吉田松陰の母 を読む5
吉田松陰の母 を読む5
◆ 獄中の松陰を犒(ねぎら)う
◇ 松陰先生の米艦搭乗事件
安政元年3月27日の夜。
豆州・下田における松陰先生の米艦搭乗事件は、よしや失敗に終わっても、その衝動を与えたところは実に偉大なるものであった。
日本的には国民の士気を振作して封建・泰平の迷夢は破られんとし、世界的には鎖国の幕禁を犯して青年武士が海外に脱出しようとした、と、米国や仏蘭西の新聞にまで報道されて欧米人を一驚させたのである。
しかし、この事件は、事、志とは違い、米人が拒否するところなって松陰先生は同伴者・金子 重輔(じゅうすけ)と共に下田の番所へ自首されて、続いて4月15日、品川・泉岳寺前で、
かくすれば かくなるものと 知りながら
やむにやまれぬ 大和魂
の一首を詠み残して、江戸・伝馬町獄に拘置され、9月18日、断罪の結果『父・百合之介に引き渡し在所において蟄居(ちっきょ)申し付ける』と云うこのとなって、松陰先生などは9月23日、檻輿(かんよ)、江戸を発し10月14日、萩に帰って藩獄・野山獄に入れられたのである。
さて、この事件のために杉一家の人々は、どう云うことになったかと云うと、兄の梅太郎は、4月11日から江戸・桜田藩邸で塀居謹慎し、5月11日、許されて6月上旬、帰萩し、謹慎罪を待ち、11月に漸(ようや)く免じられて、再び軍奉行所に勤務を命じられたのである。
父の百合之介は、4月29日、これも塀居謹慎して罪を待ち、玉木 文之進は病と称して、役所の出仕を遠慮することになった。
すなわち、この事件は、一家挙げての大波紋を投げかけたのであった。
この間おける母の瀧子の心痛、苦労、心使いは思いやると涙であった。
愛児・寅次郎の身上を思い煩っては夜の目も、ろくろく眠られなかったことであろう。
夫の心情を汲んでは涙の袖に打ち伏したことであろう。
また、長男・梅太郎の境遇を考えては、憐愍(れんみん・*憐れみ)の余り、やるせない思いにかきくれたことであろう。
さらにまた、玉木のことを思えば、気の毒千万で、堪えられなかったことであろう。
こうした一家一族を挙げての悲痛事に対しては、普通の婦人であれば、思い乱れて気が狂う他はなかったことであろうが、百合之介夫妻は、こうした心の苦しみの中にも、これを旨に包んで巍然(ぎぜん)として古武士の面影を留めていた。
自分などの苦しい悩みを忘れて、ただ愛児の素志を貫徹させてやりたい、君国ために思う存分、働かせてやりたい、との一念に燃え立つのみであった。
母の瀧子の烈婦的心情は、こうした非常の際に最もよく現れて一家の人々を激励鼓舞して止まぬものがあった。
(*以下、2行、略します。)
◇ 毅然として児を励ます父母
実際、不運・不幸な児ほど親の心にかかるものはない。
悲嘆の運命に放浪する子供の心情ほど親の愛が、いっそう深まって来るものはない。
ことに母親としての心情は、父親にも増して焦心悲嘆、夜の目もねられぬ心の乱れがある。
しかも、それが放逸、堕落の不良児と云うのではない。
一死を以て幕禁を犯しての御奉公である。
ただ、未だ時運至らずして、大志が空しく蹉跌(さてつ・*挫折)したのを思えば、寅次郎の境遇が不憫でたまらかったことであろう。
こうした父母の心持は、安政元年(*1854)5月、萩の父・百合之介から在江戸の長男・梅太郎に宛てた書翰の中にもよくあらわれている。
(*以下、意訳)
寅次郎も散々の不仕合せ(下田事件)、気の毒千万である。口惜しき次第である。
しかし、この間の飛脚では、また御用所へも何を為すことも申し参らず、とのこと。
今、一飛脚が参れば、その実情の詳しき様子が相、分かると申すので、相、待つところである。 何にしても取返しつかない儀と、爰元(ここもと)では、皆々、明らめ居り、その儀については、少しも御案じこれあるまじく、自分からもこれまで絶え間なく教諭を致しており、その余の引き留めの手段は如何なる智者でも出来ると申さず、自身に堅確(けんかく・*堅くて確かな)思い付きの儀があるので、これあるように、脇から手の付けようがなく、全くノカリジヤの気付かないジヤノと申す儀、少しもこれ無く、悔いても取返しならない事に付き、深く御苦心これ無く、思い替えられず、気分、保養、御精勤が専要、祈るところである。(*意訳、以上。)
寅次郎の幕禁違反で種々に心身を痛めている長男・梅太郎を慰めつつ、『気毒千万口惜き次第』『最早明らめ居る』などど、むしろ寅次郎の行動に同情して、よく出かしたな、と云わんばかりの気持ちを示している。
しかも兄の監督不行届き、不始末等々、些末な咎めの心もなく精励、専要と励ましている。
この父の心情、態度こそ、実に見上げたものではあるまいか。
こうした手紙も、さだめし百合之介は、母の瀧子と相、語り合って認めたことであろう。
この辺りにも貞婦、烈女としての凛然たる瀧子の心情が思いやられる。
◇ 尊攘、殉国児への母の感化力
こうした勤王家庭の精神は、尊攘、殉国児・松陰先生の心底には幼児期から深く、強く培養されていたのであって、したがって松陰先生が江戸獄から7月19日付で郷里の兄・梅太郎に送られた書簡の中でも次のように述べられている。
(*以下、意訳。)
矩方(のりかた)の罪状、去月(*6月)25日、仮口書(かりくちがき)になったところ、口書も思うままに出来て、寅次郎の小伝と申すべきもので、且つ、航海してその志を知り、明白にこれを書き取り、且つ、君の家へ累を連ねる事も少しもこれは無く、それのみ、ありがたく存じ奉ります。
この後は、首を刎(は)ねられても、遺憾、これ無くあります。
ならびに、同囚の人々が申すには、高島 四郎大夫などのように他藩へ預けになることもあると申しています。
それは、ともかく、生前に又、父母兄弟を拝することは思いもよらず、永い訣(わか)れなのか、と申し上げます。
もとより君恩に因(よっ)て今日まで行き、この身は国の為には如何に相、なろう共、少しも残念とは存じません。
又、これにて父母の名も忝(はずか)しめ申さず、但し、父母へ対しては、不孝はこの上無く、恐れ入り奉りますが、忠孝は両全にあらず、古言も「これ(*忠孝は両全にあらず、は)あり」と申しているので、よろしく御委(ゆだ)ね、くれぐれも願い奉ります。
起きふしに故郷おもう吾が心 文よむ人は知る哉(や) 知らす哉(や)
(*以上、意訳。)
これでみると、松陰仙の心の内には、郷里の両親が余程、気にかかっていたようである。
すなわち、忠孝両全の悩みが胸底にひしひしと、往来していたようである。
こうした子供の心は父の仕込みは、もちろんながら、母の慈愛の心がしっかり宿っていなくては、到底、生まれるものではない。
ここでも、瀧子の心の力の偉大さを忘れてはならないのである。
◇ 獄中の松陰先生と家庭の人々
父も母も妹なども親戚のもの達も、こぞって野山獄中の松陰先生を慰めようとしたのも当然のことである。
当時、獄中における先生の家庭の人々との往来文書をみれば、何れも肉身の血と涙で綴られた愛の結晶でないものはない。
松陰先生の入獄後、間もない その11月1日付の兄・梅太郎の手紙に、
(*以下、意訳。)
一、書物の入用、これあれば、久保 清周の斡旋を致すようにする事。
一、果物、九ツ、差し送った事。
一、半紙、一帖、同上。
一、待ち受けに夜着(やぎ)一ツ、ふとん一ツ、嶋綿入一枚、同 衿一枚、地半一ツ、嶋綿入羽織(しまわたいればおり)一枚、ちり紙二帖、半紙いずれも御受け取り相、成りたくと存じる事。
一、唐草重ね蓋覆い、御返しの事。
と、ある。
(*以上、意訳。)
兄・梅太郎の弟思いの心情がおもいやられるが、湿気除けの敷皮や夜着や綿入れなどが梅太郎に出来るはずがない。
秋の夜長に子供の身上を とやかくと思い煩いつつ、母の瀧子の縫い糸に綴られた温かい母の心情が、ここにも如実に現れている。
また長女の千代も獄中の兄の寝起きを心配して母の仕事を手伝ったことであろう。
梅太郎の手紙は、こうした家庭の温かい気持の表現であった。
久保 清と云うのは従弟の清太郎であって、親戚の者たちも各々の出来る限りを尽くして先生を慰めようとした雰囲気が目に見えるようである。
これに対して、松陰先生はありがたい、ありがたいと(*非常に)尊念を労し煩わして相済まぬ、と心から感謝しておられる。
続いて5日には、又々、梅太郎が『獄中に久しくいれば腰膝が立たなくなる。身体に健康が第一じゃ』『赤小豆(あづき)5合送る』『渋紙差 送ったから昼夜とも布団の下に敷き、湿気にうたれぬ事 肝要なり』などと書き送っており、さらに9日には、小瘡(こがさ・*小さいできもの)の薬と梅干とフナの昆布巻とを送っている。
ことに、この昆布巻は妹・千代の見舞い品であるとさえ書き添えている。
これらのこともすべて母の瀧子の指図によったことが知られる。
11月23日には、『襦袢は風呂敷包にして御返し下されば、此方にて洗い申すよう、獄中にては虱(*しらみ)は死に兼ね申すよう』と云って、『尚(なお)、不用の物があれば返すように。こちらで洗濯、修理する』とさえ、書き添えている。
獄中における不衛生の身の上を身の上を種々に案じ思い煩っての母の瀧子の注意、心尽くしであったろう。
25日には、鯨肉の煮物や散薬などをも送っている。
