吉田松陰の母 を読む6

吉田松陰の母 を読む6

◆ 松下村塾の母・瀧子

◇ 松下村塾の由来に就いて

まず最初に松下村塾の由来の代替、一応、知っておかねばならないが、村塾の由来については、拙著『吉田松陰の殉国教育』の中に相当、詳しく述べておいたので、ここでは部分的に、それを抄録することにする。

松下村塾は松陰先生が一代の心血を傾注された教壇であった。
勤王志士の卵を孵化(ふか)して育成された保育道場であった。
維新改革の烽火(ほうか)を打ち上げられた聖地であった。
先生がその有せられる全ての相を現わして、八面六臂の奮躍を試みられた最後の舞台であった。
その故に、単なる講道説義の学舎道場ではなくて、日夜の別なく門生と共に、時には慟哭(どうこく)し、時には痛憤(つうふん)し、時には慷慨(こうがい・*世間の悪しき風潮や社会の不正などを、怒り嘆くこと)し、時には振るい立ち、時には自ら陣頭に進立して門生を指導された所であった。
実に松下村塾は維新改革の教壇であると共に、またこれが活動策戦の参謀本部でもあった。
そして、その学舎は僅(わず)かに18畳半の陋屋(ろうおく・*狭く むさくるしい家)であり、その期間はただ2ヶ年有半、教師は松陰先生、唯一人、教科書は所謂、書物ではなくて、先生自らなる その人自体であった。

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松陰幽囚室
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第3巻の口絵の写真および説明文より]
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萩市松本、杉氏舊邸の一室である。
室の広さ4畳半、東は窓、南は出入り口、西は壁で素村神霊壇がその1畳を占め、北は客室に通ずる。
安政2年12月、松陰は野山獄を免ぜられてから、同5年12月、再び入獄を命ぜられるまで、此室に蟄居の身となったのである。
尤も安政5年中には松下村塾に起居しこともある。
ともあれ松陰の読書と著作とは最も多く此室に於て為されたもので、自ら三餘七生の室と稱した。
写真は其 東窓から室内の望んで撮ったものである。
大正11年11月、内務大臣より史蹟として指定せられた。

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そもそも、この松下村塾は、先生の叔父・玉木 文之進が、天保13年(*1842年)に付近の子弟を集めて教授された時に、その学舎に扁名(へんめい・*二字で成り立っている名の一方の字。)されたものである。
ところが天保14年(*1843年)10月に(*玉木 文之進が、)再び士官されたために、松陰先生の養母方の厳父の久保 五郎左衛門久成と云う人がその跡を継(つ)いで、松下村塾、又は久保塾とも云って村の子弟を会し、素読、筆札(ひっさつ・*筆と紙。転じて、書法。)の類を授けていたのであった。
世間では、この人を所謂「村の手習い師匠」位に云っているのであるが、決してそんな素読龍の人ではなかったようである。
伊藤 博文も吉田 稔丸(よしだ としまる)も初めは、この人に修学したのであった。
その内に松陰先生は、安政2年(*1855年)12月、野山獄を出られ実家・杉氏の宅へ帰られたのであるが、未だ禁錮の身の上であるから、一切、外間との接見は禁じられていて、僅(わず)かに久保 五郎左衛門を始め親戚の者共と、時々会し、講究を続けておられたのであった。
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松下村塾の聯(*れん)
*聯(れん)とは、詩句、または絵をかき、また彫刻して、柱や壁などの左右に相対して掛けて飾りとする細長い板のこと。
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第4巻の口絵の写真および説明文より]
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この聯は長さ166糎(センチ)、切り口半円弧の長さ18糎(センチ)ばかりの孟宗竹製である。
文句は松陰の自撰自筆で、安政3年の秋、当時 松下村塾の経営者であった外叔父 久保五郎左衛門に贈ったものである。
そこで久保は自ら剞劂(きけつ・*彫刻用の小さい刃物)をとって これを聯につくり、塾の柱にかけたのである。
文に曰く
 自非読萬巻書、安得為千秋人、
 自非軽一己労、安得致町民安心、
丙辰秋日  藤 寅 書

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そのために当時、別に久保塾と云うものがあったかのように見立てているものもあるが、実は、一時、久保氏と共用されていたまでのものであって、むしろ先生の教授所であったが、先生が当時、屏居(へいきょ)の身柄であったから、憚(はばか)って殊更に久保氏の銘義を仮用されたものである。
そして先生が、この禁錮屏居中において身を持し、官命を尊守されたことは、実に謹厳しそのものであって、聖人はその独を慎むと云った感があった。
先生が、その囚禁中の安政3年正月に書かれた『幽室の壁に題す』と云う文章の中に
(*以下、意訳。)
余、恩命を忝(かたじけのう・*感謝)し、獄を免(ゆる)されて病を家に養うを得たり。
しかしながら禁錮の身で、官、厳に その交際を禁じる。
よって一室を掃(はら)って退所し、みずから、この誓いを為して(*作って)云うに、
『飯に赴き、厠(かわや)に上がるのでなければ、敢えて跬歩(きほ)(半歩)を移さず、1、2の親戚の他、旧交、密友も一切謝絶し、敢えて半面を接せず、書信の往復をも論じることなく、乃(すなわち)人の為めに一字を書せず。とあるように、(*ここまで、意訳。)何事にも、この気持ち精神が先生の真情であって、謹慎中のみであるとは云え、1年有余の獄中生活から実家に帰られた身の上である。
それなのに、なお飯に赴き厠(かわや)(便所のこと)に行く他は敢えて半歩も移さない。
旧友と一字も交わさない。
獄中においては司獄が黙認する限り、自由な振舞いもよいとしても、家庭においては肉身の恩愛に却って義が覆われ易いものであるから、特に慎しまなければならない、と堅く心に誓われた先生の心境、あたかも古聖賢の面影がある。
このようにして、杉家の東隅の3畳伴の一室に、約7ヶ月間を送られたのである。
藩禁は未だ解けないにしても、先生の学徳を慕って、日日、密かに来て学ぶ門生が増して来たので、安政3年(*1856年)夏頃から半ば、公然と門生に接せされたが、藩許(はんきょ)があったのは同5年の7月であった。
杉家宅地内にあった在来の小屋を学舎とし、村塾を継承して、いよいよ その鴻志(こうし・*大志)を伸ばすことに至った次第であって、ここに名実共に先生が塾主となって、その教育に当たられたのである。
そして安政3年(*1856年)8月22日、武教全書を開講されたのを始めとして、9月4日には、かの有名な松下村塾記を作って、尊攘大義の大精神・大抱負を振りかざして更生する村塾の基礎を固められたのである。

