吉田松陰の母 を読む4
吉田松陰の母 を読む4
◆ 杉家の人々
◇ 長女・兒玉 千代子
松陰先生の三妹の中で一番の年上が千代子(後に芳子と改める)である。
天保3年(1832年)生まれであって先生とは三つ違いの長女である。
山宅(さんたく)時代には両親兄などと共に朝夕、辛苦をなめつつ、兄妹互いに助け合い励まし合い育ち成長したものである。
それだけ松陰先生とは仲睦まじかったわけでもある。
先生は、野山獄中から、
そもじ(千代子の)事は いと けなき折より、心得よろしきものと思ひ、一しほ 親しく思ひ候。
と、云っていられるのを見ても、千代子の幼少時代の全福が知られる。
それに前にも云ったように12、3才で早くもすでに家庭を離れて、父と共に城下に別居して父の身の回りの一切を世話した立派な女性である。
母の瀧子の仕込み、躾(しつけ)のほどが思いやられる。
千代子は年頃になって母の瀧子の養家・兒玉 太兵衛寛備の男、祐之(すけゆき)のところに嫁したが、その内に安政元年(1854年)には、長男・萬吉が出来たのである。
この頃になれば、千代子も、最早23歳、兒玉家の家風にも慣れ、また子女の教育も問題となってきた。
そこで松陰先生は、毎度自分の修養の工夫や舅姑(しゅうと、しゅうとめ)への仕え方や、
子女の教育などについて心付きのままを書き示しておられる。
そもじの御家(おいえ)おばさま(姑)も御なくなられた事なれば、そもじ 万端 御心掛けでは相すまぬ事、ことに おじさま(舅)も年まし 御齢高くならせられた事故、別して孝養を尽くし候へかし
と、云って、兒玉家への奉仕、一年を数えておられる。
この、おじさま(舅・しゅうと)の太兵衛は、親戚の中で一番 気むつかしや で知られていた人であって、千代子は、常に肉身の親・兄弟以上に誠実を尽くして孝養していたのである。
その中に、また壽子が出来た。
千代子は二人の子の母となり、70近い舅に仕えて、まめまめしく主婦としての道を尽くしていたのである。
安政2年(1855年)の春、松陰先生は、野山獄から実家へ帰えられた。
塀居(へいきょ)謹慎中の身柄とは云え、杉家には春風の和気が盛りかえされた。
杉家としては、その時代が平和な家庭の最高峰であっただろう。
他家に嫁いだ妹等を始めとして、一家中の人々が時々、往来集まって一家団欒の出来た時代であった。
松陰先生は、その間においても常に妹等の修身工夫と、主婦としての自戒とを与えていられる。
しかしながら、またまた、安政5年(1857年)の春に、野山へ再投獄と云う悲運に会われたのである。
この時にも、(千代子ではないが当時21才の次女の壽子【1】に)『平田家訓』を残し、人の母たるもの、子供の導き方などは、あらまし、かくの如し、と云って指導しておられる。
【1】 この時、壽子は、小田村伊之助(後の楫取素彦)と既に結婚し子・篤太郎がいた。
また、江戸行の時には、
こゝろ あれや 人の母たるひとたちよ
かゝらんことは 武士の習(ならい)ぞ
と、一首を残し、武士の妻たるものの覚悟、決心を説き聞かせていられる。
妹など思いの松陰先生の心情がよく窺えると共に妹なども振るい立ったことであろう。
その中に、松陰先生は、安政6年(1858年)5月、江戸に檻送(かんそう)され、
続いて同年、10月27日、江戸伝馬町獄において刑死されたのである。
松陰先生没後の千代子は、次女の政子、三女の富士こと次男の庫三を挙げ、二男三女の母となって、いよいよ家政と育児とに多忙の日々を送るようになったのである。
そればかりでなく、元治甲子の変(*禁門の変)には、妹婿の久坂玄瑞が蛤御門の戦で自刃して、末の妹・文子が若い未亡人となる。
やがて藩内騒動の際には、今一人の妹婿・小田村 伊之助が俗論党のために捕えられて野山獄に繋がれる。
杉家一家のものどもは、引き続く不運不幸に、どんなに心を痛めたことであろうか。
こんな折でも千代子は、松陰先生の入獄の時と同様に、小田村の慰問に誠心を捧げ尽くしている。
小田村も、その心情を感謝し、
春おそき 花もまがきの 梅が枝(え)に
こゝろありげに鶯(うぐいす)のなく
と詠んでいる。
二人のゆかしい心情が思いやられて、じつにいじらしい心地がする。
やがて慶応元年には実家の父・百合之助が永眠し、伝々、世の多事多難の嘆きの中に維新の混乱を経て、明治8年3月には、30余年つれ添った夫・祐之(すけゆき)が亡くなり、千代子は44才で寡婦となったのである。
その翌年の秋には、前原一誠の乱があって、叔父の玉木 文之進は引責自刃し、甥の小太郎は戦死した。
その時、千代子は叔父の後を追って祖先の墓前に赴き、後顧の思いなく その自刃を果たさせしめた、とさえ云われている。
かくて明治15年、長男の萬吉は亡くなり、末の子の庫三が吉田家を相続して東京に移住すると、千代子は、その隣に居宅を構え、晩年は、いとも平和に幸福な生涯を送ることになった。
東京には親戚も多く、親しく互いに往来して往時の思い出に自らを慰めながら、大正13年5月、93才の長寿を全うし、あたら風雨の多かりし多難の生涯を閉じたのである。
こうした千代子の辛苦、堪忍、しかも不動の誠心の中に女性としての温和さを示している。
この女性としての態度、心構えが、母の瀧子の教養の芽生えであることを見逃してはならないのである。
近代的、形式的教育よりも、その家門の血脉(けちみゃく・*血脈)によって浄化育成されて行く子供の血脉、母の愛情によって心から心へと伝えられて行く以心伝心の崇高な家庭教育、これが真の日本家庭の子女教育であって、この日本人たる崇高神秘な血脉の教育を敢えて高唱せざるを得ない所である。
妹 兒玉 芳子(元、千代)
家族の写真より、抜粋。

◇ 二女・小田村 壽子
千代子の妹が壽子(としこ)であって、松陰先生とは九ツ違いの妹であった。
15才の時に勤王藩儒・小田村伊之助(後の正三位勲一等・楫取素彦 男爵)に嫁いだ。
小田村は明倫館の都講(づこう)となり、又、松下村塾の柱石でもあった。
温厚篤実な学者肌の人物だった。
藩主のお伴で江戸に行くかと思えば、また海岸警備役目として終始不在勝ちであった。
あまり豊かでない学者家庭の上に、夫は常に不在勝ちだったので、壽子は子供を連れて実家の杉家で何からなにまで世話になったようである。
松陰先生は千代子同様、壽子にも常に心をよせて、種々、指導、訓戒につとめていられる。
安政元年(1854年)、長男の篤太郎(とくたろう)が生まれた時に、勝気な壽子を半ば戒めて、
お壽 少(わか)くして偏僻(へんぺき・*心がかたよりひがむこと)の気あり、
この気 恐らくは生子(うまれご)の塁(わずらい)とならん。
なので、今 、己に子を抱(いだ)く、決して前日の如くなるに至らず、温柔寛緩(おんじゅうかんかん)、以て生子を育て、他日 学をなす資(もと)となせ、大(おおい)に祈るなり。
と、云っておられる。
女性は、とかく偏った性癖になり勝ちなものである。
それは、おもしろくない。
母たる自覚と共に円満な人格の婦人となって、子供に その円満平和の心を移し、他日、成人後の学問の素質を作るべきであると戒めておられる。
いつも松陰先生は、こうした態度、心情であった。
しかし、これも、もともとよく考えてみれば、いずれも皆、母の瀧子が松陰先生など兄妹に与えた幼時の家庭教育の果実であり、それを あの天稟的な(てんぴんてき・*生まれながらの資質の)松陰先生が浄化、吐露されたものである。
こうした家庭事に対する先生の心構えは、母の瀧子のそれと全く同一のものであったことを忘れてはならないのである。
小田村は、安政3年(1856年)、相模の守備に出て、1年ほど勤務の後、帰国してから明倫館の教授となり、松陰先生は野山獄を免ぜられて松下村塾で師弟を教導されている。
その間、小田村は(*松下)村塾に出入りして共に楽しく師弟を教えていた。
実に杉家の平和な円満な楽しい時代であった。
安政5年(1858年)には、壽子は既に20才で二男【1】の母親となった。
【1】 次男は、久米次郎・楫取道明。久坂家、後、楫取家を継ぐ。台湾・芝山巌学堂で小学校で教師を勤めるも、明治29年1月1日、台湾の日本統治の反対勢力による芝山巌事件で亡くなる。
そして、この年の暮れには末の妹の文子が久坂玄瑞と結婚する。
杉家は、重々の喜び、幸福な年であった。
松陰先生の没後、小田村は、一時、松下村塾を統率していたが、急迫する時代の荒波
は、到底、彼をして故山に家居(かきょ)して子弟、教養の任にあることを許さない情勢となって来た。
あるいは、馬関の攘夷戦、藩内の騒擾の周旋と目まぐるしく活動し、しかも正義党と俗論党との内訌の際には、捕えられて鉄窓獄裡の身となり、さらに四境戦争では東奔西走、国事に尽盡し、遂に明治維新回天の鴻業(こうぎょう・*大きな事業)を完遂の後には、足柄県参事(明治5年)、熊谷県令や栃木県知事となり、地方官の要職にあって民政の事績に
大いに見るべきものがあった。【2】
【2】 明治9年、熊谷県は、群馬、埼玉県に分割され、楫取は群馬県令となる。
現在、群馬県庁は、前橋市であるが、当初は、高崎市の予定だった。
しかし、下村善太郎を中心とした前橋の有力者25名が、物心両面から楫取の県政を支え、楫取は、県庁を前橋に移す決心をした。
しかし、その裏面、壽子の尽力と辛苦は、実に想像以上のものがあった。
殊に壽子は、夫の治民の業を内助しつつ、維新後、未だ風教(ふうきょう・*徳行によって人々を教え導くこと。習俗や風習。)が定まらない時代のこととて、地方の無学放浪な徒(やから)を救うのは宗教の力しかないとして、かねてから信仰する西本願寺派真宗の法力教化によることとして、自ら治民(じみん)の第一線に立って風教の振作(しんさく*奮い起こさせること)に尽くした。
そして、これが縁故となり、晩年は、もっぱら宗教生活に入ったのである。