したがって松陰先生の心中には、かつて兄・梅太郎に送られた詩中に、『家庭の消息、胸間に雑(*まざ)る』とか『神は往(く)、韓人、峰下の山』と云っておられるように、冷たい鉄窓より唐人山の山屋敷を いつも眺めておられたのである。
◇ 獄中から妹への手紙
こうして胸の思いの千々に結ばれる中に、安政元年(*1854年)も師走となった。
その3日に、松陰先生は妹の千代に一書を認(したた)めておられる。
(*以下、意訳。ひらがな は解る範囲で漢字に置き替えています。)
11月27日と日付け 御手紙 並び 九ねんぶ、三かん、かつお節と共に、昨晩、相、届き、囲いの内は灯(ともしび)が暗いけれども、大概、相、分かります。
そもじ[*其方(そなた)]の心の中を察しやり、涙が出て、止みかね、夜着をかむりて臥せているけれども如何にも耐え兼ね、又、起きて御文(おんふみ)繰り返し見て、いよいよ、涙にむせび、つい、それなりに寝入るけれども、まもなく目が覚め、夜もすがら、寝入り申さず、色々なること、思い出しております。
わもじ(*わたし・松陰先生のこと)は、父母様や兄様の御かげにて、着物も温かくに、食べ物も豊かに、あまつさえ、筆 紙 書物まで、何一つ不足さえこれなく、寒さにも聞け申さずので、御安心なされるよう存じます。
そもじの御家、おば様も御亡くなられた事なれば、そもじ、万端、心がけなければ相、すまぬこと、ことに おじ様も年増し、御齢(よわい)高くなられた事故、別して御孝養を
尽くして下さるように。
又、万子も日々、太ってきたと申すが、心を用いて下さい。
赤穴(あかな)の ばあ様は御まめでありますかな。
ご老人の御事、万事気を付けて上げるように。
かかる御老人は家の重宝と申す者にて、金にも玉にも、変えられるものはありません。
そもじは、事はいと(*非常に))健気(けなげ)な折より、心得よろしき者と思い、一しお親しく思いますが、これほど、御文(ふみ)を拝し、いらざる事までも申し進めました。
3日
大(松陰先生 のこと)
千代どの へ
別にくだらぬ事、3、4枚、認(したた)め遣(つか)わしますので、お父様か、梅兄様に読み良き様に写して貰うように。
少しは心得の種にもなる、と云うものであろう。
さて、御便りの中にも(*云ったように)手習い読み物などは、心掛けるように。
正月には、1日だけは、やぶ入りが出来ると云うものかな。
どうぞ兄様の御きう(休み)日(び)を選び参って、心得になる噺(はなし)などを聞かれるように。
拙(和文字・*私)も その日が分かれば、昔話など認(したた)めて遣(つか)わし、申すようにします。
又、正月には、どこでも、つまらぬ遊び事をするのだが、それよりは何か心得になる本なりとも、読んで貰うように。
貝原(*益軒) 先生の大和俗訓、家道訓などは、丸き耳にも、よく聞こえるものであります。
又、浄瑠璃本なども心有りて聞けば、ずいぶん役に立つものであります。
さて又、別に認(したた)めた文につき、歌を詠むので、ここに記します。
頼もしや 誠の心 かよふらん
文みぬ先に 君を思ひて
右(*上)を認(したた)めたのは、そもじを思ってのことであります。
筆を執るが、その夜、そもじの文が到来するのは、定めて誠の心の文より先に参るかなと、いと(*非常に)頼もしく存じ、まま、このように詠みました。
一、 凡(およそ)、人の子、賢きも愚かなるも、良きも悪しきも、大抵、父母の教えに
寄る事なり。
就中(なかんずく・*とりわけ)男子は、多くは父の教えを受け、女子は、多くは母の教えを受ける事、またそれ、大概(たいがい)なり。
さりながら、男子女子ともに、10歳以下は母の教えを受けること、一しお多し、故は、父は厳(おご)かに、母は親し、父は常に外に出、母は常に内にあればなり。
そうであれば、この賢愚、善悪に関わる所であるので、母の教えを揺るがせてはいけない。
しかし、その数と云うのも、10歳以下、小児の事であれば言語で諭すべきではない。
ただ正しきを以て、感じる他にあってはいけない。
昔、聖人の作法には胎教と申す事がある。
子が胎内に宿れば母は、言語、立ち居より食べ物に至る間で万事、心を用い、正しくない事がないようにすれば、生まれる子の形姿(なりすがた)、正しく、器量、人に勝ることになる。
物を知らぬ人の心では、胎内に宿り、聞きもせず、物云わぬものの母が行を正しくしたりするなどか、通じると思うけれども、これは道理を知らぬ故、合点が行かない。
凡(およ)そ人は天地の正しき気を得て、形を拵(こしら)え、天地の正しき理を得て、心を拵(こしら)えるものなので、正しきは、習わず、教えずして、自ら持ち得る道具である。
故に母の行、正しければ、自ら感じることは、さらに疑うべきではない。
これを、正しきを感じると申すことである。
まして、生まれ出でて目も見え、耳を聞こえ、口も物云うに至っては、例え小児であっても、どうして正しいと感じることが出来るであろうか。
さて又、正しきは、人の持前とは申しても、人はいたって聡(さと)き者故、正しからぬ事に感じることも、又、速いものである。
よく心得るべきことである。
よって、ここに人の母たる者の行うべき大切な事を記す。
この他、小さい事は記さなくても、人々、弁(わきま)える所なので略しておく。
○いろは 例えにも、氏よりは育ちの、申すことあり。
子供を育てる事は、大切な事である。
一、 夫を敬い、舅姑に事ふるは、至って大切な事で、婦(*女性)たるもの行、これに
過ぎたる事なし。
しかしながら、これは誰しも心得ぬ者なければ、申さずとも済むことである。
さて、肝要は、元祖以下代々の先祖を敬うこと。
祖先を揺るがせれば、その家、必ず衰えるものなり。
凡(およ)そ、人の家の先祖と申すものは、あるいは馬に乗り、槍を提(さ)げ、幾度の戦場で身命を擲(なげう)ち、主恩のために働きたるか、あるいは、数十年、役儀を精励し、尋常(じんじょう・*普通)でない功績を立てるか、あるいは、武芸、人に優れたるか、
文学、世に聞こえたるか、何にせよ、一方ならない事があってこそ、百石であり、五十石であり、知行を賜り、子孫に伝えたのである。
それ以下の先祖と申すものも、それぞれ、御奉公、その節を遂げたればこそ、元素と同様に知行を賜る事である。
この所を よくよく考え、この一粒も先祖の御蔭と申すことを寝ても覚めても忘れる事なく、
その詳月、命日には先祖の事を思い出し、身を潔くし、体を浄め、これを祭り奉りなどすべきである。
又、一事を行うにも、先祖に告げ奉りて、後、行うようにするべきである
そうすれば、自ら邪事(じゃじ)なく、する事、なす事、皆、道理に叶って、その家は自ら、繁盛、行(おこなわ)るものである。
もし、心得なく、己が心まかせに、わがまま一杯を働いたならば、如何で、その家は衰微するであろう。
聖人の数は、死、去りて世に居給うぬ親、先祖に事ふること。
現在の親・祖父に事(つか)えようにするべきである、とある。
今、親・先祖が現在し給えば、何事も思召しを伺ってこそ、行うべきだが、世に居給わないと云って、先祖の御心を察し奉らず、わがままばかり働くのは、これを先祖を死せりとす、と申す。
もったいない事どもである。
一、 婦人は、己(*自分)が生まれた家をでて、人の家に行きたる身である。
そうであれば、己(*自分)が生まれた家の先祖が大切な事は、生まれ落ちた時から
弁(わきま)え、知るべきであるけれども、ややもすれば、(*お嫁に)行きたる家の先祖が大切なことは、思わない事もあるだろう。
わざわざ、心得るべきである。
人の家に行ったならば、行った家が己が(*自分の)家である。
故に、その家の先祖は、己が(*自分)が先祖である。
揺るがせにする事は、してはいけない。
又、先祖の行状・功績なども詳しく心得置き、子供などへ昔話のように話し聞きすべきである。
大いに益、ある事である。
一、 神明を崇め、尊ぶべきである。
大日本と申す国は神国と申し奉りて、神々様の開き給える御国である。
そうであれば、この尊き御国に生まれたる者は、尊きとなく賎(いや)しきとなく、神々様をおろそかにしては済まないことである。
しかし、世俗にも神信心と云う事、する人もあるが、大抵は心得違いである。
神前に詣で、柏手を打ち、立身出世を祈るのである。
長命、富貴を祈りたりするのは、皆、大違いである。
神と申すものは、正直なる事を好み、又、清浄なる事を好み給う。
それ故、謹(すすし)み拝むべきである。
これを誠の神、信心と申すのである。
その信心が積もって行けば、二六時中、己が心が正直で、体が清浄になる。
これを徳と申す。
菅 亟相(*菅原道真の異称)の御歌に、心だに、真の道に、叶いなば、祈らずとても、神や守らん。
又、俗語に、神は正直の頭(こうべ)に舎(やどる)とて、信あれば、徳あり、と云う。
よくよく、考えてみるべきである。
さて又、佛ともうすものは、信仰するに及ばない事である。
しかし、強(あなが)ち、人に逆らって佛を謗(そし)るも、いらぬ事である。
一、 親族と睦(むつまじ)く する事は大切である。
これも大抵、人の心得たる事である。
しかし、従兄弟(いとこ)と申すもの、兄弟に差し続いて親しむべき事である。
すなわち、世の中、従兄弟となれば、甚(はなは)だ疎きものであり、よくよく考えてみる事である。
吾が従兄弟と申すのは、父母の姪である。
祖父母からみれば、同じく孫である。
そうすれば、父母・祖父母の心になってみれば、従兄弟を決して疎(うと)くはならないのである。
