか。
日頃の お前には似合わぬ仕打ちではあるまいか。
この母には、これが口惜しくてたまらない、と慈愛と真情とを込めて諫め、且つ、慰めている。
それに、この母も近頃は、とかく病が多くて大分、弱って来ている。
これでは、もう長生きもむつかしいことであろう。
せめて私の存命中に、お国のために働けるだけ働いて御奉公してもらいたい。
たとえ獄中生活なりとは云え、無事であって頂ければ、その中には運命も開けて志の通じる時もあろう、母はお前の無事と云うことが何よりの心の慰めである。
母に免じて、私の愛と誠をこめて作った食品を送るから、是非、食べておくれ、早く、早くと、母性愛の溢れる真心のあらん限りを尽くしてわが子・寅次郎を諫(いさ)めている。
思えば楠木正行のもろ手より懐剣を奪って諫めた母よりも、もっと愛がこもっている。
そして、庭先の柿で作った吊るし柿を送っている。
柿の糖味は勢力恢復の最妙薬と昔から語り伝えていたからであろう。
世の母として、わが子に対する愛情には何ら変わりのあるべきものではない。
子を思う親の心は誰人も同じである。
しかし、その愛児が不幸であれば不幸なる程、不運なれば不運なるほど、母親としての焦心、苦慮は増すものであろう。
それに父も母も兄も妹なども、皆々、この不運、不幸の殉国熱血児・寅次郎に対しては、
何れも心から その夙志(しゅくし・* 幼少・若年のころからの志)大志を成就させようと朝な夕なに神かけ念願して力をつけていたのであった。
したがって松陰先生の幕禁失敗に当たって、父も母も、叔父も、たとえ謹慎責罪に問われても、些々(ささ)たる不満もなければ、不平もなかった。
小言一つ云わないで、喜んで松陰先生の再挙殉国への勇猛心を願うと云った、それは一家一族、挙(こぞ)っての殉難ぶりであった。
それだけ松陰先生のような人傑が、絶食死と云うような敢えなき死に様に対しては、口惜しき残念の極みであったろうと共に、先生のような忠誠偉大な殉国士の出来たことも、決して偶然ではない。
それにしても純真な母性愛の誘導が、どれほど力強かったことであろうか。
松陰先生は、母のこの手紙を受け取って、冷たい獄中に端座(たんざ)のまま、一字一読、一句再読、感謝の涙に咽(むす)ばれつつ、感謝の熱情で胸一杯になり、涙のとどめようもなかったのである。
幾度か押し戴いては読み、押し戴いては感泣されて、遂に母のせいになり、力になり申さねばならない、母に対して食べねばなりない、と感念されて、その日の夕刻から、あの母の真心の籠った吊るし柿一つと、水一椀とを飲まれて思い止まられたのである。
思えば母性の心力程崇高なものはない。
母性愛ほど強いものはない。
この母の強い心と愛とが、あの吉田松陰と云う幕末維新の尊攘殉国士を育て上げたのである。
◇ 諄々(じゅんじゅん)と説く父・百合之助の手紙
(*以下、意訳)
愚父の事も病気は全く平癒(へいゆ)し、一昨日、国相府へ快気届に出かけました。
御手元 唐船方その他、御用所内へ廻礼を相、済ませ、昨日は内居、休息して、今日は早朝から廻礼に出て、薄暮比(うすぐれごろ)帰ったところ、御同囚の安富氏から報じられた趣き、夕飯後に熟へ申し参った由で、小田村、佐世、岡部(*などの)諸人、ことのほか愁嘆(しゅうたん)し、種々、心配しているところへ私が帰って来た。
(*そこで)梅太郎を其元(*そこもと[同等、目下の者に使う。]・*そなた)へ遣わし、食事など御勧め致し、現場を見届けて、孰(いず)れも安心致したく、早速、梅太郎を呼びに僕(朴・*下男)を登らせたけれども、行き先が相、分からず申し、ただ、有余出来ず、
(*増野)徳民を差し越したので、何卒、父母、叔父などの異見(いけん・*異なった見解)を用いるようにと、母からの送りの品を御食すことを祈り申します。
幾重にも、この度の御思い立ちは甚(はなは)だ宜しからず短慮の至りで、委細は(*玉木)文之進その他より存じより申すので、(*其元は)号泣してこれに従い、なお、己を捨てて
同志の人に御従うことを祈る所であります。
25日
百合之助
寅次郎様 (*以上、意訳)
と、父の百合之助は病気も癒(なお)って病中見舞いの返礼や、寅次郎投獄、延期の御礼やらで、役所方を廻礼して帰ってみると、思いがけなくも絶食待死のこの始末、百合之助の驚きは一方ではなかったろう。
早速、兄・梅太郎を野山獄窓に差し向けて、諫言を与えようとしたが梅太郎は不在、さりとて猶予は出来ないとあって、先生の愛弟子の増野 徳民に父と母と玉木叔父との書状を持参させて、親達の意見を用いよ、と諫(いさ)めつつ、『此の度の御思立ち宜しからず、短慮の至りなり』と、温和な中にもげんぜんとして、その不心得を諭し意見を加えている。
そして、こうした興奮時には、父として正面から余り強く云うのもどうか、と考えたものと見えて、叔父の玉木に思う存分に意見を加えさせて、それにしたがえよ、と云っている。
また、号泣して自分を捨て同志の人々に従えよと、言葉少ないその中にも、真情・真愛のこもった言葉を以て、絶食死の即時中止を勧告している。
さらに『母より送った品、御食し祈り申します』と云って、日頃より一しお、お前を可愛がっている母の心中にもなってみるがよい、と先生の至高な純情に訴えている。
あの熱血有情、至高の松陰先生としては、さだめし寒風が身にしむ野山の鉄窓より、韓人峰下の松本の空を望みつつ、熱い涙に泣き伏せられたことであろう。
ああ、孝ならんか、忠ならんか、生きて甲斐なく、死のうとして死ぬこと出来ず、事、悉(ことごと)く志とは違い、また尊攘の大義滅することなきかと、それこそ衷心から号泣、慟哭された事であろう。
―――――
父母 叔父の手簡(一) *上記、意訳の原文。
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第3巻の口絵の写真および説明文より]
(*上段が父よりの手簡)
―――――
◇ 玉木叔父の厳然たる勧告
(*以下、意訳)
松陰、汝、一両日、絶食致されたとの由、さてさて、驚き入る事に存じます。
かよう見識の違う事は あるまいと兼ねてより存じているところ、さてさて、驚き入りました。
今般の儀、もし餓死に及べば短慮と誠に世上の笑種、口惜しいと申すに余りある事であるます。
且つ、勤王の一義において何の益があるだろうか。
平生、短急の性質、その上、道理の見違いもあるかなと、見受けられる事も、段々これあるけれども、とかく、義を以て恩を破る事もあるかな、と考え、厳しき存じ寄りも申さずと聞き、素より私見を逞しくする一段、近頃、別して相、募るように見えるけれども、先ず強いてこの儀も、これはないと、恩愛の情に引かれ、苒荏(じんぜん・*なすことのないまま歳月が過ぎるさま)、年月が経つ内、このような大間違いに至っては、大恩の父母へ御嘆きを懸(か)け奉り、恐れ奉ります。
大罪人に陥るようにと申せば、例の私見を逞し、大義には親を滅する。
父母の嘆き位は、何かと申すかなと存じますが、汝、獄中の餓死は大義において何の益があるや。
とかく、安富(*惣輔)とか(*から)与えられた書の通り、汝の食飲の学を講じ、生を養い心を練り、出獄を待って、その後、大いに国恩を報じると、他人へ申し聞き事には真の道理かと見えるところを見つけ、自身の事に至れば、暗闇に成る段、真に怪しむべき事にある。
安富(*惣輔)へ吾は一般ではないと申し贈ったが、一般にこそ、これがあるはずで、
