吉田松陰の母 を読む3

吉田松陰の母 を読む3

◆ 杉家の人々

◇ 夫の次弟・吉田 賢良

杉家五代・百合之助常道の次の弟である。
初名は、熊之充、後に賢良(けんりょう)と改め、通称は、大助、字は子良、龍門と号した。
文化4年(1807年)生まれであって、百合之助とは四つ違いの弟である。
文化9年(1812年)吉田家6代・他三郎矩建が死亡したので、6才で吉田家の養子◎ となった。
  吉田家は、初代・吉田友之充重矩◆なる者が、山鹿素行(やまが そこう)の子・藤助高基(たかもと)から山鹿流兵学の奥書皆伝を受けて、山鹿流兵学の師範となり、代々、毛利氏に仕えていた。
この(*初代の)重矩の次男・正之(まさゆき)■ なる者が、杉家の初代・文左衛門正常の養子となり、杉家2代となって以来と云うものは吉田、杉家は多く重縁関係を結んで来たのである。
そして、(吉田氏、8代・)大助(賢良)◎の時には大番頭となり、禄高57石を受けていた。
そして、大助は天保6年(1835年)4月、29才で病没したので、松陰先生が又々、その後を継続されたわけである。
  この大助は、生来、剛直で大志を抱き、夙(つと)に家学の興隆を念とし、当時、兵学家が経学を修めず、徒(*弟子)に古い習いを伝えるだけだったのに憤り、自らは深く経史(けいし)を修めて、一世を覚醒(かくせい)せしめんと念願していたのである。
また常に皇室の式微(しきび・*衰退)を嘆き、幕府の横暴を憤(いきどお)り、『王覇辨(おうはべん)』一篇を作って、これらの非道を、極論したのであった。
松陰先生も、『余 不敏ながら遠くは先師・山鹿素行先生の教(*え)を慕い、近くは亡夫の訓を仰いでいる者、どうして賊民となって安閑(あんかん)と禄を食(は)んでいられ様か。』と云われ、『賢良が大志を抱きながら夭死(ようし・*若い内に亡くなった)したことは実に痛嘆に堪えられない。彼の遺言を守り自分は勤王の心を励ます。』とまで言っておられる。
『賢良は兄(*百合之助)よりも気力家であって、兄弟中 誰よりも学問が進んでいた。』とは、当時、杉一門の批評であった。

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【参考】 
吉田氏 友之允重矩◆ 2代 
長男・十郎左衛門矩行
次男・七郎兵衛政之■(→ 杉氏 二代へ)
三男・太左衛門孝方(→長谷川氏へ)
        
吉田氏 3代・半平
    4代・二十郎矩之
    5代・市佐矩直
    6代・又五郎矩定
    7代・他三郎矩建◆
    8代・大助賢良◎(← 杉氏から)
    9代・大次郎矩方(松陰)
       (← 杉氏から)

杉氏   初代・文左衛門政常 
    ■2代・七郎兵衛政之
     3代・文左衛門徳卿
     4代・七兵衛常徳
     5代・百合之助常道(長男)
        (次男)大助賢良◎
        (三男)文之進・
        後の、玉木文之進
以降は 吉田松陰の母 を読む2【参考・杉家の一覧】 へ

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◇ 夫の末弟・玉木 文之進

その弟が玉木文之進である。
初名は正一、後に正■(まさかぬ)と改め、字は蔵甫、文之進と称し、韓峰と号した。
文化7年(1810年)生まれであって、文政3年2月、親戚にあたる玉木家6代・十右衛門正路(まさみち)が死亡したので、その6月、11才で玉木家を相続したのである。
  この玉木家も杉家と同様、吉田友之允重矩◆の三男、即ち養子に行った政之■の弟・太左衛門孝方▲なる者が、長谷川太兵衛信政の養子となり、この信政の娘が玉木氏、3代・金右衛門春行の妻となった縁故から、ここに吉田、杉、玉木三家の縁組が始まった。