しかしながら、従兄弟が疎いと申すのは、元来、父母・祖父母の教えが行き届かないのである。
子を教える者は、心得るべきである。
凡(およ)そ、人の力と思うものは、兄弟に過ぎたるはないのである。
もしふこうにして兄弟がない者は、従兄弟にしくはない。
従兄弟、兄弟は年齢も互いに似よりて、ものを学んでは、師匠の教えを受けた事をさらえ、事を相談しては、父母の命をそむかぬように計らう。
皆、他人で、届く事ではない。
ここをよく考えるべきである。
茲(ここ)に一つの物語あり。
吐 谷渾(*と よくこん[国名])と申す夷国の阿豺(あさい)と申す人。
子 20人あり。
病気が大切(*心配)であるなら、弟の慕利延(*ぼりえん)を召して申すには、汝、一本の矢を取って折れ。
慕利延が、これを折ると、又、申すには、汝、19本のヤを取って折れ。
慕利延、折る事は出来ず。
阿豺(あさい)、申すには、汝ら、よく心得よ。
一本立であれば折れ易いが数本集まれば折れ難い。
皆、一致し、国を固めよ、と。
国でも、家でも、道理は同じ事である。
とかく婦人の詞(ことば)から親族不和になる事が多い、忘れるべからず。
右に(*上に)記したのは先祖を尊ぶ(事)と、神明を崇める(事)と、親族と睦(むつまじ)くする(事)と、以上、三事である。
これが子供を育てる上で大切な事である。
父母たる者、この行いがあれば、子供はただ、教えることなく、自ら正しき事を見習って、賢くも、善くもなるものである。
さて又、子供が、やや成長して人の申す事も耳に入るようになったならば、右(*上)などの事を(*手)本とし、古今の種々たる物語を致し聞かすべきである。
子供の時に聞いた事は年を取っても忘れないものなので、埒(らち)もない事を申し聞かすよりは少しなりとも、良き事を聞かすに越したことはない。
杉の家宝に世の及び難い美事がある。
第一に先祖を尊び給い、第二に神明を崇め給い、第三に親族を睦まじくし給い、第四に文学を好み給い、第五に仏法に惑い給わず、第六に田畠の事を親(みづか)らし給うの類なり。
これらの事、吾、皆、兄弟の仰ぎ努めるべきところなり。
皆々、よく心掛けるように。
これ、即、孝行と申すものなり。
この書付は、阿千代、阿壽などに示し申そうと、先日から胸中に蓄えていたが、所詮、読書の閑なく、それっきりに致し置いていた。
昨朝 無事故、ふと思い付き認(したた)め掛かった。
又、暮れほどに見ると余りに拙(つたな)いので、止(と)めようと存じたところ、夜中、阿千代の文(*書翰)を見て涙を流し、所謂(いわゆる)鬼の目にも涙とやら言うので、頻(しき)りに懐かしくなったので拙(つたな)きながら妹などへ残したいと存じます。
久しく胸中に蓄えてあるものを、昨日、ふと筆を降し、その夜、千代の文(*書翰)が来た事、精誠の感通(かんつう)ともおもわれます。
拙き(*下手くそ)は、何としよう。
御閑(おひま)があれば、半(*分の)枚数で5行位で読みやすいように御認(したた)め、両妹などへ御与え遺されてくれないであろうか。
恐れながら尊大人へ御頼り仕るかな。
万々、宜しく頼み奉ります。
3日 寅じ(*松陰先生のこと)
(以上、意訳。)
こうした手紙にも家庭の人々と獄中の先生との心の結ばれ、慈愛の響音(きょうおん)、杉家の美風が思いやられる。そして祖先を尊び、神明を崇め、血縁の親睦を説き、敬老の義を教え、さらに学問の事から胎教に及び、人たるものは天地の正しき気を得て形を拵(こしら)え、天地の正しき理を得て心をこしらえたるものなれば、母性たるものは この義が大切じゃ、子供の賢愚、善悪はまったく母たるものの教えの一つであるぞ、と細々に書き示しておられる。
この書簡こそ、まさに松陰先生の女子教育に関する大精神・大抱負を言々句々に云い尽くされた真情の現れであって、千古に亘り、不滅の女子聖典である、と云っても敢えて過当ではあるまい。
◆ 獄中の松陰を犒(ねぎら)う
◇ 子女の精神を培(つちか)う母の薫育(くんいく)
しかし、そもそも松陰先生に、こうした女子教育の理想、信念が生まれた淵源は、何であったろうか。
もちろん、先生の天稟(てんぴん・* 生まれながらの資質)的な学問識見によることではあるが、幼時から両親の許において実際の体験に培養された家庭教育にもとめなければなるまい。
したがって、母の瀧子の家庭におきる感化、薫育が事、ここに至ったものではあるまいか。
換言すれば、瀧子の平生、瀧子の理念、瀧子の教育が松陰先生の学問精神を通じて書き出されたもの、と云ってよかろう。
賢母と賢児との合作、烈女と国士との響音、これが、この一大女子教育の聖典をあみ出したわけである。
師走も、だんだんと押し迫ったその16日、松陰先生は、またもや妹・千代に一書を送っておられる。
(*以下、意訳。ひらがな は解る範囲で漢字に置き替えています。)
(前略)
万子へ読み聞かせ、申し聞かせる事を楽しみにとのこと、尤(もっと)もに存じます。
夫につき、一つ思い付いた事があります。
日本は武国と申して、昔から勇気を重(おもし)と致し、国、ことに士(さむらい)は武士と申せば、別して勇が大切で、子供へ非常に健気な折から、この事を教え込む事が肝要であります。
江戸絵や武者人形、又、正月や端午に弓矢のほりなどを飾るような事も、まんざら遊び事ではありません。
又、軍書の中にある軍(いくさ)の絵など、子供に見せれば、自然と、知らず覚えず勇気が増すものであります。
楠木正成じゃの、新田義貞、加藤清正と云う事は、子供に覚えさせるのがよろしく、又、武者百人一首と申すものもあるとか、子供に見せて良きもので、紙も尽き、日も暮れたので、先ずは筆を止めます。
(*以上、意訳。)
幼少から山屋敷で苦労を共にして育った妹に万吉と云う子供が出来た。
先生は悦びの余り、この乳幼児の教育について細々(こまごま)と説き示しておられる。
『楠木正成じゃの、新田、加藤の、と云う事を子供に覚えさせ』と、自分が子供の時に山屋敷で母の瀧子から朝に見せられ、夜の目に聞かされたそのままのものを繰り返して妹に伝えておられるのである。
ここにも母の感化訓育の見逃し得ることの出来ないものがある。
こうした母の瀧子の心は、いつも杉家のすべての人々の心の中に宿っていたのである。
◇ 松陰先生との兄弟愛
獄中の松陰先生と家庭の人々との間には、こうして文書の往復が毎度のように繰り返されていた。
ことに兄の梅太郎は、家庭人の代書のように繁々と文通を出していた。
しかし、あの下田米艦搭乗の件に関しては、兄に後難と及ぼしては、相すまぬ、とあって、松陰先生は、当時、極秘で決行されたものである。
それだけに今となっては、先生も云いたいことがあったろうし、兄としても、また聞きたいこともあったろう。
こうした互いの気持ちが家庭の事もさることながら、国事の方面についても、分け隔てのない兄弟のことであるから、つい、お国のためならば生死を度外視にして大いにやるぞ、と云った気持ぐらいは話があったものと見える。
それが両親の耳に入り、父の深いと母の悲嘆とをかった、と云うので、この暮れの12月17日付の兄の梅太郎が、
(*以下、意訳。ひらがな は解る範囲で漢字に置き替えています。)
裏書に一日も早く落命しようかと、厳慈の経を尊じ見て、些(*少しは)御不興を蒙る思召し、遂に北堂(*ほくどう・母の敬称)、御悲嘆は浅からず、駟(し)は筆に及ばず、二慈(*両親のこと)の御不興に困り申します。(*以上、意訳。)
と書き送っている。
松陰先生にして見れば、幕禁を犯しての失敗、両親兄弟に心配をかけては相、すまぬ。
それに獄裡(ごくり)の身となっては尊攘の大志を最早、遂げることは出来ない。
いっそのこと、落命しようかなと思い、このように書かれたことであろう。
しかし父としてみれば、これ位のことで落命とは、それは軽挙じゃ、それでは男子の面目が立たない。
勝手な振舞いをされては困る。
大いに志を立てて、捲土重来(けんど じゅうらい。*一度、敗れた者が再び力を盛り返し、反撃に転じること)、慈愛自重、御奉公を致すべき身でありながら、一度の蹉跌(さてつ・*挫折)で徒(*いたずら)に死を急ぐとは情けない。
それでは今までくろうして育てた甲斐がない。
無分別な寅次郎じゃ、と不興、不快の言を漏らされたことであろう。
又は母の瀧子としては、夫の不興、不快を目のあたりに見る心辛さに増して、愛児の死を急ぐ、その心情を察しては、まことに悲嘆やるせないものがあったことであろう。
父と同じ思いであっても、母親としては一段と悲嘆の深いものである。
これに対して松陰先生は、それは不用意な事を云った、実に相すまなかった、と云うので、『あれは戯(たわむ)れのみ、琴の以外に却って心痛している。二慈(両親のこと)の御心に掛かるとは思いも染めざる事であります』と、兄に恐縮、平伏して陳弁されている。
なお次のような一詩を賦して陳謝の意を表わしておられる。
青年豪気不知難。 青年の豪気、難を知らず
只把死生一様看。 只、死生を把(と)って、一様に看る
庭圍豈料傳狂語。 庭圍(ていい・*家庭とおなじ意)、豈料(あに はからんや)
遂使雙慈轉減歓。 遂に雙慈(きゅうじ)(両親)をして、轉(うた)た、歓を減じさせる
と、松陰先生は恐れ入って、