そして、明治10年、軽い風邪にかかったことから、これより漸次、病弱となり、(*明治)13年秋、胸膜炎を併発し、翌、(*明治)14年1月、45歳【4】の女盛りを一期として、夫と二男を残し、心惜しくも、この世を去ったのである。
【4】満年齢では、43歳に該当。
妹 楫取壽子
家族の写真より、抜粋。

◇ 四女・久坂 文子
松陰先生の末の娘が文子で、その容貌は松陰先生の画像、そのままであると云われている。瀧子にとっては一番末の女の子だけに余程、可愛かったようである。
この文子の嫁ぎ先が久坂玄瑞である。
久坂玄瑞は、松陰先生の門人であり、先生も『防長第一流の人物』とまで賞賛されている程の有為な青年であった。
松下村塾の参謀の参謀、長格で、学問、識見共に衆に抜きん出て高杉晋作と並び称されて
いたが、人格的信望に至っては、はるかに高杉の上であった。
松陰先生の歿後、松下村塾の同志とはもちろん、当時の勤王志士とも互いに心を通じ、興
朝倒幕のために東奔西走、殆ど席の温まることがなかった。
文子が玄瑞に嫁いだのは、安政4年(1857年)12月で、玄瑞は18歳、文子は15歳であった。
[*ちなみに、この年に坂本龍馬は「千葉灸治院」によると、千葉定吉から道場塾頭に任じられている。]
当時、久坂の盟友・口羽 杷山(うちば はざん*儒学に造詣深く、詩文に優れた寺社奉行で松陰の親友)が、この結婚を喜び、また杉家の家風を讃えて『久坂も これよりは ほんとに捨身の活動できることであろう』と、心から悦びの祝言を呈している。
松陰先生も、また、『妹が、この上もない好配偶者を得たことは、吾等の幸福である』と、喜んでいられるほどの双美の結婚であった。
この幸福に満ちた若いふたりの人生行路も、足掛け8ヶ年の家庭生活で早くも哀しい
終焉(しゅうえん)を告げたのである。
それは、(*久坂)玄瑞が元治元年(1864年)7月19日、蛤御門の戦いで鷹司邸において自刃したからである。
その8年間も、実際は玄瑞が勤王の活躍のために多くは江戸や京都を往来していて、郷里の萩にあって文子と親しく家庭らしい生活を営んだのは、わずかに2年足らずの間であった。
久坂玄瑞の墓・京都霊山護国神社

久坂家も、あまり裕福な方ではなかったから自然、文子も杉家に奇寓し、時たま、玄瑞が帰萩しても大抵は杉家に文子と共に同居すると云った有様であった。
この間にあって、母の瀧子も定めし、何かと世話に心を砕いたことであろう。
玄瑞が25歳を一期として、あたら有為の大志を抱きながら護国の鬼神と化したので、文子は22歳のうら若き身を以て孤独の寡婦となり、まことに哀れな運命に逢ったのである。
その後は、老父母の膝下(しっか)にあって亡き夫の英霊を弔いながら、まことに味気ない歳月を送っていた。
一時は召されて藩公の幼君(後の毛利元昭)のお守り役となり名前も美和(みわ)と改めた。
しかしながら、明治14年、たまたま揖取 素彦(かとり もとひこ) に嫁いでいた姉の希子(まれこ)(壽子)が亡くなって、次第に老境に向かう(*揖取)素彦とふたりの遺子が、淋しくも、そのあとに残されていたので、実家の母の瀧子は、孫たちの不憫さや素彦の身辺などを案じ煩(わずら)って美和子に姉の後を見みるように、と懇(ねんごろ)にと諭してみた。
しかし、美和子はあれやこれと思い乱れて、容易に解決しえなかったが、2年に亘る考慮の末、遂に心を決して行く末短い老母の言葉に従い、遂に、揖取素彦と再婚するようになったのである。
現在、揖取家には「涙袖帖*(るいしゅうちょう)」と云う書簡帖がある。
これは、(*久坂が文に宛てた手紙は20通(21通とも)と云われ、)美和子が寡婦になってから昔のありし面影を偲び、朝な夕なに繰り返し、涙で詠んだ亡夫・玄瑞の書簡集である。
美和子は、これを心に抱きしめ携えて、揖取家に再び嫁いだのであるが、彼女にとっては、
女性として初の契を結んだ夫・玄瑞をしのぶ袖の涙の形見であった。
また素彦にとっても、松下村塾以来、互いに血潮に契って勤王の苦闘に喘(あえ)ぎつつ、幾度か生死を共に放浪した当時の同志・久坂玄瑞を目の当たりに見る大和男子らしい袖の涙の記念品であった。
志士・久坂玄瑞の妻 ―― 殉国烈士・吉田松陰の妹と云う自覚、自負、栄誉の内に20年近くも雄々しく勇ましく寡居を守り続けてきた美和子も、母・瀧子の老いの心を安心させたい一念から遂に嫁した揖取素彦は、当時、群馬県の県令であったが、後、帰京して
元老院議官、明治天皇の皇女・貞宮内親王殿下の傳育官(ふいくかん)(*意味の上では教育係、とでも言うのでしょうか)となり、続いて華族に列せられ、晩年は、きわめて順境であったから、美和子も静かに余生を楽しんで、大正10年、79歳で心の中に人知れない悲哀を込めつつ、その一生を終ったのである。
妹 楫取 美和子
家族の写真より、抜粋。

◇ 母としての瀧子の心労
天保3年(*1832年)に長女の千代子が生まれ、天保9年に(*1838年)次女の壽子が出来、
天保12年(*1841年)には三女の艶(つや)子が生まれた。
しかし、この艶子は、天保14年(*1843年)9月24日に3歳で死去した。
やっと母親の乳房を離れて、これからは手も余りかかるまい、と云う時であった。
可愛い盛りの艶子を失った悲しみがまだ消えやらぬ9月27日、またまた、姑(しゅうとめ)の岸田氏が死亡したのであった。
瀧子の心情は、どんなであったであろうか。
しかも、この時、瀧子は身重で、この歳に四女の文子が生まれた。
瀧子は、当時37歳であった。
彼女の苦労は、並大抵ならないものがあったであろう。
[以下、6行、略します。]
さらにこうした杉家一門の人々の他に、親戚の中にも相当、学者肌な人々があったようである。
松陰先生が『高洲の兄様は、従弟(いとこ)中の長者なれば 大切にせねばならぬ御方也(おんかた なり)』と云っておられる高洲 為之進(たかす ためのしん)がいる。
(*松陰)先生は、妹などに時々、高洲の兄様に読書してもらうがよい、と云っていられる。
例の清水口で同居されていた寺子屋師匠である。
また親戚の赤穴(あかな)辰之進の母は『心学婆サン』と云われていた程の心学熱心家であった。
思えば杉家一門、すなわち瀧子の周辺は、皆、こんな学者と勤王家揃いであった。
そこで、杉氏家風の特色を端的に云えば、一族が学者であり、勤王家であり、しかも一族 悉(ことごと)くが忍耐力に強くて、精勤家であり、ことに兄弟姉妹の中も至極、円満で睦まじかった。
あの松陰先生が幾度かの幕禁を犯しての大勇猛、あの激烈な政治的行動や意見の発表に対しても、一家一族の者が、『松陰が、松陰が』と云い、母は『寅次郎が、寅次郎が』と云って、その尊攘の言動を絶対に紳士、支持して力付け行き、その間、些(いささ)かな不平も不満もなく、如何なる艱難痛苦に際しても互いに忍び合いつつ、松陰先生の大志、大精神を伸長させて、先生をして一意専心、国事に力を傾注させたのも、実にこの位置賊の精神的後援によるものであった。
そして、この一家をして相、信じ、相、助けて仲睦まじくさせたものは、母・瀧子の性格と心使いとに負うところのもので、母親としての瀧子の存在を忘れてはならないのである。
◇ 一家の勤王精神を培養する
そもそも、この瀧子が杉家に嫁(か)した時は、家族と云えば夫の兄弟のみで、しかも二人の弟は未だ若年であった。
したがって如何に学者であり、勤王家であると云っても、松陰先生の活躍時代のように杉家の一家中が、まるで勤王の火の玉のような熾烈(しれつ)さでなかったであろうとは想像出来る。
それが家庭に、だんだん子女を増して行くにつれ、また二人の弟などが年の進み、それぞれ世の中に出るにつれて、その何れもが勤王の志を抱き、挙家闔族(きょか こうぞく・*
一族全てが家を挙げて)、悉(ことごと)くが勤王の一塊となって来たのである。
もちろん、これには吉田家を通じての山鹿流兵学師範と云う伝統的家風の上に、夫・百合之介の尊皇精神によって一家中に培養された学問と思想との発展に負うところが多大ではあるが、こうした杉家の美風に身も魂も真に馴染んで、これら学問と思想で子女の教育に当たった瀧子の内的扶助、心的訓育と、その愛的誘導などが子供の心の奥底に自然に浸透して、遂にあの勤王杉家を完遂したことを忘れてはならないのである。
すなわち杉家一門の学問を築き上げ勤王思想を培養して行った母としての蔭の力を忘却するわけには行くまい。
しかも、ここに日本婦人の真生命的亀鑑がある。
こうした瀧子の行状を静かに考えてみると、しっとりと落ち着いた奥ゆかしい態度で家庭のすべてに悦び勇んで殉じて行った古堅婦人の姿が神々しく現れて来るようである。
地味ではあるが、家庭の母性としての瀧子の心構えの高尚さが自然に現れて来る。
また、それと同時に、その精神力の雄々しさと、さらに人格的深みの味わいさが思い浮かべられて来る。
学者、尊皇家の家庭において幾多、殉国志士を生んだ瀧子は、このように愛と誠を義と信とで結ばれた杉家の大黒柱で、これらの関係は杉家一門の人々の活動を通じて如実に描き出されているのである。
◆ 高洲と合住居(あいずまい)の心尽くし
◇ 清水口の高洲の宅
松陰先生は明倫館に出仕して、家学 山鹿流兵学の教授をされて弟子300人と云われていた。
しかし、まだ若年である故に主として叔父の玉木 文之進が、その指導の任に当たっていた。
その他、香川 専蔵、石津 平七など数人の後見人もあったが、最も力を入れて家学の補導にあたったものに林 百非があった。
先生も百非の宅に奇寓して日夜、研鑽を積まれたのである。
(*松陰先生は)こうした家学の研究の傍ら、山田 亦介からは平沼流兵学を受けられ、飯田 猪之助からは西洋陣法を学ばれた。
さらに山田 宇右衛門頼毅からは、世界の大勢と共に襲い来る外夷の急迫などを吹き込まれて、大いに憂国警世(ゆうこく けいせい)の至誠を養われたのである。
なおこの間において、香川 巨田や平田 涪渓(*ふうけい)などに学問のことを尋ねるられるなど、松陰先生は読書工夫、自修研鑽に夜を日に継いでの勉強、精進ぶりであった。