【参考】 
吉田氏 友之允重矩◆ 2代 
長男・十郎左衛門矩行
   次男・七郎兵衛政之■
(→ 杉氏 二代へ)
   三男・太左衛門孝方▲
   (→ 長谷川太兵衛信政の養子へ)
       ▲娘が玉木氏へ嫁ぐ 
        ↓
玉木氏  3代 金右衛門春行(はるゆき)
      ↓
     6代 十右衛門正路(まさみち)
     7代 文之進( ← 杉氏から)

これより山鹿流兵学が、吉田、玉木両家に伝わるに至ったのである。
そして文之進は、天保8年(1837年)28才の時に、松陰門生・國司仙吉の叔母・辰子(当時16才)を娶(めと)って、当時、なお杉家に同居していたのである。
  この文之進は、夙(*つと)に文武両道を修め、余程、謹厳な人であって、勤勉剛直は二人の兄以上であったと云われている。
天保6年(1835年)に松陰先生が吉田家を相続して山鹿流兵学の師範となられるや、その家学後見として明倫館に出任し、以後、専念一意、心魂を打ち込んで、松陰先生の調育陶治にあたった師範である。
天保13年(1842年)には、あの松下村塾を開いて子弟の教育に当たり、その門下からは松陰先生および乃木将軍を始めとして幾多の殉国人材が排出したのである。
これを見てもその人格、識見を識ることが出来る。
後に明倫館の都講となり、又、異国船防禦御手当掛、あるいは祐筆などの要職にあったが、藩政府の上役さえも常に(*彼には)畏服し、『玉木先生』と呼んでいたのである。
ことに各地に代官として歴任すると、当時、藩の16代官の内、第一の事績を挙げたことは
有名な話柄となっている。  
  (*維新後)明治9年秋、前原一誠が殉国群を組織して萩の乱を起こした際、文之進は内密にこれを知り、事由の如何(いかん)はともあれ、その大義名分の乏しさを諭し、軽挙を戒めていたのであるが、前原は遂に兵を挙げ、一戦、直に敗れてしまったのである。
その際、文之進の養子の正誼(せいき・乃木将軍の弟)を始め、その門生中にも前原党に参加したものが多かったので、文之進は、『是(こ)れ、余が平生の教育 その宜しきを得ざるの致す所である。何の面目あってか、地下の父兄に対し、且又(*かつまた)師弟の教育が出来ようか、その責め、将(まさ)に吾にあり』と自省自責、明治9年11月6日、東光寺・団子巌の先塋(せんけい・*先祖の墓)の側(かたわら)で自刃したのである。
行年、67歳。
(*以降、本書刊行時の時代背景を知ることが必要である。)
  ああ、何たる崇高なる教育誠心であろう。
死の責任を以て師弟の教育に当たる、教え子の責任を師の死を以て償(*つぐな)う、一死教育に殉じるこの心魂、この大丈夫の真剣な教育、この教育こそ真の魂の日本人を作り、真に多難の日本を生かす教育とも云うべきであろう。