一般の訳でないのは、一円、分からないと申すもので、とにもかくにも、それらの道理は、後日、追々往復して論弁致すようにするので、今晩からは食を復して、父母から受ける身体、養生が肝要の事に存じます。
せっかく、この内から焼酎、薬などと、獄中の無病にこれが必要かと、御心配も、これあり、中に絶食、餓死共と申す事は、何とも合点が参らず、後日の論々、大いに急ぐ事、
病を勉め筆を執り、前後錯乱、幸いに御推覧、愚(*私目)が心を察し、梅兄へ御口答を待ち入ります。以上。
25日 文之進
寅二郎様
(*以上、意訳)
―――――
父母 叔父の手簡(二) *上記、意訳の原文。
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第10巻の口絵の写真および説明文より]
叔父 玉木 文之進は、松陰を5、6歳頃から手しおにかけて育てた師匠である。
条理を尽くした訓誨(*くんかい・教え諭すこと)に犯すべからざる威厳が あらわれ、
然も事急なれば道理の説明を後に譲ってと云うところにも、又 病を勉めて筆を執り 前後錯乱と云うところにも、なみなみならぬ至誠の松陰の心を動かすものがある。
―――――
ああ、この手紙ほど情理を兼ね尽くせるものはあるまい。
肉身の真の慈愛より迸(ほとばし)り出た諫言(かんげん)であり勧告状である。
松陰先生を幼少の頃から自ら親しく手塩にかけて育て上げた叔父であり、全心魂を打ち込んで尊攘の大義に殉じさせようとした唯一の師匠である。
ことに政府要路(*重職)者でさえ、玉(ぎょく)先生と呼んで畏服していたと云う玉木 文之進だけあって、威丈(いだ)け高(だか)となって、厳然秋霜のように、『松陰汝』と呼びかけて絶食餓死とは何事じゃ。
松陰、気が狂うたか。
世間の笑い種が口惜しくて、この叔父は、もはや生きている心地がしない。
松陰、よく考えてみるがよい。
今日まで、そちの所業に対しては、随分、云い聞かせたい事も数々あったが、大義殉国の義心に免じて余り多く云わなかったが、絶食餓死が勤王の大義に何の益があるか。
これ位のことは、俺(わし)が日頃に教育指導によって少しは解っているはすである。
それに、ややもすれば理屈を並べて大義には親を滅す、などと云っている。
獄中の餓死が、そもそも大義において何の益があり関係があるか。
父母に嘆きをかけ、大不孝の人となって、それでなお人倫が許されると思うのか。
他人には生を養い心を練って大いに国恩を報じるように、などと道学を講じるお前が、自分の事になっては、さらに道理も弁じず恩義も解せず、迷いに迷って絶食餓死とは、そも何事であろうか。
さあ、議論があれば思う存分するがよい。
この叔父がすべてを引き受けて、何とでも論弁してみせる。
この叔父が永年、真情を尽くして全魂力を打ち込んだ今日までの教育は、そんなものではなかった、松陰、どうじゃ、よく解ったか、心の迷いが解けたか、両親にこれ以上の心配、悲嘆をかけず、兄妹などの心にもなってやれ、憂悩している門人達にも安心させるように、直に思い止まって、母の心尽くしの食事をとるがよい、病を押して、この叔父は大急ぎで筆を走られせた、お前の口より直接、梅太郎兄に否応の返事をしてくれよ、これが叔父の願いであり、その返事のみを待っている、と、言々句々、涙に導かれつつ、滴(したた)る生血に筆を染めて、ぐっと強く深く松陰先生の心魂に徹する底の意見を加えたのであった。
思えば、この手紙は叔父・玉先生の高遇な識見によって認(したた)められたものである。
しかし、こうした思いは叔父のみではなかったろう。
父の思いも母の思いも兄妹の思いも門生達の思いも、皆々、同じことであったろう。
父と母と叔父から、こうした愛と厳の響き合わせる勧告状を受け取られた松陰先生は、泣いて感激されつつ、すまなかった、と『水 一椀、釣柿 一つ食べもうし、先ず、ご安心願い奉る。』と、野山北房の寒風に身をさらしつつ、前非を悔いて泣きあやまっておられるのである。
ここに松陰先生の あの純真な尊い反省を見出さずにはいられない。
実際、先生ほど純情で無垢で崇厳な高潔な人格者ななかったのである。
そこで松陰先生は、遂に絶食死の初心を翻(ひるがえ)し、父母・叔父の この慈愛溢れるありがたい誠心を押し頂きつつ、骨を削られる思いをして、食事を取られるに至ったのであって、その時、左(*下)の一詩を賦しておられる。
ああ、思えば母の瀧子の愛と真心とが遂に、あの勇猛な松陰先生を征服したのであって、
仰ぐべき尊ぶべき偉大なる母性の神力が顕われていると云うべきであろう。
断食慮驚父母心。 断食、父母の心を驚かせるを慮(おもんばか)り
只於酒肉自為箴。 只 酒肉においては、自ら箴(いましめ)と為す
平生交友情皆絶。 平生の交友、情 皆 絶(た)つ
憂国思兼夜漏深。 憂国の思いは 夜漏(やろ)(夜の更けること)と兼(とも)に深し
◆ 明けやすき最後の一夜
◇ 五月雨の獄中、悲涙愁傷
野山再投獄後の松陰先生は、冷たい鉄窓、5ヶ月の間、百憂万苦の事案が次から次へと去来輻輳(ふくそう・*いろいろなものが同じ箇所に集中して混雑する状況)して、いわゆる松陰先生の『心蹟百変(しんせき ひゃくへん)』となって、数多の辛酸難苦に思い乱れられたのであった。
『僕 投獄以来、外は日々、怪事を聞き、内は日々、古人激烈悲壮の文を読み、内外、相 抗(こう)し、遂に絶食死を求めるに至る。』と云われ、その藩主 参観の伏見要駕策に対しては、早くも門生間に反対論が起こり、『平生の所謂(いわゆる)同志、今は乃(すなわ)ち国賊なり』とまで言って、憤怒されている。
遂には『吾 一日もこの世にいる事を欲せず、一死を賜るよう御周旋下さりたく存じる』と門生に依頼しておられるように鬱々憤懣(ふんまん)の心境であった。
終始、こうした苦窮難迫(くきゅう なんぱく)と戦いつつ、夢も静かに結び得られない獄中生活も、遂に五月雨(さみだれ)暗い5月14日の江戸檻送(かんそう)事件となったのである。
5月14日の朝、兄の梅太郎は、野山獄舎に寂しく弟・寅次郎を訪ねて、『寅次郎、お前は近く江戸に行かねばなるまい。』と、言葉すくなに報じて、後は悲痛の狂乱がひしひしと胸に迫り来った様子であった。
それに対して松陰先生は、『そうか・・・・』とただ、黙然としておられた。
しかし間もなく、先生の面上には悲痛にも不動の決意が濃く現れてきたのであった。
それ以来と云うものは、親兄妹は勿論、親戚、故旧を始め門生の一同に対し、細々とそれぞれ書信を発して、最後の別れを書翰や詩文に認(したた)められ、また自己の身辺の後始末や、この後の指針などを書きしめしておられる。
今、その一、二を摘録(てきろく)すれば、父の百合之助に対しては、『この度の東行は国難に代る存念であるので、兼ねての狂悖(きょうはい・非常識で不道徳な言動をすること)には、随分、出かしたると存じ奉る、云々』と云われ、妹などに対しては、『各々、その家を斎(ととの)え、夫を敬い、子を教え、親族の胆(きも)をやかさないようにするのが第一なり』と説かれ、土屋 蕭海(つちや しょうかい)や小田村 伊之助には借覧書籍の後始末を依頼させられ、さらに入江 杉蔵には『我慢徹底しないで死ぬほどであるなら、猛士、大恥辱である。』と江戸行きの決意を語っておられる。
松陰先生の最後は実に血涙中の奮闘であり、奮闘中の血涙とも云うべきであった。
ことに父百合之助には、左(*下)の一詩を贈っておられる。
平素縐庭違訓誨。 平素(日頃)庭に縐(はし)り(子が親の教えを受けること)
斯行獨識慰厳君。 斯の行・獨り厳君を慰めるを識る
