吉田松陰の母 を読む2
吉田松陰の母 を読む2
◆ 思い出多き樹々亭 山屋敷
◇八谷聴雨(やたがい ちょうう)の山荘
百合之助の新家庭、樹々亭とは、どんな所であったのだろうか。
八谷聴雨(やたがい ちょうう)の祖先の墓が東光寺の山内にあった。
聴雨は、折々、墓参りに来ては、この清閑で幽邃(ゆうすい)、清浄な山裾に立って巴城(*萩)の風景を眺め、幽静、枯淡(こたん)の心を養ったもののようである。
元来、この聴雨(ちょうう)は風流を好み、俳句をよくし、東都正門の道元居(どうげんきょ)の門人となって聴雨と号していた程であるから、世塵(せじん)を隔てた この山屋敷に来て、時々、月花の楽しみを求めたこともあろう。
文政7年(1824年)の秋、加賀の千代【1】と並び称された程の女流俳人である長府の
一字庵菊舎【2】が萩に来て、還暦の賀宴を開いたことがある。
【1】石川県・旧松任市(現・白山市)出身の俳人。
朝顔に つるべ取られて もらい水 の句で知られる。
【2】一字庵菊舎(いちじあん きくしゃ)、田上菊舎。16歳で村田利之助に嫁したが、24歳で死別し、29歳のとき萩の清光寺で剃髪。宇治の黄檗宗本山・万福寺を訪問時 山門を出れば 日本ぞ 茶摘うた、は、同寺の句碑にある。
一字庵菊舎の歌碑

その時、俳友の関係からでもあったことであろう。
この山荘に雅遊びを試み、樹々亭(じゅじゅてい)と名付けて、亭記を作っている。
その時の詠句(えいく)に
閑(しず)けさや
樹々(きぎ)にきかれよ 秋の雨
と、云うのがある。
この亭記によると、
『折々にふれては黄塵(こうじん)のいとなみをも かいやり、此の一間二間を建て添(そ)え、素(もと)より節倹を思われ、松木柱に草 葺(ふけ)るまでながら、月に華に心を盡され、月の半(なかば)は この庵に起伏して 静に生を養(やしな)わる』と云っているのを見れば、別荘と云うものの、松木柱の茅屋の簡素な様子が思いやられる。
しかし、その眺めとしては『朝日は唐人山の頂に臨(のぞ)み、月は指月(しづき)の西山に傾く、巴城(はぎ)の市(まち)は手に取るが如し』と、樹々亭の遠望の風景を形容している。
このように、この丘上に立てば萩の全景は足元に横たわり、阿武川が帯のように流れている。
指月(しづき)の城山は指さす間にそびえて、日本海の浜湾は曲がり巡り、遠く連なる沖の六島は、聖羅碁布(せいらきふ・*星空)のように波に漂っている。
これを望めば、自ずと気宇(きう)雄大に心神が伸長する。
しかも背後の東光寺山は翠峰高く連なり、大丈夫、とっ疋な不動の姿を示している。
あえて巴城(*はぎ)の勤王歌人・近藤 芳樹(よしき)は、この日本海の景色を
遠近(おちこち)の あい島見しま行かへり
かもめ妻よぶ浪の夕ぐれ と、詠んでいる。

あの(*杉七兵衛常徳の次男)吉田賢良は、樹々亭の風光に対し、
山 居
逃塵白屋傍空林。
塵(ちり)を逃(のが)る白屋(はくおく)(あばらや)空林に傍(そ)い、
花落満渓茅草深
花落ち、渓(けい)(たに)に満ち、茅草は深し、
日暮傍窓時嘱目
日暮、窓に傍(よ)り、時に嘱目(しょくもく)すれば、
牧童跨(牛賈)渡渓潯
牧童、(牛)に跨(またが)って渓潯(けいじん)(たにのほとり)を渡る。
秋日山居
秋老山々古木疎
秋は老い(深まり)、山々の古木は、疎(そ・まばら)である。
経霜楓葉錦難如
霜を経て楓葉、錦、および難し。
黄花既發東籬下
黄花(菊は)既(に)発す(咲いている)。東籬(とうり)(まがき・垣根)の下に。
眞是深林處士蘆
真(まこと)にこれは、処士(*民間の人)の蘆(草庵)。
と、賦している。

また、玉木文之進は、『冬夜山斎読書』と題し、
青燈照字夜方幽
青燈、字を照らして、夜まさに、幽なり(ひっそりとしている)。
霜氣侵肌慾襲(ちう)
霜気は、肌を侵し、(ちう)(単衣の絹)を襲わんと欲する。
知是前峰月将上
知る。これ、前峰(唐人山)の月、まさに上がらんとし、
一林棲鳥惚喧啾
一林の棲鳥(せいちょう)、喧啾す(けんしょう)(やかましく鳴く)。

杉 梅太郎は、
西野雨初霽 新秋地早涼
西野、初めて晴れ、新(しい)秋、地、早涼す。(いつもより早く涼しさが立つ)。
槐花方慾黄 柳葉自将黄
槐花(えんじゅの花)、まさに落ちんとし、柳葉、自ら黄色にならんとする。
前嶺生弧月 後江没夕陽
前嶺、前山に月が出、後江(後ろの海に)、夕日が落ちる。
清風吹送處 吟杖向林塘
清風、吹き送る處、林の堤をぶらぶら歩き、吟じる。
と、さすが、杉家一門の人々は、いずれも教養のあった侍である。
草庵の四季の風景が美しくよく詠まれ、風韻(ふういん)、実に掬(きく)するべきものが
ある。
[*前述のように以前、この別荘は、時の移り変わりで、村田右中(松陰の生母・瀧子の父)の持ち屋であったが、瀧子が嫁入り時に、松陰の父・杉百合之助が、これを買い取った。]
いまはこの樹々亭跡も、庭園式にあらたえられて小公園のような感がある。
当時の居宅は、もちろん、残っていないが、間取りや敷地を知らせるために礎石(きせき)を配して往時の建坪、その他を偲ぶのに十分である。
中央、小高い築山には、門人の侯爵・山縣有朋【1】の揮毫の「吉田松陰先生誕生地」の石碑があり、松陰先生産湯の井戸には、田中義一大将【2】の揮毫の小碑が立っている。
北側の山裾には先生一大の略歴を記した標札もある。
西側には松陰先生が幼時、兄弟と共に、椎の実を拾いつつ遊び興じられたと云う老椎がいまも昔を物語っている。
◇ 吉田松陰の追憶
これが、すなわち百合之助新夫婦の新家庭であった。
前にも云った様に、この樹々亭が丁度売物に出ていたので、瀧子が杉家に嫁すと云うので、
相当裕福であった父の村田 右中が娘、可愛さの親心から買い取り持参させたものである。
ここで松陰先生の兄弟などは、呱々(ここ)の声をあげられたもので、実に思い出の深い誕生地である。
したがって後年、松陰先生など兄弟は、この山屋敷の忍苦の生活などを思い出して、いろいろと感慨を述べておられる。
(*松陰先生の)兄の梅太郎は『夢帰故郷(*夢に故郷に帰る)』と題して
旅館秋衾夢。 分明到故郷。
旅館、秋衾(しゅうきん)の夢、分明(ぶんめい)(はっきり、の意)故郷に到る。
峰巒都若舊 儔侶巴多亡。
峰巒(ほうらん)(唐人山のこと)都(すべ)て 旧の若(如)し、儔侶(もうりょ)(故郷の意)巳(*すで)に多く亡(死)し、
門徑唯通鹿。 蓬萵欲歿墻。
門徑(もんけい)(*門前の小径)、唯、鹿に通じ、蓬萵(ほうこう)(丈の高いよもぎ)墻(かき)(*屋敷、庭など)を歿せんと欲する。
眠醒恍猶訝。 窓月影凄凉。
眠り醒(さ)め、恍(こう)(然)として なお訝(いぶかる)。窓月、陰、凄凉(せいりょう)(ものさびしきこと)たり。
と、云っている。

また、松陰先生は、(*江戸遊学の前の)かの九州西遊の際、嘉永3年10月25日、旅窓にあって幼児における山荘の読書のことなどを思い出されとものと見えて、「記夢」(夢を記すと題して、
一夜家兄と、巌君に侍し、書を講ず。
夜深くして業を止め 二程子(宗の学者、程明道と程伊川)の詩二首を読む。
兄と同臥して共に其の詩を誦し、巌君も亦(また)之に和す。
既にして眠に就く。
少(しばら)くして妹壽(とし)、文(ふみ)、弟敏(敏三郎)等群り至る。
紙二葉を携へ、一は巌君に呈し、一は吾れら兄弟に投ず。
其内には皆 程子の詩を録す。
巌君朗誦一過し、吾れら兄弟を呼び起して曰く(*云うには)『此の詩を誦(しょう)せよ』と、吾れら兄弟 且つ諾し 且 起き、紙を展(の)べて之を見るに亦 同じく其の詩を録す。
因(*よ)って聲を同じうして之に和す。
時に夕日 窓に在り。
夢醒(*さ)むれば 夜 已(*すで)に五更(*現在のおよそ午前四時。また、それを中心とする二時間。)
二詩 一も記(憶)する所なし 云々。
と、記しておられる。

よしや(*もしも)夢であったとしても松陰先生など兄弟が幼時における勉学、自修の様子が思い出される。
両親の膝下にあって慈愛に包まれつつ勉強されたその姿が目の前に浮かんで来る。父から勤王思想を打ち込まれる状況がはっきりと見えて来る。
例の母の瀧子も、さだめし共々に力を致したことであろう。
寅次郎よ、早く一人前になって、お上へ御奉公してくれよ、と念願したことであろう。
それに兄妹たちの仲のよい幼時の様子が偲(しの)ばれて、当時の山屋敷の様子が描き出されるような心地がする。
その後、安政元年秋、江戸から檻送されて野山獄に入(い)られた時にも
遠戌山東今始還 家庭消息雑胸間
遠く山東(相州警備のこと)を戌(まも)って今始めて還(か)へる。家庭の消息、胸間に雑(まじ)る。
獄中時誦阿兄句 神往韓人峰下山
獄中時に誦す、阿兄の句。神(心魂の、意)は往(ゆ)く、韓人峰下の山(樹々亭、を指す)
と、一詩を賦しておられる。
(*おそらく、)松本の実家の父母や兄妹たちを思い出して、深い思いに沈まれたのであろう。
親・兄の思いの至孝・吉田松陰が思いやられる。