◇ 長男・杉 修道

百合之助常道の長男、すなわち松陰先生の実兄である。
通称を民治と云い、初めは梅太郎、名は修道、字は伯教、学圃(がくほ)と号した。
文政11年(1828年)正月生まれで、吉田松陰とは三つ違いの兄である。
幼時、父・百合之助の薫陶(くんとう)を受けたのは勿論であるが、また常に、叔父の玉木文之進の学問指導を受け、特に、松下村塾が開設されると弟・寅次郎と共に、日夜、勉学に励んだのである。
22才の時に藩校・明倫館に入り、続いて郡奉行所加勢暫役となり、その後、相州御備場、出張を命ぜられたのが安政元年(1854年)、(*梅太郎、)28才の時であった。
以後、寅次郎(松陰先生)が幾度か国禁を犯して勤王の大志を伸べんとしたので、その都度、一家の運命は勿論、自己一身上にも、何かと圧迫を受け、監督不行き届きの故を以て、時には官職を免ぜられ、あるいは謹慎を命ぜられるなど、幾多の不運難関に遭遇したのであるが、常に弟の身上を庇護、激励して、寅次郎(松陰先生)の勤王の大志を伸長させようと苦心した点は、まことに慈愛深い兄であると共に弟に、劣らぬ尊王の大志に富んだ
人物であった。
弟・寅次郎(松陰先生)の一件がほぼ片付くと、文久3年(1863年)、27才の時、
御蔵元本取締役となり、慶応元年(1865年)、藩内の正俗両党の内訌(ないこう)(権力闘争)に際しては、正義派諸隊の復興を期すべく、杉 孫七郎、笠原 半九郎などと共に鎮静會と云うものを組織して、大いに正義党の擁護(ようご)につとめたのである。
維新後、徳山・世子公の侍講となり、次いで代官となり、主として民政方面に力を尽くしたのである。
明治4年、廃藩置県で山口県権典事となり、明治9年に職を辞して、再び松下の故山に帰り、明治13年頃から松下村塾を再興して塾主となり、もっぱら師弟の教育に当たり、(*明治)25年、閉塾するに至ったのである。
晩年は、萩の私立修善女学校の校長となって子女の教育に残りの一生を捧げ、明治43年11月11日、84才で他界した温和で崇高な人物であった。
  顧みるに松陰先生を知らないものはない。
しかし、その実兄・杉梅太郎を知る者は少ない。
松陰先生、30年の勤王殉国の大活動は、日本人たるものの最高峰であり、典型である。
しかしこれをここに至らしめた隠れた背後の一大力は、まさに、この兄・梅太郎であって、その心苦の情愛に至っては、到底、涙なくしては見得られないものがある。
自らは自己の一切を放棄し、地下百尺に埋もれて何等の名聞をも求めず、ただ弟・寅次郎(松陰先生)をして勤王の志を果させて、天下の『吉田 寅次郎』たらしめたとした兄・梅太郎の偉大さを忘却しては、ならないのである。
  しかしながら当今の世相を見るに、肉身の兄弟間にあってさえも、とかく紛擾(ふんじょう)を醸しつつあると聞く。
また非常時の国難に直面しつつも、同朋兄弟の社会の各相において相克摩擦(そうこく まさつ・* 対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと争うことの摩擦)が絶えないのを見る。
ああ、いま学圃(がくほ)杉先生伝記中の一節を引用して、さらに これらの関係をいっそう明確に把握することにしよう。
  学圃(がくほ)先生の処世の行路には、およそ二大方針があったことが隠約(いんやく)の間に発見し得られるのである。
二大方針とは、一は その賢弟である松陰先生との間な忠孝両全の黙契(もくけい)があったことと、一は 先生(学圃)自身において明哲保身(めいてつ ほしん・*聡明で道理に通じていて、物事を的確に処理し、安全に身を保つこと)の深慮があったこと、これである。
忠孝両全の黙契とは、単独で忠と孝とを完全にさせることは到底不可能であるから、協心
戮力(きょうしんりくりょく・*心と力を合わせて、互いに協力して物事に取り組むこと)
によってこの道を完全にさせようとする底意があったこと、これである。
これらのことは両者間で交換された文書により相互に、その用意があったことが推測し、得られるのであって、今、一、二の令を示せば、『長兄(ちょうけい)には仰げば、すなわち父母あり、俯すれば、すなわち弟妹あり、出づるや官職扮冗(ふんじょう・乱れること)、
入るや家事錯綜(さくそう・物事が複雑に入り組んでいること)、静座して書を念じ、文を作るの間、なかるべし、矩方(のりかた)の長兄に望むところは、詩に非(*あら)ず、文に非ず、民に稼穡(かしょく・*種まきと収穫、農業)を教え、以て勧農民富の学を致すに如くはなし(*及ぶものはない)云々』と。
これは当時、江戸留学中の松陰先生に送られた自作(*学圃作)の詩に対する松陰先生の返書である。
これを見ると、学圃先生は杉家の嫡男であって、両親や弟妹に対し、孝養比翼(ひよく・*二羽の鳥が翼を並べること。転じて、男女の仲睦まじい様子の喩え)の大任がある上に、
官職に家事に非常に多忙な職責であるから、徒に詩文などの末枝にとらわれず、勧農民富などのような実学実践の事業を等閑視(とうかんし・*無視して放っておくこと。)されるようなことがあっては遺憾であると、暗に長兄は自分と異なり、四圍(あたり・*周囲)の環境が到底、官職や家事を放擲(ほうてき・*投げ出すこと)して国事に奔走する余地がないから、忠と孝とは相互に分任して両全ならしむることに努力しようではないか、との意味をしめされたもののようである。
又、安政元年(*1854年)7月、(*松陰先生が)江戸獄中から学圃先生に送られた悲愴(ひそう・*悲しく痛ましい)なる書翰の一節には『父母に対しては、不孝無此上奉恐入(*
この上、孝無くては恐れ入り奉りますが、) 忠孝不両全(*忠孝は両全ではないと)、古言も
これあると、宜しく委(ゆだ)ね(*て、いますので)、よろしく、くれぐれも願い奉ります。』と、あるのを見ても、兄弟間の忠孝分任、両全の覚悟を知ることが出来る。
さらに、安政4年(*1858年)4月、学圃先生から松陰先生宛のものには、
『翼(こいねがわく)は世故(せこ・*世間の事情)を以て胸懐(きょうかい・*胸のうち)
介するなかれ、そして事を省き、志を専(もっぱ)らにして汝の初志を償(つぐない)い、親戚、朋友をして失望せしむるなかれ、若(も)し、あるいは聞問(ぶんもん)不致を以て罪を問う者あらば、請う咎(とが)を愚(松陰先生)に返せよ、愚、将(まさ)に東奔西走、家々に至り、人ごとに謝し、敢えて汝を煩(わずら)わさず 汝、勉めよや 勉めよや 云々』との激励の辞がある。
この懇篤(こんとく・*懇切丁寧で、心がこもっていること)、親切な文書の要旨を約言すれば、彼我(ひが)の間に公事と私事とを分任し、汝の私事はその兄が代弁するから、汝は、ただひたすら国事のために尽瘁(じんすい・*全力を尽くすこと)せよ、との意味の中に、相 寄りて相 助けて、忠と孝とを完全ならしめんと欲する意志の閃(ひらめ)きが関知されるのである云々。
 思えば松陰戦線と云うような、偉大な熱血、殉国志士を出したことは、もとより松陰先生の天稟(てんりん・*天性。)の資性と、その両親の扶掖(ふえき・*扶助)、訓誘(くんゆう・*教え導く)は、もちろん、玉木・吉田の両叔父の指導・薫陶などによることは、云うまでもなく、弟思いの兄・梅太郎が自己の栄達・名聞をすてて、一意専心に家を守り、
ひたすら松陰先生をして内顧の憂いをなからしめ、以てその行動・画策に一段の決意・便宜を与えさせたことを忘れてはならないのである。