耳存文政十年詔。 耳に存す・文政十年の詔(みころのり)
口熟秋洲一首文。 口に熟(じゅく)す・秋洲一首の文
小少尊攘志早決。 小少より尊攘の志 早く決す
蒼皇輿馬情安粉。 蒼皇(きゅうこう)(慌ただしいこと)輿馬(よば・護送と云うのと同じ、)、情 安んぞ粉(ふん)せん
温■剰得留兄弟。 温■(おんせい)(孝養をなすこと)剰(あま)し得て・兄弟に留め
直向東天掃怪雲。 直に東天に向って 怪雲を掃(はら)わん。
■の漢字
と、真にその親を知る子である、と云うべきであろう。
松陰先生は親を慰める真(しん)の孝養を知っておられたのである。
また妹などに対しては
心あれや 人の はゝたる いましらよ
かゝらむことは ものゝふのつね
と、一首の歌を書き残しておられる。
実に千歳不朽の女子鑑(じょしかん)とも云うべきであろう。
(*1行、略)
妹なども、はかない兄の今の境遇に熱い涙を濺(そそ)ぎつつも、この一首の歌に厳然と心を取り直して、兄の将来に、この上、憂きことがないようにと、祈ったに違いあるまい。
この10日間、獄中である、とは云え、松陰先生にとっては、なかなか忙しい毎日であった。
まるで夢の間のように過ぎ去った24日の夜、いよいよ最後の別れの日が来たのであった。
◇ 松陰先生 獄を出て実家に帰られる
獄司で門人の福川 犀之介(さいのすけ)は、これが最後の永訣(えいけつ)であるかも知れない、子弟の情義として、せめて両親を始め一族の人々や門生達にも最後の面かいをさせて、名残りの一夜を明かさせたいと思う一念から、藩府の諒解も得ないで、久坂 玄瑞と計って先生を松本の実家に帰したのであった。
実家に帰られた先生の心中は、既に再び萩の故地(こち)を踏むことは出来まいと覚悟されつつも、流石(さすが)に母親には、その意中を打ち明けられることが出来なかったのであった。
杉家では内證(ないしょう)に訪ねて来る親戚や門生などを集め、松陰先生を中心として心ばかりの決別の小宴が催されたのである。
旧懐談もあったであろうが、さだめし悲痛の場面でもあったろう。
その席上の手料理は、さだめし母の瀧子の心尽くしであったことでもあろう。
その最中に一枚の紙が展べられて、早速、寄せ書きがはじまったのであった。
(口絵参照)
再掲
玉木 正弘は忠(○)と書き、倉橋 直之介が臣(○)と書き、馬島 甫仙が報(○)と書けば、藤野 荒次郎が國(○)と書き加えた。
更に、妻木 壽之進が罪(○)と書き、国司 仙吉が死(○)と書き、岡田 耕作が不(○)と書き、敏三郎が悔(○)と書いた。
こうして『忠臣報國罪死不悔』(*忠臣報国、死罪を悔やまず)と出来上がったのであった。
(*玉木 )正弘は松陰先生の従弟(いとこ)であり、敏三郎は弟であり、倉橋(*直之介)は親戚であり、馬島や国司や妻木は門人であった。
岡田 耕作は、正月元旦、10歳で入門して大いにほめられた神童である。
そして、妹婿の小田村 伊之助は『金剛山 野山の中に在り(*漢文)』と書き、松陰先生は「武士(もののふ)の別れの莚(えん)雪の梅』と一句を書き残したおられる。
側で見ていた瀧子の心情はどうであったろうか。
如何にも部門の家の志士の別れに、ふさわしい小宴(しょうえん)であった。
かつて門人の渡辺 蒿蔵翁が、当時の場景を懐舊(かいきょう)されつつ話された一節があった。
先生のお母さんが、みんな居並んでいた部屋の仏壇に燈明を灯して、もう一度、ぜひ、無事に帰させて頂きます、と礼拝されたことを、よく記憶している。
その時は、皆、シーンとして、一言も発する者がなかった。
涙に打ちしめる決別の夜の有様が見えるようである。
これより先、母の瀧子は、松陰先生が久々振りに野山獄から帰宅されたので非常に喜び、早速、風呂をたきつけて入浴の用意を進めたが、先生の帰宅を伝え聞いて門人や親戚どもの来訪が多く、そのため落着いて話し合う暇もなかった。
瀧子は風呂場に行って先生の背中をながしつつ、『此度の江戸行は、何となく気遣わしい、寅次郎よ、今一度、江戸から無事で帰って機嫌のよい顔をみせておくれ』と、しみじみ語ったのであった。
松陰先生も覚えず親に先立つ死出の不孝さよ、と断腸の思いを秘められつつ、『母上様よ、それは いと易いことでございます、必ず無事に帰って お目にかかりますから御心配、御無用でござります。』と、欣然(きんぜん)答えられたものの、心の中には血涙がほとばしっていたことであろう。
子を思う母の情愛、しみじみと見に浸み込んで、いっそう感慨深きものがあったことであろう。
しかし、先生にもまして永の獄中生活で、やつれ衰えられた先生の背中を流した母の瀧子の心情はどんなであったろうか。
しかも、今は愛児が江戸・死獄への門出である。
いかに気魄(きはく)に富んだ女丈夫でも、断腸の血涙で胸が一ぱいになったことであろう。
久し振りでの松陰先生の帰宅である。
訪ね来る多くの親戚や門人たちの応対に相当忙しかったようである。
こうした24日の夜は、だんだんと更けて行った。
結ぶにひまなき東光寺の明けの鐘は、先生の胸底に寂しく響いたことであろう。
それにもまして、母の瀧子の心中は、どうであったろうか。
夜もすがら眠りもやらで、愛児の越し方、行く末を思い煩いて、乱れがちな心に一夜を明かしたことであろう。
◆ この母にして この児 あり
◇ 松陰先生 江戸への護送
5月25日の朝。
梅雨はしとしと 降りしきっている。
萩野街はずれの金谷天神の前で、見送って来た門生達と前後の別(わかれ)を告げられて、松陰先生の檻輿は、東に去って行く。
萩から山口に通じる街道、大谷千坊師の廻り角に涙松と云う老木がある。
萩から旅立つ人は、ここで萩城を見おさめとして惜別の涙を流し、旅から帰る者は、萩城を望みみて喜びの涙を催す、これより、誰云うとなく涙松と云えり、と昔から云い伝えている。
松陰先生は、この老松の下において
かえらじと 思い定めし 旅ならば
ひとしほ ぬるゝ 涙松かな と、その純真な熱情と江戸死獄への決心とを示して、この涙松に帰らない涙を濺(そそ)がれつつも、なお一念、憂国の丹誠は、いやが上にも燃え上がって
かくまくも 君の国だに 安かれば
身と捨つることこそ 濺(しう)がほい(本意)なれ
五月雨(さみだれ)の くもりに身をば 埋むとも
君の御光(みひかり) 月と晴れてよ
と、心に堅く誓いつつ、国の前途に思いを砕いておられる。
あの熱血感激性の松陰先生は、沿道諸所の風物に関し、その所、その人、その史実に対し、
いつも無限の感慨と痛憤の熱情を燃やして、詩に歌に志を述べられている。
その京都通過に当たっては、
帯涙弧囚有孰悲。 涙を帯びる・弧囚(こしゅう)(松陰先生)孰(た)れあってか悲まん
檻輿今日過京師。 檻輿(かんよ)・今日・京都を過ぎる
上林暑到■陰縮。 上林(御所のこと)暑は至って・■陰(せいいん)は縮まり
大道霖餘蔓草滋。 大道霖餘(りんよ)・蔓草(まんそう)は滋る。(この句はこうしつの式微を云う。*霖(りん)は長く降り続く雨)
生死於吾非大事。 生死 吾に於ては大事にあらず
乾坤無慚是男児。 乾坤(けんこん)慚(は)づなきは、これ男児(*乾坤は、天下の意で、慚[ざん]は恥ずかしいの意。)
他年若遇源公問。 他年・若(*も)し源公(大原三位公、先生、知遇を承けられる)の問いに遇(あ)えば
為報寅終不負知。 為(ため)に報ぜよ・寅(松陰先生)終に知(遇)に負(そむ)かず
と、血涙一詩を賦して、皇室に御衰微(ごすいび)を憂憤せられ、神奈川を過ぎては、
金港泊夷艦。 金港(神奈川港)夷艦(いかん・*外国の軍艦)を泊す