こうした事故完成の自修積業のために歳月は、どんどんと進んで、嘉永元年(*1848年)には、松陰先生も萩の城下で19歳の春を迎えられることになったのである。
この年の秋、兄の梅太郎は明倫館に入ることになった。
叔父を玉木 文之進は、先に妻帯して、しばらく山屋敷内に道教していたのであるが、樹々亭下(した)の吉田の借宅に別居することになった。
一時に人数が減ってきた山屋敷は、母と松陰先生と妹だけになって、急に者寂しい生活となって来た。
それに、萩藩の例規として、士途についている者は川内(松本・橋本の両川の内であって、すなわち城下街を云う)の城下に住居(すまい)しなければならない。
そこで、父の百合之介が村田清風の推挙で盗賊改め方に就任して以来と云うものは、前にも云ってように城下の江向に千代子を連れて別居している。
この間、もちろん、瀧子が山屋敷から指図、万端をしなければならなかったのであった。
こうして山屋敷は急に人数が減って寂しくなり、百合之介の職柄は日夜の別なく多忙で、しかも要職であって、瀧子としては相当忙しい心使いの内助を尽くさねばならないのである。
それに団子巌の山裾(やますそ)、東光寺墓地の上手(かみて)の一軒家、物寂しい住居(すまい)ぐらいは、男まさりの女丈夫の瀧子には、別に問題でないにしても、城下住居(すまい)の夫・百合之介の世話、連絡には、とかく非常に不便があった。
そこで、この年夏、清水口の高洲の宅に同居、合住(あいずまい)をするに至ったのである。
清水口の高洲と云えば、松本の大橋を渡って船津の家村の中程から左に折れて小川伝いの
小道を月見川原の方に抜けて行く途中の左側である。
向かいが松門(*松下村塾)の斎藤 栄蔵の実家・石川の宅である。
この辺(あた)りは、往時、入江であったようで、城下の渡り口から松本に通じる船着き場が、今の船津であり、その北側の岸辺あたりから清澄(せいちょう)な清水が湧いていたものと見えて、今でも各所から湧き出ている。
こうした関係から清水口と地名したものであろう。
松陰先生も戊辰詩稿(ぼしん しこう)中に『驟雨(しゅうう・*にわか雨)』と題して
奔雲掠日翳書帷。
奔雲(ほんうん)(黒雲が急に出て)日を掠(かす)めて、書帷(しょい)を翳(えい)ず(書窓を覆うこと)。
騒擾過門人四馳。
騒擾(そうじょう)(それ雨だといって人のさわぐこと)門を過ぎ、人・四(よも)に
馳す。
清風無端吹来處
清風(せいふう)・端なく[はしなく・*思いがけなく]吹(ふ)き来る所
荷聲千點響前池。
荷聲(かせい)(蓮の葉に雨の落つる音)千點・前池に響く。
と、云うのがある。
戊辰(ぼしん)は嘉永元年(*1848年)であって、これは夏景叙詩(かけいじょし)であるのをみれば、この高洲に合住居されたのは、初夏のこれであったのではあるまいか。
自分(著者)も幼少の頃、度々、高洲の庭に遊びに行ったことがある。
その頃には庭におりて畑の方に行く所に大きな池があり、清水が各所から、こんこんと湧いて蓮華が美しく咲き誇っていた。
この池の水が川柳と水草との下を流れて裏の小川に注いでいた。
思えば、唐人山の頂きあたりに黒雲が急に平井して、天日を覆い、書院は忽(たちま)ち陰驟に鎖(とざ)されてきた。
驟雨一過、ザッと窓外(とうがい)を叩いて庭前の蓮池にバラバラ吹き過ぎる様子が眼前に浮かんで来るようである。
この高洲の家は、禄高52石の藩士であった。
文化文政の頃の当主を高洲 又左衛門と云い、杉 七兵衛常徳の長女を迎えて妻としていた。
七兵衛は百合之介の父で、松陰先生の祖父である。
この(*高洲) 又左衛門の子が為之進で、前にも云ったように松陰先生は、『高洲(たかす)の兄様は従兄弟中の長者なれば よく敬(けい)すべし』とか『心学本なりとも 読んで貰え』と云っておられる人物である。
――――――
*参考・杉家の一覧
杉 七兵衛常徳 (四代目) 夫妻の
➡長男・●百合之助 常道(五代目)
➡長男の妻・■瀧子 刀自
➡長女 ➡ 嫁ぎ先➡高洲 又左衛門
(長男が○為之進)
➡次男・大助(後の、●吉田賢良)
➡三男・文之進(後の、●玉木文之進)
――――――
この○為之進は、文武に造詣深く、且つ筆の道にも巧みで、松陰先生の幼時の習字本は、この為之進が、よくかいたものである、と云われている。
後には、松陰先生の兵学門生にもなっている。
ただ、前年なことには病弱であったために早く家を弟に譲って一生、妻帯せず、近所の子弟に読書・習字を教えなどして、余り世間的活動には乗り出さなかった関係から、自然、名前も世上には出ていないが、松本辺りの老人の中には、為之進の教を蒙った者が相当に多かったようである。
[*松陰全集、12巻・関係人物略伝では、高洲の姓は、「高須」となっている。]
瀧子は、子供を連れてこの高洲家に同居合住をなして玄関の北寄りの部室に起居していたと云われている。
たとえ百合之介には伯母(伯母)の家、松陰先生などには従兄弟(いとこ)たちの宅であるとは云っても、同居合住とあっては何かにつけて瀧子の気兼ね、心使いは一通りではなかったことであろう。
瀧子の生涯には、いつもこうした心苦な場面が多かったのである。
主婦としての こうした立場を十分に考え、汲み取ってやらなければならない。
いま瀧子の境遇、立場と云うものを静かに考えてみれば、夫のためには見回り一切の世話や慰めなどは勿論、家政全般の内助の柱であった。
殊に、家を外に役目などを持つ夫のためには、子女の教育は勿論、親戚近隣の交際まで、全く女一手に引き受けなければならない。
しかも、その努力、苦心は表面的ななものではなく、云うには内助内治で、蔭(かげ)の力であり、人の知らない苦労である。
瀧子のこうした苦労も、表面的な文献の上にはあまりに現れていない。
したがって、夫や子供や親戚などの外まわり的な関係によって、ああであったろう、こうであったろう、と推断、批判をして見るより他には仕方がない。
しかも、その推断は外まわり的な事柄をよく研究しみれば、無言無告の瀧子の姿の中に有言有語のなって、真の面影が浮かんで来る。
ここに日本婦人の真の姿がある。
◇ 清水口時代の杉家の生活
夫・百合之介の職は、天保革新政治における今の警察署長のようなものであったが、その時代は何しろ人心の動揺がはげしかったので、その仕事は余程、繁忙で、しかも重職であり、その上に生命の危険さえも考えられるほどの役目であった。
それだけに瀧子の心使いも一通りではなかった。
長男の梅太郎は、この歳の9月に明倫館に入り、翌、2年春には、明倫館面着方となり、さらに軍奉行所勤務となった。
母の瀧子も我が子の出世を喜びつつも、何かと心使いの多かったことであろう。
また、次男の寅次郎は、この時代においては自修研鑽の傍ら、すでに自宅で子弟の教育に当たり、また官途について実地の活動的場裡(じょうり・*その物事が行なわれている範囲内、世界)に乗り出している。
この高洲合住の宅塾教授(たくじゅく きょうじゅ)のことについては、香川 政一先生[*歴史の流れ・高杉晋作小伝を読む を参照。]が次のように云っておられる。
多くの人々は、松陰先生の宅塾教授を もっぱら小新道時代(こしんみち じだい)、すなわち後の松下村塾にありとして、未だ その事の早く清水口時代におこることを知らぬ。
嘉永2年(*1849年)2月5日、先生が、多田、大西と共に上書(じょうしょ)されたる中に云うには、
(*以降、意訳)『これまでの件は館中の稽古日の他、宿元において会業などを催してきたけれども、今後、稽古をする面々は、いずれも館中へ日勤して終日まで稽古をすれば、右、宿元で会業を止めないで、是迄よりも稽古の日数を減少するようにする。』と。(*意訳、以上)
宿元会業と云うのは、すなわち宅塾教授のことである。
(*これは)知るべきである、清水口において(*松陰)先生がすでに館生を自宅に引いて教授を補われたことを。
およそ清水口時代において、先生が兵学免許を与えた門人は4人あり、目録を与えられたものが15人いる。
そして起請入門した者が107人いる。
もとよりこれは記録に残っている者だけで、この他にも少しはあるものと見なければならないが、中に久保 清太郎・口羽 辰之助(宍戸 璣)・松原 貴速・香川 又兵衛・香川 渉・赤川 直次郎(佐久間 ひょうえ)・田総 又次郎・楢崎 弥八郎などがいて相当に名を残しているのである。
もとより その全部とは云わないが、その大部分において、特に宅に接近するものにおいて、恐らくは宿本会業を受けないものは なかったであろう。
そうであれば、当時、先生からその宅で教授を受けた者は、明倫館生だかであったろうか。
いや、そうではない。
これを解するには二つの材料がある。
一つは、高洲 為之進が子弟を集めて教授していた。
そして、その室は、先生の居宅の隣室である。
そこと先生の室とで、相、携えて会業が行わていた関係上、高洲の門人が自ら隣の先生の教授に触れることになることがあろう、と云うことは考えられる。
今、一つの材料としては、通心寺の雛僧・石田 鼎(いしだ てい)(後の男爵・松本鼎で松下村塾関係者)である。
嘉永4年(*1851年)春、松陰先生が東遊の際に、(*石田) 鼎が門人として先生に次の詩を送っている。
品川 弥二郎も当時からの門人である。
奉送松陰祇役于東都
(*松陰先生を東都に ただ送り奉る)
微暖軽寒芳草の春。
微暖(びだん)・軽寒(けいかん)・芳草の春
単衣長剣旅装新。
単衣・長剣・旅装は新なり
共上河梁分袂猿。
共に河梁(かりょう)(堤のこと)に上がって、袂(たもと)を分って去れば
翠柳垂辺鶯語頻。
翠柳(すいりょう・*若葉で青々とした柳)の垂辺(すいへん)・鶯語(おうご・*ウグイスの鳴き声)頻(しきり)なり。
と、こうしたように松陰先生は宅で幾多の子弟を教えられる。
門生の出入りの都度だけでも、瀧子は相当に忙しかったことであろう。