『二慈(*両親)にこのように仰がれるよう願い奉ります、筆を提げて紙に臨んで頗る(*非常に)当惑しております』と、ひたする他意なき不注意より御心痛、御心配をかけて、重々相、すまぬと恐縮しておられる。
ここに、この至高の松陰先生、あの兄弟、仲の睦まじい松陰先生の心情が忍ばれると共に、この間における父は、もちろん母の瀧子の悲嘆、心使いが思いやられる。
こうした意外な突発事があったにしても、松陰先生は父母や兄妹たちの温かい心に抱かれつつ獄中生活を続けておられる。
兄は、いつも家中の代表者となって種々に心を砕いて獄裡の先生を慰めている。
ことに、いついつの書籍の周旋、差し入れには相当、忙しかったようであった。
とやかくするうちに、年の瀬もだんだんと進んで、12月も差し迫って来る。
萩の名物・鯨の味噌煮は先生の鉱物であったとみえる。
書物の差し入れ毎に、いつも いろいろこうした煮物類を差し入れしている。
12月23日、先生は、『半紙三括り、三体詩一、詩題苑三、入蜀記二、宋詩清絶一、煮染め、刺身、香物、いずれも受け取りました。』と、兄・梅太郎に返事を出しておられる。
また、この頃、松陰先生は風邪を引かれたものか『薬は服用し、風邪はすでに退き、昨日、三つだけの(*薬を)呑んだので最早よかろう』と云っておられる。
また反古類(反古類・*無駄な物)の始末に困るから柳行李(やなぎごおり)か破皮籠(かわご)でも差し入れて呉れ、とも云っておられる。
こうした煮物類や薬や行李(*こおり)の世話、心配には母の瀧子もさだめし、あれやこれやと心を尽くして走り歩いたことであろう。
獄中の息子が不自由であってはならない、病気をしてはならない、何か変わったものでもあれば、食べさせてやりたい、との母の慈愛の心で一杯であったことであろう。
明ければ、安政2年(*1855年)の正月である。
獄中生活の松陰先生にも新春が来た。
南窓の暖かい日向きに先生は、のんびりとしたような気持ちで、
大空の恵(めぐ)は いとゞ 遍(あまね)り
人屋(ひとや)の窓も 照す日の影
と、詠まれ、餅を少々送って呉れ、と兄・梅太郎に頼んでおられる。
獄中の寅次郎にも、と云って、母を中心として正月、餅をつかれた杉家の様子が思いやられる。
またこの頃、兄の梅太郎は、
鯨肉(げいにく)一鉢、差し送りました。
書物共、入用であれば、裏書に申し越して下さい。
紙も又、同様で、虱(しらみ)は長袷衣、長綿入り羽織などへ登らせる内に、地ばんを毎日、毎日洗濯致したく存じる事
と、云い、さらに
『地番一枚、味醂一徳、魚肉一入物』を送った、とも云っている。
これに対して先生は、
『ありがたく味を拝しました。先だって夜着、布とん、その他衣類など受け取り申しました。』と大いに感謝の礼を述べておられる。
これらの世話は、男の手で出来るものではない。
母の瀧子が千代子や壽子を相手に冬の夜寒の長夜を寅次郎可愛さの余り、仕立てもし、洗濯もし、煮付けも、したことであろう。
それに寅次郎は、甘好きと云って、瀧子の自らの味付けの吟味などもしたことであろう。
松陰先生が泣いて感謝されたことも当然のことである。
ことに松陰先生は元旦に
新年の御吉慶、目出度く存じ奉ります、尊大人(そんたいじん・*父上様)様、大孺人(だいじゅじゅじん・*母上様)様を初め、御満堂(ごまんどう・満場のひと達)、宜しく御超歳、大賀に奉ります。
獄中も一夜明ければ、春めくと申します。と云って、雑煮を食べたが、
『やりきれん事 山亭(樹々亭)でのようで、これ、戯譃(たわむれ)の初め』とまで書き添え『雑煮、満腹、々、雷鳴云々』の詩を作って戯れておられる。
さすがに新年のことであれば、松陰先生はあらたまって両親に新春の挨拶を述べられた後に、のびやかな気持ちで腹雷鳴と戯れておられる。
これも獄中性格の割合のんびりとうして春めいた気分を先ず、両親に報じて、寅次郎も健やかに案外、元気にやっております、と安心させたいからの一念であったことであろう。
こう思うと、ふと至孝の松陰先生と家庭の人々の心とが思いやられる。
◇ 獄中の松陰先生と母の心尽くし
獄中の寒さはだんだん、厳しくなって来る。
敷皮(しきがわ)位では、とても この冬は越せまい、とあって、家から熊の皮を送っている。
松陰先生は、かつて瑞泉寺・竹院和尚の所で熊の皮を見られた時に、欲しいな、と思ったことがある、と云って非常に喜んでおられる。
それからまた香の物、醤油の実、餅十、橙(だいだい)五などの他に、手桶と云ったような物までも送っている。
霜の朝の寒さにつけ、隙間漏る夜風が身に染むにつけて、寝ても覚めても寅次郎の鉄窓獄裡の寝起きが気にかかったことであろう。
これを思うと、あれも送りたい、これも差し入れたい、と母の心は、いつもこれのみで一杯であったようである。
松陰先生は獄中生活ながらも、こうした家庭の人々の慈愛と母の心尽くしによって不自由ながらも、案外、平和な生活を続けて行かれたのである。
是も要するに母の瀧子の愛の宿があったからである。
こうした生活の中に月日は流れて、春も去り夏も過ぎ、秋となって来た。
兄・梅太郎夫人の亀子が妊娠して、近くお目出度があると云うので、先生は母の瀧子に左(*下)の一文を送っておられる。
(*以下、意訳。ひらがな は解る範囲で漢字に置き替えています。)
さて姉様にも御目出度、御様子を承り、明け暮れ、その期を相待ちおりましたので、何卒、御支(さ)わりなく御渡りますようにと、それのみ念願にございます。
安三(やすぞう)(弟・敏三郎の別名)も大分(だいぶん)、字が出来出したと喜んでいます、
お文は定めし成人になったので、仕事も追々、覚えるかな、合間、合間に手習いなど、精を出す仕度をするよう存じ奉ります。 安政2年11月3日
(*以上、意訳。)
兄思いの松陰先生は自分のことのように喜んで、『御支りなふ御渡(おわた)り被成候へかし』と神かけて、それのみ祈っておられる。
実に奥ゆかしい家庭人の心の結ばれではあるまいか。
また母・瀧子のの苦労の種である敏三郎のことまでも思い出して、『大分字が出来だした』と喜ばれ、母の片腕である妹の文子については、『お文(ふみ)も定(さだ)めし成人』と、それから、それへと思いのままを次ぎ次ぎに書き述べておられる。
しかも、なお親戚の人々である大藤や宅野(たくの)にまでにも無音の挨拶を書き添えられておられる。
まことに松陰先生ほど家庭思いの人はなかった。
しかし、こうした親思い、兄妹思いの心の許を訪ねれば、母の瀧子の幼少からの教養・躾(しつけ)によったものである。
このお目出度の豊子(とよこ)が生まれた時にも11月6日付の手紙で『杉姉様に御安産の由、御同様 目出度く存じます。何卒、日日、成長致すように、と祈ることに存じます』と、妹・千代に心からなる喜びを通じておられるのである。
また11月7日付では、養母の久満(くま)にも一文を送っておられる。
この程は、御出萩なされたのこと、寒さの折、別けて御苦労の御事にございます。しかし、御貴文、御支りなくいられるとのこと、目出度く存じ上げます、将又(はたまた)、結構な品、御恵み遣わされ、一夜の寒さ、相、凌ぎ御礼申し尽くし難く存じ上げます。
杉にも目出度く、誕生、相済み、この上無いことに存じます。と、
この久満(くま)は、養父・吉田 大助の配(*奥様)である。
大助の歿後、実家の黒川村・森田に帰って寄寓しつつ、時々、松本の杉家に往来していたものである。
義理ある養母、松陰先生が忘れられるはずはない。
如何にも物やさしく、久満の心に日頃の思いを通じておられる
松陰先生ほど、よく気の付くやさしい人はなかった。
そうこうする中に、12月15日、松陰先生は野山獄を免ぜられて松本の実家に帰られることになった。
元来、松陰先生の下田事件とて幕禁犯も憂国の至情、やむにやまれずして敢行されたものである。
国庫の存亡、黙し難く、一死、殉国の至誠・奉公の一念からであった。
まして幕禁を犯したとしても、その精神至上に至っては大いに同情すべきものがある。
それを永く獄裡鉄窓の生活に置くことは、余りにも処刑が過当であるとの評議が持ち上がって、遂に獄を免ぜられて杉家に禁錮と云うことになった。
禁錮と云うのであるから、もとより外科医の人々とは面接されることはもちろん、許されないのであるが、実家に帰って両親の膝下に親しく奉侍せられ、あの睦まじい兄妹と同じ棟に起き臥しすることになった松陰先生の喜びは如何であったろうか。
それにもまして、両親兄妹などの喜びは、そも、どうであったろうか。
憂国奉公の一念に燃える愛児、不運・不幸にして志を得ず、獄裡苦心の身となった愛児、その愛児が久しぶりに家に戻り、この一年有余の間における家庭人の苦労、心使いは並大抵のものはなかったであろう。
そして、その一切の世話・指図の中心が母の瀧子であった。
世に容れず時に遭わず、一切の難苦に耐え忍びつつ、静止の岐路に迷いつつも巍然として、その嚮(むか)う所を乱さず、専念一意、君国のために大志をのばして、国難に殉じて行こうとする殉国列士の慈母、国士家庭の母性、瀧子はまさに この種の家庭婦人の典型であった。(以下、8行、略します。)
次回、吉田松陰の母 を読む6 に続きます。
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◆ 獄中の松陰を犒(ねぎら)う
◇ 松陰先生の米艦搭乗事件
安政元年3月27日の夜。