三檣七隻高。 三檣(しょう)七隻(三本マストの七隻)高し
輿窓思友人。 輿窓・故友(金子 重輔)を思う
虜氛炎暑腥。 虜氛(りょふん)(外夷のこと)炎暑(えんしょ)腥(なまぐさ)し
と、
かつて生死を契って米艦をこの地に追いかけられた金子 重輔(かねこ じゅうすけ)を思い出されつつも、また外夷横暴を悲憤されて、こうした檻輿(かんよ)の日々を過ごして
6月24日、江戸長州藩・桜田邸に着かれ、護送の人々に
かえるさに はつかりかねの 聲きかば
我が 音信(おとづれ)と おもひ いでゝよ
こうして7月8日に、町奉行・石谷因幡守(いわやいなばのかみ)より、明日、松陰先生を評定所に出頭させよ、との命が桜田藩邸に下ったので、9日の朝、六ツ半(今の朝7時頃)評定所に出頭、一応、調べを受けられた後、云わば、いまの未決囚(みけつしゅう)として伝馬町の牢獄に収容されることになったのである。
これからが松陰先生、最後の江戸獄生活であって、至誠一念を以て幕吏に応接され、急迫する内外の国勢を詳(つまびらか)にして、赤心奉公の大義と君臣殉国の名分とを説破して、尊攘の魁(さきがけ)になろう、とされた最後の至誠憂国の活躍場面であった。
それにまた、門生達に対する最後の遺訓をも考えられたことであろう。
あるいは、同志連中に対する将来の謀策など細々、思いを回(めぐ)らされたことであろう。
獄中とは云え、心の緩みもなければ閑時(かんじ)もなく、なかなか忙しい様子であった。
ちょうど8月4日、この日は松陰先生の思いで多い誕生日であった。
あの至高な先生には、今の不運な境遇に引き比べて、越し方、行き末と いろいろの思いが浮かんだことであろう。
許国之身敢顧親。 国に許すの身・敢えて親を顧みんや
安然坐獄亦吾真。 安然として獄に坐す・吾が真
忽逢父母痀労日。 忽ち 父母苦労の日に逢う
復被西風愁殺人。 復(また)西風に愁殺(しゅうさつ・*非常に嘆き悲しむ)される
と、一詩を賑(ふ)しておられる。
思えば、君国に殉じようと一旦、心に許した身であれば、どうして親などに心のひかれることがあろうか、したがって獄中独座、静かに君国の前途を憂う、それが自分の真情である。
しかし、今日は8月4日であって、わが誕生日である。
自分の生まれた時には、さだめて母上は生死の苦痛をなされ、父上は出産は如何にと
心配されたことであろう。
この父母の苦労の日に逢い感慨深いものがあるのに、しかも獄窓に吹き入る西風は憂思に
耽(ふけ)る吾を無常にも愁殺させる所であるとされたものであって、獄中、父母を思慕される切なる情懐が読者の胸底を強く打ちぬくものがある。
自分が生まれた時に、あれ程、母上に生死の苦しみを与えた松陰が、いま江戸獄中にあって、至誠を以て幕吏を感格させることも出来ず、御奉公どころか、こうした身の上であるかと思えば、実に相すなないことであると、獄窓にもたれて涙にくれておられる先生の姿には、何人(なにびと)も思わず涙を催さないものはあるまい。
◇ 親思う心に まさる親ごころ
こうした幾日かを経て、松陰先生も、いよいよ刻々と命の旦夕(たんせき・*朝夕)に迫り来るのが感じられ、10月20日付で、左(*右)の永訣の書を認(したた)めて郷里の家人(かじん)に送っておられたのである。
(*以下、意訳)
平生の学問、浅薄(せんばく)にして至誠天地を感格する事出来ると申さず、非常の変に立ち到る。
さぞ、さぞ、御愁傷(ごしゅうしょう)と拝察 遊ばされ仕(つかまつ)ります。
親思う こころにまさる親心
けふ(*今日)の音づれ 何ときくらん
しかしながら、去る年(*去年)11月6日、差し上げました書を得て、ご覧遊ばされれば、
左(*下)まで御愁傷も、及ばないと存じ奉ります。
なお又、当5月に出立の節、心事を一々申し上げ置く事につき、今更、何も思い残す事はございません。
この度、漢文で相、認(*したた)め、諸友に語る書も御覧阿遊ばれますように。
幕府の正義は丸(まる)に御取用これなく、夷狄(いてき・*外国人)は縦横自在に御府内(ふない・*江戸市中)を跋扈(ばっこ・*踏みにじる)しているけれども、神国(*日本のこと)は未だ地に堕ちるとは申さず、上に聖天子(せいてんし)あり、下に忠魂義魄(ちゅうこん ぎはく・*忠義のために死んだ人の魂)が充ち々 致しているので、天下の事も余り御力を御落しなさらないように存じ願い奉ります。
随分、御気分を御大切に遊ばされ、御長寿を御保たれてますように両北堂様(りょう ほくどうさま)(実母と養母)、随分、御気体を御厭(いと)い専一と存じ奉ります。
私は誅(*ちゅう)され(*成敗され)て、首までも葬(ほうむ)り呉れる人もあれば、未だ天下の人々には棄てられ申さずと御一咲(ひとさき)願い奉ります。
児玉、小田村、久坂の三妹へ5月に申し置いたこと、忘れぬ様申し聞かせるようお頼み奉ります。
くれぐれも人を哀れむよりは、自ら勤めることが肝要であります。
私の首は江戸に葬り、家祭(かさい)には、私の平生用の硯(すずり)と11月6日に呈上した書とを神主(しんしゅ)となさるように願い奉ります。
硯(すずり)は、巳酉の7月か赤間関を廻浦(かいほ・*曲がり巡る)の節に、買い得たものであります。
10年余、(*私の)著述を助けた功臣であります。
松陰二十一回猛士 とのみ御記し願い奉ります。
と、松陰先生は実に至誠の人であり、至忠至孝の人であった。
至誠の一念は、日月を貫く勢いを示して、すべてのものを至誠の二文字で焼き尽くそうとする感がある。
殉国の一念は、上に聖天子あり、下に忠魂義魄(ちゅうこん ぎはく)充々としていると、最後の痛憤の雄叫びを響かせておられる。
至孝の純情は、天下の事も余り御力落しなきように、と却って天下の衆目に血涙を催させておられる。
すなわち、横暴非道な幕吏は、譎詐悪辣(けっさ あくらつ・*偽りとあくどいこと)の限りを尽くして、遂に先生を評定所に呼び出し、遮二無二(しゃにむに)に死罪を宣告したのであった。
噫(ああ)。
思えば、『平生の学問、浅薄(せんばく)にして至誠天地を感格する事出来ると申さず、・・・御愁傷(ごしゅうしょう)と拝察 遊ばされ仕(つかまつ)ります。』と云う一句こと、まさに天地もさだめし感格して熱涙を落すの心地がする。
『親思う こころにまさる親心 けふ(*今日)の音づれ 何ときくらん』と松陰先生は自分の詩を忘れて親に死の思いを与えるかの思いをして、ドッと泣き崩れておられる。
あゝ純情至高の松陰先生。
子の死を父母に告げる程、苦しい思いはなかったことであろう。
それに可愛いわが子を決死護国の躍動に三十年来、指導、薫育して来た父母の心情は、松陰先生みずからも、よくしっておられる。
それだけ、一しお心の苦しみがふかかったことであろう。
しかし憂国の父母と殉国の松陰先生である。
覚悟は平生より十分に定まっていた。
『神国(*日本のこと)は未だ地に堕ちるとは申さず・・・御気分を御大切に遊ばされ、御長寿を御保たれてますように』と互いに天下の事にはさらに力を落されない。
しかし、この悲痛無残な訪れに力を落さない親があろうか。
随分御大切に遊ばされたし、と云われるわが子松陰先生の刑死を聞かれては、長寿も何かと思われたことであろう。
こうした親子の情愛は、萩と江戸、三百里の雲山にもつれ合ったことであろう。
さらに、この手紙の追而書(おってがき)を見れば、又々新しい涙が催して来る。
両北堂様と云って、実母の瀧子や養母の久満(くま)や、また三人の妹などにまでも呼びかけて、先生は肉身のそれぞれに、一々籠蟹挨拶を述べておられる。