杉 民治(元、梅太郎)
家族の写真より、抜粋。
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◇ 次男・吉田 松陰

百合之助の次男が、すなわち松陰先生である。
 天保元年(*1830年)8月4日生まれで、幼名は虎之助、後に大次郎・松次郎または寅次郎と云い、名は規方(のりかた)、字は義郷、松陰または二十一猛士と号した。
時に松野 他三郎・瓜中 萬二(うりなか まんじ)と変名されたこともある。
松陰先生の誕生された時は父・百合之助は27歳、母の瀧子は24歳、兄・梅太郎は3歳、仲父・吉田大助は24歳、叔父・玉木 文之進は21歳であって、皆、杉家に同居していたのである。
 松陰先生は天保5年(*1835年)、5歳の時に仲父・吉田大助の仮養子となられた。
この吉田家は代々、山鹿流兵学師範を以て毛利氏に仕えていたが、翌、天保6年(*1836年)、大助が病歿したので、その6月、吉田家を相続し杉家に同居しておられ、家学の方は主として玉木 文之進が貢献していたのであった。
このようにして松陰先生は9歳の時、家学教授見習いとして藩校・明倫館に出仕されたが、天保11年(1840年)、11歳の時に藩主・(*毛利)慶親(よしちか)公が、文武師範を城中に召して親しく試みられたことがある。
その時、先生は武教全書・戦法篇三戦を講義されたが、堂々、経書を引用し講説されたその巧妙さに、藩主がいたく感服して、その師範は何人なるや、問われた時に、それは玉木 文之進なり、と答申した、と云われている程の神童であった。
13歳の頃からは兄の梅太郎と共に、玉木の松下村塾で専念、勉学に精進されていたのである。