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松下村塾記 原稿 (丙辰幽室)
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第4巻の口絵の写真および説明文より]
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松下村塾記は、安政3年9月、外叔父・久保翁の塾の為に書いたものであるが、将来、自らその後継者となるべき事を期する文意が十分に窺われる。
これは松陰が教育の眼目を論じたもので、実に日本教育の指標とも云うべきである。
ここに掲げたのは松陰の原稿であって、添削は友人 土屋 蕭海(*しょうかい・明倫館の助教、次いで侍講に進む。)が施したものであり、成稿は(*本全集の)丙辰幽室に載せてある。
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先生は、この3畳半の幽閉の室には、その後、安政5年(*1858年)11月29日に再び、
藩政府の忌憚(きたん・*忌みはばかること)に触れて、閉塾・厳囚の身となられた時にも入られたのであって、前後2回、この室に幽囚せられ、その時も前回と同様、実に謹厳、そのままであって、
(*以下、意訳)
安政戌年(*5年)11月29日、私は父兄の言に従い、一室に厳囚する。
その室 方丈、東窓南戸、北に先霊の位を設け、また遠く城山を当たる。
その中に一地爐(ちろ・*地上、又は床に設けた炉)を開く。
私は、その東位に坐し、近くは先霊に対し、遠くは城山を垬(おさ)める。
寝れば、すなわち、東南に首する。
東南は、これ、京都のある所なり。
これにおいて、親友、密とも、同志の士、一切謝絶する。
書信、往復と云えども、敢えて一字を通さない、云々。(*以上、意訳)
 と云っておられるように、先生はこの一室において、北に先生の霊牌を祭り、木隠れに藩主の城山を望み、京都の方に向かって坐し、一切の書信を断ち、前回(安政3年)と同じく右には『三餘読書』、左には『七生滅賊』の四字幅を掲げ、その間に坐して日夜、悠々自適、潜(ひそか)に世の移り行く有様を悲憤されていたのである。
父・百合之助は先生の正義・信念を固く信じて、その苦難に同情しつつ、なお激励に力(つと)め、母の瀧子は涙を袖に包んで、この不遇な英才を慰め、兄・松太郎、又、志を同じくして共に大義を説き、あるいは傾聴し、門生など、又、幽囚内外の周旋慰問に力(つと)め、弟妹も兄に対する尊敬と信愛とに至ることのない誠を示している。
松陰先生などは慟哭して悲憤概起(ひふんがいき)せざるを得なかったことであろう。
先生の『やむにやまれぬ大精神』が出来たのも、こうした家庭の空気が導いたものである。
このようにして、間もなき先生の野山再投獄によって、一応、松下村塾は形式的に閉鎖されたわけである。

◇ 寄宿生への心尽くし

松下村塾は松陰先生の山鹿兵学の私塾であり、尊攘道場であり、しかも家庭的人情味の溢れた学舎でもあった。
そして門生中には村塾に起臥(きが)して苦学するものもあれば、寄宿しないにしても、昼や晩の食事を共にして愉快に勉学した連中もある。
したがって先生と門生との関係の親密なことは、まるで親兄弟のようであった。
先生は新入門生があれば、自分は師にはなれないが、お互いに兄弟となって共に勉強しようと云われていた。
昨年(*昭和16年)、98歳で亡くなられた先生の直門弟(じきもんてい)であり、当時迄の松門、唯一の生存者であった渡辺 蒿蔵(*こうぞう)翁の話に、
(*以下、意訳)
自分が村塾に入門したのは15歳の時であった。
当時、村塾に寄宿していた塾生に周防山代生まれの医者の息子で増野 徳民(ましの とくみん・*尊攘運動家、故郷で医業、軍医に専念。)と云うのがいた。
自分よりも12歳年上であったが、至極、利口で手先のことも器用であった。
先生の頭髪は何時も、この徳民がお結び申し上げていた。
時には先生の着物などの始末までもしていた。
真に家庭的恩情が溢れていた。
自分などが炊事登板で飯を炊く時には、徳民が水の加減やら火の焚き方などを教えて呉れたものである。(*ここまで、意訳)
 と、云っておられた。
また、芸州の富樫 文周(とがし ぶんしゅう)も当時、寄宿していたようである。
そして、先生の所謂『塾に来て飯を炊いて宿す組』の中二派、有吉 子徳(ありよし しとく・*通称、熊次郎。後、禁門の変で久坂、寺島らとともに鷹司邸内で自刃した。享年23)もいたのである。
 今、松下村塾・食事人名控(安政5年)なるものを見ると、塾生が互いにお米を持ち寄って教導炊事で、共に食い、共に学んだ連中に、中谷 正亮(なかたに しょうすけ)、富永 有隣(とみなが ゆうりん)、岡部 子揖(おかべ しゆう・*岡部 富太郎。木戸孝允が妻の幾松と婚姻する際に岡部が幾松の養父役になったことでも知られる。)、野村 和作、竹下 琢磨などがいる。