そして、『人を哀れむよりは、自ら勤めることが肝要であります。』と戒めておられる。
自分の死をも顧みず、その身を捨てて妹などに婦道(ふどう)と孝道(こうどう)とを説いておられる。
この哀れにも崇高な松陰先生の大精神には誰人も泣かされずにはおられまい。
まさに、これぞ敬うべき、慕うべき、仰ぐべき真個の殉忠、殉孝、殉国、殉道の真人と
云うべきであろう。
しかし思えば、これにもまして、この親思うも一首である。
先生は自分の死に直面する心の苦しみ、情愛の結ばれ、生前死後のさまざまな思いの乱れを打ち忘れて、愛児を失う親の心の悲哀が如何ばかりなるや、と、親思う心にまさる親心と詠んでおられるのである。
その哀哀切々たる心情は、最早、筆にも言葉にも尽くし難いところであって、著者も、只々、涙にくれて筆も進め得ないのである。
ああ、この血潮のしたたる親心が母の瀧子の心であった。
蘇峰(*徳富 蘇峰)老先生の題字『斯母而(*この母にして)有斯子(この子あり)、
斯子而有斯母(*この子にして、この母あり)』の一句、文字は少ないが、千万無限の深意が響いている。
徳富 蘇峰先生 題字
(本篇の口絵より)
別に新しい言葉でもない。
しかし泣かずには読まれない文句である。
千古の金言(きんげん)が、この肉の中に厳然と光を放っている。
味わえば味わう程、甘露の味が備わっている。
これほど味わうべき、尊ぶべき、ありがたい言葉はない。
吉田松陰の母・瀧子の全生涯、真生命も、まさに、この題字の一句に意が尽くされている。
◆ 夢路に通う慈母の心
◇ ああ、悲しいかな 松陰先生の最後
松陰先生は江戸在獄、約4ヶ月の間、前後3回、評定所の訊問(じんもん)を受けられ、遂に間部要撃事件で死刑の宣告を受けられたのであった。
10月27日朝。
評定所で宣告を受けられた松陰先生は、直に引き立てられ、続いて朗々と声高に、
吾今為国死。 吾(われ)いま国のために死す
死不負君親。 死して君親に負(そむ)かず
悠々天地事。 悠々、天地の事
鑑照在明神。 鑑照(かんしょう)、明神に在り
と、辞世の一詩を吟誦(ぎんしょう)された。
松陰先生は、いまや初一念である殉国奉公の秋が来た、思われたことであろう。
至誠公明な心事を満天下の人心に訴えるべき秋が来たと考えられた事であろう。
純潔丹心の大精神を悠々たる天地明神に捧げる秋が来たと観念されたわけである。
時には父母の心苦を煩わし、あるいは兄妹の憂慮を深め、あるいは主君への煩累を重ね、
または門生などへの痛嘆をも与えたが、これは畢竟(*ひっきょう・究極)、尊攘の大義を樹てようとの至誠殉国の一念からであった。
30年の生涯を顧みて少しもやましいところはない。
いまとなっても敢えて『死して君親に負(そむ)かず』やであり、尊皇護国の大精神が、もしも一時の物議を生じたとしても、死後必ずや『鑑照(かんしょう)、明神に在り』やである。
これで自分の本望が達せられた。
これで日頃の祝願成就が果たせたわけである。
皆人(みなびと)、この松陰の最期をよく見届けて、一刻も早く尊皇護国の大義に殉じてくれよ、と、天を仰いで朗に高誦(こうしょう)されたのであった。
この憂国の雄叫びに幕吏、護卒も暫(しば)し、我を忘れて聞き入っていた。
ふと気が付いて場所柄も弁(わきま)えない行動である、と大いに狼狽して、先生を駕籠に押し入れ、『ああ、惜しき者なれど、是非もなし』と、嘆息する同志の声を後ろに、大勢の護卒は、飛ぶように評定所の門を出て、伝馬町の獄へと急いだのであった。
このして、10時過ぎに獄舎に帰られ、廊下で裃紋付(かみしも もんつき)の上に荒縄をかけられ、いよいよ獄内の刑場に引き立て行かれたのである。
この時、松陰先生は、同囚の志士などへの最後の告別として、あの留魂録の始めに書き残された『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし 大和魂』の歌と、この辞世の詩とを吟誦し終わって、各室の人々に黙礼して立ち去られたのであった。
こうして伝馬町獄内の所定の刑場につかれたのであるが、その間、悠然として服装を正し、さて『鼻をかもうと静かに用意して』と、端座(たんざ*行儀正しく座り)瞑目の中に、斬罪役・浅右衛門が振り上げた3尺に余る大太刀に、ハッと秋水一閃(いっせん)、この純忠至誠の大偉人・松陰先生は身首(しんしゅ)所を異にして、この現世(うつしよ)を去られたのであった。 (拙著「吉田松陰の最後」参照)
◇ 愛児を思う瀧子の心情
丁度この頃、郷里・萩 松本の実家にあっては、兄の梅太郎が、ふとしたことから熱病に罹り、続いて三女の艶子もまた病の床に伏していた。
両親は、夜の目も ろくろく休まず、日夜、打ち続く二人の愛児の看護に就かれて、うとうとと、うたた寝をしていたのであったが、ふと夢から醒めた父の百合之助は、『今、私は首を斬られた夢を見たが、誠によい心地であった。』
すると、また、その側にうっとりとしていた母の瀧子も『私もまた、寅次郎が只今、江戸から帰った夢を見ましたが、非常によい血色でありました。』と、云いつつ互いに顔を見合わせ、どうも不思議なことおあるものである。
江戸の寅次郎の身上に何か異変でもなければよいがな、と共に気遣い、心配されたのであった。
そして、その後、数日を経て、松陰先生の刑死の報が来たので、日数を考え合すと丁度その日であったのであった。
ああ、思えば先生が『親思う 心にまさる親心 けふ(*今日)の音づれ 何ときくらん』と詠まれた、その親思いの心が伝馬町刑場から山河三百里を隔てた家郷の両親に通ったものであろう。
永訣書(萩市松陰神社蔵)
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第6巻の口絵の写真および説明文より]
安政6年10月20日、死刑の宣告近きを知って、実父 杉 百合之助、叔父 玉木 文之進、家兄 杉 梅太郎(原文、宛名の第三行、家「大人」は 家「大兄」の誤記であろう)に宛てた永訣書である。
『親思ふ 子ゝろに まさる親こゝろ』云々の絶唱も亦この中にある。
一読 まことに哀切至痛であるが、また永遠の人の心構、泰然自若たるものあるを感ぜしめられる。
なほ萩市松陰神社のかんぬしは、この書の末尾にかかれてある通りになって居る。
しかし、これも愛児思いの母の瀧子の心が、また先生の心を親の枕辺に引き寄せたものでもあろう。
子を思う親の心は一つであっても、母はちちよりも涙にもろい。
父は胸中に万斛(ばんこく・*一石の万倍。はかりきれないほどに多い分量)の涙を隠しても厳として愛児に対す、母は血涙を袖に包んで愛児の心情に泣き伏す、この悲報を得ては母の瀧子もさだめし泣き崩れたことであろう。
11月20日には、江戸から飛脚が萩に着いた。
杉家の一族と共に村塾の門生なども松陰先生の殉難最後の様子を知り、また遺言および留魂録をも届けられた。
当時、来島 又兵衛が桂 小太郎に宛て『松下塾の一統は申すに及ばず、有志の面々、愁傷筆、紙に尽くすことが出来ず、御推察下されるよう。』と云っているのが、先生を知る萩中のすべての人の心情であったろう。
父の百合之助は、その遺書を父祖の霊前に供え、怡然(たいぜん・*心が穏やかで満ち足りる)快心の一言を捧げて、『ああ、わが児、一死国に報ず、真に その平生に背(そむ)かず。』と、微笑して礼拝したのであった。
母の瀧子も、さだめし夫と列座拝伏(れつざ はいふく)したことであろう。