さらに安政6年夏、最後の江戸獄中において8月4日の自分の誕生日に会された時にも、しみじみと親の大恩を思い返して熱涙を注いでおられる程で、この樹々亭は松陰先生、終世の思い出の場所であった。
◇ 杉家の山屋敷 樹々亭
いま当時における杉家屋敷の見取り図を示すと

(イ) 玄関3畳(松陰先生兄妹は、多くこの一室で共に遊ばれる)
(ロ)表座敷6畳(床・押し入れは別につく)
(ハ)隠居部屋3畳
(二)居間6畳
(ホ)台所
(へ)物置・納屋
(ト)厩舎(杉家においては馬を飼養しておられた。これは乗用ではなく稼耕の助けであった。杉の家風を偲ぶことが出来る)
もともと八谷 聴雨(やたがい ちょうう)自身が大身(たいしん)の侍でなかったのであるから、別荘とは云え山中閑居の仮屋に過ぎない。
玄関3畳と表座敷6畳で、それに台所、杉家になってから増築された隠居部屋と厩舎(うまや)と物置ぐらいのものである。
思えば、人里離れた松木柱に草葺きの山ヶ家。
表の間から外には天井さえも張ってないと云う樹々亭と云う一軒家。
しかしながら、背後には翠峰(すいほう)をめぐり老松の欝々たる東光寺山があり、前には御城・指月の天守閣が高々と聳(そび)えて、巴城(*はぎ)の三十六街が脚底に横たわっている。
沖には六連(むつれ)の島を隔てて遠く朝鮮をも望み、大陸踏破の壮図をも思わせるに足る大自然の静境である。
これが、すなわち百合之助と瀧子との新家庭の踏み出しであり、松陰先生など兄妹の誕生地である。
ああ、この樹々亭山荘が幕末維新に当たり、遂に神国の根幹となって回天偉業の発祥地となったことを思えば、今 世界新秩序建設の烽火の踏み出しも、敢(あ)えて豪壮栄華の街々の都人(とじん)のみであるとは云えないであろう。
むしろ、こうした野外田夫の至誠、熱血男子の奮起こそ、まさに望むや切なるものがある。
◆ 胎教の尊さ
◇ 杉家をめぐる雰囲気
松陰先生が、この樹々亭で生まれられた時(天保元年)は、父の百合之助は27歳、母の瀧子は24歳、叔父で養父である吉田大助は24歳、先生を一番よく訓育した終生の師とも云うべき叔父・玉木 文之進は21歳であった。
これらの人々は当時、大抵は杉家にまだ同居していた。
いずれも勤勉家であり、読書家であり、愛国家であり、勤王家であり、人格、徳行の優れた人たちのみであった。
しかも、一家一門の人々が いずれも年、若々しく生々発動の活気に満ちた和気藹々(わきあいあい)の中に松陰先生は生まれられ、また成長されたのである。
それに、この杉家に出入りする人たちも父・百合之助や叔父の門弟たちであって、いずれも読書愛国の志士のみであった。
したがって この杉家をめぐる雰囲気と云うものは元気溌剌、純情に充ち満ちていたのであった。
◇ 樹々亭の風光と魂への影響
この団子巌(だんごいわ)の地と云えば、前にも述べたように世塵を外にした清浄幽邃(せいじょう ゆうすい)の地であって、向いの吾妻山には軍神を祭る諏訪明神が手に取るように見えている。
また北の方、中之倉には里人の崇敬深い文神の人丸神社がある。
さらに樹々亭の地続きの北側には藩主の廟所である東光禅寺の壮大な幾棟かが、老松の間に浮かんでいるかのようにみえている。
しかも松陰先生が後年『忠臣の心を悲しみ、泫然、泣下す』と云っておられる。
鴻儒(*こうじゅ・儒教の大学者、転じて学問の深い人)にして直諫(*ちょっかん・*率直に いさめること)の士である山田 原欽(*げんきん・ 江戸時代前期の儒者)が藩主を諫めて、東光寺山内の豪壮な規模の縮小を計り、そのため自刃したと云う山門が、つい目の前に見えている。
樹々亭、萩三十六街を見下ろす高い所、幽静閑寂(ゆうせい かんじゃく)な一件家、白亜の城壁をめぐらす指月城の天守閣、白波寄せる菊ヶ浜、荒海に漂う沖の六連島、帯のように流れる城下の二つの川、軍神諏訪神社と文神人丸神社、忠臣諫死の東光禅寺(とうこうぜんじ)、さらに日本海をへだてて先生が夙(つと)に門生たちに日本の国防第一線を教え説いておられた朝鮮や満州、こう云った樹々亭四圍の山河、風物は勿論、先賢憂国志士の熱血、鉄心に刻まれた歴記の数々、母の瀧子が松陰先生など兄妹をお腹に宿した時に、これらの壮麗雄大な風光景物を朝な夕なに、心のゆくばかり眺め味わっていたことであろう。
この大自然の生々化育の神秘な偉大な力が、どうして母性の精神に影響を与えないと云うことがあり得ようか。
それのみならず、こうした文武の神を崇め、忠臣諫死の跡を忍んでは、母の胎内に宿る
先生の精神に神秘の影響を与えないと云うことがあり得ようか。
父は厳に、母は愛に、相、和して子女の教育に当たる。
松陰先生などの胎教や生後の感化訓育なども見るべきものがある。
この団子巌、樹々亭の地こそ、まさに地霊人傑とも云うべきところであろう。
後年、久坂玄瑞でさえも、先生の弟・敏三郎などを連れて よくこの団子巌に登り、城下を見下ろしつつ詩吟などをやって、大いに浩然の気を養ったものであると、今も語り伝えられている。
ああ浩然の気、地霊人傑、胎教の尊さをつくづく考えずにはいられない。
◇ 現代夫人への希望
(*この項、略します。)
◆ 脈々と打ち込む勤王思想
◇ 瀧子の夫・杉 百合之助
瀧子の夫、松陰先生の父、杉 百合之助常道は、読書好学、質素篤実な役人であって、勤倹力行 そのままの人であり、貧しき中にも学業については特に精励された人であったことは、すでに度々、云い尽くしたことである。
当時、藩士の風習として文学、兵法、礼式を悉(*ことごと)く専門家に学んだものであって、文学を仲輿 一左衛門、有吉 十之充に、書道を粟屋 左衛門に、兵法を吉田 大助(弟ではあるが吉田家が兵学支藩である故である)に、剣道を北川 弁蔵に、槍術を園部 右内に、礼法を緒方 十郎左衛門に学んだ文武両道の人であった。
字は伯愈(はくゆ)、業は恬斎(てんさい)と云い、文化元年10月23日、城下川島の荘に生まれた者である。
しかも性来、謹厳清廉(きんげんせいれん)の武士であった、ことに敬神の念が厚く、毎朝、早起きして清水を汲み、先祖の心霊に備えて礼拝し、さらに西の御城に向かって君公を拝し、また東天、遥かに天朝を拝する柏手がいつも後ろの森に響き渡り、もし病気でもすれば、妻の瀧子が必ず夫に代ってその用を務めると云った朝の杉家は、その敬虔厳粛な柏手によって明けて行ったと云われている。
杉家では毎年、2,3回、毛利氏の祖先が祀ってある仰徳社や、藩主の御墓のある東光寺は勿論、大照院や、あるいは氏神の椿八幡宮に参拝するのを年中の大事な行事とされていた。
その日には、百合之助は前夜より参詣着物その他一切の所持品に至るまで、その心構えをして取り揃えて置き、爽味(そうまい)のうちに起き出で、沐浴斎戒(もくよくさいかい)をして心身を浄(きよ)めると云った敬虔(けいけん)さであった。
そして参拝の途中、人に逢っても言葉を交えない、交えば既に身が汚れると云った清浄ぶりであった。
当時、徳川治世、太平の夢濃やかな秋(とき)であったから、士風は萎微(いび)し、世俗は華奢(きゃしゃ)に流れ、皇室の尊厳など考える者はなかった。
したがって大義を論じ、名分を説き、気節を尊ぶなどと云うことは、さらに その跡もなかったのであった。
百合之助は、この皇室の御衰微(ごすいび)、士風の廃頽(はいたい)を常に慨嘆し、発憤講読、ますます勤倹力行と共に日夜、精進、砥励(しれい)したのである。
◇ 烈々たる家庭教育
百合之助は、この烈々として燃えるように勤王思想と気節大義の武士道精神とをもって、松陰先兄弟の幼時の心底に力強く打ち込んだものである。
そして、主として その教材としたものは『文政十年の御布令』と『神国由来』と云う本とであった。
文政十年の詔(御布令)

仁孝天皇が時の将軍 家斉の功を録せられ、文政10年2月、太政大臣に任じ給いし際に下された詔書である。
江戸時代の将軍中、空前の恩命と栄誉を辱くした、と云うべきである。
然るに家斉は、これを坐ながらにして受け、密かに世臣を遣わして御礼を言上せしめたのみである。
それによって一面、東寺の将軍家の権勢が如何に強かったかを知り得ると共に、他面において皇室の式微を窺うことも出来る。
松陰の父・杉 百合之助は、他の多くの士民が前者を感じて将軍家のために祝福したのと異り、後者において我が国家のために悲しみ、したがって、また将軍不臣の態度を憤(*いきどお)ったのである
ここに掲げた詔書の写は、後年、百合之助が松陰兄弟のために書き与えたもので、松陰の勤王精神は已(*すで)にここに胚胎(*はいたい)したと云ってもよいであろう。
「奉別家大人」の詩中に「耳存文政十年詔」とあるのが、その間の消息を物語るものである。
(「吉田松陰全集」全12巻 (1936)第10巻の口絵の写真および説明文より)
これによって、わが尊き国士の講話をして、幼時の脳裏に強く忠君愛国の国体観念を植え付けたものである。