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松下村塾 食料月計(上図)と同 食事人名控(下図)
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第7巻の口絵の写真および説明文より]
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 安政5年8月頃は、松下村塾が最も盛んであった時期である。
この頃は食事に関係することも複雑になり、遂に、ここに掲げた様な控えが必要になったものと思われる。
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通心寺(つうしんじ)の小僧・提山(ていざん)は、さすがに寺生活に慣れていたと見えて、毎朝、早くから村塾に来て、黒衣の袖を引き上げて炊事をやった、と云われている。
実際、こうした連中は、炊事や調理や一切を同志でやって、薪炭(しんたん)、味噌、醤油などに至るまで、人手を借りずに自分達で買い求め、村塾で炊事生活をやった、ものである。
 こうした塾生活を、そのまま傍観しているような瀧子ではなかった。
実際、瀧子は塾生炊事生活のよりよき相談相手であり、指図者であり、総世話人であった。
ことに寄宿生に対しては、親にも優る慈愛の寮母であった。
熱情的青春時代を遠く家庭を離れて他郷に炊事、勉学する塾生たちは、何れも口を揃えて、
『杉のおばさまは親切だ。』と、感激、感謝した、と云うのも当然のことであった。
実際、瀧子は松陰先生の同志・交友や門生達の世話、面倒を心から見てやったものである。
熱血青年達が自然と親しみ集ったと云うことも、この母の瀧子のこうした親切味が大いに預った力のあったもので、彼女が松下村塾の教育を如何に内面的に外形的に助けて行ったか、と云うことを忘れてはならないのである。

◇ 品川 弥二郎の塩茶漬け

その塾生の一人であった品川 弥二郎、名は日孜(にっし)、字は思父(しふ)、又は、
思甫(しほ)とも云って、これが松陰先生が命名されたものである。
号として念佛庵主、五明州、春狂などがあり、15歳の時(安政4年)入門した。
 品川の家は、検断(けんだん)(罪人の首を斬る監査役)の家筋であったが、ある時、弥二郎は父に向かい、『家の職務として兄上は検断の役に就かれるのも致し方ないとするも、願わくは自分は、人を助ける身分になりたい考えである。
就いては、松陰先生の所に入塾して教えを受けたい。』と願い出た。
父はこれに対して、『苦学力行(くがく りっこう)(*苦労しながら懸命に勉強すること)の覚悟があれば、行くのもよかろう。』と許されたので、いよいよ、入門して自炊、苦学をすることになった。
そこで時には豆腐の糟(かす)に塩を入れて水を和(わ)し、僅(わず)かに、米、一つまみを加えて食となし、別に副食物(おかず)と云うようなものも なかったのである。
そうであるから、一合の米を買えば数日もあった、と云うようなことは、今どきの学生には到底、想像さえもできないのであった。
松陰先生は、食事時には村塾から隣の杉家に帰って食事をされることが多かったが、膳に
お菜(かず)がある時は、母の瀧子や兄・松太郎の婦人に向かい、
『お母さま、品川は年少でかわいそうに苦学をしている。このお菜(かず)を持って行ってやって下さい。』と云われると、瀧子は、『それを分けてやらなくとも、こちらに沢山あるから、お前はそれをお上がり。』といった。
しかし、先生は、さらに『いや、私が既に、こんなに母上たちに厄介になっている上に、品川まで世話をかけてすみません。』と云って、自分のものを品川にわけられた、と云う逸話がいまも残っている。
この親切な母の瀧子、この切なる子弟の心情を思うと誰人(たれびと)も泣かされずにいられまい。
 後年、品川子爵が少年時代における村塾のことを追懐される度毎に、慈母のような瀧子のやさしい情愛を思い浮かべられて、昔話に感激の涙を流された、と云うことである。

◇ 梅田 雲浜への歓待

安政3年(1856年)の師走、梅田 雲浜は長州藩の同志と志を通じるため、はるばる京都から萩にやって来た。
当時、松陰先生は、未だ杉家・幽囚中の身柄ではあったが、何かと陰に周旋して同志との会合、手配を策されたものであった。
 ある日、雲浜は松本の宅二松陰先生を訪ねて来た。
母の瀧子は、先生が先年、京都で世話になられ、又、雲浜の人物も、ほぼ聞き及んでおり、
云わば、先生の同志であり、先輩でもある。
何とかして雲浜を歓待しょうと心を砕いたのであった。
しかし、もともと余り豊かでない家庭のことであるから、そんなに思うように行くはずがない。
遂に瀧子は思案の末、一案を考え出した。
それは瀧子にとっては、片時も肌身に離し得なかった大事な、嫁入り当時に養母の形見として貰った櫛や、笄(こうがい・* 髪をかき上げるのに使った、箸 (はし) に似た細長い道具。銀・象牙などで作る。)などの処分であった。
早速、これらを売って雲浜接待の費用に充てたのであった。
 平素、簡易生活の杉の家庭のことであるから、松陰先生も、この歓待振りに驚かれて、雲浜の去った後で、その様子を聞かれ、母の苦心の仔細を知られた時には、今更ながら その同志思い、吾が子思いの母の慈愛に泣かれた、との話が今も残っている。


◆ 松下村塾の母・瀧子

◇ 有合わせものでの饗応

杉の家風とでも云うべき客のあしらい方につき、千代子刀自が、後年、次のように語っておられる。
(*以下、意訳。)
 
松陰は顔には痘痕(とうこん)があり、世辞は努めて用いず、一見、甚(はなは)だ不愛想なように思われたけれども、一度二度と話し合う者は、長幼の別なく慕い、懐かしく思う者はいない。
松陰も相手に応じて談話を試みた。
松陰は、又、好んで客を遇した。
御飯時には必ず御飯を出し、客に空腹を忍んで談話を続けさせるような事は、決して
なさらなかった。
珍味佳肴(ちんみかこう)がなくても、御飯時に御飯を進めることを差し控えるようなことはなかった。
有合わせの物だけ出して、快く客と共に箸を持つことを楽しんだ。
たまたま客を請うことがあると、珍味を少し用意するよりも、粗末なものでも沢山出すことを好んだ。(*以上、意訳。)

また、渡辺 蒿蔵(*こうぞう)翁は次のように云っておられる。
(*以下、意訳。)

松陰先生は門下生を集めて、屡々(しばしば)会食をされた。
その時は肩の凝らない人情話があったが、情味たっぷりな人間と生まれては、こうあるべきと思わさせる人倫道徳に触れている平易な実践道徳論であった。
そして、先生はお話しが上手であったから、門生達の腹の底までしみ込むように、よく分かった。(*以上、意訳。)