武門の習いとは云え、この親にして、この子あり、と云うべきであろう。
◆ 一家 一門の悲運
◇ 松陰先生 刑死後の杉家の人々
松陰先生 刑死後の杉家は、陰雲に覆われて物毎に涙の種となることが多かったようである。
それに愛児・寅次郎に多難な君国に御奉公させようとした親の念願も、今は はかなき夢となって一層、心寂しく力の落ちたことであろう。
こうした場合に母の悲しみは、父よりも一段と深いものである。
木枯らし寒い安政6年(*1859年)年の冬も暮れて、万延元年の春となった。
樹々亭畔の梅花が漸(ようや)く、ほころぼうとする2月7日が松陰先生の百日祭であった。
久坂 玄瑞と中心とする門生達は杉家に集まって心ばかりの小祭(しょうさい)を催し、この日、先生の前髪を団子巌の墓地に葬ったのであった。
母・瀧子の思い出でも、一塩深かったことであろう。
愛児を忍ぶ涙もまた新たなことであったろう。
しかし、愛児が教え子の門生達が集まって恩師慕のこうした営みは、また寂しい瀧子の心をいたく慰めたことでもあったろう。
こうした思い出深い悲しみの日々をおくっている中に、百合之助は、松陰先生の監督不行き届きの故を以て逼塞(ひっそく・*門を閉ざし、昼間の出入りを許さないもの。閉門より軽く、50日間と30日間の2種類があった。)に処せられ、5月4日には退隠(たいいん)を命じられ、兄の梅太郎が相続することになった。
武士の妻、武士の習い、かねて覚悟のこととは云え、瀧子は人知れず心を痛めたことであろう。
夫を慰める言葉もなく、妻として、どれほど道場したことであろうか。
続いて11月には親戚の玉木 文之進、久保 清太郎、児玉 太兵衛なども親戚として監督不行き届きのかどを以て、これまた遠慮(えんりょ・*軽い謹慎刑で、自宅での籠居(ろうきょ)を命じたもの)を申し付けられたのであった。
わが子の不首尾とは云え、そもそも寅次郎の夙志(しゅくし・*幼少・若年のころからの志)は、尊攘大義への犠牲であり、至誠殉国への蹉跌(さてつ・*挫折)であった。
それに、これまで親戚の者共にまでも罪累をおよぼしたのかと思えば、百合之助も瀧子もさだめて断腸の苦しみをしたことであったろう。
こうした鬱々陰暗な空気に包まれて文久元年(*1861年)も過ぎ、2年の11月に至って漸(ようや)く松陰先生の大忠誠も辞世の変伝と共に功名をかざして、その罪を免じられることになり、父の百合之助の懲罰、退隠を解き、兄の梅太郎は、再び士官することになった。
足掛け3年に亘(わた)る杉家の哀愁・悲痛の陰雲も漸く晴れて、身も軽く心も豊かにとしを越して一陽来復(いちよう らいふく・*冬が終わって春(新年)が来ること)と云う
文久3年(*1863年)の春を迎え、村塾畔の梅花も今年こそは馥郁(ふくいく・*よい香りがただよっているさま)として、清香(せいこう)を放ち来ったのであった。
しかし、こうした晴朗な生活も はかなき夢の間であった。
人生は禍福の交錯、なえる縄のようであって、好事魔多しと云った杉家の運命であった。
自世は、幾度が急転、変遷して国難はますます急迫して来た。
愛児・寅次郎の教え子などは、恩師の大志を継承して尊攘の旗高く、復古・討幕の雄叫びに鼓を鳴らして、京洛の山河を震動させていた。
遂に元治元年(*1864年)の夏、7月には、かつて松下村塾の参謀であり、いまは洛外、天王山駐屯・長州軍の指揮者である女婿・久坂 玄瑞は、禁門の戦に鷹司邸内において、不運にも25歳を一期として戦傷・自刃し、夏草の露と消え去ったのである。
20歳を出たばかりの妻の文子が、やもめ暮らしをする頼りない、あわれにも、愛しい姿を見るにつけては、母の瀧子の心は一しお曇ったことであろう。
時に『村塾第一流』と云われた女婿・(*久坂)玄瑞を思い出し、いまの愛娘・文子と思い合わせて人知れず熱い涙に袖をしぼったことでもあろう。
しかし、あの気丈夫な瀧子は、これも部門の習いであると慰め、いたわりつつ文子の心を継殻強く引き立ててやったことであろう。
それに、この禁門の戦争においては、村塾時代に御風呂や御飯や洗濯などの世話までして、わが子のように育てて来た門人の入江九一や寺島 忠三郎など多くの門生達が、愛児・松陰の大志に心身を捧げつつ、女婿・久坂の指揮で死を共にしたかと思えば、瀧子の心は吾が愛児、吾が女婿の死と同じ悲しみに深く沈んだことであろう。
これが武士の妻のしゅくめいがと、天をも仰いだことでもあろう。
禁門の変に敗れた長州藩の運命は、危急存亡の岐路に立って生死の命は、旦夕(たんせき・*朝と晩)に迫って来た。
外には馬関における外艦砲撃事件があり、内には征長の怒涛が四境に押し寄せて来た。
そして藩内には、急進的正義派と囚循的俗論派とが抗争し、しかも、遂に俗論党の天下藩治となって来たのである。
このために正義派である多くの憂国志士達も牢獄に投じられ、あるいは、いたわしき刑死の惨害をも蒙るに至ったのである。
◇ 瀧子の尊き精神と不動の面影
こうして醒風(せいふう)吹き荒(すさ)んだ元治元年の年の暮れには、壽子の嫁いだ小田村 伊之助の兄・松島 剛蔵(贈正四位)は、不運にもこの俗論党のために野山獄で無惨にも斬罪(ざんざい)に処せられ、続いて小田村も又、彼らの毒牙にかかって野山獄に繋がれると云う実に悲痛惨憺(さんたん)たることばかりであった。
瀧子の心は、どんなものであったろうか。
狂わんばかりの思いの乱れたことであったろう。
しかし、雄々しくも武士の妻である瀧子の誇りは世の人の嘲(あざけ)りも疑惑も心に留めることもなく、この悲痛哀愁の中にも力強く勇み立って、彼を野山獄に見舞い、慰問しているのである。
小田村はあまりの感激に
すてられて ものゝ数にも あらぬ身を うとまぬ人は 君ならで誰ぞ
と、瀧子の真心の いつくしみを拝謝しつつ、帰り行く義母の瀧子の後ろ姿を合掌したのであった。
それにまた慶応元年(*1865年)正月には、玉木の男、彦助が俗論党と闘って25歳の若い盛りを あたら花と散って行ったのであった。
一難去って一難来たり、一哀去って一愁来たり、一悲さって また 一悲加わる。
この年月の幾辛苦に対し、乱れがちな心を取りなおしつつ雄々しくも立ち働ける、その艱難に練れた母性・瀧子の尊き精神と その不動の面影とが眼前に浮かんで来る。
夫・百合之助は、その後、一時、元の盗賊改方に復活はしていたが、小田村の漸(ようや)く許されて出獄した頃からは次第に、その健康が弱って来た。
あの謹厳な百合之助の気質として、官を軽くしてはならないと云うので退官し、待つものと里で静かに老後を養いつつ、読書三昧に残世を楽しんでいたのであった。
しかし夏頃かれは、その好きな読書も医師に止められて、病はだんだんと重くなって行った。
いよいよ臨終ちかくなった時に、何か遺言でもないか、と妻の瀧子が問うと、
『朝日が窓に映るのが見えるのは、今日はさだめし天気がよいからであろう。
玉木を呼んでもらいたい。
人の忘れてはならないことは、君と父との御恩である。
藩主から賜った上下(かみしも)を玉木に着せて、藩主の御墓と父上の墓とに参詣させてもらいたい。
そうすれば父上も地下において、定めて悦ばれることであろう。』と云い、
また特に瀧子に向かって、
『寅次郎は斬罪(ざんざい)となったけれども、その精神は朝廷において必ず御覧になることであろう。
私は決して悲しみもしなければ寅次郎を哀れとも思わない。
我が家の子孫は、充分、先祖の気風を継いでお国のために勉強しなくてはならない。』と云い残して、衣服を改め端座のまま、従容として瞑目(めいもく)したのである。