それに、あの瀧子の気性としては、後年『杉のおばさまは実にやさしい』と門生たちが云ったように、何くれとなく世話をしたに違いはないであろう。
村塾時代の多くの逸話と合わせ考えてみれば、瀧子と門生との関係も この清水口時代からのことであった。
◇ 旅の松陰先生と母子の情愛
嘉永2年(*1849年)6月には、松陰先生は同学の多田 藤五郎、飯田 猪之助、郡司 覚之進などと共に藩命を奉じて、長門の海岸である須佐、大津、赤間ヶ関などの海岸防備の状況の巡視に出かけておられる。
松陰先生としては、多年、対机、研究・蘊蓄(うんちく)を傾けられた学問を実地に活かしてゆかれる実際への踏み出しであった。
瀧子のためには吾が子の初旅であり、又、実地への初御奉公である。
旅装の身支度など、諸般の準備、容易に相当、心を使ったことであろう。
それに、先年来、役目に付いていた義弟・玉木 文之進は、段々、累進して遠近方助役となり、この6月に松本新道から城下・土原の梨木町に転居することになった。
兄嫁の瀧子として引っ越し万端の手伝いにも忙しいことであったろう。
さらに、この年の10月には、松陰先生が門生を率いて、城東・羽賀台で実地の一大遠州を試みられることになった。
自分の子供の こうした出来事に対して心を砕き、進んで心の協力を与えたのが瀧子の気性であった。
嘉永3年(*1850年)には松陰先生は、年来の宿願であった九州・平戸の山鹿家学の問おうとして鎮西旅行を試みておられる。
今時の青年達とはもちろん違っているとは云っても、いまだ21歳の青年・松陰先生が初めての藩外への九州旅行である。
雄々しく励まして旅出させた瀧子が思いやられると共に、母親として、その旅装準備万端に心を砕き、何かと心使いに忙しいことであったろう。
先生は、平戸から兄の梅太郎に宛て、
『兄弟、親戚、朋友、孰(いずれ)も別条、御座有りまじく存じ奉ります。』と云っておられる。
兄弟は、もちろん、親戚は如何と心配され、さらに門生・朋友の上にまで、心をよせておられる松陰先生の心使いが解ると共に、杉家の家風も窺うことが出来る。
さらに『熊本清正公に参って、弟 敏三郎の唖者がなおる様に祈願した』と云っておられる。
これは、日ごろから母の瀧子の苦の種である、その心を汲んでおられた先生が、母への慰めの土産であったろう。
それに『清温定省(せいおんていしょう)』(父母に孝養を尽くすこと)と、妹などに伝えてくれ、と結んでおられる。
ことに両親への先生の心使いが思いやられる。
それと同時に、母の瀧子の魂が、いつも先生の心に宿っていたことがよくわかって来る。
兄の梅太郎も塁審して、いよいよ軍奉行所勤務となり、玉木 文之進は奥阿武御代官所勤務となる、と云った調子で、杉家一門は、ますます発展するのみであった。
瀧子の喜びは、さだめし深いことであろう。
それだけ また心使いも多かったわけである。
◇ 受難の松陰先生と瀧子の心痛
嘉永4年(*1851年)の正月、2月頃には、松陰先生は、土原の玉木の家に寄寓して専念、研鑽を積んでおられる。
それについても瀧子は、何かと用事の多かったことであろう。
そして松陰先生は、この歳の3月に藩主に従い江戸に兵学の研究のために、いよいよ巨歩みを踏み出されることになった。
こうした子供たちの立身出世や発展の行動の蔭には、いつもの推進力となった母親・瀧子の偉大なる力があったことは見逃せないのである。
松陰先生は、この年の12月に故あって江戸・桜田藩邸を亡命して、熊本の宮部 鼎蔵と共に東北諸国を遊歴されたのであるが、翌、(嘉永)5年4月、江戸に帰り、続いて5月、
清水口の高洲同居の母の許に帰って、謹慎、待命(たいめい)されたのである。
さだめし母の瀧子も心を痛めつつも松陰先生をいたわり慰めたことであろう。
これより、いよいよ多事多難な松陰先生の生涯となって来たが、この間における母の瀧子の心痛、苦労の程や、果たしてどのようであったろうか。
この東北諸国の遊歴は、松陰先生にとっては一生の思い出多き苦難の旅行であった。
それだけ両親や家郷の人々のことなどを常に胸中に抱かれていたようである。
嘉永5年(*1852年)正月、水戸から皇子江戸にいた妹婿で、母の養家の家取りである兒玉 祐之(すけゆき)に細々と消息を与えておられる。
これも母親の孝養と思っての養家への義理合とも考えられたのであろう。
実際、母親思いの先生は、母の養家に対しては、常に気をかけておられたようである。
後に『兒玉氏、御徒然(つれづれ)に、遠(く)想い仕ります。』などといった、義理ある、あの兒玉のむつかし屋の老人を慰めておられる。
これも皆、母への義理合を考えられてのことであったろう。
また、翌、(*嘉永)6年2月には新潟から父・百合之介に宛て旅中の感慨を詩に賦して
二千里外漂泊身。
二千里外・漂泊(ひょうはく)(さすらいの身)の身
懐国思感荐臻。
国を懐(おも)い 家を思うて、感 荐(しき)りに臻(いた)る
繒纊纏身辱君恩。
繒纊(こうこう)(きぬ と わた)、身に纏(*まと)うて 君 恩を辱(かたじけなく)うす
定省幾年負慈親。
定省(*ていしょう)(孝養を致すこと)、幾年か慈親(*じしん・深い愛情のある親)に負(そむ)く
慰閑時取史乗読。
閑を慰む、時に史乗(*しじょう。歴史書)を取って読めば
涙落古来忠孝人。
涙は落つ、古来 忠孝の人
何日應竭駑鈍力。
何れの日か 應(まさ)に駑鈍(どどん)(おろかなもの)の力を竭(つく)すべし
報功得輿古人倫。
報功(*ほうこう・功を立てて恩に報いること)・古人と倫(りん)(たぐい並ぶこと)するを得べけんや
(*得べけん、は、一体可能で あろうか、の意。)
と、云って旅路の難苦の身にしむにつれても、家を思い、国を懐(*おも)と、家郷の空がなつかしく思われる切々たるものがある。
父の鴻恩(こうおん)をもちろん、母の慈愛を、つくづくと思い出されたことであろう。
実際、母の瀧子の心は、いつも松陰先生の心の中に通っていたのである。
この母性愛が、すなわち、あの感激性な先生を作り上げたのである。
先生は、翌、嘉永6年(*1853年)正月、萩を出発して、大和に森田 節斎を訪ねられ、これより伊勢路を経て中山道を下り江戸にはいられたのである。
少しも、この10年間の諸国遊歴と云うことは、云わば、不都合に付き お国 追い出し、と云う形であるが、元来、松陰先生の東北遊歴は、もともと、憂国熱情の迸(*ほとばし)りで、真に やむにやまれずして敢行されたものである。
しかも、強いて云えば、許可の手続きの不行き届きであったのみである。
これがため藩主も特に先生の亡命を惜しまれていた。
なおこの間における両親の痛苦・心配は実に多大なるものがあった。
それに玉木や その他、親戚、朋友関係の同情論もあって、如何にも先生を中止としての
一同の心使いが思いやられると共に、特に母の瀧子の辛苦は、また、ひとしおのものであった。
◇ 結び合う母と子の心情
ところで、この年の3月、杉家は小新道(こしんみち)の宅に移転することになって今度は、玉木が、その後に同居することになった。
思えば百合之介が多年、同居する、それに引き続き弟の玉木がまた、また伝来する、如何にも杉家の親戚の睦まじさが思い出されると共に、この間における瀧子の心使いは、並大抵のものではなかったことが知られる。
そして、この年の9月には松陰先生は、江戸を発して長崎の露艦、搭乗、海外進出を企てられたのであるが、これは失敗に終わり、11月20日、宮部 鼎蔵を伴って一時、萩に帰宅の上、再び、江戸に上っておられる。
この時も、松陰先生は両親の心情をつくづく考えられつつ、且つ、当時の自分の境遇にも思いを寄せられて、
一身の踪跡(そうせき・*事績)・幾たびか 変更す。
免(*まぬが)れ 難し。
不忠不幸の名。
膝下 歓を快く 又 幾度。
報国の微衷(びちゅう)・何れの日にか成る。
客夜(きゃくや)遥々として 眠り得られず。
弧燈(ことう)・愁(しゅう)を照らして、滅し また明なり。
と、一詩を賦して、深い感慨に沈んでおられる。
ところが、12月には梅太郎が相州警備に行く、と云った実に二人の子供の活動と共に母の瀧子のこれらに対する心配、世話、心尽くし、奔走が思いやられ、当時の行状と思い合せば、実に涙ぐましい心地がする。
松陰先生は、この9月、江戸出発の前、8月15日付で妹の壽子が小田村 伊之助に嫁した、と云うので、心からの喜びを両親に書き送っておられる。
『壽 妹(*の)儀、小田村へ嫁せし由、先々珍喜し、此事 御同慶に仕ります。彼の三兄弟(松島 瑞益・小田村 伊之助・小倉 健作)皆、読書人。此の一事にても弟が弟が喜ぶ所也』と両親の喜びを自らの悦びとして、心から喜んでおられる。
それについても、嫁入支度、その他一切を切り盛りした母の瀧子の心苦を思い浮かべられたことであろう。
そして、母の喜び、安堵を共に喜んで、心から祝詞を与えられておられる。
母子二人の心は、いつもびったりと結び合って永遠に離れることはなかったのである。
このように母の瀧子は、嘉永元年(*1848年)、松陰先生19歳の夏から嘉永6年(*1853年)、松陰先生24歳の春まで、足掛け6ヶ年の間を この清水口で同居合住居生活(どうきょ あいずまい せいかつ)を営みつつ、有為転変多き家庭を護って、夫の後顧を去り、二人の子供の国事奔走を励まし、親戚一同の因(ちなみ)の柱になり、しかも女の児の教育に当たり、一家の主婦として家庭の母性として、そのあらゆる尊き使命を果たしたのであった。
思えば、普通の婦人にしては到底、堪えられない忍苦、重荷に立ち働いたのであって、実に並々ならない苦労のことであったろう。
(*以下、4行、略します。)
次回、吉田松陰の母 を読む5 に続きます。
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/490185109.html
◆ 杉家の人々
◇ 長女・兒玉 千代子
松陰先生の三妹の中で一番の年上が千代子(後に芳子と改める)である。