豆州・下田における松陰先生の米艦搭乗事件は、よしや失敗に終わっても、その衝動を与えたところは実に偉大なるものであった。
日本的には国民の士気を振作して封建・泰平の迷夢は破られんとし、世界的には鎖国の幕禁を犯して青年武士が海外に脱出しようとした、と、米国や仏蘭西の新聞にまで報道されて欧米人を一驚させたのである。
しかし、この事件は、事、志とは違い、米人が拒否するところなって松陰先生は同伴者・金子 重輔(じゅうすけ)と共に下田の番所へ自首されて、続いて4月15日、品川・泉岳寺前で、
かくすれば かくなるものと 知りながら
やむにやまれぬ 大和魂
の一首を詠み残して、江戸・伝馬町獄に拘置され、9月18日、断罪の結果『父・百合之介に引き渡し在所において蟄居(ちっきょ)申し付ける』と云うこのとなって、松陰先生などは9月23日、檻輿(かんよ)、江戸を発し10月14日、萩に帰って藩獄・野山獄に入れられたのである。
さて、この事件のために杉一家の人々は、どう云うことになったかと云うと、兄の梅太郎は、4月11日から江戸・桜田藩邸で塀居謹慎し、5月11日、許されて6月上旬、帰萩し、謹慎罪を待ち、11月に漸(ようや)く免じられて、再び軍奉行所に勤務を命じられたのである。
父の百合之介は、4月29日、これも塀居謹慎して罪を待ち、玉木 文之進は病と称して、役所の出仕を遠慮することになった。
すなわち、この事件は、一家挙げての大波紋を投げかけたのであった。
この間おける母の瀧子の心痛、苦労、心使いは思いやると涙であった。
愛児・寅次郎の身上を思い煩っては夜の目も、ろくろく眠られなかったことであろう。
夫の心情を汲んでは涙の袖に打ち伏したことであろう。
また、長男・梅太郎の境遇を考えては、憐愍(れんみん・*憐れみ)の余り、やるせない思いにかきくれたことであろう。
さらにまた、玉木のことを思えば、気の毒千万で、堪えられなかったことであろう。
こうした一家一族を挙げての悲痛事に対しては、普通の婦人であれば、思い乱れて気が狂う他はなかったことであろうが、百合之介夫妻は、こうした心の苦しみの中にも、これを旨に包んで巍然(ぎぜん)として古武士の面影を留めていた。
自分などの苦しい悩みを忘れて、ただ愛児の素志を貫徹させてやりたい、君国ために思う存分、働かせてやりたい、との一念に燃え立つのみであった。
母の瀧子の烈婦的心情は、こうした非常の際に最もよく現れて一家の人々を激励鼓舞して止まぬものがあった。
(*以下、2行、略します。)
◇ 毅然として児を励ます父母
実際、不運・不幸な児ほど親の心にかかるものはない。
悲嘆の運命に放浪する子供の心情ほど親の愛が、いっそう深まって来るものはない。
ことに母親としての心情は、父親にも増して焦心悲嘆、夜の目もねられぬ心の乱れがある。
しかも、それが放逸、堕落の不良児と云うのではない。
一死を以て幕禁を犯しての御奉公である。
ただ、未だ時運至らずして、大志が空しく蹉跌(さてつ・*挫折)したのを思えば、寅次郎の境遇が不憫でたまらかったことであろう。
こうした父母の心持は、安政元年(*1854)5月、萩の父・百合之介から在江戸の長男・梅太郎に宛てた書翰の中にもよくあらわれている。
(*以下、意訳)
寅次郎も散々の不仕合せ(下田事件)、気の毒千万である。口惜しき次第である。
しかし、この間の飛脚では、また御用所へも何を為すことも申し参らず、とのこと。
今、一飛脚が参れば、その実情の詳しき様子が相、分かると申すので、相、待つところである。 何にしても取返しつかない儀と、爰元(ここもと)では、皆々、明らめ居り、その儀については、少しも御案じこれあるまじく、自分からもこれまで絶え間なく教諭を致しており、その余の引き留めの手段は如何なる智者でも出来ると申さず、自身に堅確(けんかく・*堅くて確かな)思い付きの儀があるので、これあるように、脇から手の付けようがなく、全くノカリジヤの気付かないジヤノと申す儀、少しもこれ無く、悔いても取返しならない事に付き、深く御苦心これ無く、思い替えられず、気分、保養、御精勤が専要、祈るところである。(*意訳、以上。)
寅次郎の幕禁違反で種々に心身を痛めている長男・梅太郎を慰めつつ、『気毒千万口惜き次第』『最早明らめ居る』などど、むしろ寅次郎の行動に同情して、よく出かしたな、と云わんばかりの気持ちを示している。
しかも兄の監督不行届き、不始末等々、些末な咎めの心もなく精励、専要と励ましている。
この父の心情、態度こそ、実に見上げたものではあるまいか。
こうした手紙も、さだめし百合之介は、母の瀧子と相、語り合って認めたことであろう。
この辺りにも貞婦、烈女としての凛然たる瀧子の心情が思いやられる。
◇ 尊攘、殉国児への母の感化力
こうした勤王家庭の精神は、尊攘、殉国児・松陰先生の心底には幼児期から深く、強く培養されていたのであって、したがって松陰先生が江戸獄から7月19日付で郷里の兄・梅太郎に送られた書簡の中でも次のように述べられている。
(*以下、意訳。)
矩方(のりかた)の罪状、去月(*6月)25日、仮口書(かりくちがき)になったところ、口書も思うままに出来て、寅次郎の小伝と申すべきもので、且つ、航海してその志を知り、明白にこれを書き取り、且つ、君の家へ累を連ねる事も少しもこれは無く、それのみ、ありがたく存じ奉ります。
この後は、首を刎(は)ねられても、遺憾、これ無くあります。
ならびに、同囚の人々が申すには、高島 四郎大夫などのように他藩へ預けになることもあると申しています。
それは、ともかく、生前に又、父母兄弟を拝することは思いもよらず、永い訣(わか)れなのか、と申し上げます。
もとより君恩に因(よっ)て今日まで行き、この身は国の為には如何に相、なろう共、少しも残念とは存じません。
又、これにて父母の名も忝(はずか)しめ申さず、但し、父母へ対しては、不孝はこの上無く、恐れ入り奉りますが、忠孝は両全にあらず、古言も「これ(*忠孝は両全にあらず、は)あり」と申しているので、よろしく御委(ゆだ)ね、くれぐれも願い奉ります。
起きふしに故郷おもう吾が心 文よむ人は知る哉(や) 知らす哉(や)
(*以上、意訳。)
これでみると、松陰仙の心の内には、郷里の両親が余程、気にかかっていたようである。
すなわち、忠孝両全の悩みが胸底にひしひしと、往来していたようである。
こうした子供の心は父の仕込みは、もちろんながら、母の慈愛の心がしっかり宿っていなくては、到底、生まれるものではない。
ここでも、瀧子の心の力の偉大さを忘れてはならないのである。
◇ 獄中の松陰先生と家庭の人々
父も母も妹なども親戚のもの達も、こぞって野山獄中の松陰先生を慰めようとしたのも当然のことである。
当時、獄中における先生の家庭の人々との往来文書をみれば、何れも肉身の血と涙で綴られた愛の結晶でないものはない。
松陰先生の入獄後、間もない その11月1日付の兄・梅太郎の手紙に、
(*以下、意訳。)
一、書物の入用、これあれば、久保 清周の斡旋を致すようにする事。
一、果物、九ツ、差し送った事。
一、半紙、一帖、同上。
一、待ち受けに夜着(やぎ)一ツ、ふとん一ツ、嶋綿入一枚、同 衿一枚、地半一ツ、嶋綿入羽織(しまわたいればおり)一枚、ちり紙二帖、半紙いずれも御受け取り相、成りたくと存じる事。
一、唐草重ね蓋覆い、御返しの事。
と、ある。
(*以上、意訳。)
兄・梅太郎の弟思いの心情がおもいやられるが、湿気除けの敷皮や夜着や綿入れなどが梅太郎に出来るはずがない。
秋の夜長に子供の身上を とやかくと思い煩いつつ、母の瀧子の縫い糸に綴られた温かい母の心情が、ここにも如実に現れている。
また長女の千代も獄中の兄の寝起きを心配して母の仕事を手伝ったことであろう。
梅太郎の手紙は、こうした家庭の温かい気持の表現であった。
久保 清と云うのは従弟の清太郎であって、親戚の者たちも各々の出来る限りを尽くして先生を慰めようとした雰囲気が目に見えるようである。
これに対して、松陰先生はありがたい、ありがたいと(*非常に)尊念を労し煩わして相済まぬ、と心から感謝しておられる。
続いて5日には、又々、梅太郎が『獄中に久しくいれば腰膝が立たなくなる。身体に健康が第一じゃ』『赤小豆(あづき)5合送る』『渋紙差 送ったから昼夜とも布団の下に敷き、湿気にうたれぬ事 肝要なり』などと書き送っており、さらに9日には、小瘡(こがさ・*小さいできもの)の薬と梅干とフナの昆布巻とを送っている。
ことに、この昆布巻は妹・千代の見舞い品であるとさえ書き添えている。
これらのこともすべて母の瀧子の指図によったことが知られる。
11月23日には、『襦袢は風呂敷包にして御返し下されば、此方にて洗い申すよう、獄中にては虱(*しらみ)は死に兼ね申すよう』と云って、『尚(なお)、不用の物があれば返すように。こちらで洗濯、修理する』とさえ、書き添えている。
獄中における不衛生の身の上を身の上を種々に案じ思い煩っての母の瀧子の注意、心尽くしであったろう。
25日には、鯨肉の煮物や散薬などをも送っている。
したがって松陰先生の心中には、かつて兄・梅太郎に送られた詩中に、『家庭の消息、胸間に雑(*まざ)る』とか『神は往(く)、韓人、峰下の山』と云っておられるように、冷たい鉄窓より唐人山の山屋敷を いつも眺めておられたのである。
◇ 獄中から妹への手紙