時に慶応元年(*1865年)8月29日、62歳であった。
瀧子は夫の病辱(びょうじょく)に就いて以来と云うものは、身も心も打ち忘れて、梅太郎夫妻と共に看護にあらん限りの心を尽くしたのあるが、衰弱は加わるのみであった。
木綿の搔巻(かいまき・*半纏の一種で長着を大判にしたような形状で、首から肩を覆うことによって保温性に富む)ではさすがに寮へ行く身には重苦しいことであろうと思って、紬(つむぎ)の搔巻を拵(こしら)えて勧めてみても、『身に余る、もったいない、外(木綿を指す)のを着せよ。』と云って、百合之助は着なかった程に、身を持する倹素なことは万事、この通りであった。
それだけ瀧子の心は焦りもすれば、また、いじらしくも思ったことであろう。
これと共に瀧子の一生の質実さも思いやられる。
ああ、百合之助は瀧子をのこして不帰(ふき)の客となった。
貞淑な瀧子は、老いの身も労(*いたわ)しく59歳で、寂しくも、頼み少なき寡婦生活に入ったのである。
思えば瀧子ほど家庭的に恵まれない境遇はなかった。
まして胸中に万斛(ばんこく・*一石の万倍。はかりきれないほどに多い分量)の涙を宿すと云っても、秋毫(しゅうごう・*きわめて微細なこと)さえも憂愁の色を外に現わすことはなかった。
如何に心中の乱れはあっても、どんな辛苦難事に遭遇しても、悠揚(ゆうよう・*落ち着いているさま)として迫らず、心のゆとりを示して、動じる色は見せなかった。
愛児に先立たれ、夫と死別し、女婿を失い、親戚縁者の不孝を目前に眺めながらも、些々たる周章(しゅうしょう・*あわてふためく)狼狽の様子もなく、起居動作、あたかも平生に異なることなく、泰然自若、不動の心を示していた。
(以下、1行、略します。)
◆ 雄々しき節婦 烈女の亀鑑
◇ 前原 一誠の覧と瀧子の態度
慶応元年(*1865年)と云えば、藩政府は俗論党の掌中にあって、正義党一派の追討を企てていた最中である。
そして長子(*長男)の梅太郎は杉 孫七郎、笠原 半九郎などと共に鎮静会(ちんせいかい)なるものを組織して大いに正義派擁護のために力を致していた時であった。
続いて梅太郎は、藩・世子公の侍講(じこう)ともなて、だんだんと出世の道を辿(たど)るのみであった。
愛児・寅次郎を失い、夫・百合之助に別れた瀧子にも長子のこうした御奉公に、心潜(ひそか)に喜んでいたことであろう。
寡婦となった瀧子は、長子・梅太郎の国事奔走と立身出世を頼りに、痛々しい心を慰めつつ、ひたすら夫や愛児・松陰や、また国に斃(たお)れた その弟子達の冥福を祈るために深く佛門に帰依したのであった。
山河の眺め静かな松本の里にあって、朝な夕なに浄土三昧の佛光を仰ぐ外は、とかく国事のために外にありがちであった梅太郎の子供達を愛撫しつつ、一門故舊(こきゅう)とも睦まじく交わって留守居の余生を心静かに楽しんでいたのであった。
ところが計らずも、明治9年10月、萩で前原一誠の殉国軍の騒動が起こったのであった。
前原は前名(ぜんめい)を佐世 八十郎と云って、夙(つと)に松下村塾に入って松陰先生の尊攘殉国精神を力強く打ち込まれた愛弟子の一人であった。
松陰先生も かつて『八十は勇(ゆう)あり、智あり、誠実は人に過ぐ、その人物は完全であり、父母に事(つか)えては至孝である』とまで激賞されている程の人物である。
また玉木 文之進の人格的教養をもうけて、松門三俊傑とも云われていた程であった。
夙(つと)に師・松陰先生の勤王護国の大精神を継承して国事に尽瘁(じんすい・*力を尽くし、倒れるほどに苦労する)し、維新の際には各地に転戦し、ことに北越官軍の参謀となって偉大な武勲を樹て、明治新政府の樹立と共に兵部大輔の重職に任じられたのであるが、軍備拡張論や征韓論などで廟義と意見が一致せず、西郷隆盛などと共に職を辞して『十年閑却(かんきゃく・*打ち捨てて置く)す 故山(こざん・*故郷)の花』と感慨を述べて、巴城(*はぎ)故山の花を再び見んもの、と辞任、帰国と途に就いたのが明治3年の春であった。
爾来(じらい・*それ以後)、所謂、その故山の花である巴城(*はぎ)の地にあって、時世の幾変遷に憂国の血涙を濺(そそ)ぎつつ、日夜、悶々の情黙し難く、遂に師・松陰先生の至誠殉国の大義心を奉じよう覚悟し、殉国軍なるものを組織して萩で挙兵し、君側の姦を芟除(せんじょ・*刈り除くこと)しようと奮起したのが、すなわち、この萩の内覧であった。
これは遂に失敗に終わって、前原など一味は島根県下・宇龍港でとらえられ、同年12月3日、斬刑(ざんけい)に処せられたのである。
この萩の乱に際し、玉木 文之進は、かつての教え児であった前原の動静に、稍(やや)、
解し難い点があると云うので、機会ある毎に大義を解き、名分を諭して暗に、その軽挙を戒めていたのであるが、遂に前原の挙兵が失敗に終わったので、『これ、吾が平生教育の誤るが故である、いかにしてか地下の父老に相 見ゆることが出来ようか』と云って、先祖の墓前で自刃したのであった。
ああ、教え児の罪を吾が教育の誤りである、として、自己の死を以て、これを償う、実にこれ程、崇高な師たるものの儀表(ぎひょう・* 手本)は、あるまい。
これほど尊き教育誠心は、あるまい。
瀧子としては、夫 亡き後のただ一つの力の頼みたる独りの義弟・文之進をも、またまた失ったのであった。
瀧子は、どんなに失望、落胆したことであろうか。
それに、また先に松陰先生の後継(あとつぎ)となって吉田家に行き、第二の松陰になろうと、一家中の者共が、希望の力を入れていた孫の小太郎(梅太郎の子)は、前原の行動は祖父・松陰先生の大志を継承しての護国大義に殉じるものである、として前原党に参加し、あの純情無垢な19歳の青春を あたら花と散らして討死(うちじに)したのであった。
瀧子の心情は、どうであったろうか。
思い返せば過ぐる日、銃声が聞こえた朝、一寸、杉家に立ち寄って、それとなく最後の別辞を残して出て行った孫・小太郎の後姿が目の前にちらついて熱い涙に胸は裂けんばかりであったろう。
あの可愛い孫が、血にまみれて斃(たお)れたか、と思った時には、瀧子もさだめし泣き崩れたことであろう。
それのみならず玉木家の相続人であり、梅太郎の長女、瀧子のためには孫の豊子の婿である玉木 正誼(せいぎ)(の儀将軍の弟)も参謀格で前原党に参加し、萩の海岸・越ヶ浜で追っ手の兵と戦い、遂に斃れるに至ったのであった。
日頃から、その憂国の至誠は兄(乃木将軍)にもまさる雄々しさであって、杉家一門の誉(ほまれ)である、と、皆々、末を頼みにしていた養子・正誼であった。
瀧子の心は重ね重ね乱れ曇ったことであろう。
◇ 乱に処して 一糸乱さぬ沈着心
思えば、静かなりし孫を相手の信仰生活も実に、つかの間であった。
有為転変(ういてんぺん)は、世の常なりとは云え、すべてが夢のようであった。
いまは、また数年前のように杉家一門 受難の時が来て、一大災難が降りかかって来たのである。
前原の内乱に一家一族のこうした不幸悲運の上に、近寄れば何時不慮の災禍罪累が及ぶかも知れないとあって、日頃、昵懇(じっこん・*親しく交わる)な近所の者さえも後難を恐れて寄り付かないと云う状態であった。
ことに玉木 文之進は、前原党の示唆者であるとの官の嫌疑で厳しい家宅捜査までも受けなければならず、それに玉木の死骸の後始末も講じなければならないと云う、実に乱れに乱れた荊棘(いばら)の中にあって、瀧子一人の決断措置に待たねばならない立場であった。