天保3年(1832年)生まれであって先生とは三つ違いの長女である。
山宅(さんたく)時代には両親兄などと共に朝夕、辛苦をなめつつ、兄妹互いに助け合い励まし合い育ち成長したものである。
それだけ松陰先生とは仲睦まじかったわけでもある。
先生は、野山獄中から、
そもじ(千代子の)事は いと けなき折より、心得よろしきものと思ひ、一しほ 親しく思ひ候。
と、云っていられるのを見ても、千代子の幼少時代の全福が知られる。
それに前にも云ったように12、3才で早くもすでに家庭を離れて、父と共に城下に別居して父の身の回りの一切を世話した立派な女性である。
母の瀧子の仕込み、躾(しつけ)のほどが思いやられる。
千代子は年頃になって母の瀧子の養家・兒玉 太兵衛寛備の男、祐之(すけゆき)のところに嫁したが、その内に安政元年(1854年)には、長男・萬吉が出来たのである。
この頃になれば、千代子も、最早23歳、兒玉家の家風にも慣れ、また子女の教育も問題となってきた。
そこで松陰先生は、毎度自分の修養の工夫や舅姑(しゅうと、しゅうとめ)への仕え方や、
子女の教育などについて心付きのままを書き示しておられる。
そもじの御家(おいえ)おばさま(姑)も御なくなられた事なれば、そもじ 万端 御心掛けでは相すまぬ事、ことに おじさま(舅)も年まし 御齢高くならせられた事故、別して孝養を尽くし候へかし
と、云って、兒玉家への奉仕、一年を数えておられる。
この、おじさま(舅・しゅうと)の太兵衛は、親戚の中で一番 気むつかしや で知られていた人であって、千代子は、常に肉身の親・兄弟以上に誠実を尽くして孝養していたのである。
その中に、また壽子が出来た。
千代子は二人の子の母となり、70近い舅に仕えて、まめまめしく主婦としての道を尽くしていたのである。
安政2年(1855年)の春、松陰先生は、野山獄から実家へ帰えられた。
塀居(へいきょ)謹慎中の身柄とは云え、杉家には春風の和気が盛りかえされた。
杉家としては、その時代が平和な家庭の最高峰であっただろう。
他家に嫁いだ妹等を始めとして、一家中の人々が時々、往来集まって一家団欒の出来た時代であった。
松陰先生は、その間においても常に妹等の修身工夫と、主婦としての自戒とを与えていられる。
しかしながら、またまた、安政5年(1857年)の春に、野山へ再投獄と云う悲運に会われたのである。
この時にも、(千代子ではないが当時21才の次女の壽子【1】に)『平田家訓』を残し、人の母たるもの、子供の導き方などは、あらまし、かくの如し、と云って指導しておられる。
【1】 この時、壽子は、小田村伊之助(後の楫取素彦)と既に結婚し子・篤太郎がいた。
また、江戸行の時には、
こゝろ あれや 人の母たるひとたちよ
かゝらんことは 武士の習(ならい)ぞ
と、一首を残し、武士の妻たるものの覚悟、決心を説き聞かせていられる。
妹など思いの松陰先生の心情がよく窺えると共に妹なども振るい立ったことであろう。
その中に、松陰先生は、安政6年(1858年)5月、江戸に檻送(かんそう)され、
続いて同年、10月27日、江戸伝馬町獄において刑死されたのである。
松陰先生没後の千代子は、次女の政子、三女の富士こと次男の庫三を挙げ、二男三女の母となって、いよいよ家政と育児とに多忙の日々を送るようになったのである。
そればかりでなく、元治甲子の変(*禁門の変)には、妹婿の久坂玄瑞が蛤御門の戦で自刃して、末の妹・文子が若い未亡人となる。
やがて藩内騒動の際には、今一人の妹婿・小田村 伊之助が俗論党のために捕えられて野山獄に繋がれる。
杉家一家のものどもは、引き続く不運不幸に、どんなに心を痛めたことであろうか。
こんな折でも千代子は、松陰先生の入獄の時と同様に、小田村の慰問に誠心を捧げ尽くしている。
小田村も、その心情を感謝し、
春おそき 花もまがきの 梅が枝(え)に
こゝろありげに鶯(うぐいす)のなく
と詠んでいる。
二人のゆかしい心情が思いやられて、じつにいじらしい心地がする。
やがて慶応元年には実家の父・百合之助が永眠し、伝々、世の多事多難の嘆きの中に維新の混乱を経て、明治8年3月には、30余年つれ添った夫・祐之(すけゆき)が亡くなり、千代子は44才で寡婦となったのである。
その翌年の秋には、前原一誠の乱があって、叔父の玉木 文之進は引責自刃し、甥の小太郎は戦死した。
その時、千代子は叔父の後を追って祖先の墓前に赴き、後顧の思いなく その自刃を果たさせしめた、とさえ云われている。
かくて明治15年、長男の萬吉は亡くなり、末の子の庫三が吉田家を相続して東京に移住すると、千代子は、その隣に居宅を構え、晩年は、いとも平和に幸福な生涯を送ることになった。
東京には親戚も多く、親しく互いに往来して往時の思い出に自らを慰めながら、大正13年5月、93才の長寿を全うし、あたら風雨の多かりし多難の生涯を閉じたのである。
こうした千代子の辛苦、堪忍、しかも不動の誠心の中に女性としての温和さを示している。
この女性としての態度、心構えが、母の瀧子の教養の芽生えであることを見逃してはならないのである。
近代的、形式的教育よりも、その家門の血脉(けちみゃく・*血脈)によって浄化育成されて行く子供の血脉、母の愛情によって心から心へと伝えられて行く以心伝心の崇高な家庭教育、これが真の日本家庭の子女教育であって、この日本人たる崇高神秘な血脉の教育を敢えて高唱せざるを得ない所である。
妹 兒玉 芳子(元、千代)
家族の写真より、抜粋。
◇ 二女・小田村 壽子
千代子の妹が壽子(としこ)であって、松陰先生とは九ツ違いの妹であった。
15才の時に勤王藩儒・小田村伊之助(後の正三位勲一等・楫取素彦 男爵)に嫁いだ。
小田村は明倫館の都講(づこう)となり、又、松下村塾の柱石でもあった。
温厚篤実な学者肌の人物だった。
藩主のお伴で江戸に行くかと思えば、また海岸警備役目として終始不在勝ちであった。
あまり豊かでない学者家庭の上に、夫は常に不在勝ちだったので、壽子は子供を連れて実家の杉家で何からなにまで世話になったようである。
松陰先生は千代子同様、壽子にも常に心をよせて、種々、指導、訓戒につとめていられる。
安政元年(1854年)、長男の篤太郎(とくたろう)が生まれた時に、勝気な壽子を半ば戒めて、
お壽 少(わか)くして偏僻(へんぺき・*心がかたよりひがむこと)の気あり、
この気 恐らくは生子(うまれご)の塁(わずらい)とならん。
なので、今 、己に子を抱(いだ)く、決して前日の如くなるに至らず、温柔寛緩(おんじゅうかんかん)、以て生子を育て、他日 学をなす資(もと)となせ、大(おおい)に祈るなり。
と、云っておられる。
女性は、とかく偏った性癖になり勝ちなものである。
それは、おもしろくない。
母たる自覚と共に円満な人格の婦人となって、子供に その円満平和の心を移し、他日、成人後の学問の素質を作るべきであると戒めておられる。
いつも松陰先生は、こうした態度、心情であった。
しかし、これも、もともとよく考えてみれば、いずれも皆、母の瀧子が松陰先生など兄妹に与えた幼時の家庭教育の果実であり、それを あの天稟的な(てんぴんてき・*生まれながらの資質の)松陰先生が浄化、吐露されたものである。
こうした家庭事に対する先生の心構えは、母の瀧子のそれと全く同一のものであったことを忘れてはならないのである。
小田村は、安政3年(1856年)、相模の守備に出て、1年ほど勤務の後、帰国してから明倫館の教授となり、松陰先生は野山獄を免ぜられて松下村塾で師弟を教導されている。
その間、小田村は(*松下)村塾に出入りして共に楽しく師弟を教えていた。
実に杉家の平和な円満な楽しい時代であった。
安政5年(1858年)には、壽子は既に20才で二男【1】の母親となった。
【1】 次男は、久米次郎・楫取道明。久坂家、後、楫取家を継ぐ。台湾・芝山巌学堂で小学校で教師を勤めるも、明治29年1月1日、台湾の日本統治の反対勢力による芝山巌事件で亡くなる。
そして、この年の暮れには末の妹の文子が久坂玄瑞と結婚する。
杉家は、重々の喜び、幸福な年であった。
松陰先生の没後、小田村は、一時、松下村塾を統率していたが、急迫する時代の荒波
は、到底、彼をして故山に家居(かきょ)して子弟、教養の任にあることを許さない情勢となって来た。
あるいは、馬関の攘夷戦、藩内の騒擾の周旋と目まぐるしく活動し、しかも正義党と俗論党との内訌の際には、捕えられて鉄窓獄裡の身となり、さらに四境戦争では東奔西走、国事に尽盡し、遂に明治維新回天の鴻業(こうぎょう・*大きな事業)を完遂の後には、足柄県参事(明治5年)、熊谷県令や栃木県知事となり、地方官の要職にあって民政の事績に
大いに見るべきものがあった。【2】
【2】 明治9年、熊谷県は、群馬、埼玉県に分割され、楫取は群馬県令となる。
現在、群馬県庁は、前橋市であるが、当初は、高崎市の予定だった。
しかし、下村善太郎を中心とした前橋の有力者25名が、物心両面から楫取の県政を支え、楫取は、県庁を前橋に移す決心をした。
しかし、その裏面、壽子の尽力と辛苦は、実に想像以上のものがあった。
殊に壽子は、夫の治民の業を内助しつつ、維新後、未だ風教(ふうきょう・*徳行によって人々を教え導くこと。習俗や風習。)が定まらない時代のこととて、地方の無学放浪な徒(やから)を救うのは宗教の力しかないとして、かねてから信仰する西本願寺派真宗の法力教化によることとして、自ら治民(じみん)の第一線に立って風教の振作(しんさく*奮い起こさせること)に尽くした。
そして、これが縁故となり、晩年は、もっぱら宗教生活に入ったのである。
そして、明治10年、軽い風邪にかかったことから、これより漸次、病弱となり、(*明治)13年秋、胸膜炎を併発し、翌、(*明治)14年1月、45歳【4】の女盛りを一期として、夫と二男を残し、心惜しくも、この世を去ったのである。