これが杉の家風であり、瀧子の主義であった。
そうであるから、瀧子は先生の同志でも村塾を訪ねて来ると、先ず、その縁らを謝して喜び迎え、食事のようなものは、城下の片田舎のことであるから、これと云う物はないにしても、まずいものでも盛沢山にして心から進め、田舎酒の一本でも温めてだす、と云った真心こめての歓待であったから、外来者は何れも好感をもって喜び帰ったものである。
 こうした遠来の珍客でなくとも、塾への通学生の中には昼の弁当に梅干しや握り飯や焼き餅などを竹の皮に包んで持って来る者もあった。
瀧子は、これらの塾生達には自宅から沢庵漬けやお煮しめなどを持って来て与えた。
或いは夕方にもなれば風呂を焚いて門生達をもてなしたのであった。
 ことに松陰先生は時々、塾生達を引き連れて、兵学教練の野外実演に出かけられることが度々であった。
こういう時には、必ず瀧子は風呂を沸かして塾生達の帰りを待ち設けていたのである。
このお風呂のもてなしは、塾生達の最も喜び好んだものであって、今に語り伝えられている、瀧子礼賛談の一つである。
 こうしたもてなし、こうした世話、こうした愛情、こうした親切、瀧子の心はいつも吾が子・松陰先生の心中に宿っていたのは勿論、吾が子の同志、吾が子の門生達のその何れの心にも宿っていたのであった。
村塾の隆昌も又、この瀧子の心が大いに与(あずか)って力のあったものである。

◇ 煎豆・番茶に、こうせん一杯

松下村塾では、毎月一回、詩会の催しがあるのが例となっていた。
ある日、詩会が果てた後で、松陰先生は久坂 玄瑞に向かい、
『久坂、一つ詩吟をやって聞かせ。』と、命じられた。
日頃、詩吟を得意としていた玄瑞は、直に音吐朗々(おんとろうろう)、
『雪中の松柏(しょうはく)いよいよ青し。 綱常(こうじょう)を扶植(ふしょく)するは、この行に在り。』と云う魏(ぎ)の参政が縛(ばく)に就くを送る謝畳山(しゃじょうざん)の詩を吟唱(ぎんしょう)したのであった。
坐に連なっていた高杉 晋作、入江 九一、寺島 忠三郎、品川 弥二郎などは、いずれも皆、感に打たれていたが、平生、寡黙を以て聞こえていた前原 一誠は、雙眼(そうがん・*左右二つの目)に玉のような涙を浮かべて『男子の本懐は、まさに其処(そこ)じゃ。』と、
ただ一言、大音声に叫んで一座の者を吃驚(びっくり)させた、と云う逸話が残っている。
 この詩会の おあいそが、いつも煎豆(いりまめ)と番茶であった。
瀧子の心尽くし煎豆、これも自宅の畑で自ら作ったものであったろう。
妹の千代子が番茶を焙(ほう)じて持ち出したことであろう。
それも母の瀧子の指図によったものであろう。
 松陰先生が自ら『吾が良薬なり』と云っておられる人に、吉田 無逸(よしだ むいつ)と云う人があった。
安政6年10月7日、すなわち、松陰先生の死刑の20日前、どうしても先生は、無逸の将来が気にかかって仕方がない。
何とかして彼の大志を伸ばして勤王義戦の第一線に立たせたい。
そこで高杉(*晋作)に後事を託された書中に、
『栄太(無逸の名) 遂に棄て難い。旧臘(きゅうろう・*去年の12月)2日夜、こうせん一杯を飲んで、栄太との別れは永訣(えいけつ・*ながの別れ。普通、死別することに云う。)』
と、云っておられる。
この、こうせん(米の粉を湯でねったもの)一杯飲んでわかれた、と云われた先生の真情・熱愛にハッと胸を打たれた無逸は、飜然(ほんぜん・* 速やかに態度を改めるさま)決意して江戸に上り、彼の活躍舞台に飛び出したのであった。
前原 一誠は、煎豆 詩吟で発奮、振起した。
無逸は、こうせん一杯で、断然、死地へ飛び込んで行った。

◇ 米つき台の勉学

安政5年(1858年)6月、松陰先生が久坂 玄瑞に与えられた書翰の中に
(*以下、意訳。)
この節、大暑中でありますが、非常に壮健であります。
隔日、左(*下)に伝わる八家の会読、勿論、塾中に常に居り、七つ過ぎ(*午後4時頃)に終わりました。
それから畠、又は米つきを塾生とこれをしました。
米つき、その妙を大いに得て、大抵(*恐らく)両3人、同じく上り、会談をしながらこれを舂(つ)く、史記など24、5葉を読む間に米つきを畢る(*終わる)、又、一快である。
(*ここまで、意訳。)
と、云っておられ、また松下村塾零話(れいわ)(門人・天野 御民 著)には、
(*以下、意訳。)

先生、前年に藩籍(はんせき)を削り、碌を没収され、その父・杉 百合之助の家に禁錮される。
その後、門人を教授するのを許される。
よって、その家事を助けるため、米を臼(きゅう)す。
大体、萩地方で米と米を舂(つ)く器は、台柄と称し中央に鳥居と云うものがあり、これを持って体を助ける。
舂(つ)く者は鳥居の後方にいて、助手は前に立つ。
先生、鳥居の上に見台を拵(こしら)え、門人を助手として書を授ける。
余(*私)も屡々(しばしば)、助手となり、大日本史を授けられたのである。
(*ここまで、意訳。)と、述べている。