その他には、水戸・会沢 安(あいざわ やすし)(正志斎)の新論や、頼山陽、菅茶山などの詠史を始め、毛利氏に関する詩文などであって、とりわけ、(*頼)山陽の『日本外史』又は『楠公墓下之詩』などであった。
これは忠孝を磨励(まれい)し節義を鼓舞すると云う目的であって、当時の普通学と云うべき四書五経よりも、むしろ、こうした国体観念の注入に主力を致して修養の骨子としたのであった。
この文政十年の御布令と云うのは、文政10年2月、仁孝天皇が徳川将軍家斉を太政大臣に任じ給うた詔書である。
闘士、将軍家斉は豪然と江戸に構え、居ながらこの優詔を拝し、自ら入朝して親しく奉謝(ほうしゃ)せず、その無礼なる態度は神人共に許すべからざるものであった。
百合之助は、いたくこれを憤慨し、沐浴(もくよく)して衣を更え、遥かに京師(*京都)を伏拝し涕泣(ていきゅう)して『皇室の式微(しきび)、かくまでであるか。武臣の跋扈(ばっこ)、何たる無礼ではある。一天萬乗(いってんばんじょう)の御君も将軍への御機兼ね故、遂に事、茲(ここ)にまで至れるか。』と、声涙(せいるい)に咽(むせ)
んだと云うことである。
『神国由来』と云う書物は、徳島藩の儒者で、後に加茂神社の神官となった玉田 永教
(たまだ ながのり)なる者が表したものであって『吾が国は尊き神の国であって、今日 神の国に生まれ、神の衣服を着し、神の五穀を食い、神の家に居て、神の恩を報じ奉ることを知らざる者は実に人面獣心なり云々』とある。
わが国体と臣道とを明徴せるものである『楠公墓下之詩(なんこうぼかのし)とは、頼 山陽が、寛政9年3月、当時18歳で叔父・杏坪に従い、江戸の向かう途次、摂津湊川・楠氏の墓に詣で、かの『想見す兒に訣(わか)れ 弟を呼び 此に戦う、刀折れ 矢 盡き 臣事(しんじ)は畢(お)わる。北向 再拝すれば天日陰(くも)る。七たび人間に生まれて此の賊を滅さん。碧血痕 化す五百歳。茫々たる春蕪(しゅんぶ)大麦よりも長し云々』と云った有名な詩である。
◇ 厳父の指導と慈母の愛育
このようにして、父・百合之助は幼時の感受性の強い脳裡に七生滅賊、殉国大義の大精神を注入したのであって、これらの家庭教育があの烈々熱火のような松陰先生の殉国精神を築き上げたものである。
なので、松陰先生が安政6年5月、江戸死獄に赴かれる時、野山獄中より『奉別家大人』と題して、
[*平素趨庭違訓誨。~ 以降、(口語訳、以上。)までが、
「歴史の流れ 吉田松陰の母 を読む2 」と全く同文のため、略します。]
この時、百合之助は、今度こそは平生の持論を述べて、決して卑怯(ひきょう)なことがあってはならぬ、と励ましている。
この巌と愛との公共教育が、あの偉大なる松陰先生を完成した所以である。
さて、これらの関係を文献の表面上から見れば、父と松陰先生兄弟との関係のみとなる。
しかし、苟(*いやしく)も人の家庭であるのに少し深く立ち入って考えるとよい。
形式的に見れば、父たるものは外的であり動的である。
母たるものは内的であり静的である。
内的に見れば父は厳であり、指導的である。
母は愛であり、完成的である。
その父母の厳と愛との合作が家庭児を完成して行く。
むしろ子供の幼時は、母性の手引きにすべてがあると云ってもよい。
そうすれば松陰先生と云う殉国・大偉人の裏面に母・瀧子の感化訓育の内的補助の力を忘れてはならない。
厳に打ち込む父の精神を母の自愛で和やかに植え付けて行く。
その母親の苦心、心遣いは並、大抵のことではあるまい。
ことに愛に対する感受性の強い子供の精神には、むしろ、こうした母親の内的側面力の方が、よい以上の根強き感化を与えるものである。
あの日本精神の権化、殉国、殉道、殉義の吉田松陰先生を作り上げたことについて、日本婦人の典型である母の瀧子の存在を決して忘れてはならないのである。
実際、瀧子は父のこうした指導感化を裏から助成して行った世にも稀なる賢母である。
◆ 伝統的 杉家の家風
◇ 読書家の祖父・杉 七兵衛
杉家の伝統的な家風は質素勤勉と読書好学の二つに尽きている。
そして、それが源をなすものは敬神崇祖と勤王五穀との伝統的精神であった。
松陰の祖父・七兵衛が江戸詰め在勤(一説には京・大阪詰めなりとも云う)を命じられた時は、その子の百合之介は6歳であった。
留守宅を守る母親の手一つで百合之介は愛育されたのであった。
この七兵衛は大の読書家であって、三度の食事よりも読書が一番好きであった。
そうであるから、あの貧しい不自由勝ちの中からで、書籍だけは多数、蔵していたのである。
元来、杉家と吉田家とは絶えず重縁関係を結んで来ている。
この吉田家は山鹿流兵学師範であって、云わば 学者畑の家であった。
七兵衛時代の吉田家の虎(とら)(吉田家 第六代矩達の弟)のように後に香取家を継いで春平と云ったが、松陰先生のでさえも、この人に対しては、『文才秀逸、議論英発、敢えて人に屈せず。』と云って賞嘆(しょうたん)されている。
その父・又五郎矩定(吉田家五代)には『御陣制度(ごじんせいど)』と云う著書もある。
こうした学者揃いの関係などが、余程、杉家の方にも影響を与えていることであろう。
このような訳で七兵衛が10年余りの江戸在勤を済まして、国許の子供が幼少ながらも、よく留守居をして、母の手伝いをしていたと云う御褒美(ごほうび)として、土産に与えたものは『論語集註(ろんごしゅうちゅう)』と新版の書籍とであった。
百合之介は、この書物を押し戴いて永く座右に供え、いつも親の自愛を感謝しつつ勉学したものであった。
後に至って「この時ほど嬉しかったことはなかった。」と述懐しているのである。
しかし、杉家のこうした書籍も川島の大火で灰燼に帰し、松本に来られた時には、見る影もない悲惨な有様であった。
そこで、松本の蔵書家と云われた瀬能 正路(松門)の蔵書を多く借覧(しゃくらん)されていたが、松陰仙時代においても また同様であった。
なお、この七兵衛の妻女(さいじょ)は、岸田 右衛門治道の娘であって、余程、温順な、しかも堅忍の貴婦人であった。
他人の善し悪しなどは決して口外(こうがい)したことがない。
微碌であるから、昼は夫の農耕を助け、夜は縄を綯(な)い草履を作り、それによって得た金子(きんす)を全て子女の筆紙などの費用に充てると云った状態であった。
夫・七兵衛、在勤10余年間のように、長男・百合之助と共に数人の弟妹などの世話をみながら勤倹教育は、実は杉家伝統の家風であった。
◇ 半士半農の生活
当時、萩藩の小禄武士は、いずれも半士半農であって、その農耕によって生計のゆとりをつける他はなかった。
したがって百合之助の家庭も この方面に相当忙しかったことは、前にも度々云った通りである。
如何に読書が好きだと云っても、自分のみ静かに机に向かって読書することは、なかなか許されない。
それに百合之助夫婦は子女の教育と云うことには特に意を用いていた。
さりとて、子供達の勉学をゆっくり見て教え導くと云う余暇はなかった。
そこで兄の梅太郎や松陰先生を連れて、朝間仕事に後ろの山に芝刈りに行き、あるいは昼間、家の附近にある畑に出て農耕の間に、又は夜分、米つきや藁(わら)仕事の合間、合間に、田の畔(あぜ)に腰をかけ、あるいは柴草の上で、四書や五経を教えたものである。
所謂(いわゆる)、親子共に『心思、常に書を離れず』と云った程の勢力を注いだものである。
今、松下村塾に残っている台柄(米つき台のこと)は、勉強の工夫のように(米をつく時、台柄の上に棚を作り、その上に木を乗せ、互いに向き合って米をつきつつ読書、講学を聞く)松陰先生が門弟と共に米をつき、講学されたものとして有名になっているが、実は、この百合之助の工夫、創始になるのであって、これを松陰先生が踏襲されたものである。
安政5年6月、久坂玄瑞に与えられた書簡の中に、
此の節 大暑中に候得共 志 壮なり、隔日 左伝八家会読、勿論 塾中 常居(じょうきょ)、七つ過ぎ会読終わる、夫(それ)より畠 又は米春 輿 在熟生 同之、米春(こめつき)大いに其 妙を得、大抵 両三人同じく上り、会読しながら之を春(つ)く、史記など24、5葉読む間に米つき畢(おわ)る、亦(また)一快(かい)なり。
と、云っておられる。
当時の様子の一斑を知ることが出来る。
そして百合之助は松陰先生兄弟に対して常に『話をするな、話をする暇があれば本を読め、話は尽きるが書物は尽きるものではない、本を読め 勉強せよ。』と云って、励まし、松陰先生兄弟は、この田圃(たんぼ)の教えで四書五経は暗記されるに至ったのであって、云わば、この大自然に包まれた田畑山野が松陰先生兄弟の教室であり、又、人生修養の大道場でもあった。
そしてここが後年の所謂(いわゆる)『神国の幹』の芽生えが出来た所である。
◇ 勤労教育 唯一の補助者
こうした百合之助の勤労と子女の教育とに対する片腕であり、補助者であり、蔭(かげ)の力持ちは云うまでもなく母親の瀧子であった。
後年、松陰先生が野山獄中より妹・千代に与えられた書翰の中に