【4】満年齢では、43歳に該当。
妹 楫取壽子
家族の写真より、抜粋。
◇ 四女・久坂 文子
松陰先生の末の娘が文子で、その容貌は松陰先生の画像、そのままであると云われている。瀧子にとっては一番末の女の子だけに余程、可愛かったようである。
この文子の嫁ぎ先が久坂玄瑞である。
久坂玄瑞は、松陰先生の門人であり、先生も『防長第一流の人物』とまで賞賛されている程の有為な青年であった。
松下村塾の参謀の参謀、長格で、学問、識見共に衆に抜きん出て高杉晋作と並び称されて
いたが、人格的信望に至っては、はるかに高杉の上であった。
松陰先生の歿後、松下村塾の同志とはもちろん、当時の勤王志士とも互いに心を通じ、興
朝倒幕のために東奔西走、殆ど席の温まることがなかった。
文子が玄瑞に嫁いだのは、安政4年(1857年)12月で、玄瑞は18歳、文子は15歳であった。
[*ちなみに、この年に坂本龍馬は「千葉灸治院」によると、千葉定吉から道場塾頭に任じられている。]
当時、久坂の盟友・口羽 杷山(うちば はざん*儒学に造詣深く、詩文に優れた寺社奉行で松陰の親友)が、この結婚を喜び、また杉家の家風を讃えて『久坂も これよりは ほんとに捨身の活動できることであろう』と、心から悦びの祝言を呈している。
松陰先生も、また、『妹が、この上もない好配偶者を得たことは、吾等の幸福である』と、喜んでいられるほどの双美の結婚であった。
この幸福に満ちた若いふたりの人生行路も、足掛け8ヶ年の家庭生活で早くも哀しい
終焉(しゅうえん)を告げたのである。
それは、(*久坂)玄瑞が元治元年(1864年)7月19日、蛤御門の戦いで鷹司邸において自刃したからである。
その8年間も、実際は玄瑞が勤王の活躍のために多くは江戸や京都を往来していて、郷里の萩にあって文子と親しく家庭らしい生活を営んだのは、わずかに2年足らずの間であった。
久坂玄瑞の墓・京都霊山護国神社
久坂家も、あまり裕福な方ではなかったから自然、文子も杉家に奇寓し、時たま、玄瑞が帰萩しても大抵は杉家に文子と共に同居すると云った有様であった。
この間にあって、母の瀧子も定めし、何かと世話に心を砕いたことであろう。
玄瑞が25歳を一期として、あたら有為の大志を抱きながら護国の鬼神と化したので、文子は22歳のうら若き身を以て孤独の寡婦となり、まことに哀れな運命に逢ったのである。
その後は、老父母の膝下(しっか)にあって亡き夫の英霊を弔いながら、まことに味気ない歳月を送っていた。
一時は召されて藩公の幼君(後の毛利元昭)のお守り役となり名前も美和(みわ)と改めた。
しかしながら、明治14年、たまたま揖取 素彦(かとり もとひこ) に嫁いでいた姉の希子(まれこ)(壽子)が亡くなって、次第に老境に向かう(*揖取)素彦とふたりの遺子が、淋しくも、そのあとに残されていたので、実家の母の瀧子は、孫たちの不憫さや素彦の身辺などを案じ煩(わずら)って美和子に姉の後を見みるように、と懇(ねんごろ)にと諭してみた。
しかし、美和子はあれやこれと思い乱れて、容易に解決しえなかったが、2年に亘る考慮の末、遂に心を決して行く末短い老母の言葉に従い、遂に、揖取素彦と再婚するようになったのである。
現在、揖取家には「涙袖帖*(るいしゅうちょう)」と云う書簡帖がある。
これは、(*久坂が文に宛てた手紙は20通(21通とも)と云われ、)美和子が寡婦になってから昔のありし面影を偲び、朝な夕なに繰り返し、涙で詠んだ亡夫・玄瑞の書簡集である。
美和子は、これを心に抱きしめ携えて、揖取家に再び嫁いだのであるが、彼女にとっては、
女性として初の契を結んだ夫・玄瑞をしのぶ袖の涙の形見であった。
また素彦にとっても、松下村塾以来、互いに血潮に契って勤王の苦闘に喘(あえ)ぎつつ、幾度か生死を共に放浪した当時の同志・久坂玄瑞を目の当たりに見る大和男子らしい袖の涙の記念品であった。
志士・久坂玄瑞の妻 ―― 殉国烈士・吉田松陰の妹と云う自覚、自負、栄誉の内に20年近くも雄々しく勇ましく寡居を守り続けてきた美和子も、母・瀧子の老いの心を安心させたい一念から遂に嫁した揖取素彦は、当時、群馬県の県令であったが、後、帰京して
元老院議官、明治天皇の皇女・貞宮内親王殿下の傳育官(ふいくかん)(*意味の上では教育係、とでも言うのでしょうか)となり、続いて華族に列せられ、晩年は、きわめて順境であったから、美和子も静かに余生を楽しんで、大正10年、79歳で心の中に人知れない悲哀を込めつつ、その一生を終ったのである。
妹 楫取 美和子
家族の写真より、抜粋。
◇ 母としての瀧子の心労
天保3年(*1832年)に長女の千代子が生まれ、天保9年に(*1838年)次女の壽子が出来、
天保12年(*1841年)には三女の艶(つや)子が生まれた。
しかし、この艶子は、天保14年(*1843年)9月24日に3歳で死去した。
やっと母親の乳房を離れて、これからは手も余りかかるまい、と云う時であった。
可愛い盛りの艶子を失った悲しみがまだ消えやらぬ9月27日、またまた、姑(しゅうとめ)の岸田氏が死亡したのであった。
瀧子の心情は、どんなであったであろうか。
しかも、この時、瀧子は身重で、この歳に四女の文子が生まれた。
瀧子は、当時37歳であった。
彼女の苦労は、並大抵ならないものがあったであろう。
[以下、6行、略します。]
さらにこうした杉家一門の人々の他に、親戚の中にも相当、学者肌な人々があったようである。
松陰先生が『高洲の兄様は、従弟(いとこ)中の長者なれば 大切にせねばならぬ御方也(おんかた なり)』と云っておられる高洲 為之進(たかす ためのしん)がいる。
(*松陰)先生は、妹などに時々、高洲の兄様に読書してもらうがよい、と云っていられる。
例の清水口で同居されていた寺子屋師匠である。
また親戚の赤穴(あかな)辰之進の母は『心学婆サン』と云われていた程の心学熱心家であった。
思えば杉家一門、すなわち瀧子の周辺は、皆、こんな学者と勤王家揃いであった。
そこで、杉氏家風の特色を端的に云えば、一族が学者であり、勤王家であり、しかも一族 悉(ことごと)くが忍耐力に強くて、精勤家であり、ことに兄弟姉妹の中も至極、円満で睦まじかった。
あの松陰先生が幾度かの幕禁を犯しての大勇猛、あの激烈な政治的行動や意見の発表に対しても、一家一族の者が、『松陰が、松陰が』と云い、母は『寅次郎が、寅次郎が』と云って、その尊攘の言動を絶対に紳士、支持して力付け行き、その間、些(いささ)かな不平も不満もなく、如何なる艱難痛苦に際しても互いに忍び合いつつ、松陰先生の大志、大精神を伸長させて、先生をして一意専心、国事に力を傾注させたのも、実にこの位置賊の精神的後援によるものであった。
そして、この一家をして相、信じ、相、助けて仲睦まじくさせたものは、母・瀧子の性格と心使いとに負うところのもので、母親としての瀧子の存在を忘れてはならないのである。
◇ 一家の勤王精神を培養する
そもそも、この瀧子が杉家に嫁(か)した時は、家族と云えば夫の兄弟のみで、しかも二人の弟は未だ若年であった。
したがって如何に学者であり、勤王家であると云っても、松陰先生の活躍時代のように杉家の一家中が、まるで勤王の火の玉のような熾烈(しれつ)さでなかったであろうとは想像出来る。
それが家庭に、だんだん子女を増して行くにつれ、また二人の弟などが年の進み、それぞれ世の中に出るにつれて、その何れもが勤王の志を抱き、挙家闔族(きょか こうぞく・*
一族全てが家を挙げて)、悉(ことごと)くが勤王の一塊となって来たのである。
もちろん、これには吉田家を通じての山鹿流兵学師範と云う伝統的家風の上に、夫・百合之介の尊皇精神によって一家中に培養された学問と思想との発展に負うところが多大ではあるが、こうした杉家の美風に身も魂も真に馴染んで、これら学問と思想で子女の教育に当たった瀧子の内的扶助、心的訓育と、その愛的誘導などが子供の心の奥底に自然に浸透して、遂にあの勤王杉家を完遂したことを忘れてはならないのである。
すなわち杉家一門の学問を築き上げ勤王思想を培養して行った母としての蔭の力を忘却するわけには行くまい。
しかも、ここに日本婦人の真生命的亀鑑がある。
こうした瀧子の行状を静かに考えてみると、しっとりと落ち着いた奥ゆかしい態度で家庭のすべてに悦び勇んで殉じて行った古堅婦人の姿が神々しく現れて来るようである。
地味ではあるが、家庭の母性としての瀧子の心構えの高尚さが自然に現れて来る。
また、それと同時に、その精神力の雄々しさと、さらに人格的深みの味わいさが思い浮かべられて来る。
学者、尊皇家の家庭において幾多、殉国志士を生んだ瀧子は、このように愛と誠を義と信とで結ばれた杉家の大黒柱で、これらの関係は杉家一門の人々の活動を通じて如実に描き出されているのである。
◆ 高洲と合住居(あいずまい)の心尽くし
◇ 清水口の高洲の宅
松陰先生は明倫館に出仕して、家学 山鹿流兵学の教授をされて弟子300人と云われていた。
しかし、まだ若年である故に主として叔父の玉木 文之進が、その指導の任に当たっていた。
その他、香川 専蔵、石津 平七など数人の後見人もあったが、最も力を入れて家学の補導にあたったものに林 百非があった。
先生も百非の宅に奇寓して日夜、研鑽を積まれたのである。
(*松陰先生は)こうした家学の研究の傍ら、山田 亦介からは平沼流兵学を受けられ、飯田 猪之助からは西洋陣法を学ばれた。
さらに山田 宇右衛門頼毅からは、世界の大勢と共に襲い来る外夷の急迫などを吹き込まれて、大いに憂国警世(ゆうこく けいせい)の至誠を養われたのである。
なおこの間において、香川 巨田や平田 涪渓(*ふうけい)などに学問のことを尋ねるられるなど、松陰先生は読書工夫、自修研鑽に夜を日に継いでの勉強、精進ぶりであった。
こうした事故完成の自修積業のために歳月は、どんどんと進んで、嘉永元年(*1848年)には、松陰先生も萩の城下で19歳の春を迎えられることになったのである。