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舊 松下村塾
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萩市松陰神社の境内にある。
是は もと過ぎ氏の宅地内に属し、安政4年(*1857年)11月、古き納屋を修理して8畳1室を得、表面上 久保氏の新塾と稱したものである。
翌年3月 師弟協力して更に10畳1室と土間1坪を増築した。
松陰は安政5年(*1858年)12月まで此處で教授し、其後 小田村 伊之助が継いで教督に當り、爾後 塾業に盛衰あり、塾頭の交代ありて明治初年に及ぶ。
而して松陰主持中に於て多くの栄西を育んだことは、此の塾の最も光輝ある史實である。
大正11年11月、内務大臣より史蹟として指定せらる。
写真は明治41年の撮影で、建物の南面を示し、向って左方が増築の部分である。
人物は松陰の実兄 杉 民治(當時81歳)である。
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第4巻の口絵の写真および説明文より]

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●松下村塾の横の鳥居前に男性2人
画像は、京都大学・維新特別資料文庫・レコードID RB00021563
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著作権者が第三者の自由な再利用を許諾したことを確認済。
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弘化元年(*1844年)、15歳の時に、又々、藩主の親試があったが、その時、先生は藩主の特命によって孫氏・虚実篇を講義され、七書直解の賞与を賜われたのである。
[*武経七書(ぶけいしちしょ)は、中国における兵法の代表的古典とされる孫氏・呉氏・尉繚子(うつりょうし)・六韜(りくとう)・三略(さんりゃく)・司馬法・李衛公問対(りえいこうもんたい)を指す。]
  この時代から松陰先生は世界の形勢を憂念、研鑽され、ことに外夷の来侵を痛く憤慨され、且つ皇国雄略の大精神を以て、尊攘の魁(さきがけ)になろうとする大志を抱かれるに至ったのである。
したがって家学の他に長沼流兵学や西洋陣法は、勿論、広く経書や史乗などをも研究され、ことに山田 宇右衛門[(やまだ うえもん)・*山鹿流兵学を吉田大助について学び、松陰の後見役でもあった。再度、討幕派が藩政を握ると参政首座となり木戸孝允と共に藩内における指導的立場となり、藩政刷新に尽力した。]や 山田 亦介[(やまだ またすけ)・*甲子殉難十一烈士の一人。長州藩内の主導権を握った俗論党により萩の野山獄で処刑された。享年57.]などの激励により、深く外患を憂いて発憤慷慨し、日夜、辺防(へんぼう)のことに専念され、自ら天下のことに任じよう、と決意されるに至ったのである。
  松陰先生が萩城下における自修、研鑽も終わりを告げて、遂に嘉永3年(*1850年)、21歳の8月、九州の旅途に上られ、平戸、長崎、熊本、佐賀などにおいて先賢同志と相会し、大いに智見を広め大志を養われたのであって、これより先生の生涯は愈々、多事多難を極めるに至ったのである。
嘉永4年(*1851年)、22歳の3月には兵学研究のために藩主に従い江戸に行かれ、安積艮斎(あさか こんさい)古賀 茶渓、山鹿 素水、佐久間 象山などに師事せられ、又、鳥山 新三郎、宮部 鼎蔵、長原 武、斎藤 新太郎などと交わり、文武の修行に切磋(せっさ)されたのである。
その6月には相州および房州の海岸をも実地踏査されている。
  そして、その12月14日には、宮部 鼎蔵、江幡 五郎と共に東北諸国遊歴を試みられたのである。
元来この遊歴は藩許を得ずして敢行されたために、翌(*嘉永) 5年4月 江戸に帰り、桜田藩邸において待罪書を出し命を待っておられたが、遂に帰国の命が下り5月に萩に帰り、当時、松本清水口・高須に同居されていた親の許で謹慎されたのである。
その年の暮れ、12月9日、亡命の罪(東北遊歴のことを以て士籍を削られ、世禄を奪われ、浪人の身柄となられたが、特に藩主の憐憫(れんびん・*憐れみ)により父・百合之助への内諭として、10年間諸国遊学を指し許されることになったのである。
  そこで、松陰先生は24歳の嘉永6年(*1853年)正月、萩を発し、まず大和路に入って森田 節斎や谷 三山などを訪ね、これより伊勢路に出て伊勢の大廟を拝し、また足代 弘訓や斎藤 拙堂などとも会語され、さらに美濃、信州路を経て江戸に達せられ、5月には鎌倉・瑞泉寺に叔父・竹院上人をも訪問されたのである。
  丁度その6月4日、米艦6隻が浦賀に来泊し、実に天下騒然たるものがあった。
先生は直にその実地、実情を探査して、その10日に江戸に帰り『将及私言(しょうきゅう しげん)』を表して藩邸に呈上され、『急務條議(きゅうむじょうぎ)・接夷私議(せつい しぎ』などの建白書をも作られ、また佐久間 象山など同志と共に日夕、時事を討究されていたのである。
当時、長崎に露艦が来泊中である、とのことを聞知された先生は親しく海外視察の上、わが大国策を樹立せん、とのかねての主張を果たすべき好機が来たれり、として、その露艦に搭乗、海外出遊、実情踏査のために9月18日に江戸を発し、長崎に向かわれたのであるが、10月27日、長崎に達せられた時には、露艦は既に去り、先生の大志も空しく失敗に帰したのである。
そこで一応、帰郷され、再び江戸行の途中、京師(*京都)において梁川 星巌(やながわ せいがん)、梅田 雲浜(うめだ うんぴん)、鵜飼 吉左衛門、森田 節斎などと親しく志を談じられ、12月27日 江戸着の上、翌、安政元年(*1854年)3月27日の夜の下田における かの有名な米艦搭乗事件となったのである。