こうして胸の思いの千々に結ばれる中に、安政元年(*1854年)も師走となった。
その3日に、松陰先生は妹の千代に一書を認(したた)めておられる。
(*以下、意訳。ひらがな は解る範囲で漢字に置き替えています。)
11月27日と日付け 御手紙 並び 九ねんぶ、三かん、かつお節と共に、昨晩、相、届き、囲いの内は灯(ともしび)が暗いけれども、大概、相、分かります。
そもじ[*其方(そなた)]の心の中を察しやり、涙が出て、止みかね、夜着をかむりて臥せているけれども如何にも耐え兼ね、又、起きて御文(おんふみ)繰り返し見て、いよいよ、涙にむせび、つい、それなりに寝入るけれども、まもなく目が覚め、夜もすがら、寝入り申さず、色々なること、思い出しております。
わもじ(*わたし・松陰先生のこと)は、父母様や兄様の御かげにて、着物も温かくに、食べ物も豊かに、あまつさえ、筆 紙 書物まで、何一つ不足さえこれなく、寒さにも聞け申さずので、御安心なされるよう存じます。
そもじの御家、おば様も御亡くなられた事なれば、そもじ、万端、心がけなければ相、すまぬこと、ことに おじ様も年増し、御齢(よわい)高くなられた事故、別して御孝養を
尽くして下さるように。
又、万子も日々、太ってきたと申すが、心を用いて下さい。
赤穴(あかな)の ばあ様は御まめでありますかな。
ご老人の御事、万事気を付けて上げるように。
かかる御老人は家の重宝と申す者にて、金にも玉にも、変えられるものはありません。
そもじは、事はいと(*非常に))健気(けなげ)な折より、心得よろしき者と思い、一しお親しく思いますが、これほど、御文(ふみ)を拝し、いらざる事までも申し進めました。
3日
大(松陰先生 のこと)
千代どの へ
別にくだらぬ事、3、4枚、認(したた)め遣(つか)わしますので、お父様か、梅兄様に読み良き様に写して貰うように。
少しは心得の種にもなる、と云うものであろう。
さて、御便りの中にも(*云ったように)手習い読み物などは、心掛けるように。
正月には、1日だけは、やぶ入りが出来ると云うものかな。
どうぞ兄様の御きう(休み)日(び)を選び参って、心得になる噺(はなし)などを聞かれるように。
拙(和文字・*私)も その日が分かれば、昔話など認(したた)めて遣(つか)わし、申すようにします。
又、正月には、どこでも、つまらぬ遊び事をするのだが、それよりは何か心得になる本なりとも、読んで貰うように。
貝原(*益軒) 先生の大和俗訓、家道訓などは、丸き耳にも、よく聞こえるものであります。
又、浄瑠璃本なども心有りて聞けば、ずいぶん役に立つものであります。
さて又、別に認(したた)めた文につき、歌を詠むので、ここに記します。
頼もしや 誠の心 かよふらん
文みぬ先に 君を思ひて
右(*上)を認(したた)めたのは、そもじを思ってのことであります。
筆を執るが、その夜、そもじの文が到来するのは、定めて誠の心の文より先に参るかなと、いと(*非常に)頼もしく存じ、まま、このように詠みました。
一、 凡(およそ)、人の子、賢きも愚かなるも、良きも悪しきも、大抵、父母の教えに
寄る事なり。
就中(なかんずく・*とりわけ)男子は、多くは父の教えを受け、女子は、多くは母の教えを受ける事、またそれ、大概(たいがい)なり。
さりながら、男子女子ともに、10歳以下は母の教えを受けること、一しお多し、故は、父は厳(おご)かに、母は親し、父は常に外に出、母は常に内にあればなり。
そうであれば、この賢愚、善悪に関わる所であるので、母の教えを揺るがせてはいけない。
しかし、その数と云うのも、10歳以下、小児の事であれば言語で諭すべきではない。
ただ正しきを以て、感じる他にあってはいけない。
昔、聖人の作法には胎教と申す事がある。
子が胎内に宿れば母は、言語、立ち居より食べ物に至る間で万事、心を用い、正しくない事がないようにすれば、生まれる子の形姿(なりすがた)、正しく、器量、人に勝ることになる。
物を知らぬ人の心では、胎内に宿り、聞きもせず、物云わぬものの母が行を正しくしたりするなどか、通じると思うけれども、これは道理を知らぬ故、合点が行かない。
凡(およ)そ人は天地の正しき気を得て、形を拵(こしら)え、天地の正しき理を得て、心を拵(こしら)えるものなので、正しきは、習わず、教えずして、自ら持ち得る道具である。
故に母の行、正しければ、自ら感じることは、さらに疑うべきではない。
これを、正しきを感じると申すことである。
まして、生まれ出でて目も見え、耳を聞こえ、口も物云うに至っては、例え小児であっても、どうして正しいと感じることが出来るであろうか。
さて又、正しきは、人の持前とは申しても、人はいたって聡(さと)き者故、正しからぬ事に感じることも、又、速いものである。
よく心得るべきことである。
よって、ここに人の母たる者の行うべき大切な事を記す。
この他、小さい事は記さなくても、人々、弁(わきま)える所なので略しておく。
○いろは 例えにも、氏よりは育ちの、申すことあり。
子供を育てる事は、大切な事である。
一、 夫を敬い、舅姑に事ふるは、至って大切な事で、婦(*女性)たるもの行、これに
過ぎたる事なし。
しかしながら、これは誰しも心得ぬ者なければ、申さずとも済むことである。
さて、肝要は、元祖以下代々の先祖を敬うこと。
祖先を揺るがせれば、その家、必ず衰えるものなり。
凡(およ)そ、人の家の先祖と申すものは、あるいは馬に乗り、槍を提(さ)げ、幾度の戦場で身命を擲(なげう)ち、主恩のために働きたるか、あるいは、数十年、役儀を精励し、尋常(じんじょう・*普通)でない功績を立てるか、あるいは、武芸、人に優れたるか、
文学、世に聞こえたるか、何にせよ、一方ならない事があってこそ、百石であり、五十石であり、知行を賜り、子孫に伝えたのである。
それ以下の先祖と申すものも、それぞれ、御奉公、その節を遂げたればこそ、元素と同様に知行を賜る事である。
この所を よくよく考え、この一粒も先祖の御蔭と申すことを寝ても覚めても忘れる事なく、
その詳月、命日には先祖の事を思い出し、身を潔くし、体を浄め、これを祭り奉りなどすべきである。
又、一事を行うにも、先祖に告げ奉りて、後、行うようにするべきである
そうすれば、自ら邪事(じゃじ)なく、する事、なす事、皆、道理に叶って、その家は自ら、繁盛、行(おこなわ)るものである。
もし、心得なく、己が心まかせに、わがまま一杯を働いたならば、如何で、その家は衰微するであろう。
聖人の数は、死、去りて世に居給うぬ親、先祖に事ふること。
現在の親・祖父に事(つか)えようにするべきである、とある。
今、親・先祖が現在し給えば、何事も思召しを伺ってこそ、行うべきだが、世に居給わないと云って、先祖の御心を察し奉らず、わがままばかり働くのは、これを先祖を死せりとす、と申す。
もったいない事どもである。
一、 婦人は、己(*自分)が生まれた家をでて、人の家に行きたる身である。
そうであれば、己(*自分)が生まれた家の先祖が大切な事は、生まれ落ちた時から
弁(わきま)え、知るべきであるけれども、ややもすれば、(*お嫁に)行きたる家の先祖が大切なことは、思わない事もあるだろう。
わざわざ、心得るべきである。
人の家に行ったならば、行った家が己が(*自分の)家である。
故に、その家の先祖は、己が(*自分)が先祖である。
揺るがせにする事は、してはいけない。
又、先祖の行状・功績なども詳しく心得置き、子供などへ昔話のように話し聞きすべきである。
大いに益、ある事である。
一、 神明を崇め、尊ぶべきである。
大日本と申す国は神国と申し奉りて、神々様の開き給える御国である。
そうであれば、この尊き御国に生まれたる者は、尊きとなく賎(いや)しきとなく、神々様をおろそかにしては済まないことである。
しかし、世俗にも神信心と云う事、する人もあるが、大抵は心得違いである。
神前に詣で、柏手を打ち、立身出世を祈るのである。
長命、富貴を祈りたりするのは、皆、大違いである。
神と申すものは、正直なる事を好み、又、清浄なる事を好み給う。
それ故、謹(すすし)み拝むべきである。
これを誠の神、信心と申すのである。
その信心が積もって行けば、二六時中、己が心が正直で、体が清浄になる。
これを徳と申す。
菅 亟相(*菅原道真の異称)の御歌に、心だに、真の道に、叶いなば、祈らずとても、神や守らん。
又、俗語に、神は正直の頭(こうべ)に舎(やどる)とて、信あれば、徳あり、と云う。
よくよく、考えてみるべきである。
さて又、佛ともうすものは、信仰するに及ばない事である。
しかし、強(あなが)ち、人に逆らって佛を謗(そし)るも、いらぬ事である。
一、 親族と睦(むつまじ)く する事は大切である。
これも大抵、人の心得たる事である。
しかし、従兄弟(いとこ)と申すもの、兄弟に差し続いて親しむべき事である。
すなわち、世の中、従兄弟となれば、甚(はなは)だ疎きものであり、よくよく考えてみる事である。
吾が従兄弟と申すのは、父母の姪である。
祖父母からみれば、同じく孫である。
そうすれば、父母・祖父母の心になってみれば、従兄弟を決して疎(うと)くはならないのである。
しかしながら、従兄弟が疎いと申すのは、元来、父母・祖父母の教えが行き届かないのである。
子を教える者は、心得るべきである。