昔 山宅(樹々亭)にて父様 母様の昼夜 御苦労なされた事を話して聞かせても、真(まこと)とは思わぬ程なれば、杉の家も危い(中略) 父母様の御苦労を知っているものは、兄弟にても そもじ までじゃ云々。
と、子孫の安逸を戒めておられるのをみても、どんなに父母の労苦が、あの感受性の強い少年時代の松陰先生など兄妹の心中に深い感激を残しているかが知られると共に、母性愛の辛苦の生活を よくその中に物語っている。
さて世の中の人々は皆、一人前の大人になった暁、自分独りで自然に大きくなって来たかのように思うのが世の常である。
しかし自分独りで楽に育って来たものは世間広しと云えども唯の一人もあるものではない。
親のこうした辛苦の中に育てられて一人前となったその大恩を忘れては神佛に相すまぬわけである。
朝な夕な、父母の慈愛の恵みに感恩、感謝しつつ、ただ その至らないことを懼(おそ)れて合掌九拝、両親への紅葉にあらん限りを尽くすべきであろう
この両親への孝養の二文字の中に、人間のすべてが包まれていることを忘れてはならない。
孝は百行の基(もとい)と云われている古言を今さらながら静かに考えたいものである。
◆ その日、その日の山屋敷
◇ 静かな楽しい生活
八谷(*聴雨)所有の当時の山宅は、ほんとの小さな草庵であった。
杉家の手に入ってからは、人数も増える、親戚からの合住居もあると云った調子で、一間建て添えて20畳敷近い家となり、新たに納屋と厩(うまや)とか出来上がったのである。
西向きの3畳の玄関、それが松陰先生兄弟の勉強部屋であった。
窓からはるかに指月の御城が目に入って来る。
日本かいの白波が山裾まで打ち寄せくるかのようである。
互いに雑談一つ交えることもなく、ただ静かに読書、勉学に余念がない。
母の瀧子が時々覗いて、その勉強ぶりを褒めつつ「しっかり、おやりなさい。」と励ますくらいのものであった。
父が野良仕事をすませて、いつものように好きな勤王気節の詩などを朗誦しつつ帰って来る。
その声が風のまにまに窓から入って来る。
松陰先生などは時々、読書を止めて、声高に、これに誦和して心気を養える。
叔父の玉木 文之進が「また兄さんの詩吟が始まった。」と云うと、母の瀧子が微笑をもらすと云った、まことに和やかな光景であった。
◇ 兄妹の親睦と母の愛情
また、松陰先生など兄弟の仲が睦まじかったことは、こうした人里離れた外との交わりを絶った山家のことでもあったから、遊び友達もなく自然にそうなったことでもあろうが、外の見る目も実に羨(うらや)ましいばかりであった。
この兄弟には兄弟喧嘩と云うものが一つもなかった。
共に読み、共に手習いをして、同じ布団にン手、母がお膳を運ぶと茶碗を移して一つの箱膳の上で、兄の梅太郎と頭を突き寄せて三度の食事を共にすることを唯一の楽しみとしていた。
一つの椀の飯を分けて食べ、一皿の菜も共に味わうと云った調子であった。
これは、後年、妹・千代子の懐旧談の一節であった。
そして時には、この千代子と共に庭の隅の椎の実を拾ったり、あるいは裏の山に松茸取りに云ったりする。
母の瀧子は子供が帰るのを待って、これを夕食のお菜にする。
ほんとに心の底から楽しく仲良く育てられたものである。
その日、その日をいかにも暖かい母の愛情に抱かれつつ、平和に暮らしていた、その家庭の雰囲気が想いやられる。
瀧子が後になって、
寅次郎は小さい時から親思いで、父母に心配をかえたり、気を揉ませるといったようなことはなかった。
母が着物を作ってやっても着替えさせようと云うまでは何時までも黙って古い着物を着ていた寅次郎は、何一つ小言の云い様がない、極(ご)く手のかからない子供であった。
と、云っている。
子供も子供ながら、母の瀧子の愛情が思いやられて実にゆかしい、慕わしい心地がする。
◇ 家を取り締る瀧子の訓育
時には、父の百合之助は飼い馬を曳(ひ)いて兄の梅太郎と先生とを伴(つ)れ、半道ばかりの山奥である田床(たとこ)(樹々亭の背後の東光寺山の裏)と云う所に朝飯前に草刈りに行くこともあった。
その留守中に母の瀧子は娘の千代子を相手に飯を焚く。
日中は炊事の傍ら、せんたくや家中の始末などに相当、忙しかったようである。
夕刻にもなれば、野良から帰る夫を迎える夕餉(ゆうげ)の準備や風呂焚き、厩の掃除までもする。
さらに夜仕事の用意までも準備する。
そして、夜分に閑(ひま)でもあれば、薄暗い行灯の側で、子供を膝下に寄せて、名将伝記や心学本などの話を聞かせてやるのが、お定まりになっていたのである。
男の子は日夜、勉学する、女の子の千代は、母の手伝いをする。
実際、この千代は幼少の頃から、よく台所のこと、洗濯のことなど、何くれとなく母の片腕となって、多人数の家庭のことに心を砕いたものである。
あの天保14年の藩政大改革の際、清廉な父・百合之助は、今の警察署長のような役人に抜擢されたが、重要な勤務の都合上、千代と仲間一人を連れてお城近くの江向・片野 又兵衛の宅表に出宿仮寓したことは、前にも述べた通りであった。
千代子は父の身の回りの世話から家事一切を引き受けて、毎日、父と仲間の弁当までも揃えると云ったように、まことにまめやかに働いていた。
それが彼女の13歳頃のことである。
この小娘に、これほどの経験自身がすでに出来ていたのも、これは全く瀧子の教養の仕込みによるものであった。
また千代子は家事の手伝いがすくと、山宅の母がどんなに忙しく骨を折っているであろうかと思って、夜も、ろくろく眠られなかったと云っている。
また、その頃、玉木の塾に通っていた兄達二人をなつかしく思い出しているようなこともよくあった。
こうした千代子の躾(*しつけ)の仕込みや、兄妹の深い情愛も、もとをただせば皆々、母の瀧子の熱心な愛の訓育の賜物(たまもの)であった。
どうしても、しっかりした家庭は母親の力に待たねばならない。
一家の和楽は、どうしても母親の愛の導きによらねばならない。
本当に母親は一家の大黒柱である。
◆ 家庭における瀧子の心使い
◇ 家庭の主婦としての心労
瀧子は士分とは云いながらも全く農業生活の夫を助けて、朝は星影の残る頃から田畑に出て野良仕事に従い、夕べは夜露を踏んで帰って来る。
毎晩のように夜仕事を更けて行く。
時には自分から馬さえも使って手伝ったとさえ云われている。
実に並大抵の苦労ではなかったようである。
それに姑(しゅうと)とその妹の岸田氏との二人の老人に孝養を尽くしながら、専念、子女の教育に心を砕きつつ家庭を治めていった。
その辛苦、この忍耐は、非常時、日本の婦人にはぜひ、味わせたいところである。
(*本書の昭和16年頃の社会情勢を反映している。)
夫の仕事を助けつつ3人の子女の教育に当たる。
その事自体が、すでに普通の主婦には相当の重荷である。
それに5歳の長男・梅太郎、3歳の次男・寅次郎、当歳の乳飲み子・千代子を連れ、これらの幼児を抱きつつ、日夜、姑に仕えて心からなる孝養を尽くし、さらに姑の妹・岸田氏の家族3人までも引き受け迎えて、家の一間に合住居(あいすまい)をさせ、相当、長年の間、何らの不満不平も口にせず平和にくらして行った瀧子ほど、同情心もあい、慈悲心もあり、忍耐力もある賢夫人は、またと世にはあるまい。
ことに岸田氏は病身で身体の自由がきかないので、瀧子は2軒分の衣食の世話と病人の看護につとめ、毎日のように、その浮上のものの始末・世話までもして心からの介抱に骨身を惜しまず、最後を安らかに送らせたのである。
姑も病人も、いつもその誠心、忠実さに感謝して『ありがたい、ありがたい。』と泣いて朝夕感謝し、世間の人々もこれを聞いて、皆々、涙をながした、とのことであった。
◇ 夫・百合之助の理解と同情
また瀧子の姉・大藤氏(おおとうし)が萩在住の紫幅村(しぶきむら)で寡婦(かふ)となり、娘と二人で細々と暮らしていたが、不幸にも親子共に伝染病に罹(かか)ったので、これを駕籠(かご)で迎えて手厚く養生させるなど、貧苦の間にも一族縁者の窮迫(きゅうはく)には、喜び勇んで力を尽くしたのであった。
こうした瀧子の心使いもさることながら、夫・百合之助の同情、理解がなくては、なかなか一家が平和に行くものではない。
思えば百合之助夫婦は実に世の家庭の亀鑑(きかん・*お手本)とも云うべき人々であった。
その上、この頃は夫の仲の弟で吉田家を嗣いだ大助も、末の弟で玉木家を嗣いだ文之進も、相当長く、この20畳敷ぐらいの山宅に同居して、兄嫁・瀧子と共に睦まじく暮らしていたのであった。
この家庭の様子を朝夕、見ていた あの厳格にして容易に人を褒めない玉木 文之進でさえも、のちになって、『昔の女丈夫と云うのは、杉の姉のような女を云ったものであろう。』
と嘆賞していたと云われる程であって、これだけでも瀧子の苦労が思いやられる。
実際、瀧子は余程辛抱力の強い、意志の堅固な女性であった。
どんな苦労も心痛も深く心の奥底にひそめて、夫のため、子供のため、家のために、喜び勇んで立ち働いた賢婦人であった。
しかも一家、一門の繁栄にと、日夜、骨身を砕いて、あらん限りの誠心、努力を続けた女丈夫であった。