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下田港
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下田港は、松陰が踏海を企てた所で、当時 白面の一書生が、一躍その勇名を天下に轟かした場所として、因縁深き土地である。
この写真は、下田町より柿崎村に通ずる海岸通路に左方、武山の山腹から南東方に面して、下田湾口を俯下もので、右端の海面の続きがすぐに下田町海岸である。
又、左方 海岸より海中に突出せる一見 島の如きものは柿崎で、その木立の中に、松陰などが二度も寝所として弁天祠がある。
米艦はおそらく、この柿崎と右方二島の間に碇泊したものであろう。
 (今、弁天祠前参道の一側に、松陰の七生説を刻した記念碑が建って居る。)
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第9巻の口絵の写真および説明文より]
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  しかし、天、未だ先生に幸いせず、その雄図(ゆうと・*雄大な計画)も空しく砂鉄失敗に終わり、同伴者・金子重輔と共に捕らわれて、一時、下田の番所に拘引され、続いて江戸伝馬町獄に拘致(こうち)され、その後の断罪により在所蟄居(ちっきょ)と云うことになって、10月24日、萩へ帰され、藩獄・野山獄に幽閉の憂き目を見られることとなったのである。
  この在獄中、先生は獄風の改善、文教の振作(しんさ・*(精神を)奮い起こす)、同志の結交などを策せられ、且つ又、読書自修、大いに発憤自励され、静かに宇内(うない・*天下)の大勢を洞察して、尊攘の大義と七生報国の信念との固められたのである。
一方、当時における先生の心情と活動とを見ると、ただ君国を思う燃える殉国の大義心によるものであって、獄裡、幽閉は余にも過当なり、との議論が起こり、遂に安政2年(*1855年)12月15日、野山獄を免じられて実家・杉家に帰られ、一室に幽居謹慎と云うことになったのである。
松陰先生は、この杉家・三畳の幽閉室において、三余読書、七生滅賊の理念の下に悠々自適、修養工夫を積み、又、近隣の師弟をも教養されることになって、安政3年(*1856年)夏頃からは師弟も漸次、増加し、遂に、あの有名な松下村塾を引き受けて、村塾教育の最高目標である尊皇たる君臣の大義と華夷(かい・*中国から見て、中国と外国。文明の地と野蛮未開の地。)の弁たる攘夷とを以て真の日本人を作り、雄大なる皇国誠心を八絃(はっこう・*天下)に樹立せん、とされたのである。
これより、いよいよ、あの烈々熱火のような尊皇殉国の大精神を振りかざして、松下村塾の子弟教育に直接、当てられたのである。
木戸 孝允、久坂 玄瑞、高杉 晋作、品川 弥二郎、入江 九一、野村 和作、寺島 忠三郎、松浦 松洞、前原 一誠、伊藤 博文、山県 有朋など、あれ程多くの殉国志士は勿論、国家有用の人材が輩出したのである。
  そして時勢は、ますます急迫して来る。
外夷の横暴は、いよいよ目に余るものがある。
幕府は無気力でいかようとも なすことが出来ない。
このまま行けば、この尊き神州の国も滅亡する他はない。
最早、議論の場合ではない。
自ら身を以て国難に当たる他はない。
殉国大義の大精神の具現は、まさに今である、と覚悟、決心された松陰先生は安政5年(*1858年)の秋頃から漸次、直接行動に転じて来られたのである。
9月には在江戸・門生の松浦 松洞に幕府・老中の大立物・水野土佐守の暗殺策を示唆される。
あるいは、忠誠公卿・大原三位の長州下向を求めて、勤王の旗揚げの下、準備をせん、と工作される。
10月には赤根 武人(あかね たけと)に伏見の牢獄を破り、梅田 雲浜の脱出計画を授けられる。
11月には、井伊大老の懐刀の老中・間部 詮勝(まなべ よしかつ) 京師(*京都)に要撃せん、と同志17名の血盟誓約をされる、と云った実に醒風(せいふう)衣を拂う、の強烈な計画を進められたのである。
ところで、これを探知した藩政府当局は、直接行動で暗殺、暗殺とやられては、何時、幕府の嫌疑を蒙り、ひいては長州藩の運命にも関する大事に立ち至るかも知れない
これは大変だ、と云うので、遂に『松陰、学術、純ならず、人心を惑わす』と云う、実に不明瞭、不確実な罪名の下に、再び安政5年(*1858年)12月、野山獄に再投獄を命じたのであった。