この年の秋、兄の梅太郎は明倫館に入ることになった。
叔父を玉木 文之進は、先に妻帯して、しばらく山屋敷内に道教していたのであるが、樹々亭下(した)の吉田の借宅に別居することになった。
一時に人数が減ってきた山屋敷は、母と松陰先生と妹だけになって、急に者寂しい生活となって来た。
それに、萩藩の例規として、士途についている者は川内(松本・橋本の両川の内であって、すなわち城下街を云う)の城下に住居(すまい)しなければならない。
そこで、父の百合之介が村田清風の推挙で盗賊改め方に就任して以来と云うものは、前にも云ってように城下の江向に千代子を連れて別居している。
この間、もちろん、瀧子が山屋敷から指図、万端をしなければならなかったのであった。
こうして山屋敷は急に人数が減って寂しくなり、百合之介の職柄は日夜の別なく多忙で、しかも要職であって、瀧子としては相当忙しい心使いの内助を尽くさねばならないのである。
それに団子巌の山裾(やますそ)、東光寺墓地の上手(かみて)の一軒家、物寂しい住居(すまい)ぐらいは、男まさりの女丈夫の瀧子には、別に問題でないにしても、城下住居(すまい)の夫・百合之介の世話、連絡には、とかく非常に不便があった。
そこで、この年夏、清水口の高洲の宅に同居、合住(あいずまい)をするに至ったのである。
清水口の高洲と云えば、松本の大橋を渡って船津の家村の中程から左に折れて小川伝いの
小道を月見川原の方に抜けて行く途中の左側である。
向かいが松門(*松下村塾)の斎藤 栄蔵の実家・石川の宅である。
この辺(あた)りは、往時、入江であったようで、城下の渡り口から松本に通じる船着き場が、今の船津であり、その北側の岸辺あたりから清澄(せいちょう)な清水が湧いていたものと見えて、今でも各所から湧き出ている。
こうした関係から清水口と地名したものであろう。
松陰先生も戊辰詩稿(ぼしん しこう)中に『驟雨(しゅうう・*にわか雨)』と題して
奔雲掠日翳書帷。
奔雲(ほんうん)(黒雲が急に出て)日を掠(かす)めて、書帷(しょい)を翳(えい)ず(書窓を覆うこと)。
騒擾過門人四馳。
騒擾(そうじょう)(それ雨だといって人のさわぐこと)門を過ぎ、人・四(よも)に
馳す。
清風無端吹来處
清風(せいふう)・端なく[はしなく・*思いがけなく]吹(ふ)き来る所
荷聲千點響前池。
荷聲(かせい)(蓮の葉に雨の落つる音)千點・前池に響く。
と、云うのがある。
戊辰(ぼしん)は嘉永元年(*1848年)であって、これは夏景叙詩(かけいじょし)であるのをみれば、この高洲に合住居されたのは、初夏のこれであったのではあるまいか。
自分(著者)も幼少の頃、度々、高洲の庭に遊びに行ったことがある。
その頃には庭におりて畑の方に行く所に大きな池があり、清水が各所から、こんこんと湧いて蓮華が美しく咲き誇っていた。
この池の水が川柳と水草との下を流れて裏の小川に注いでいた。
思えば、唐人山の頂きあたりに黒雲が急に平井して、天日を覆い、書院は忽(たちま)ち陰驟に鎖(とざ)されてきた。
驟雨一過、ザッと窓外(とうがい)を叩いて庭前の蓮池にバラバラ吹き過ぎる様子が眼前に浮かんで来るようである。
この高洲の家は、禄高52石の藩士であった。
文化文政の頃の当主を高洲 又左衛門と云い、杉 七兵衛常徳の長女を迎えて妻としていた。
七兵衛は百合之介の父で、松陰先生の祖父である。
この(*高洲) 又左衛門の子が為之進で、前にも云ったように松陰先生は、『高洲(たかす)の兄様は従兄弟中の長者なれば よく敬(けい)すべし』とか『心学本なりとも 読んで貰え』と云っておられる人物である。
――――――
*参考・杉家の一覧
杉 七兵衛常徳 (四代目) 夫妻の
➡長男・●百合之助 常道(五代目)
➡長男の妻・■瀧子 刀自
➡長女 ➡ 嫁ぎ先➡高洲 又左衛門
(長男が○為之進)
➡次男・大助(後の、●吉田賢良)
➡三男・文之進(後の、●玉木文之進)
――――――
この○為之進は、文武に造詣深く、且つ筆の道にも巧みで、松陰先生の幼時の習字本は、この為之進が、よくかいたものである、と云われている。
後には、松陰先生の兵学門生にもなっている。
ただ、前年なことには病弱であったために早く家を弟に譲って一生、妻帯せず、近所の子弟に読書・習字を教えなどして、余り世間的活動には乗り出さなかった関係から、自然、名前も世上には出ていないが、松本辺りの老人の中には、為之進の教を蒙った者が相当に多かったようである。
[*松陰全集、12巻・関係人物略伝では、高洲の姓は、「高須」となっている。]
瀧子は、子供を連れてこの高洲家に同居合住をなして玄関の北寄りの部室に起居していたと云われている。
たとえ百合之介には伯母(伯母)の家、松陰先生などには従兄弟(いとこ)たちの宅であるとは云っても、同居合住とあっては何かにつけて瀧子の気兼ね、心使いは一通りではなかったことであろう。
瀧子の生涯には、いつもこうした心苦な場面が多かったのである。
主婦としての こうした立場を十分に考え、汲み取ってやらなければならない。
いま瀧子の境遇、立場と云うものを静かに考えてみれば、夫のためには見回り一切の世話や慰めなどは勿論、家政全般の内助の柱であった。
殊に、家を外に役目などを持つ夫のためには、子女の教育は勿論、親戚近隣の交際まで、全く女一手に引き受けなければならない。
しかも、その努力、苦心は表面的ななものではなく、云うには内助内治で、蔭(かげ)の力であり、人の知らない苦労である。
瀧子のこうした苦労も、表面的な文献の上にはあまりに現れていない。
したがって、夫や子供や親戚などの外まわり的な関係によって、ああであったろう、こうであったろう、と推断、批判をして見るより他には仕方がない。
しかも、その推断は外まわり的な事柄をよく研究しみれば、無言無告の瀧子の姿の中に有言有語のなって、真の面影が浮かんで来る。
ここに日本婦人の真の姿がある。
◇ 清水口時代の杉家の生活
夫・百合之介の職は、天保革新政治における今の警察署長のようなものであったが、その時代は何しろ人心の動揺がはげしかったので、その仕事は余程、繁忙で、しかも重職であり、その上に生命の危険さえも考えられるほどの役目であった。
それだけに瀧子の心使いも一通りではなかった。
長男の梅太郎は、この歳の9月に明倫館に入り、翌、2年春には、明倫館面着方となり、さらに軍奉行所勤務となった。
母の瀧子も我が子の出世を喜びつつも、何かと心使いの多かったことであろう。
また、次男の寅次郎は、この時代においては自修研鑽の傍ら、すでに自宅で子弟の教育に当たり、また官途について実地の活動的場裡(じょうり・*その物事が行なわれている範囲内、世界)に乗り出している。
この高洲合住の宅塾教授(たくじゅく きょうじゅ)のことについては、香川 政一先生[*歴史の流れ・高杉晋作小伝を読む を参照。]が次のように云っておられる。
多くの人々は、松陰先生の宅塾教授を もっぱら小新道時代(こしんみち じだい)、すなわち後の松下村塾にありとして、未だ その事の早く清水口時代におこることを知らぬ。
嘉永2年(*1849年)2月5日、先生が、多田、大西と共に上書(じょうしょ)されたる中に云うには、
(*以降、意訳)『これまでの件は館中の稽古日の他、宿元において会業などを催してきたけれども、今後、稽古をする面々は、いずれも館中へ日勤して終日まで稽古をすれば、右、宿元で会業を止めないで、是迄よりも稽古の日数を減少するようにする。』と。(*意訳、以上)
宿元会業と云うのは、すなわち宅塾教授のことである。
(*これは)知るべきである、清水口において(*松陰)先生がすでに館生を自宅に引いて教授を補われたことを。
およそ清水口時代において、先生が兵学免許を与えた門人は4人あり、目録を与えられたものが15人いる。
そして起請入門した者が107人いる。
もとよりこれは記録に残っている者だけで、この他にも少しはあるものと見なければならないが、中に久保 清太郎・口羽 辰之助(宍戸 璣)・松原 貴速・香川 又兵衛・香川 渉・赤川 直次郎(佐久間 ひょうえ)・田総 又次郎・楢崎 弥八郎などがいて相当に名を残しているのである。
もとより その全部とは云わないが、その大部分において、特に宅に接近するものにおいて、恐らくは宿本会業を受けないものは なかったであろう。
そうであれば、当時、先生からその宅で教授を受けた者は、明倫館生だかであったろうか。
いや、そうではない。
これを解するには二つの材料がある。
一つは、高洲 為之進が子弟を集めて教授していた。
そして、その室は、先生の居宅の隣室である。
そこと先生の室とで、相、携えて会業が行わていた関係上、高洲の門人が自ら隣の先生の教授に触れることになることがあろう、と云うことは考えられる。
今、一つの材料としては、通心寺の雛僧・石田 鼎(いしだ てい)(後の男爵・松本鼎で松下村塾関係者)である。
嘉永4年(*1851年)春、松陰先生が東遊の際に、(*石田) 鼎が門人として先生に次の詩を送っている。
品川 弥二郎も当時からの門人である。
奉送松陰祇役于東都
(*松陰先生を東都に ただ送り奉る)
微暖軽寒芳草の春。
微暖(びだん)・軽寒(けいかん)・芳草の春
単衣長剣旅装新。
単衣・長剣・旅装は新なり
共上河梁分袂猿。
共に河梁(かりょう)(堤のこと)に上がって、袂(たもと)を分って去れば
翠柳垂辺鶯語頻。
翠柳(すいりょう・*若葉で青々とした柳)の垂辺(すいへん)・鶯語(おうご・*ウグイスの鳴き声)頻(しきり)なり。
と、こうしたように松陰先生は宅で幾多の子弟を教えられる。
門生の出入りの都度だけでも、瀧子は相当に忙しかったことであろう。
それに、あの瀧子の気性としては、後年『杉のおばさまは実にやさしい』と門生たちが云ったように、何くれとなく世話をしたに違いはないであろう。