◆ 瀧子夫婦と子供達の生活
◇ 貧苦の中に養われた殉国精神
吉田 庫三氏(松陰先生の妹・兒玉 千代子の男、吉田家の後継)の述懐談によると、
夙(つと)に勤王の志を起こすような教育を受けたものでありますから、この二人の子供(兄・梅太郎と松陰先生)の遊び方なぞも、よその子供のとは違って、ある時は、土を固めて建築の模型を作って、これが信長が御所の修繕をするのであるとか、あるいは、木を切って武器を拵(こしら)えて、これは楠公が千早の城による時、こう云う武器を持っていたのであるとか、云うようなことをしていたそうであります。
また娘の千代(芳子)は幼少であったが、二人の兄と共に父に従って、朝早く起きて飯を炊き、釜を洗いなどして、艱難の勤をしたと云うことであります。
何しろ貧乏でありましたが、この貧乏であったことが、松陰の生い立ちに大変な関係がある事柄であります。
こうした子供の遊び方に対し、母親をしては世話や指導こそすれ、無関心でいれる筈がない。
母の瀧子が、あそこが悪い、ここがいけない、これでよい、などと御所の土塀の作り方などを教えたことであろう。
冬の夜長には楠公・千早の城の絵本などを取り出して、いろいろと話しきかせたことでもあろう。
木を切って型を作ると云えば、包丁をだしてやって、傷(けが)せぬようにと、注意も与えたことであろう。
こうしたことは、到底、父親には出来ないことである。
樹々亭の庭先で二人の子供の遊び仲間になって、育てていった母の瀧子の子守姿が目前にちらついて来るようである。
◇ 尊き母性の慈愛
瀧子も、これをこの上ない楽しみとして、わが子が一日も早く成人して、一家のため、はたまた お国のために御奉公してくれかし、と念願しつつ共に打ち興じたことであろう。
本当に母子、一心一体、樹々亭の山屋敷の幾春秋を楽しく迎え、また送ったことであろう。
母の心が子供の心に宿らないでなんとしよう。
母の慈愛が子供の心の奥底に、培(つちか)われないでなんとしよう。
子を思う親の誠心(まごころ)が透徹(とうてつ)しないことはない。
松陰先生の心がいつも母の心に動いていて、時には思い出の袖の露となり、時には喜びの涙の種ともなり、時には御所の型の憂国の悲憤とのなり、時には千早の城の慷慨(こうがい)悲歌ともなり、遂にあの最後の『親思う心』の歌となり、また『独り厳君(げんくん)を慰むる』の詩ともなり、心ともなったものである。
(*以降は、本書刊行時の時代背景を理解すべきである。)
ああ、時こそ移れ80有余年後の、今の日支事変にあって、職場の第一線の勇士が傷つき倒れんとするその刹那に、我を忘れて地に叫ぶ雄々しき最後の一声は『天皇陛下万歳』であって、次に来るものは、その故郷に残せし慈愛の母よ、母よとかすれ行く叫びであるとは、第一線からの悲しき放送の便りである。
君国に一身を捧げて国難に殉じ行く、あの崇高壮麗な勇士の心の最後の魂の宿りは、やはり尊き この母性の愛であった。
ああ、母の慈愛、母の信念、これが職場におけるすべての勇士の魂をつくるのである。
◇ 厳しい父の心と優しい母の心
松陰先生の妹・後の兒玉芳子刀自の懐旧談の一節に、
松陰の年少の頃、実父、又は叔父(玉木氏)の許にて書を学ぶに、実父も叔父も極めて厳格なる人なりしかば、三尺の童子に対するものとは思われざること屡々(しばしば)なりし、と。
母(瀧子)の如き側(そば)に在りて流石(さすが)に女心に之(*これ)を見るに忍ばず、早く坐(ざ)を退けば、かかる憂き目に遇(*あ)わざるものを、何故 寅次郎は躊躇するやと、はがゆく思いし、とか。
かく松陰は極めて従順にして、ただ ただ命のままに是(こ)れ従い、唯(た)だ その及ばざらんを恐れたり。
されど外柔なる松陰は 内はなかなか剛(ごう)なりき。
少年の時より心がアンパク(腕白)なりし故、斯(か)かる大胆の事(国禁を犯しての下田事件なるべし)を企てしなれと、後に至り松陰の幼時を知るもの語り合いたり云々。
この談話は松陰先生の幼時の教育状況を知ることが出来ると共に、当時における父親と母親との心構えや導き方がよく解って来る。
子に対する親心の真実は同じであっても、厳と愛との親の心の両面がよく解って来る。
厳と構えて少しも許さない父の態度、子供の心の奥底に透(とお)れとばかりの威力が光っている。
側(そば)の母親には、こうした父親の厳然たる心の慈愛は解ってはいるが、さすがに母親だけあって可愛さの情にもつれて行く。
時には子供に代って父親の振り上げた手に打たれて泣かん、とも思ったことであろう。
父親の威厳に打ち伏せられんとする子供が、こうした母親の庇護の慈愛に引き寄せられないでなんとしよう。
お母さまと呼びたて飛びつき行ったことであろう。
少年・寅次郎にもこうした場面はあったようである。
この父親の厳(げん)と母親の愛との両心が交響、合作して少年・寅次郎を完成し、遂にあの勤王殉国、熱血児・吉田松陰を築き上げたのであって、『はがゆく思った』母の瀧子の心を忘れてはならぬところである。
ここに母性愛の神秘な尊厳さがあり、ここに子供が終生忘れ得ぬ母の慈愛のささやきがある。
◇ 杉家で催された因会(ちなみかい)
吉田松陰が妹・千代に出した書簡の中に、月々の御因み會(おんちなみかい)も引きつづき有之様子(*これありの様子) けつこうの御事に存(じ)候。と云う文句がある。
元来、百合之助は平素から家庭の教育、親戚の和合と云うことについては、余程、心を注いでいたようである。
その士官した後は、毎月1回、必ず親戚の因会(*ちなみかい)と云うものを催して、一同を杉家に集め、互いに会食、談笑したものであって、云わば、この因会は杉家一門の親睦会えあり、また修養会でもあった。
そして、松陰が家庭にいられる時には、女子には女子、男子には男子に関する
書物の講義をされたものであって、女子には女誠や烈女伝などの話をして聞かされていたようである。
たとえ先生がいられない時でも、父の百合之助、叔父の玉木 文之進、兄の梅太郎、妹婿の小田村 伊之助(*楫取 素彦)、親戚の久保五郎左衛門などがいずれも学者で、徳行家なので、その都度、誰がやっても、皆、有益な修養の会であったことであろう。
安政3年(*1856年)に松陰先生から小田村(*楫取)に与えられた手紙の中に、近日、例の婦人會の節、武家女鏡を談申候。と報じていられる。
例の婦人會とは、この因会のことであろう。
これに対し、当時、相模の警衛に行っていた小田村からは、
支那の宗の時代に、家樹(かじゅ)の會と云うものがあって、萩の婦人會によく似通うている。
これは家庭の眞の和楽(わらく)の基となるものである。
これから婦人會を家樹会(かじゅかい)と云って、兒玉の千代さんを会長に推し、みんなの指図をして頂いたら誠に結構なことであろう。
会毎に武家女鏡御講義の由、あなた(松陰先生)の御教(え)が私共の一族一門に及ぶのは実に有難い。
私が江戸にいた時に烈婦伝を借りて読んで感じたことがあったが、安積艮斎(あさか ごんさい)も婦人伝と云うものを書かれた。
それを写して置いたから、武家女鏡(ぶけじょかん)の次には、これを講義して頂きたい。と、返事を寄越している。
(*この事から、)因会の様子がよく分かる共に武門の子女教育の状況も知られる。
こうして、あの幕末風雲に馳駆(ちく・*あれこれと力を尽くすこと)した勤王烈士の背後に烈女の育成の努力があったことを忘れてはいけない。
(*以降、本書刊行時の時代背景をチェックすべきである。)
昭和維新の現代においても新体制下における常会あたりが、じっくり、こうした女子の修養の方面に、今、少し真摯な努力をはらうべきものではあるまいか。(*ここまで)
そもそもこの因会は、百合之助の発意であり、その講師は松陰先生であり、その世話人は千代子であったとしても、これらの背後の隠れた総世話人こそ母の瀧子であったことは云うまでもない。
今日は因会 ―― 壽子も来る、末の文子も来る、親戚のあれも来る、是も来る、庭の掃除にしなければなるまい、家内の取り片付けもしなければならない、食事の用意も整えなければならない。
こうした家中の万事万端は、母の瀧子の心使いであり心尽くしでもあった。
このように母の瀧子は常に因会の中心人物であり、総世話係であった。
そしてこの因会が杉家一門の人々の心の固(かた)めであった。
―――――
吉田松陰 木像(京都帝国大学蔵)
原像は疋田 雪舟作の木像であって、京都帝国大構内尊攘堂の祭典の時(毎年10月27日)は、祭壇に安置せられるものである。
この像は門人 品川 弥二郎が、先師追慕の餘り、明治35年夏 作らしめたもので、当時はなお故人の風貌を知れる人々が生存していたから、其等の人々の批評を求めて苦心の結果成ったのである という。
松陰の零骨気魄は かくもありしか と想わしめられる傑作である。
(「吉田松陰全集」全12巻 (1936)第2巻の口絵・説明文より)

次回、吉田松陰の母 を読む3 に続きます。