実に先生の実践躬行(じっせん きゅうこう・*理論などを自らの力で実際に実行してみること)の教導の状を見るような感がある。
この米搗台(こめつきだい)(萩地方では、これを台柄と云う)は、今も松下村塾に残って保存されている。
これは松陰先生の父・百合之助常道が先生の兄弟が幼時の際、常にこの台上で米を搗(つ)きつつ読書を授けられたものである。
当時、母の瀧子も臼(うす)の交ぜ合わせや糠(ぬか)の篩い(ふるい・*ふるいにかける、の‘ふるい’)などに加わったことであろう。
自分(著者)も夜なべ仕事に家中一同がよりあって米搗き(こめつき)をした幼少時の記憶がいまも存している。
こうしたことは松本あたりの風習でもあったのである。
 松陰先生は、この親の流儀を継いで常に飯料米を搗(つ)きつつ、塾生と共に読書、研学されたものである。
思えば米を搗(つ)きつつ、先生と門生とが会読する。
糠(ぬか)を篩(ふる)いながら、師の講義を聞く。
実に愉快な場面ではあるまいか。
これも松陰先生が自由に行往坐臥(ぎょうおう ざが・*日常の立ち居ふるまい。転じて、平生。)の間に、自己の実践そのものによって感化、薫育を徹底させよう、とされたものであろう。
こうした時に必ず現場に臨んで、何にくれとなく、お米の世話や糠(ぬか)の始末など、諸般の世話指図をした者は、母の瀧子であった。
塾生は学問では松陰先生の弟子であり、こうした日常・渡世のことについては、瀧子の指図を受けた弟子のようなものであった。

◇ 汚れ物の洗濯

松下村塾の経営は、杉家ならびに松陰先生の自弁であって、別に月謝などは、なかったようである。
塾では一定の日課や教授時間もなく、したがって始業・終業の規定もない。
そうすると、毎日の出塾・聴講の必要もない。
しかし、時には夜をも徹してやる。
云わば、年中、歴日なしの休日なしであった。
このような訳で、今でも次のような逸話が残っている。
(*以下、意訳。)

月謝、一門も出さず、その上、泊まっていた者も10名ばかりあったが、年を取らない青少年の事であるから、着物の洗濯などは、とかく放任勝ちであったが、瀧子夫人は、いつも塾に来て、汚れ物があれば持ち帰って洗濯をし、その他、一切の世話事は皆、夫人を煩わしたものである。
又、塾では時々、討論会などをして互いに議論を闘わし、冬の夜の深更に及ぶことなどもあった。
そんな時には、瀧子夫人は講義の間の隣室で火鉢に火をおこして、煎豆(いりまめ)や かき餅をやき、熱い番茶などを振り舞われることが常であった。
(*以下、意訳。)

これでみると、瀧子は余程、よく気のつく人情家であり、吾が子のように世話をされた松下村塾の寮母でもあった。

◇ 柿や密柑(みかん)の開放

村塾の前横に老いた大きな柿の木があり、又、蜜柑の老樹もあったようである。
これらが熟すると母の瀧子は、その初物を取って、先ず先祖の神前にお供えした後は、いつも塾生達に自由開放して、彼らの意のままに任せて置いたのである。
それだから、塾生達には木に登って熟柿をとって喜ぶ者もあれば、勉学の暇に蜜柑(みかん)を取って、先生と共に悦び、味わった者もあった。
さすがに瀧子は、青年塾生達の心をよく捕えていたものである。
 柿は松本柿と云って、この辺りの名物である。
今(*昭和16年)の幽囚室の横にも1本の柿の老樹があった。
この柿の木の実を母の瀧子が誠心込めて吊るし柿として、野山獄中の先生に送ったものである。

◇ 村塾の増築

松下村塾の塾舎は、杉の隣に瀬能(せのう)と云う家があって、それが売物に出たので杉家において購入されて、その本宅は解除して畑とし、茶席の方だけを残して、下女などの裁縫部屋に使われておられたものである。
畠の中の僅(わず)かな8畳の一室であって建物も古く、既に荒れ果て、戸も障子も畳も一切ない あばら屋であった。
ここで、松陰先生は最初、呉座(ゴザ)を敷いて教授されたものであった。
その内に弟子も段々増して来たので、人につき3厘宛、出勤させて古畳を買い入れて敷く、と云った実に粗末なものであった。
 ところが、その後、先生の人格・学識を慕って集まり来る者が漸次、増加し、狭隘(きょうあい)を告げるに至ったので、安政4年(*1857年)7月、久保 清太郎の意見によって、いよいよ増築されることになり、新たに6坪2合5勺(10畳半と土間1坪)の古家を買って1室を加えることになった。
 この時、門生らは、各々、その長所に応じて労役に当たり、ある者は鋸(のこぎり)をとり、ある者は土石を運ぶと云った仕組みであった。
中谷 正亮(なかたに しょうすけ)が総監督で、品川(*弥二郎)、山県などは屋根を葺き、松陰先生自らも勿論、これに参加された。
品川が誤って先生の面上に土を落すと、先生は別に怒りもせず微笑された、と云うような話も残っている。
こうして地ならし、壁塗りなど、一切が門生の手で出来上がったのが、その年の11月5日のことであった。
 こうした場合に、あの瀧子の気性して垬手傍観(きょうしゅ ぼうかん・何もせずにただ近くで見ること)しているはずがない。
愛児、統率の学舎が増築される。
それが門生達の手によって作られる。
瀧子の喜びは、どうであったろうか。
それだけに工事中は何かと心を使い、世話も心配もしたことであろう。
時には多人数の食事の用意もしたことであろう。
時には夏の日長(ひなが)のお三時(やつ)に心を砕いたことでもあろう。
時には風呂に入れて愉快にかえしたことでもあろう。
こうした瀧子の心からなる親切が門生達の心の奥底に透徹して、村塾は、ますます繁栄を来したのである。

◇ 塾における女児の教育
松下村塾では勿論、正式には女子の入門、弟子入りはなかったようである。
しかし、松陰先生は、あの封建時代において忠臣、孝子は貞女・烈婦に出て、天下の志士を養おうとするには先ず女子教育、換言すれば、家庭の母性教育に力を入れなければならない、と云って、この方面に既に相当深い理解と関心とを有しておられたのである。
 このために、かつて村塾の客師であった富永 有隣が女誡訳述(じょかいやくじゅつ)なるものを著(あらわ)されて、その叙文(じょぶん)の中に、
(*以下、意訳。)