常であれば、唯一の相談相手である玉木がいる。
しかし玉木は自刃した。
ただ頼りの一人である長子・梅太郎は軍奉行として遠く隔てた玖珂(くが)の山代に勤めていて、到底、急場の間には合わない。
近所の人々には相談どころか、慰めの言葉一つも交えてくれる者もない。
嵐の中の走馬灯のように暗黒界に再び沈んだ あの憂悶の家庭、この粉々と乱れに乱れた家事、この心寂しい日々の中にあって、気丈夫な瀧子は、平然と一糸乱さず沈着不動の心を示して、これらの乱れ襲い来ることの数々の後始末を、少しも誤ることなく処理して行って、余の人の後ろ指一つ、指されることなく立派に家政を切り抜け整(ととの)えて行ったのである。
思い返せば、瀧子も愛児・寅次郎の刑死の時は、未だ夫・百合之助が元気であった。
百合之助と死別した時には、梅太郎もいれば玉木もいて、瀧子も老いたり、とは云え、まだ59歳であった。
しかし明治9年には、既に瀧子は71歳の高齢に達していた。
そして、一族の長老である玉木 文之進、愛孫の小太郎、それに末を頼みにしていた養子・正誼など、一時に3人の肉身をうしなっては、如何に気丈夫な瀧子と云っても、老いの骨身に この世の悲哀が、しみじみと徹したことであろう。
(*以下、11行、略します。)
◆ 静謐なる瀧子の晩年
◇ 宏大無辺の聖恩が愛児の枯骨に及ぶ
乱運去来し、醒風惨雨(さんう・*むごい雨)の吹き荒(すさ)んだ幕末維新と云う大修羅場の嵐も漸く晴れて、討幕復古となって明治新政府が、いよいよ創始されるに至ったのである。
しかし、明治10年頃迄は、未だ戦雲の飛翔もあって神風連党や佐賀、萩などの内覧ともなったが、西南の役を最後として明治維新の曙光は、いよいよ麗しい採霞に包まれて、中空に輝くようになって来た。
そして時世が治まれば治(はじ)まるにつれて、時代が静まれば静まるにつれて、世人(せじん)も過ぎし幕末維新の風雲を思い返すようになって来た。
従って当時、君国に殉じて一死奉公の赤誠を致した幾多の尊い勤王烈士の英霊を追慕して、その 人となり や その勲積を礼讃(らいさん)するようになり、また彼らの崇高な血潮を分けた肉身の遺族や忘れ形見などに対する敬愛思慕の 情けやみ難いもの があるようになって来たのは、まさに日本人としての本然の心であり、伝統的な至情でもあったろう。
したがって松陰先生のような(*人は)、まさに その雄なるものの一人であった、と共に『吉田松陰の母 瀧子』も夙(つと)に世に顕われて、その主なるものの一人であった。
それであるから、前にも述べたように、遠くから書状を寄せて、写真を請う者さえもあったような次第であり、明治16年には三条公の手を経て、畏(かしこ)くも天覧に供せられるところとなり、また皇后陛下の御慈(いつくし)み深い、あの品川 弥二郎(品川 弥二郎書翰参照・*本篇・◇昭憲皇太后(*明治天皇の皇后)の御仁愛 を参照。
)への御言葉を賜うことにもなったのであった。
ことに薄命不運の愛児・松陰先生は、明治22年2月11日、憲法発布の盛典に当たっては、正四位御贈位の御沙汰を拝されて、宏大無辺(こうだい むへん・*広くて大きく果てが無い)の聖恩枯骨(せいおん ここつ・*天子の恩恵が死人の朽ち果てた骨)に及び、母の瀧子は、血泣九拝(きゅうはい・*何度も頭を下げて敬意や謝意を示す)、感涙に咽(むせ)んだのであった。
―――――――
御贈位 宜旨
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第1巻の口絵の写真および説明文より]
明治22年2月11日 勤王の功を嘉せられ特旨を以て正四位を贈らる。
◇ 念佛唱名 往生楽土の佛光に浴す
瀧子は、こうした度毎に夫・百合之助と愛児・寅次郎との霊前に燈明をささげ、さながら人にものを云うように、その特旨を報告し、わが身独りが生きながらえて、その鴻恩(こうおん)に浴することを拝謝しては、相済まないと云って、先立った夫のことや不遇となった松陰先生のことなどを思い返して曇り勝ちであった、と云われている。
明治23年の秋、松下村塾の故址(こせき・*昔あった建築物の土台石)を修理し、また小祠を建てて、松陰先生の神霊を祭ることになった その上棟式(じょうとうしき)の時に、瀧子は、かねてより余りにも肥満していて起居も不自由で、多くは褥(しとね・*ふとん)を離れなかったのであったが、輿(こし)に乗って式に参列し、ありし世の数々を偲んで喜びの涙に咽(むせ)んだのであった。
式後、開宴の際は、終始、筵(むしろ)に列して盃を賓客に勧め、下々の職人までにも盃を廻し、満面喜悦の情に覆われた、と云われている。
こうしたところにも瀧子の平常の至情の心構えが、よく現れている。
晩年の瀧子は、敬虔な信仰生活に入り、嘗ては本願寺法主明如上人に参して直々に妙義を聴聞し、また島地黙雷・大洲鉄然・赤松連城など諸師の教えを受けて佛教の蘊蓄(うんちく)を極め、念佛唱名を以て往生楽土の佛光に浴しつつ、皇佛二恩の報恩感謝の日々を送っていたのであるが、明治23年8月23日、たまたま流行性感冒に罹り、同月、29日、84歳の長寿を保ち、念佛の声と共に溘焉(こうえん・* にわかであるさま。多くは、人の死の形容に用いられる)として涅槃(ねはん)の雲にはいり、長逝したのであった。
◇ 日本母性として永遠に輝く精神
不思議にも この8月29日、それは夫・百合之助の祥月命日(しょうつきめいにち・*一周忌以降、故人が亡くなった月の命日)である。
瀧子は夫・百合之助の死んだ その日に静かに瞑目(めいもく)して夫の側に帰って行ったのである。
幽冥界を隔てるとは云え、二人の心は常に親しく相 通って現世の契りのように朝な夕なに心の宿(やどり)があったっことであろう。
曾(ひいて)は愛児の霊に通い、今は夫の霊に結ぶ、実に瀧子の神霊ほど神秘にも崇高な神霊力のあったものはあるまい。
この霊、通い、これが神秘な日本人の血潮である。
(*一行、略します。)
神秘な霊的・瀧子の永眠7日の後、皇后陛下の思召を以て金百円を賜り、瀧子はまたも身に余る九重の恩寵(おんちょう)に浴したのであった。
また本願寺大谷法主夫人は、瀧子の訃を聞き使僧を派して左(*下)の挽歌をよせて
實成院釈智覚乗蓮の身まかりければ
国のため つくししのみか 伝えつる みのりの道は ふみもかがへず
と、弔うている。
この乗蓮(じょうれん)の諡号(しごう)は、大谷法主が嘗て瀧子にあたえたものであった。
ああ、瀧子が杉家に入って以来60有4年間の生涯は、世のあらゆる辛酸難苦をなめつくした所謂(いわゆる)波乱重畳の一生であった。
そしてその残生は、信仰心によって輝かしく静かに沈み行った生涯であった。
この艱苦と静寂の間に練られた心の源泉の清水は、汲めば汲むほど豊かなものであった。
その尽きることなく出づる瀧子の清水は、夫と日を同じくして死んだのみならず6人6様の子度に清く永(とこし)えにながれている。
しかも、あの忠誠殉国の吉田松陰と云う愛児を通じてこの世に遺した殉国大義の護国の大精神は昭和の現代(*本篇発行時は昭和16年)にまでもよどみなく清く濺(そそ)がれ流れているのである。
(*この時代の)婦人として、母性として、この永遠に濁りのない清水の心を汲まねばなるまい。
本篇
(了)
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。


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