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別莚(べつえん・*送別の宴)寄せ書 (口絵)
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安政5年(*1858年)12月26日、松陰が再び野山獄に投ぜらるる日、別宴席上の寄せ書である。
年長の門人がいないのは、他国へ旅行か、又は自宅へ禁錮中であるに由る。
故 吉田 庫三の調査に依って 筆者及び文字を左(*下)に挙げることとする。
[*「吉田松陰全集」全12巻 (1936) 第4巻の口絵の写真および説明文より]
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  再投獄後の松陰先生は、ますます尊攘の雄叫(おたけ)びに同志と叱咤(しった)されつつ、殉国の大義を以て烈々勇猛、ただ一死報公の赤誠に心魂のあらん限りを君国に尽くさせん、と、指導、鞭撻されたのであって、この間、あの悲痛、慨嘆たる絶食問題や賜死問題のような暗澹(あんたん・*暗くて、ものすごいさま)たる場面を繰り返えされつつも、遂に安政6年(*1859年)5月、江戸檻送(かんそう)の幕命により、

 かえらじと 思ひ定めし 旅なれば
  一しほ ぬるゝ涙松かな

の一首に、無限の感慨(かんがい)を残して萩を発し、

 八隅知(やすみしる) 君の国だに治(おさ)まれば
  身を すつるこそ 賤(しず)が本意(ほい)なれ
 五月雨(さみだれ)の 雲に この身を埋(うず)むとも
  君が光りの 月と晴てよ