翁(久保塾主 久保 五郎左衛門)廃後、読書・筆札(ひっさつ・*筆と紙。転じて、書法。)を以て、村の子弟を教える。
最も女教に類意する。
女大小学、女式目より、読書を以てし、女徒に授けてこれを読ませる、なお未だ足らないとして、私を促してこれを成させる。(*以下、意訳。)と云っておられる。
これを見れば、たとえ女弟子と云うべき筋合いの者でなくとも、松陰先生には数人の妹があり、近所の女友達が杉家に遊びに来る。
勿論、これらは久保塾の女弟子の人々でもあったろう。
そうすれば、あの先生の気質として、また女子教育に感心を有しておられれた関係からしても、これらの女子らを集めて、女誡や女訓などを種本として貞女烈婦の話などをされたことは当然のことであろう。
女性の修身教書や、又は通俗的な百人一首の講義などを聞かしてやられたことであろう。
それに杉家の因会(ちなみ かい)あたりで、相当の経験もされていたことでもあったろう。
松陰先生自らも、『阿嫂(*兄嫁)、群妹(ぐんまい)のために武士女鑑(ぶしじょかん)を読む(安政3年10日)』とも云っておられる。
こうした場合には、いつも母の瀧子が、『さあ、大サン(大次郎、すなわち松陰先生)の講義が始まった。皆、行って聞きましょう。』と云って、自分で先頭に立ち、娘や遊び友達を連れて講(*義)席に侍したことは、後年、楫取家に嫁(か)した妹の美和の話であった。
 かつて松陰先生が入江 九一の妹・入江 すみ と云う女児に書き与えられた句に、
 女でも かんざりよりは こうがいか と、美しいかんざしに頭を飾る娘時代を楽しむのもよかろうが、それよりも 早く嫁いで一家の家政を料理する主婦となって、笄(こうがい)をさす方がうれしかろう、と云う情緒の一句の中に、慷慨(こうがい)と云う文字を読み込んで、今の時代の娘達は容色を飾るよりも、しかと国難を自覚して、憂国慷慨の気性を持たなくてはならない、と戒めておられる。
如何にも松陰先生らしい面目が躍動していると共に、母の瀧子は愛児・寅次郎を通じて、村の女の子達などにも、この憂国慨世の心を養わさせたのである。
瀧子の生涯は、いつも こうした蔭の力であった。
しかも、このかくれた力が偉大な果実を生み出したのであって、瀧子のこのホントの姿を見忘れてはならない。
ここに偉大な婦人の真の歩みがある。
何にも外形的に、また社交的に活発にやってのけるのが日本婦人の本然の姿ではない。
寧(むし)ろ しとやかに静かに蔭の力となり、己を犠牲にして我が子を育て伸暢(しんちょう)させて行く、この神秘なありがたい母性の純潔・崇高な正姿を見守って行きたいものである。