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/490185018.html
◆ 思い出多き樹々亭 山屋敷
◇八谷聴雨(やたがい ちょうう)の山荘
百合之助の新家庭、樹々亭とは、どんな所であったのだろうか。
八谷聴雨(やたがい ちょうう)の祖先の墓が東光寺の山内にあった。
聴雨は、折々、墓参りに来ては、この清閑で幽邃(ゆうすい)、清浄な山裾に立って巴城(*萩)の風景を眺め、幽静、枯淡(こたん)の心を養ったもののようである。
元来、この聴雨(ちょうう)は風流を好み、俳句をよくし、東都正門の道元居(どうげんきょ)の門人となって聴雨と号していた程であるから、世塵(せじん)を隔てた この山屋敷に来て、時々、月花の楽しみを求めたこともあろう。
文政7年(1824年)の秋、加賀の千代【1】と並び称された程の女流俳人である長府の
一字庵菊舎【2】が萩に来て、還暦の賀宴を開いたことがある。
【1】石川県・旧松任市(現・白山市)出身の俳人。
朝顔に つるべ取られて もらい水 の句で知られる。
【2】一字庵菊舎(いちじあん きくしゃ)、田上菊舎。16歳で村田利之助に嫁したが、24歳で死別し、29歳のとき萩の清光寺で剃髪。宇治の黄檗宗本山・万福寺を訪問時 山門を出れば 日本ぞ 茶摘うた、は、同寺の句碑にある。
一字庵菊舎の歌碑
その時、俳友の関係からでもあったことであろう。
この山荘に雅遊びを試み、樹々亭(じゅじゅてい)と名付けて、亭記を作っている。
その時の詠句(えいく)に
閑(しず)けさや
樹々(きぎ)にきかれよ 秋の雨
と、云うのがある。
この亭記によると、
『折々にふれては黄塵(こうじん)のいとなみをも かいやり、此の一間二間を建て添(そ)え、素(もと)より節倹を思われ、松木柱に草 葺(ふけ)るまでながら、月に華に心を盡され、月の半(なかば)は この庵に起伏して 静に生を養(やしな)わる』と云っているのを見れば、別荘と云うものの、松木柱の茅屋の簡素な様子が思いやられる。
しかし、その眺めとしては『朝日は唐人山の頂に臨(のぞ)み、月は指月(しづき)の西山に傾く、巴城(はぎ)の市(まち)は手に取るが如し』と、樹々亭の遠望の風景を形容している。
このように、この丘上に立てば萩の全景は足元に横たわり、阿武川が帯のように流れている。
指月(しづき)の城山は指さす間にそびえて、日本海の浜湾は曲がり巡り、遠く連なる沖の六島は、聖羅碁布(せいらきふ・*星空)のように波に漂っている。
これを望めば、自ずと気宇(きう)雄大に心神が伸長する。
しかも背後の東光寺山は翠峰高く連なり、大丈夫、とっ疋な不動の姿を示している。
あえて巴城(*はぎ)の勤王歌人・近藤 芳樹(よしき)は、この日本海の景色を
遠近(おちこち)の あい島見しま行かへり
かもめ妻よぶ浪の夕ぐれ と、詠んでいる。
あの(*杉七兵衛常徳の次男)吉田賢良は、樹々亭の風光に対し、
山 居
逃塵白屋傍空林。
塵(ちり)を逃(のが)る白屋(はくおく)(あばらや)空林に傍(そ)い、
花落満渓茅草深
花落ち、渓(けい)(たに)に満ち、茅草は深し、
日暮傍窓時嘱目
日暮、窓に傍(よ)り、時に嘱目(しょくもく)すれば、
牧童跨(牛賈)渡渓潯
牧童、(牛)に跨(またが)って渓潯(けいじん)(たにのほとり)を渡る。
秋日山居
秋老山々古木疎
秋は老い(深まり)、山々の古木は、疎(そ・まばら)である。
経霜楓葉錦難如
霜を経て楓葉、錦、および難し。
黄花既發東籬下
黄花(菊は)既(に)発す(咲いている)。東籬(とうり)(まがき・垣根)の下に。
眞是深林處士蘆
真(まこと)にこれは、処士(*民間の人)の蘆(草庵)。
と、賦している。
また、玉木文之進は、『冬夜山斎読書』と題し、
青燈照字夜方幽
青燈、字を照らして、夜まさに、幽なり(ひっそりとしている)。
霜氣侵肌慾襲(ちう)
霜気は、肌を侵し、(ちう)(単衣の絹)を襲わんと欲する。
知是前峰月将上
知る。これ、前峰(唐人山)の月、まさに上がらんとし、
一林棲鳥惚喧啾
一林の棲鳥(せいちょう)、喧啾す(けんしょう)(やかましく鳴く)。
杉 梅太郎は、
西野雨初霽 新秋地早涼
西野、初めて晴れ、新(しい)秋、地、早涼す。(いつもより早く涼しさが立つ)。
槐花方慾黄 柳葉自将黄
槐花(えんじゅの花)、まさに落ちんとし、柳葉、自ら黄色にならんとする。
前嶺生弧月 後江没夕陽
前嶺、前山に月が出、後江(後ろの海に)、夕日が落ちる。
清風吹送處 吟杖向林塘
清風、吹き送る處、林の堤をぶらぶら歩き、吟じる。
と、さすが、杉家一門の人々は、いずれも教養のあった侍である。
草庵の四季の風景が美しくよく詠まれ、風韻(ふういん)、実に掬(きく)するべきものが
ある。
[*前述のように以前、この別荘は、時の移り変わりで、村田右中(松陰の生母・瀧子の父)の持ち屋であったが、瀧子が嫁入り時に、松陰の父・杉百合之助が、これを買い取った。]
いまはこの樹々亭跡も、庭園式にあらたえられて小公園のような感がある。
当時の居宅は、もちろん、残っていないが、間取りや敷地を知らせるために礎石(きせき)を配して往時の建坪、その他を偲ぶのに十分である。
中央、小高い築山には、門人の侯爵・山縣有朋【1】の揮毫の「吉田松陰先生誕生地」の石碑があり、松陰先生産湯の井戸には、田中義一大将【2】の揮毫の小碑が立っている。
北側の山裾には先生一大の略歴を記した標札もある。
西側には松陰先生が幼時、兄弟と共に、椎の実を拾いつつ遊び興じられたと云う老椎がいまも昔を物語っている。
◇ 吉田松陰の追憶
これが、すなわち百合之助新夫婦の新家庭であった。
前にも云った様に、この樹々亭が丁度売物に出ていたので、瀧子が杉家に嫁すと云うので、
相当裕福であった父の村田 右中が娘、可愛さの親心から買い取り持参させたものである。
ここで松陰先生の兄弟などは、呱々(ここ)の声をあげられたもので、実に思い出の深い誕生地である。
したがって後年、松陰先生など兄弟は、この山屋敷の忍苦の生活などを思い出して、いろいろと感慨を述べておられる。
(*松陰先生の)兄の梅太郎は『夢帰故郷(*夢に故郷に帰る)』と題して
旅館秋衾夢。 分明到故郷。
旅館、秋衾(しゅうきん)の夢、分明(ぶんめい)(はっきり、の意)故郷に到る。
峰巒都若舊 儔侶巴多亡。
峰巒(ほうらん)(唐人山のこと)都(すべ)て 旧の若(如)し、儔侶(もうりょ)(故郷の意)巳(*すで)に多く亡(死)し、
門徑唯通鹿。 蓬萵欲歿墻。
門徑(もんけい)(*門前の小径)、唯、鹿に通じ、蓬萵(ほうこう)(丈の高いよもぎ)墻(かき)(*屋敷、庭など)を歿せんと欲する。
眠醒恍猶訝。 窓月影凄凉。
眠り醒(さ)め、恍(こう)(然)として なお訝(いぶかる)。窓月、陰、凄凉(せいりょう)(ものさびしきこと)たり。
と、云っている。
また、松陰先生は、(*江戸遊学の前の)かの九州西遊の際、嘉永3年10月25日、旅窓にあって幼児における山荘の読書のことなどを思い出されとものと見えて、「記夢」(夢を記すと題して、
一夜家兄と、巌君に侍し、書を講ず。
夜深くして業を止め 二程子(宗の学者、程明道と程伊川)の詩二首を読む。
兄と同臥して共に其の詩を誦し、巌君も亦(また)之に和す。
既にして眠に就く。
少(しばら)くして妹壽(とし)、文(ふみ)、弟敏(敏三郎)等群り至る。
紙二葉を携へ、一は巌君に呈し、一は吾れら兄弟に投ず。
其内には皆 程子の詩を録す。
巌君朗誦一過し、吾れら兄弟を呼び起して曰く(*云うには)『此の詩を誦(しょう)せよ』と、吾れら兄弟 且つ諾し 且 起き、紙を展(の)べて之を見るに亦 同じく其の詩を録す。
因(*よ)って聲を同じうして之に和す。
時に夕日 窓に在り。
夢醒(*さ)むれば 夜 已(*すで)に五更(*現在のおよそ午前四時。また、それを中心とする二時間。)
二詩 一も記(憶)する所なし 云々。
と、記しておられる。
よしや(*もしも)夢であったとしても松陰先生など兄弟が幼時における勉学、自修の様子が思い出される。
両親の膝下にあって慈愛に包まれつつ勉強されたその姿が目の前に浮かんで来る。父から勤王思想を打ち込まれる状況がはっきりと見えて来る。
例の母の瀧子も、さだめし共々に力を致したことであろう。
寅次郎よ、早く一人前になって、お上へ御奉公してくれよ、と念願したことであろう。
それに兄妹たちの仲のよい幼時の様子が偲(しの)ばれて、当時の山屋敷の様子が描き出されるような心地がする。
その後、安政元年秋、江戸から檻送されて野山獄に入(い)られた時にも
遠戌山東今始還 家庭消息雑胸間
遠く山東(相州警備のこと)を戌(まも)って今始めて還(か)へる。家庭の消息、胸間に雑(まじ)る。
獄中時誦阿兄句 神往韓人峰下山
獄中時に誦す、阿兄の句。神(心魂の、意)は往(ゆ)く、韓人峰下の山(樹々亭、を指す)
と、一詩を賦しておられる。
(*おそらく、)松本の実家の父母や兄妹たちを思い出して、深い思いに沈まれたのであろう。