凡(およ)そ、人の力と思うものは、兄弟に過ぎたるはないのである。
もしふこうにして兄弟がない者は、従兄弟にしくはない。
従兄弟、兄弟は年齢も互いに似よりて、ものを学んでは、師匠の教えを受けた事をさらえ、事を相談しては、父母の命をそむかぬように計らう。
皆、他人で、届く事ではない。
ここをよく考えるべきである。
茲(ここ)に一つの物語あり。
吐 谷渾(*と よくこん[国名])と申す夷国の阿豺(あさい)と申す人。
子 20人あり。
病気が大切(*心配)であるなら、弟の慕利延(*ぼりえん)を召して申すには、汝、一本の矢を取って折れ。
慕利延が、これを折ると、又、申すには、汝、19本のヤを取って折れ。
慕利延、折る事は出来ず。
阿豺(あさい)、申すには、汝ら、よく心得よ。
一本立であれば折れ易いが数本集まれば折れ難い。
皆、一致し、国を固めよ、と。
国でも、家でも、道理は同じ事である。
とかく婦人の詞(ことば)から親族不和になる事が多い、忘れるべからず。
右に(*上に)記したのは先祖を尊ぶ(事)と、神明を崇める(事)と、親族と睦(むつまじ)くする(事)と、以上、三事である。
これが子供を育てる上で大切な事である。
父母たる者、この行いがあれば、子供はただ、教えることなく、自ら正しき事を見習って、賢くも、善くもなるものである。
さて又、子供が、やや成長して人の申す事も耳に入るようになったならば、右(*上)などの事を(*手)本とし、古今の種々たる物語を致し聞かすべきである。
子供の時に聞いた事は年を取っても忘れないものなので、埒(らち)もない事を申し聞かすよりは少しなりとも、良き事を聞かすに越したことはない。
杉の家宝に世の及び難い美事がある。
第一に先祖を尊び給い、第二に神明を崇め給い、第三に親族を睦まじくし給い、第四に文学を好み給い、第五に仏法に惑い給わず、第六に田畠の事を親(みづか)らし給うの類なり。
これらの事、吾、皆、兄弟の仰ぎ努めるべきところなり。
皆々、よく心掛けるように。
これ、即、孝行と申すものなり。
この書付は、阿千代、阿壽などに示し申そうと、先日から胸中に蓄えていたが、所詮、読書の閑なく、それっきりに致し置いていた。
昨朝 無事故、ふと思い付き認(したた)め掛かった。
又、暮れほどに見ると余りに拙(つたな)いので、止(と)めようと存じたところ、夜中、阿千代の文(*書翰)を見て涙を流し、所謂(いわゆる)鬼の目にも涙とやら言うので、頻(しき)りに懐かしくなったので拙(つたな)きながら妹などへ残したいと存じます。
久しく胸中に蓄えてあるものを、昨日、ふと筆を降し、その夜、千代の文(*書翰)が来た事、精誠の感通(かんつう)ともおもわれます。
拙き(*下手くそ)は、何としよう。
御閑(おひま)があれば、半(*分の)枚数で5行位で読みやすいように御認(したた)め、両妹などへ御与え遺されてくれないであろうか。
恐れながら尊大人へ御頼り仕るかな。
万々、宜しく頼み奉ります。
3日 寅じ(*松陰先生のこと)
(以上、意訳。)
こうした手紙にも家庭の人々と獄中の先生との心の結ばれ、慈愛の響音(きょうおん)、杉家の美風が思いやられる。そして祖先を尊び、神明を崇め、血縁の親睦を説き、敬老の義を教え、さらに学問の事から胎教に及び、人たるものは天地の正しき気を得て形を拵(こしら)え、天地の正しき理を得て心をこしらえたるものなれば、母性たるものは この義が大切じゃ、子供の賢愚、善悪はまったく母たるものの教えの一つであるぞ、と細々に書き示しておられる。
この書簡こそ、まさに松陰先生の女子教育に関する大精神・大抱負を言々句々に云い尽くされた真情の現れであって、千古に亘り、不滅の女子聖典である、と云っても敢えて過当ではあるまい。
◆ 獄中の松陰を犒(ねぎら)う
◇ 子女の精神を培(つちか)う母の薫育(くんいく)
しかし、そもそも松陰先生に、こうした女子教育の理想、信念が生まれた淵源は、何であったろうか。
もちろん、先生の天稟(てんぴん・* 生まれながらの資質)的な学問識見によることではあるが、幼時から両親の許において実際の体験に培養された家庭教育にもとめなければなるまい。
したがって、母の瀧子の家庭におきる感化、薫育が事、ここに至ったものではあるまいか。
換言すれば、瀧子の平生、瀧子の理念、瀧子の教育が松陰先生の学問精神を通じて書き出されたもの、と云ってよかろう。
賢母と賢児との合作、烈女と国士との響音、これが、この一大女子教育の聖典をあみ出したわけである。
師走も、だんだんと押し迫ったその16日、松陰先生は、またもや妹・千代に一書を送っておられる。
(*以下、意訳。ひらがな は解る範囲で漢字に置き替えています。)
(前略)
万子へ読み聞かせ、申し聞かせる事を楽しみにとのこと、尤(もっと)もに存じます。
夫につき、一つ思い付いた事があります。
日本は武国と申して、昔から勇気を重(おもし)と致し、国、ことに士(さむらい)は武士と申せば、別して勇が大切で、子供へ非常に健気な折から、この事を教え込む事が肝要であります。
江戸絵や武者人形、又、正月や端午に弓矢のほりなどを飾るような事も、まんざら遊び事ではありません。
又、軍書の中にある軍(いくさ)の絵など、子供に見せれば、自然と、知らず覚えず勇気が増すものであります。
楠木正成じゃの、新田義貞、加藤清正と云う事は、子供に覚えさせるのがよろしく、又、武者百人一首と申すものもあるとか、子供に見せて良きもので、紙も尽き、日も暮れたので、先ずは筆を止めます。
(*以上、意訳。)
幼少から山屋敷で苦労を共にして育った妹に万吉と云う子供が出来た。
先生は悦びの余り、この乳幼児の教育について細々(こまごま)と説き示しておられる。
『楠木正成じゃの、新田、加藤の、と云う事を子供に覚えさせ』と、自分が子供の時に山屋敷で母の瀧子から朝に見せられ、夜の目に聞かされたそのままのものを繰り返して妹に伝えておられるのである。
ここにも母の感化訓育の見逃し得ることの出来ないものがある。
こうした母の瀧子の心は、いつも杉家のすべての人々の心の中に宿っていたのである。
◇ 松陰先生との兄弟愛
獄中の松陰先生と家庭の人々との間には、こうして文書の往復が毎度のように繰り返されていた。
ことに兄の梅太郎は、家庭人の代書のように繁々と文通を出していた。
しかし、あの下田米艦搭乗の件に関しては、兄に後難と及ぼしては、相すまぬ、とあって、松陰先生は、当時、極秘で決行されたものである。
それだけに今となっては、先生も云いたいことがあったろうし、兄としても、また聞きたいこともあったろう。
こうした互いの気持ちが家庭の事もさることながら、国事の方面についても、分け隔てのない兄弟のことであるから、つい、お国のためならば生死を度外視にして大いにやるぞ、と云った気持ぐらいは話があったものと見える。
それが両親の耳に入り、父の深いと母の悲嘆とをかった、と云うので、この暮れの12月17日付の兄の梅太郎が、
(*以下、意訳。ひらがな は解る範囲で漢字に置き替えています。)
裏書に一日も早く落命しようかと、厳慈の経を尊じ見て、些(*少しは)御不興を蒙る思召し、遂に北堂(*ほくどう・母の敬称)、御悲嘆は浅からず、駟(し)は筆に及ばず、二慈(*両親のこと)の御不興に困り申します。(*以上、意訳。)
と書き送っている。
松陰先生にして見れば、幕禁を犯しての失敗、両親兄弟に心配をかけては相、すまぬ。
それに獄裡(ごくり)の身となっては尊攘の大志を最早、遂げることは出来ない。
いっそのこと、落命しようかなと思い、このように書かれたことであろう。
しかし父としてみれば、これ位のことで落命とは、それは軽挙じゃ、それでは男子の面目が立たない。
勝手な振舞いをされては困る。
大いに志を立てて、捲土重来(けんど じゅうらい。*一度、敗れた者が再び力を盛り返し、反撃に転じること)、慈愛自重、御奉公を致すべき身でありながら、一度の蹉跌(さてつ・*挫折)で徒(*いたずら)に死を急ぐとは情けない。
それでは今までくろうして育てた甲斐がない。
無分別な寅次郎じゃ、と不興、不快の言を漏らされたことであろう。
又は母の瀧子としては、夫の不興、不快を目のあたりに見る心辛さに増して、愛児の死を急ぐ、その心情を察しては、まことに悲嘆やるせないものがあったことであろう。
父と同じ思いであっても、母親としては一段と悲嘆の深いものである。
これに対して松陰先生は、それは不用意な事を云った、実に相すまなかった、と云うので、『あれは戯(たわむ)れのみ、琴の以外に却って心痛している。二慈(両親のこと)の御心に掛かるとは思いも染めざる事であります』と、兄に恐縮、平伏して陳弁されている。
なお次のような一詩を賦して陳謝の意を表わしておられる。
青年豪気不知難。 青年の豪気、難を知らず
只把死生一様看。 只、死生を把(と)って、一様に看る
庭圍豈料傳狂語。 庭圍(ていい・*家庭とおなじ意)、豈料(あに はからんや)
遂使雙慈轉減歓。 遂に雙慈(きゅうじ)(両親)をして、轉(うた)た、歓を減じさせる
と、松陰先生は恐れ入って、
『二慈(*両親)にこのように仰がれるよう願い奉ります、筆を提げて紙に臨んで頗る(*非常に)当惑しております』と、ひたする他意なき不注意より御心痛、御心配をかけて、重々相、すまぬと恐縮しておられる。