◆ 母性愛に寅次郎は泣く

◇ 松陰先生 再び野山獄に入られる

松陰先生の高潔なる人格、深遠なる学識は勿論、その烈々たる熱火のような憂国の至誠に迸(ほとばし)る時事対策に関する論議は、萩における当時の青年学徒をして、いたく血を湧かし、発憤感激させたものであった。
したがって松下村塾に来集するものは、日々に増加するのみであった。
ただ、萩城の城下のみではなかった。
長門の北端である須佐の育英館(小国 剛蔵統裁)の同志数名が来る。
後には、遂に村塾との門主・交換教授にまでも進展した。
周防南部・戸田村の壮士、26名が来塾して連日、銃陣を学び、遂に萩郊外・大井ノ浜で実地演習を行うと云うように、各地方よりも多数、憂国の同志が雲集すると云った盛況を呈するに至ったのである。
学術の研究に、時事問題の対策論議に、さらに実地への猛訓練に、村塾は非常な勢いを以て増大・進展し、その烈々たる冲天(ちゅうてん・*天高くのぼること)の意気は、既に天下を呑(の)む観を示し来たのである。
 したがって塾舎は、18畳半に増築拡大され、師匠は松陰先生の他に富永 有隣、久保 清太郎、小田村 伊之助、中谷 正亮(なかたに しょうすけ)などが客師、又は助教の形で大いに力を入れて来る。
門生も、久坂 玄瑞、高杉 晋作、桂 小五郎、吉田 無逸、前原 一誠、入江 九一、寺島 忠三郎、杉山 松介、駒井 政五郎、時山 直八、松浦 松洞、野村 和作、品川 弥二郎、有吉 子徳、伊藤 駿介(博文)、山縣 狂介(有朋)、山田 市之亟(顕義)など、何れ劣らぬ憂国烈士が日夜、心魂を打ち込んで、真剣な尊攘大義の魁(さきがけ)に血みどろの活躍、下地を作って行ったのであった。
 こういう周囲の雰囲気が醸成(じょうせい)されては、村塾の動向も、ただ単なる論争や名分論の追求や上書・建白などでは到底、収まるものではない。
そこで安政5年(*1858年)の秋頃からは村塾の実際運動、直接行動、と云う情勢をはらみ出す勢いとなって来た。
 一面、天下の形勢は、いよいよ急迫して来る。
時事の対策は、一刻も緩(ゆる)くするわけには行かない。
あの烈々、熱火のような実践主義の師・松陰先生、これに統率される血に燃ゆる門生達が、
どうして、この非常国難を座視黙過(ざしもっか)することが出来ようか。
 議論より今は実行だ。
尊攘の大義を明かにして君臣の名分を樹立し、この神州の国体を護るのは今であり、又、
我々に与えられた唯一の責務である、と考え出したのも当然のことである。
そこで松陰先生は奮然決意、百の議論、建白よりも一つの実践運動、直接行動だと、いよいよ最後への一歩を踏み出されたのである。
 安政5年(*1858年)の9月、当時、江戸にいた門人・松浦 松洞に対し、『独りの奸猾
(かんかつ・* 悪賢い、狡猾)さえ仆(たお)せば天下の事は定まるであろう。入鹿(*蘇我 入鹿[そが いるか]のこと。飛鳥時代の豪族。)を誅する(ちゅうする・*成敗する)事実を覚えている人は一人もいないのか。』と云って、水野土佐守(*水野土佐守忠央のこと。大老・井伊直弼の片腕として江戸で活躍した)の暗殺を示唆しておられる。
これは紀伊の付家老である水野が、慶福を将軍の継嗣(けいし)とする策に成功し、幕府に食い入って堀田 正睦(ほった まさむつ)と結び、違勅調印を促し、井伊大老は水野の指嗾(しそう・*人に指図して、悪事などを行うように仕向けること)を受けているもの、と松陰先生は解しておられたのであった。
(*松陰先生は)続いて『時勢論』なるものを作って、門人・伊藤 伝之助(*伊藤 伝之輔[いとう でんのすけ]のこと。奇兵隊血盟書に花押・血判が残り、戊辰戦争では北越官軍・参謀を務め米沢攻略に参加するも、その後の事歴は不明)に託して上京させて『天下に勅を降し、あらゆる忠臣義士御招集』の上、この際、外夷撻伐(たつばつ・*討伐)の正義を立てるべきである、と云って、大原三位卿の長州西下を請うておられる。
また10月には、先生の知友で梅田 雲浜の門人であった赤根 武人(あかね たけと)に当時、雲浜が捕縛されていた伏見の牢獄を壊させて、彼を救い出そう、との一策をも授けられているのであった。
11月に入っては、井伊大老・安政大獄の片腕であった間部老中が、京都に入って志士捕縛の衝(しょう・*要所)に当たると云うので、彼を生かしておいては国家の不吉であり同志のためでない。
彼を要撃して勤王の一番槍を挙げようと云うので、同志17名の血盟をも得ておられるのであった。
当時における松陰先生の心境とも云うべきものは、
(*以下、意訳)
神州(しんしゅう・*日本で自国を誇って云う)積衰(せきすい・*次第に衰える)、一朝一夕の故にあらず、しかのみならず(*加之・そればかりでなく)、近日、夷虜猖撅(いりょ ようけつ・*野蛮人が勢いを増すこと)して皇威を屈墝(くつぎょう・*屈服)し、しかも征夷諸侯、これを制することが出来ず、ここにおいて私の心 慨然(がいぜん・*憤り嘆く)
として云うには、攘夷の事実、吾が輩にあり・・奉勅(ほうちょく・*勅命を奉じる)の責め 固(もと)より吾が輩にあり。と、尊皇攘夷の責任を松陰先生自己一身の上に収められ、また国家の安危をも一身に負うて、こうなることは、すなわち、松陰自身の責任である、と感念されたのである。
ここに勤王志士としての松陰先生があり、殉国・殉道者としての松陰先生があり、あの純潔・至誠の熱烈なる精神が如何にも躍動している。
こう考え出されてからは、最早、謹慎の身などを顧みられることもなく、すべての事を自己一身の責任として決然奮起、勇猛々々と門生を叱咤(しった)しつつ、断然、直接、実行運動へと踏み出されたのである。
 驚いたのは、藩政府の要路者である。
そう無暗に暗殺計画をすすめられては、たまったものではない。
直接、行動、行動と旗を振られては、大変である。
もし幕府に漏洩でもすれば、藩の責任は勿論、諸方、多人数に思いがけない迷惑をかけることにもなる。
そこで、『松陰、学術、純ならず、人心を動揺さす』と云う、如何にも不明瞭な罪名のもとに、再び家庭に厳重謹慎させ、続いて野山再投獄となられたのが、年の暮れも迫った安政5年(*1858年)12月26日であった。
 そこで、入江、寺島、品川、吉田、佐世(前原)、久保などの門生は憤然躍起となって、
わが師を如何なる罪名によって投獄するか、甚だ(*非常に)不服であると云って、一晩中、藩の役人を歴訪して回答を求める、と云った一大騒動となったのであるが、その翌日、彼らは、不穏の挙動あり、として何れも謹慎幽囚の憂き目を見るに至ったのである。
 思えば尊攘の大志を抱き、至誠殉国の一念を以て、自ら国難に当たろうとして、血の滴(した)たる、火が吹き出るような憂国概世の活動も、遂に野山再投獄と云う悲しむべき親子・子弟、決別の最後の日が来たのであった。
 父の百合之助は、
一時、屈するのは万世に伸びようとするためである。これ位のことで力を落してはならない。また、我慢をするがよい。
と、愛と涙の溢れる教訓を与えたのであった。
実に、この父あって、この子あり、と云うべきであろう。
否、これは、父の身の考えではなかったろう。
父のみの慈愛の言葉ではなかった。
母の瀧子も兄妹も、皆、こうした愛と涙で先生をいたわり慰め、且つ、力付けして、再び野山の獄に送ったのであった。