親・兄の思いの至孝・吉田松陰が思いやられる。
さらに安政6年夏、最後の江戸獄中において8月4日の自分の誕生日に会された時にも、しみじみと親の大恩を思い返して熱涙を注いでおられる程で、この樹々亭は松陰先生、終世の思い出の場所であった。
◇ 杉家の山屋敷 樹々亭
いま当時における杉家屋敷の見取り図を示すと
(イ) 玄関3畳(松陰先生兄妹は、多くこの一室で共に遊ばれる)
(ロ)表座敷6畳(床・押し入れは別につく)
(ハ)隠居部屋3畳
(二)居間6畳
(ホ)台所
(へ)物置・納屋
(ト)厩舎(杉家においては馬を飼養しておられた。これは乗用ではなく稼耕の助けであった。杉の家風を偲ぶことが出来る)
もともと八谷 聴雨(やたがい ちょうう)自身が大身(たいしん)の侍でなかったのであるから、別荘とは云え山中閑居の仮屋に過ぎない。
玄関3畳と表座敷6畳で、それに台所、杉家になってから増築された隠居部屋と厩舎(うまや)と物置ぐらいのものである。
思えば、人里離れた松木柱に草葺きの山ヶ家。
表の間から外には天井さえも張ってないと云う樹々亭と云う一軒家。
しかしながら、背後には翠峰(すいほう)をめぐり老松の欝々たる東光寺山があり、前には御城・指月の天守閣が高々と聳(そび)えて、巴城(*はぎ)の三十六街が脚底に横たわっている。
沖には六連(むつれ)の島を隔てて遠く朝鮮をも望み、大陸踏破の壮図をも思わせるに足る大自然の静境である。
これが、すなわち百合之助と瀧子との新家庭の踏み出しであり、松陰先生など兄妹の誕生地である。
ああ、この樹々亭山荘が幕末維新に当たり、遂に神国の根幹となって回天偉業の発祥地となったことを思えば、今 世界新秩序建設の烽火の踏み出しも、敢(あ)えて豪壮栄華の街々の都人(とじん)のみであるとは云えないであろう。
むしろ、こうした野外田夫の至誠、熱血男子の奮起こそ、まさに望むや切なるものがある。
◆ 胎教の尊さ
◇ 杉家をめぐる雰囲気
松陰先生が、この樹々亭で生まれられた時(天保元年)は、父の百合之助は27歳、母の瀧子は24歳、叔父で養父である吉田大助は24歳、先生を一番よく訓育した終生の師とも云うべき叔父・玉木 文之進は21歳であった。
これらの人々は当時、大抵は杉家にまだ同居していた。
いずれも勤勉家であり、読書家であり、愛国家であり、勤王家であり、人格、徳行の優れた人たちのみであった。
しかも、一家一門の人々が いずれも年、若々しく生々発動の活気に満ちた和気藹々(わきあいあい)の中に松陰先生は生まれられ、また成長されたのである。
それに、この杉家に出入りする人たちも父・百合之助や叔父の門弟たちであって、いずれも読書愛国の志士のみであった。
したがって この杉家をめぐる雰囲気と云うものは元気溌剌、純情に充ち満ちていたのであった。
◇ 樹々亭の風光と魂への影響
この団子巌(だんごいわ)の地と云えば、前にも述べたように世塵を外にした清浄幽邃(せいじょう ゆうすい)の地であって、向いの吾妻山には軍神を祭る諏訪明神が手に取るように見えている。
また北の方、中之倉には里人の崇敬深い文神の人丸神社がある。
さらに樹々亭の地続きの北側には藩主の廟所である東光禅寺の壮大な幾棟かが、老松の間に浮かんでいるかのようにみえている。
しかも松陰先生が後年『忠臣の心を悲しみ、泫然、泣下す』と云っておられる。
鴻儒(*こうじゅ・儒教の大学者、転じて学問の深い人)にして直諫(*ちょっかん・*率直に いさめること)の士である山田 原欽(*げんきん・ 江戸時代前期の儒者)が藩主を諫めて、東光寺山内の豪壮な規模の縮小を計り、そのため自刃したと云う山門が、つい目の前に見えている。
樹々亭、萩三十六街を見下ろす高い所、幽静閑寂(ゆうせい かんじゃく)な一件家、白亜の城壁をめぐらす指月城の天守閣、白波寄せる菊ヶ浜、荒海に漂う沖の六連島、帯のように流れる城下の二つの川、軍神諏訪神社と文神人丸神社、忠臣諫死の東光禅寺(とうこうぜんじ)、さらに日本海をへだてて先生が夙(つと)に門生たちに日本の国防第一線を教え説いておられた朝鮮や満州、こう云った樹々亭四圍の山河、風物は勿論、先賢憂国志士の熱血、鉄心に刻まれた歴記の数々、母の瀧子が松陰先生など兄妹をお腹に宿した時に、これらの壮麗雄大な風光景物を朝な夕なに、心のゆくばかり眺め味わっていたことであろう。
この大自然の生々化育の神秘な偉大な力が、どうして母性の精神に影響を与えないと云うことがあり得ようか。
それのみならず、こうした文武の神を崇め、忠臣諫死の跡を忍んでは、母の胎内に宿る
先生の精神に神秘の影響を与えないと云うことがあり得ようか。
父は厳に、母は愛に、相、和して子女の教育に当たる。
松陰先生などの胎教や生後の感化訓育なども見るべきものがある。
この団子巌、樹々亭の地こそ、まさに地霊人傑とも云うべきところであろう。
後年、久坂玄瑞でさえも、先生の弟・敏三郎などを連れて よくこの団子巌に登り、城下を見下ろしつつ詩吟などをやって、大いに浩然の気を養ったものであると、今も語り伝えられている。
ああ浩然の気、地霊人傑、胎教の尊さをつくづく考えずにはいられない。
◇ 現代夫人への希望
(*この項、略します。)
◆ 脈々と打ち込む勤王思想
◇ 瀧子の夫・杉 百合之助
瀧子の夫、松陰先生の父、杉 百合之助常道は、読書好学、質素篤実な役人であって、勤倹力行 そのままの人であり、貧しき中にも学業については特に精励された人であったことは、すでに度々、云い尽くしたことである。
当時、藩士の風習として文学、兵法、礼式を悉(*ことごと)く専門家に学んだものであって、文学を仲輿 一左衛門、有吉 十之充に、書道を粟屋 左衛門に、兵法を吉田 大助(弟ではあるが吉田家が兵学支藩である故である)に、剣道を北川 弁蔵に、槍術を園部 右内に、礼法を緒方 十郎左衛門に学んだ文武両道の人であった。
字は伯愈(はくゆ)、業は恬斎(てんさい)と云い、文化元年10月23日、城下川島の荘に生まれた者である。
しかも性来、謹厳清廉(きんげんせいれん)の武士であった、ことに敬神の念が厚く、毎朝、早起きして清水を汲み、先祖の心霊に備えて礼拝し、さらに西の御城に向かって君公を拝し、また東天、遥かに天朝を拝する柏手がいつも後ろの森に響き渡り、もし病気でもすれば、妻の瀧子が必ず夫に代ってその用を務めると云った朝の杉家は、その敬虔厳粛な柏手によって明けて行ったと云われている。
杉家では毎年、2,3回、毛利氏の祖先が祀ってある仰徳社や、藩主の御墓のある東光寺は勿論、大照院や、あるいは氏神の椿八幡宮に参拝するのを年中の大事な行事とされていた。
その日には、百合之助は前夜より参詣着物その他一切の所持品に至るまで、その心構えをして取り揃えて置き、爽味(そうまい)のうちに起き出で、沐浴斎戒(もくよくさいかい)をして心身を浄(きよ)めると云った敬虔(けいけん)さであった。
そして参拝の途中、人に逢っても言葉を交えない、交えば既に身が汚れると云った清浄ぶりであった。
当時、徳川治世、太平の夢濃やかな秋(とき)であったから、士風は萎微(いび)し、世俗は華奢(きゃしゃ)に流れ、皇室の尊厳など考える者はなかった。
したがって大義を論じ、名分を説き、気節を尊ぶなどと云うことは、さらに その跡もなかったのであった。
百合之助は、この皇室の御衰微(ごすいび)、士風の廃頽(はいたい)を常に慨嘆し、発憤講読、ますます勤倹力行と共に日夜、精進、砥励(しれい)したのである。
◇ 烈々たる家庭教育
百合之助は、この烈々として燃えるように勤王思想と気節大義の武士道精神とをもって、松陰先兄弟の幼時の心底に力強く打ち込んだものである。
そして、主として その教材としたものは『文政十年の御布令』と『神国由来』と云う本とであった。
文政十年の詔(御布令)
仁孝天皇が時の将軍 家斉の功を録せられ、文政10年2月、太政大臣に任じ給いし際に下された詔書である。
江戸時代の将軍中、空前の恩命と栄誉を辱くした、と云うべきである。
然るに家斉は、これを坐ながらにして受け、密かに世臣を遣わして御礼を言上せしめたのみである。
それによって一面、東寺の将軍家の権勢が如何に強かったかを知り得ると共に、他面において皇室の式微を窺うことも出来る。
松陰の父・杉 百合之助は、他の多くの士民が前者を感じて将軍家のために祝福したのと異り、後者において我が国家のために悲しみ、したがって、また将軍不臣の態度を憤(*いきどお)ったのである
ここに掲げた詔書の写は、後年、百合之助が松陰兄弟のために書き与えたもので、松陰の勤王精神は已(*すで)にここに胚胎(*はいたい)したと云ってもよいであろう。
「奉別家大人」の詩中に「耳存文政十年詔」とあるのが、その間の消息を物語るものである。
(「吉田松陰全集」全12巻 (1936)第10巻の口絵の写真および説明文より)
これによって、わが尊き国士の講話をして、幼時の脳裏に強く忠君愛国の国体観念を植え付けたものである。