ここに、この至高の松陰先生、あの兄弟、仲の睦まじい松陰先生の心情が忍ばれると共に、この間における父は、もちろん母の瀧子の悲嘆、心使いが思いやられる。
こうした意外な突発事があったにしても、松陰先生は父母や兄妹たちの温かい心に抱かれつつ獄中生活を続けておられる。
兄は、いつも家中の代表者となって種々に心を砕いて獄裡の先生を慰めている。
ことに、いついつの書籍の周旋、差し入れには相当、忙しかったようであった。
とやかくするうちに、年の瀬もだんだんと進んで、12月も差し迫って来る。
萩の名物・鯨の味噌煮は先生の鉱物であったとみえる。
書物の差し入れ毎に、いつも いろいろこうした煮物類を差し入れしている。
12月23日、先生は、『半紙三括り、三体詩一、詩題苑三、入蜀記二、宋詩清絶一、煮染め、刺身、香物、いずれも受け取りました。』と、兄・梅太郎に返事を出しておられる。
また、この頃、松陰先生は風邪を引かれたものか『薬は服用し、風邪はすでに退き、昨日、三つだけの(*薬を)呑んだので最早よかろう』と云っておられる。
また反古類(反古類・*無駄な物)の始末に困るから柳行李(やなぎごおり)か破皮籠(かわご)でも差し入れて呉れ、とも云っておられる。
こうした煮物類や薬や行李(*こおり)の世話、心配には母の瀧子もさだめし、あれやこれやと心を尽くして走り歩いたことであろう。
獄中の息子が不自由であってはならない、病気をしてはならない、何か変わったものでもあれば、食べさせてやりたい、との母の慈愛の心で一杯であったことであろう。
明ければ、安政2年(*1855年)の正月である。
獄中生活の松陰先生にも新春が来た。
南窓の暖かい日向きに先生は、のんびりとしたような気持ちで、
大空の恵(めぐ)は いとゞ 遍(あまね)り
人屋(ひとや)の窓も 照す日の影
と、詠まれ、餅を少々送って呉れ、と兄・梅太郎に頼んでおられる。
獄中の寅次郎にも、と云って、母を中心として正月、餅をつかれた杉家の様子が思いやられる。
またこの頃、兄の梅太郎は、
鯨肉(げいにく)一鉢、差し送りました。
書物共、入用であれば、裏書に申し越して下さい。
紙も又、同様で、虱(しらみ)は長袷衣、長綿入り羽織などへ登らせる内に、地ばんを毎日、毎日洗濯致したく存じる事
と、云い、さらに
『地番一枚、味醂一徳、魚肉一入物』を送った、とも云っている。
これに対して先生は、
『ありがたく味を拝しました。先だって夜着、布とん、その他衣類など受け取り申しました。』と大いに感謝の礼を述べておられる。
これらの世話は、男の手で出来るものではない。
母の瀧子が千代子や壽子を相手に冬の夜寒の長夜を寅次郎可愛さの余り、仕立てもし、洗濯もし、煮付けも、したことであろう。
それに寅次郎は、甘好きと云って、瀧子の自らの味付けの吟味などもしたことであろう。
松陰先生が泣いて感謝されたことも当然のことである。
ことに松陰先生は元旦に
新年の御吉慶、目出度く存じ奉ります、尊大人(そんたいじん・*父上様)様、大孺人(だいじゅじゅじん・*母上様)様を初め、御満堂(ごまんどう・満場のひと達)、宜しく御超歳、大賀に奉ります。
獄中も一夜明ければ、春めくと申します。と云って、雑煮を食べたが、
『やりきれん事 山亭(樹々亭)でのようで、これ、戯譃(たわむれ)の初め』とまで書き添え『雑煮、満腹、々、雷鳴云々』の詩を作って戯れておられる。
さすがに新年のことであれば、松陰先生はあらたまって両親に新春の挨拶を述べられた後に、のびやかな気持ちで腹雷鳴と戯れておられる。
これも獄中性格の割合のんびりとうして春めいた気分を先ず、両親に報じて、寅次郎も健やかに案外、元気にやっております、と安心させたいからの一念であったことであろう。
こう思うと、ふと至孝の松陰先生と家庭の人々の心とが思いやられる。
◇ 獄中の松陰先生と母の心尽くし
獄中の寒さはだんだん、厳しくなって来る。
敷皮(しきがわ)位では、とても この冬は越せまい、とあって、家から熊の皮を送っている。
松陰先生は、かつて瑞泉寺・竹院和尚の所で熊の皮を見られた時に、欲しいな、と思ったことがある、と云って非常に喜んでおられる。
それからまた香の物、醤油の実、餅十、橙(だいだい)五などの他に、手桶と云ったような物までも送っている。
霜の朝の寒さにつけ、隙間漏る夜風が身に染むにつけて、寝ても覚めても寅次郎の鉄窓獄裡の寝起きが気にかかったことであろう。
これを思うと、あれも送りたい、これも差し入れたい、と母の心は、いつもこれのみで一杯であったようである。
松陰先生は獄中生活ながらも、こうした家庭の人々の慈愛と母の心尽くしによって不自由ながらも、案外、平和な生活を続けて行かれたのである。
是も要するに母の瀧子の愛の宿があったからである。
こうした生活の中に月日は流れて、春も去り夏も過ぎ、秋となって来た。
兄・梅太郎夫人の亀子が妊娠して、近くお目出度があると云うので、先生は母の瀧子に左(*下)の一文を送っておられる。
(*以下、意訳。ひらがな は解る範囲で漢字に置き替えています。)
さて姉様にも御目出度、御様子を承り、明け暮れ、その期を相待ちおりましたので、何卒、御支(さ)わりなく御渡りますようにと、それのみ念願にございます。
安三(やすぞう)(弟・敏三郎の別名)も大分(だいぶん)、字が出来出したと喜んでいます、
お文は定めし成人になったので、仕事も追々、覚えるかな、合間、合間に手習いなど、精を出す仕度をするよう存じ奉ります。 安政2年11月3日
(*以上、意訳。)
兄思いの松陰先生は自分のことのように喜んで、『御支りなふ御渡(おわた)り被成候へかし』と神かけて、それのみ祈っておられる。
実に奥ゆかしい家庭人の心の結ばれではあるまいか。
また母・瀧子のの苦労の種である敏三郎のことまでも思い出して、『大分字が出来だした』と喜ばれ、母の片腕である妹の文子については、『お文(ふみ)も定(さだ)めし成人』と、それから、それへと思いのままを次ぎ次ぎに書き述べておられる。
しかも、なお親戚の人々である大藤や宅野(たくの)にまでにも無音の挨拶を書き添えられておられる。
まことに松陰先生ほど家庭思いの人はなかった。
しかし、こうした親思い、兄妹思いの心の許を訪ねれば、母の瀧子の幼少からの教養・躾(しつけ)によったものである。
このお目出度の豊子(とよこ)が生まれた時にも11月6日付の手紙で『杉姉様に御安産の由、御同様 目出度く存じます。何卒、日日、成長致すように、と祈ることに存じます』と、妹・千代に心からなる喜びを通じておられるのである。
また11月7日付では、養母の久満(くま)にも一文を送っておられる。
この程は、御出萩なされたのこと、寒さの折、別けて御苦労の御事にございます。しかし、御貴文、御支りなくいられるとのこと、目出度く存じ上げます、将又(はたまた)、結構な品、御恵み遣わされ、一夜の寒さ、相、凌ぎ御礼申し尽くし難く存じ上げます。
杉にも目出度く、誕生、相済み、この上無いことに存じます。と、
この久満(くま)は、養父・吉田 大助の配(*奥様)である。
大助の歿後、実家の黒川村・森田に帰って寄寓しつつ、時々、松本の杉家に往来していたものである。
義理ある養母、松陰先生が忘れられるはずはない。
如何にも物やさしく、久満の心に日頃の思いを通じておられる
松陰先生ほど、よく気の付くやさしい人はなかった。
そうこうする中に、12月15日、松陰先生は野山獄を免ぜられて松本の実家に帰られることになった。
元来、松陰先生の下田事件とて幕禁犯も憂国の至情、やむにやまれずして敢行されたものである。
国庫の存亡、黙し難く、一死、殉国の至誠・奉公の一念からであった。
まして幕禁を犯したとしても、その精神至上に至っては大いに同情すべきものがある。
それを永く獄裡鉄窓の生活に置くことは、余りにも処刑が過当であるとの評議が持ち上がって、遂に獄を免ぜられて杉家に禁錮と云うことになった。
禁錮と云うのであるから、もとより外科医の人々とは面接されることはもちろん、許されないのであるが、実家に帰って両親の膝下に親しく奉侍せられ、あの睦まじい兄妹と同じ棟に起き臥しすることになった松陰先生の喜びは如何であったろうか。
それにもまして、両親兄妹などの喜びは、そも、どうであったろうか。
憂国奉公の一念に燃える愛児、不運・不幸にして志を得ず、獄裡苦心の身となった愛児、その愛児が久しぶりに家に戻り、この一年有余の間における家庭人の苦労、心使いは並大抵のものはなかったであろう。
そして、その一切の世話・指図の中心が母の瀧子であった。
世に容れず時に遭わず、一切の難苦に耐え忍びつつ、静止の岐路に迷いつつも巍然として、その嚮(むか)う所を乱さず、専念一意、君国のために大志をのばして、国難に殉じて行こうとする殉国列士の慈母、国士家庭の母性、瀧子はまさに この種の家庭婦人の典型であった。(以下、8行、略します。)
次回、吉田松陰の母 を読む6 に続きます。
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/490185144.html
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。


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