◇ 先生 獄中に絶食を決意される

安政6年(*1859年)の元旦、松陰先生は、又々、野山の独房で年頭を迎えられる身柄となられた。
 九重の 悩む御心 思ほへば
  手にとる屠蘇(とそ)も 呑み得ざるなり
と、一首を詠じておられる。
実に痛々しい切々たる憂国の至情が誰人の胸底に強く響いて来る。
それに作秋来、計画・示唆された度々の謀策は、何れも皆、未遂、不成功に終わって、先生の心を慰めるものは、一つもなかったのである。
まして、今、獄中から静かに外間的事案を眺めれば、時世は日々、悪化、急迫を告げるのみである。
間部 [*詮勝(あきかつ)]は京都に於て勤王の同志を悉(ことご)く捕縛し、正義の公卿を弾圧し、遂に朝廷に迫って攘夷猶予(ゆうよ)の勅許さえも得たのである。
ちょうど12月の末、その頃、水戸の密使・関 鉄之助、矢野 長九郎の二人が萩に来て、長水(*長州と水戸)提携の上、尊攘の旗揚げを策したが、萩政府の要路(*要職)には、これを引き受けるだけの人材もなく、空しく彼らを失望させて萩を去らさせるに至ったのである。
また安政6年(*1859年)の正月には、播磨の大高 又次郎、備中の平島 武二郎が来萩して、来たる3月、毛利藩主が参勤(*交代)の途中を伏見に要して、尊攘の旗揚げをしよう、と協議を持ち込んで来たのであった。
松陰先生は、喜び賛成して大いに周旋を試みられたが、この両人も藩の要人と十分、話も出来ず、要領を得ないで無念の恨みを残し、萩を去るに至ったのである。
 それに、弧の前後から松陰先生の知友、門人間には、四圍(しい・*周囲)の情況からして勤王討幕運動は未だ時期尚早であると感じ始めるようになって来た。
当時、在江戸の門生・高杉、久坂を始め、中谷、尾寺(新之亟)、飯田(正伯)などは、江戸の状況に照らし合わせて、いま事を挙げれば、師・松陰先生の身の上に異変が起こるかも知れない。
のみならず、義挙(ぎきょ)は尚 早きに失し、却って社稷(しゃしょく・*古代中国で、建国のとき天子・諸侯が壇を設けて祭った土地の神(社)と五穀の神(稷)から、 朝廷または国家の意)の害を招くようなことがあってはならない、として、
『御互いに国のため鞠躬尽瘁(きくきゅう じんすい・*慎重に事に当たり身命をなげうって奉公する)すべきであり、それまでは胸を押さえ鉾を止め、何れも社稷(しゃしょく)の害を仕出かさない様、国の為、万々、祈り奉ります。』とまで云って、一種の勧告状さえも送って来たのである。
けれども、あの烈々鉄火のような松陰先生の憂憤(ゆうふん)は、到底、堪え切れなかったのであって、当時、松陰先生は、
(*以下、意訳)
江戸在の諸友、久坂、中谷、高杉なども皆、僕と所見が違うのである。
その分かれる所は、僕は忠義するつもり、諸友は功業をなすつもり、さりながら(*しかしながら)人々、各々、長所がある。
諸友を不可とするのではなく、尤も功業をなすつもりの人は、天下、皆、これ忠義をなすつもりは、吾、同志、数人のみ。
と云って、天を仰いで長嘆息し、地に伏して涙を下(くだ)しておられる。
さらに言を続けて、忠義をするつもりで功業が自ら成るのは聖代(せいだい・*優れた天子が治める世)の美事である。
松陰の考える所に従えば、幕府の違勅に端を発して、我が国の名分が紊(みだ)れ、大義が煙滅(えんめつ)しようとする独世に当たり、功業を目的とすれば大義名分は第二義となり、己を大義に殉じさせようとはせず、大義を表面上の口実とはなしながら、実は己の功業を立てようとする、だから仮令(たとえ)諫死(かんし・*死んでいさめること)でも戦死でも、ともかく、死ぬのは徒死(とし・*犬死(いぬじに))である。
生きていなければ功業は出来ないから、かくては大義で濡らした手を以て、己の欲する粟(あわ)をつかもうとする利己的な態度に他ならない。
なので、忠義をしようとする者は、唯、胸中の耿々(こうこう・*きらきら光っているさま)たる者の命じるところに従って『慈母の愛、父叔の責(*責任)は、人情の堪え難い所』ではあるが、非常の事をなさずにはいられないのである。
孔孟(こうもう)(孔子と孟子)が生国を離れ、釈迦が山に入るは皆、常情ではない。松陰の勤王も又、この忌むことが出来ない一片、耿々たる精神の発現である。
人、各々、その深さにおいては、皆、もっている所の大和心である。
これは、あたかも大地の底に、普(あまね)く 水が潜んでいるのと同様である。
先覚者、先憂者は、この地下水の最初の出口を与える人である、云々。
と、血潮の滴(したた)る烈火の熱言を与えて、諸友・同志とも絶交往復を断つの心を定められ、その正月24日には、
(*以下、意訳)
吾が尊攘は死生を以てする。
自ら惟えらく(*おもえらく・*思っていることには)以て天地に対越すべきである、と。
豈図らんや(あにはからんや・*意外にも)初め、小人は、俗吏(*無能な役人)の之を憚(はばか・*遠慮する)り、中頃、正人(せいじん・*心や言動などが正しい人)、これを厭(いと)う、終わりにして平生の師友、最も相 敬信する者、交々、吾を遺棄(いき・*捨てて 顧みない)し、交々、吾を沮抑(そよく・*抑止)する。
尊攘は、してはいけない事ではない。
吾の尊攘を非とし、尊攘 自らを期して尊攘を非とし、吾ことを止めさせる。
そうであるなら、すなわち、どうすればいいのか。
それは積誠によって始めようか、吾の尊攘は誠である。
宜(むべ・*宜しいの意)なり、人が動かないことは。(以上、意訳)
と云って、殉道的な自己反省に沈まれ、その後は、さらに無用の言をせず、そして瞑想沈思、至誠の功験を省(かえり)みてみよう。
死生の如何を天に聴(き)こう。
そして遂に、この24日の午後から薄暗い獄屋の北房・御一舎において、隙間漏る寒風に静座をしつつ、絶食して死を待たれた、のであった。
 翌25日、同囚・門人の安富 惣輔(やすとみ そうすけ・*司獄・福川 犀之介の弟で高橋 藤之進と共に松陰から教えを受けた。松陰の投獄以前にここにいた。維新後、実業界に入ったと云われる。)が驚いて、この様子を松陰先生の両親に報告した。
それから玉木叔父にも知らせられ、門人なども伝え聞いて杉家に集まると云った騒ぎとなった。
弟子の増野 徳民(ますの とくみん)が早速、父と母と叔父との懇諭(こんゆ)の手紙3通と母の瀧子の心尽くしの手料理とを持って、野山の獄に駆け付けたのであった。
憂慮、焦心は誰の心も同じであって、それぞれの思い思いを込めて先生の思い詰められた一徹・短慮を諫め、一刻も早く思い留めさせようとしたのであった。



次回、吉田松陰の母 を読む7 に続きます。
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/490185295.html




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