と、血潮に染む胸中、赤心の一片を筆に留め、6月、江戸着(ちゃく)の上、護送の人々に分かれるとて

 帰るさに はつかりかねの 声きかば
  わが音づれと 思ひ いでてよ

と、尽きない思いに涙をしぼりつつ、一時、長州藩・梅田邸に入り、続いて伝馬町獄に移され、6月9日、初度の訊問(じんもん)以来、三度の評定所の取り調べの後、
安政6年10月27日、

 身はたとへ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
  留め置(おか)まし 大和魂

吾今為国死。 吾れ いま国のために死す
死不背君親。 死して君臣に背かず
悠々天地事。 悠々たる天地のこと
鑑賞在明神。 鑑賞明神にあり

との時勢の詩歌(しか)を残して、雄飛の静かに西山に沈み行くが如く、あるいは朝日に霞の消え行くが如く、静寂の中に、いとも麗しく雄々しく、聖血をもって、刑場の下草を染められたのである。
ああ、時に年三十。

◇ 三男・杉 敏三郎

 松陰先生の末弟(まってい)が敏三郎であって、松陰先生16歳の時、弘化2年(*1845年)10月6日に生まれたのである。
彼は生来、発話不自由者であった。
しかし、性質は至って温和で、利口のようであった。
兄弟思いの吉田松陰は、この敏三郎の不幸をいつも気にかかっていたと見える。
あの九州旅行の際、平戸から家郷の梅太郎・兄に、
来月上旬頃、長崎に出て郡司 覚(覚之進)【1】と同道して肥後に廻り、清正公【2】に参り、弟、敏の為に物言(う)共、祈(り)帰る 積りであります。(嘉永3年10月13日)
【1】 郡司覚之進(ぐんじかくのしん)。
長州藩士。
当時、砲術研究のため長崎に来ていた。
帰途、共に、熊本へ行くことを約束するも、果せず、3年後、江戸で再会した。
佐久間象山に従学、後、明倫館の砲術教官となる。
【2】 加藤 清正のこと。
加藤 清正は、秀吉、没後、徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦功により肥後国・一国を与えられ、 熊本藩主となった。

と云って、何とか弟・敏三郎が物言うようになれないかと祈っていられるが、いかにもやさしい松陰の心ではないであろうか。
また初度の野山獄中、安政2年(*1855年)の正月には『敏三郎は手習(い)を出精するやら、書初めが見たい、見たい。』
と、まで云うほど、いつも、この敏三郎のことを気に留めていられたのである。
その後、安政5年(*1858年)の秋、松陰先生は、この不憫な敏三郎のことを、つくづく考えられたものであろう。
敏三郎も、もはや14才になる。
面目動止は少しも常人と異ならない。
字を写し書き真似することは、大変上手である。
他人が読書をすれば、黙々として一心に注視している。
そして何事でも大体文字で書けば解っている。
それで物が云えないとは、実に不憫であり、可憐でたまらない。
この頃、自分(*松陰)が幽囚の室で、朝夕、祖先の霊位に対して、祈願拝礼すれば、敏三郎も必ず来て、霊前に焚香(ふんこう)、拝礼している。
そして何事か言っているようであるが解らない。
そこで敏三郎に何故、礼拝するのかと問えば、口を指して読書の真似をし、又は礼拝祈祷の状をなす。
彼は、おそらく、発話不自由を治す医薬はない。
それで先霊に祈願して物を言わんと云うのであろう。
と、思いの細々を書き連ねて、松陰先生は失望と残念さのため息をついておられる。
敏三郎は、こうした不幸、不憫の境涯にありつつ、明治9年3月、32才で空しく他界したのである。
  こうした所にも、松陰先生の心情と杉家の家庭の様子がよく窺える。
松陰先生のこうした弟思いの優しい心も、もとをただせば皆、母の瀧子の心が宿っていたからである。
そして松陰先生は不憫な敏三郎に思いを寄せられる度毎に、母の心中をも押しはかって、
蔭で泣きつつ、せめて母の心の慰めにと、このように筆を執られたものであろう。

弟 杉敏三郎
家族の写真より、抜粋。
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次回、吉田松陰の母 を読む4 に続きます。
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