村塾時代の多くの逸話と合わせ考えてみれば、瀧子と門生との関係も この清水口時代からのことであった。
◇ 旅の松陰先生と母子の情愛
嘉永2年(*1849年)6月には、松陰先生は同学の多田 藤五郎、飯田 猪之助、郡司 覚之進などと共に藩命を奉じて、長門の海岸である須佐、大津、赤間ヶ関などの海岸防備の状況の巡視に出かけておられる。
松陰先生としては、多年、対机、研究・蘊蓄(うんちく)を傾けられた学問を実地に活かしてゆかれる実際への踏み出しであった。
瀧子のためには吾が子の初旅であり、又、実地への初御奉公である。
旅装の身支度など、諸般の準備、容易に相当、心を使ったことであろう。
それに、先年来、役目に付いていた義弟・玉木 文之進は、段々、累進して遠近方助役となり、この6月に松本新道から城下・土原の梨木町に転居することになった。
兄嫁の瀧子として引っ越し万端の手伝いにも忙しいことであったろう。
さらに、この年の10月には、松陰先生が門生を率いて、城東・羽賀台で実地の一大遠州を試みられることになった。
自分の子供の こうした出来事に対して心を砕き、進んで心の協力を与えたのが瀧子の気性であった。
嘉永3年(*1850年)には松陰先生は、年来の宿願であった九州・平戸の山鹿家学の問おうとして鎮西旅行を試みておられる。
今時の青年達とはもちろん違っているとは云っても、いまだ21歳の青年・松陰先生が初めての藩外への九州旅行である。
雄々しく励まして旅出させた瀧子が思いやられると共に、母親として、その旅装準備万端に心を砕き、何かと心使いに忙しいことであったろう。
先生は、平戸から兄の梅太郎に宛て、
『兄弟、親戚、朋友、孰(いずれ)も別条、御座有りまじく存じ奉ります。』と云っておられる。
兄弟は、もちろん、親戚は如何と心配され、さらに門生・朋友の上にまで、心をよせておられる松陰先生の心使いが解ると共に、杉家の家風も窺うことが出来る。
さらに『熊本清正公に参って、弟 敏三郎の唖者がなおる様に祈願した』と云っておられる。
これは、日ごろから母の瀧子の苦の種である、その心を汲んでおられた先生が、母への慰めの土産であったろう。
それに『清温定省(せいおんていしょう)』(父母に孝養を尽くすこと)と、妹などに伝えてくれ、と結んでおられる。
ことに両親への先生の心使いが思いやられる。
それと同時に、母の瀧子の魂が、いつも先生の心に宿っていたことがよくわかって来る。
兄の梅太郎も塁審して、いよいよ軍奉行所勤務となり、玉木 文之進は奥阿武御代官所勤務となる、と云った調子で、杉家一門は、ますます発展するのみであった。
瀧子の喜びは、さだめし深いことであろう。
それだけ また心使いも多かったわけである。
◇ 受難の松陰先生と瀧子の心痛
嘉永4年(*1851年)の正月、2月頃には、松陰先生は、土原の玉木の家に寄寓して専念、研鑽を積んでおられる。
それについても瀧子は、何かと用事の多かったことであろう。
そして松陰先生は、この歳の3月に藩主に従い江戸に兵学の研究のために、いよいよ巨歩みを踏み出されることになった。
こうした子供たちの立身出世や発展の行動の蔭には、いつもの推進力となった母親・瀧子の偉大なる力があったことは見逃せないのである。
松陰先生は、この年の12月に故あって江戸・桜田藩邸を亡命して、熊本の宮部 鼎蔵と共に東北諸国を遊歴されたのであるが、翌、(嘉永)5年4月、江戸に帰り、続いて5月、
清水口の高洲同居の母の許に帰って、謹慎、待命(たいめい)されたのである。
さだめし母の瀧子も心を痛めつつも松陰先生をいたわり慰めたことであろう。
これより、いよいよ多事多難な松陰先生の生涯となって来たが、この間における母の瀧子の心痛、苦労の程や、果たしてどのようであったろうか。
この東北諸国の遊歴は、松陰先生にとっては一生の思い出多き苦難の旅行であった。
それだけ両親や家郷の人々のことなどを常に胸中に抱かれていたようである。
嘉永5年(*1852年)正月、水戸から皇子江戸にいた妹婿で、母の養家の家取りである兒玉 祐之(すけゆき)に細々と消息を与えておられる。
これも母親の孝養と思っての養家への義理合とも考えられたのであろう。
実際、母親思いの先生は、母の養家に対しては、常に気をかけておられたようである。
後に『兒玉氏、御徒然(つれづれ)に、遠(く)想い仕ります。』などといった、義理ある、あの兒玉のむつかし屋の老人を慰めておられる。
これも皆、母への義理合を考えられてのことであったろう。
また、翌、(*嘉永)6年2月には新潟から父・百合之介に宛て旅中の感慨を詩に賦して
二千里外漂泊身。
二千里外・漂泊(ひょうはく)(さすらいの身)の身
懐国思感荐臻。
国を懐(おも)い 家を思うて、感 荐(しき)りに臻(いた)る
繒纊纏身辱君恩。
繒纊(こうこう)(きぬ と わた)、身に纏(*まと)うて 君 恩を辱(かたじけなく)うす
定省幾年負慈親。
定省(*ていしょう)(孝養を致すこと)、幾年か慈親(*じしん・深い愛情のある親)に負(そむ)く
慰閑時取史乗読。
閑を慰む、時に史乗(*しじょう。歴史書)を取って読めば
涙落古来忠孝人。
涙は落つ、古来 忠孝の人
何日應竭駑鈍力。
何れの日か 應(まさ)に駑鈍(どどん)(おろかなもの)の力を竭(つく)すべし
報功得輿古人倫。
報功(*ほうこう・功を立てて恩に報いること)・古人と倫(りん)(たぐい並ぶこと)するを得べけんや
(*得べけん、は、一体可能で あろうか、の意。)
と、云って旅路の難苦の身にしむにつれても、家を思い、国を懐(*おも)と、家郷の空がなつかしく思われる切々たるものがある。
父の鴻恩(こうおん)をもちろん、母の慈愛を、つくづくと思い出されたことであろう。
実際、母の瀧子の心は、いつも松陰先生の心の中に通っていたのである。
この母性愛が、すなわち、あの感激性な先生を作り上げたのである。
先生は、翌、嘉永6年(*1853年)正月、萩を出発して、大和に森田 節斎を訪ねられ、これより伊勢路を経て中山道を下り江戸にはいられたのである。
少しも、この10年間の諸国遊歴と云うことは、云わば、不都合に付き お国 追い出し、と云う形であるが、元来、松陰先生の東北遊歴は、もともと、憂国熱情の迸(*ほとばし)りで、真に やむにやまれずして敢行されたものである。
しかも、強いて云えば、許可の手続きの不行き届きであったのみである。
これがため藩主も特に先生の亡命を惜しまれていた。
なおこの間における両親の痛苦・心配は実に多大なるものがあった。
それに玉木や その他、親戚、朋友関係の同情論もあって、如何にも先生を中止としての
一同の心使いが思いやられると共に、特に母の瀧子の辛苦は、また、ひとしおのものであった。
◇ 結び合う母と子の心情
ところで、この年の3月、杉家は小新道(こしんみち)の宅に移転することになって今度は、玉木が、その後に同居することになった。
思えば百合之介が多年、同居する、それに引き続き弟の玉木がまた、また伝来する、如何にも杉家の親戚の睦まじさが思い出されると共に、この間における瀧子の心使いは、並大抵のものではなかったことが知られる。
そして、この年の9月には松陰先生は、江戸を発して長崎の露艦、搭乗、海外進出を企てられたのであるが、これは失敗に終わり、11月20日、宮部 鼎蔵を伴って一時、萩に帰宅の上、再び、江戸に上っておられる。
この時も、松陰先生は両親の心情をつくづく考えられつつ、且つ、当時の自分の境遇にも思いを寄せられて、
一身の踪跡(そうせき・*事績)・幾たびか 変更す。
免(*まぬが)れ 難し。
不忠不幸の名。
膝下 歓を快く 又 幾度。
報国の微衷(びちゅう)・何れの日にか成る。
客夜(きゃくや)遥々として 眠り得られず。
弧燈(ことう)・愁(しゅう)を照らして、滅し また明なり。
と、一詩を賦して、深い感慨に沈んでおられる。
ところが、12月には梅太郎が相州警備に行く、と云った実に二人の子供の活動と共に母の瀧子のこれらに対する心配、世話、心尽くし、奔走が思いやられ、当時の行状と思い合せば、実に涙ぐましい心地がする。
松陰先生は、この9月、江戸出発の前、8月15日付で妹の壽子が小田村 伊之助に嫁した、と云うので、心からの喜びを両親に書き送っておられる。
『壽 妹(*の)儀、小田村へ嫁せし由、先々珍喜し、此事 御同慶に仕ります。彼の三兄弟(松島 瑞益・小田村 伊之助・小倉 健作)皆、読書人。此の一事にても弟が弟が喜ぶ所也』と両親の喜びを自らの悦びとして、心から喜んでおられる。
それについても、嫁入支度、その他一切を切り盛りした母の瀧子の心苦を思い浮かべられたことであろう。
そして、母の喜び、安堵を共に喜んで、心から祝詞を与えられておられる。
母子二人の心は、いつもびったりと結び合って永遠に離れることはなかったのである。
このように母の瀧子は、嘉永元年(*1848年)、松陰先生19歳の夏から嘉永6年(*1853年)、松陰先生24歳の春まで、足掛け6ヶ年の間を この清水口で同居合住居生活(どうきょ あいずまい せいかつ)を営みつつ、有為転変多き家庭を護って、夫の後顧を去り、二人の子供の国事奔走を励まし、親戚一同の因(ちなみ)の柱になり、しかも女の児の教育に当たり、一家の主婦として家庭の母性として、そのあらゆる尊き使命を果たしたのであった。
思えば、普通の婦人にしては到底、堪えられない忍苦、重荷に立ち働いたのであって、実に並々ならない苦労のことであったろう。
(*以下、4行、略します。)
次回、吉田松陰の母 を読む5 に続きます。
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/490185109.html
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。


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