その他には、水戸・会沢 安(あいざわ やすし)(正志斎)の新論や、頼山陽、菅茶山などの詠史を始め、毛利氏に関する詩文などであって、とりわけ、(*頼)山陽の『日本外史』又は『楠公墓下之詩』などであった。
これは忠孝を磨励(まれい)し節義を鼓舞すると云う目的であって、当時の普通学と云うべき四書五経よりも、むしろ、こうした国体観念の注入に主力を致して修養の骨子としたのであった。
この文政十年の御布令と云うのは、文政10年2月、仁孝天皇が徳川将軍家斉を太政大臣に任じ給うた詔書である。
闘士、将軍家斉は豪然と江戸に構え、居ながらこの優詔を拝し、自ら入朝して親しく奉謝(ほうしゃ)せず、その無礼なる態度は神人共に許すべからざるものであった。
百合之助は、いたくこれを憤慨し、沐浴(もくよく)して衣を更え、遥かに京師(*京都)を伏拝し涕泣(ていきゅう)して『皇室の式微(しきび)、かくまでであるか。武臣の跋扈(ばっこ)、何たる無礼ではある。一天萬乗(いってんばんじょう)の御君も将軍への御機兼ね故、遂に事、茲(ここ)にまで至れるか。』と、声涙(せいるい)に咽(むせ)
んだと云うことである。
『神国由来』と云う書物は、徳島藩の儒者で、後に加茂神社の神官となった玉田 永教
(たまだ ながのり)なる者が表したものであって『吾が国は尊き神の国であって、今日 神の国に生まれ、神の衣服を着し、神の五穀を食い、神の家に居て、神の恩を報じ奉ることを知らざる者は実に人面獣心なり云々』とある。
わが国体と臣道とを明徴せるものである『楠公墓下之詩(なんこうぼかのし)とは、頼 山陽が、寛政9年3月、当時18歳で叔父・杏坪に従い、江戸の向かう途次、摂津湊川・楠氏の墓に詣で、かの『想見す兒に訣(わか)れ 弟を呼び 此に戦う、刀折れ 矢 盡き 臣事(しんじ)は畢(お)わる。北向 再拝すれば天日陰(くも)る。七たび人間に生まれて此の賊を滅さん。碧血痕 化す五百歳。茫々たる春蕪(しゅんぶ)大麦よりも長し云々』と云った有名な詩である。
◇ 厳父の指導と慈母の愛育
このようにして、父・百合之助は幼時の感受性の強い脳裡に七生滅賊、殉国大義の大精神を注入したのであって、これらの家庭教育があの烈々熱火のような松陰先生の殉国精神を築き上げたものである。
なので、松陰先生が安政6年5月、江戸死獄に赴かれる時、野山獄中より『奉別家大人』と題して、
[*平素趨庭違訓誨。~ 以降、(口語訳、以上。)までが、
「歴史の流れ 吉田松陰の母 を読む2 」と全く同文のため、略します。]
この時、百合之助は、今度こそは平生の持論を述べて、決して卑怯(ひきょう)なことがあってはならぬ、と励ましている。
この巌と愛との公共教育が、あの偉大なる松陰先生を完成した所以である。
さて、これらの関係を文献の表面上から見れば、父と松陰先生兄弟との関係のみとなる。
しかし、苟(*いやしく)も人の家庭であるのに少し深く立ち入って考えるとよい。
形式的に見れば、父たるものは外的であり動的である。
母たるものは内的であり静的である。
内的に見れば父は厳であり、指導的である。
母は愛であり、完成的である。
その父母の厳と愛との合作が家庭児を完成して行く。
むしろ子供の幼時は、母性の手引きにすべてがあると云ってもよい。
そうすれば松陰先生と云う殉国・大偉人の裏面に母・瀧子の感化訓育の内的補助の力を忘れてはならない。
厳に打ち込む父の精神を母の自愛で和やかに植え付けて行く。
その母親の苦心、心遣いは並、大抵のことではあるまい。
ことに愛に対する感受性の強い子供の精神には、むしろ、こうした母親の内的側面力の方が、よい以上の根強き感化を与えるものである。
あの日本精神の権化、殉国、殉道、殉義の吉田松陰先生を作り上げたことについて、日本婦人の典型である母の瀧子の存在を決して忘れてはならないのである。
実際、瀧子は父のこうした指導感化を裏から助成して行った世にも稀なる賢母である。
◆ 伝統的 杉家の家風
◇ 読書家の祖父・杉 七兵衛
杉家の伝統的な家風は質素勤勉と読書好学の二つに尽きている。
そして、それが源をなすものは敬神崇祖と勤王五穀との伝統的精神であった。
松陰の祖父・七兵衛が江戸詰め在勤(一説には京・大阪詰めなりとも云う)を命じられた時は、その子の百合之介は6歳であった。
留守宅を守る母親の手一つで百合之介は愛育されたのであった。
この七兵衛は大の読書家であって、三度の食事よりも読書が一番好きであった。
そうであるから、あの貧しい不自由勝ちの中からで、書籍だけは多数、蔵していたのである。
元来、杉家と吉田家とは絶えず重縁関係を結んで来ている。
この吉田家は山鹿流兵学師範であって、云わば 学者畑の家であった。
七兵衛時代の吉田家の虎(とら)(吉田家 第六代矩達の弟)のように後に香取家を継いで春平と云ったが、松陰先生のでさえも、この人に対しては、『文才秀逸、議論英発、敢えて人に屈せず。』と云って賞嘆(しょうたん)されている。
その父・又五郎矩定(吉田家五代)には『御陣制度(ごじんせいど)』と云う著書もある。
こうした学者揃いの関係などが、余程、杉家の方にも影響を与えていることであろう。
このような訳で七兵衛が10年余りの江戸在勤を済まして、国許の子供が幼少ながらも、よく留守居をして、母の手伝いをしていたと云う御褒美(ごほうび)として、土産に与えたものは『論語集註(ろんごしゅうちゅう)』と新版の書籍とであった。
百合之介は、この書物を押し戴いて永く座右に供え、いつも親の自愛を感謝しつつ勉学したものであった。
後に至って「この時ほど嬉しかったことはなかった。」と述懐しているのである。
しかし、杉家のこうした書籍も川島の大火で灰燼に帰し、松本に来られた時には、見る影もない悲惨な有様であった。
そこで、松本の蔵書家と云われた瀬能 正路(松門)の蔵書を多く借覧(しゃくらん)されていたが、松陰仙時代においても また同様であった。
なお、この七兵衛の妻女(さいじょ)は、岸田 右衛門治道の娘であって、余程、温順な、しかも堅忍の貴婦人であった。
他人の善し悪しなどは決して口外(こうがい)したことがない。
微碌であるから、昼は夫の農耕を助け、夜は縄を綯(な)い草履を作り、それによって得た金子(きんす)を全て子女の筆紙などの費用に充てると云った状態であった。
夫・七兵衛、在勤10余年間のように、長男・百合之助と共に数人の弟妹などの世話をみながら勤倹教育は、実は杉家伝統の家風であった。
◇ 半士半農の生活
当時、萩藩の小禄武士は、いずれも半士半農であって、その農耕によって生計のゆとりをつける他はなかった。
したがって百合之助の家庭も この方面に相当忙しかったことは、前にも度々云った通りである。
如何に読書が好きだと云っても、自分のみ静かに机に向かって読書することは、なかなか許されない。
それに百合之助夫婦は子女の教育と云うことには特に意を用いていた。
さりとて、子供達の勉学をゆっくり見て教え導くと云う余暇はなかった。
そこで兄の梅太郎や松陰先生を連れて、朝間仕事に後ろの山に芝刈りに行き、あるいは昼間、家の附近にある畑に出て農耕の間に、又は夜分、米つきや藁(わら)仕事の合間、合間に、田の畔(あぜ)に腰をかけ、あるいは柴草の上で、四書や五経を教えたものである。
所謂(いわゆる)、親子共に『心思、常に書を離れず』と云った程の勢力を注いだものである。
今、松下村塾に残っている台柄(米つき台のこと)は、勉強の工夫のように(米をつく時、台柄の上に棚を作り、その上に木を乗せ、互いに向き合って米をつきつつ読書、講学を聞く)松陰先生が門弟と共に米をつき、講学されたものとして有名になっているが、実は、この百合之助の工夫、創始になるのであって、これを松陰先生が踏襲されたものである。
安政5年6月、久坂玄瑞に与えられた書簡の中に、
此の節 大暑中に候得共 志 壮なり、隔日 左伝八家会読、勿論 塾中 常居(じょうきょ)、七つ過ぎ会読終わる、夫(それ)より畠 又は米春 輿 在熟生 同之、米春(こめつき)大いに其 妙を得、大抵 両三人同じく上り、会読しながら之を春(つ)く、史記など24、5葉読む間に米つき畢(おわ)る、亦(また)一快(かい)なり。
と、云っておられる。
当時の様子の一斑を知ることが出来る。
そして百合之助は松陰先生兄弟に対して常に『話をするな、話をする暇があれば本を読め、話は尽きるが書物は尽きるものではない、本を読め 勉強せよ。』と云って、励まし、松陰先生兄弟は、この田圃(たんぼ)の教えで四書五経は暗記されるに至ったのであって、云わば、この大自然に包まれた田畑山野が松陰先生兄弟の教室であり、又、人生修養の大道場でもあった。
そしてここが後年の所謂(いわゆる)『神国の幹』の芽生えが出来た所である。
◇ 勤労教育 唯一の補助者
こうした百合之助の勤労と子女の教育とに対する片腕であり、補助者であり、蔭(かげ)の力持ちは云うまでもなく母親の瀧子であった。
後年、松陰先生が野山獄中より妹・千代に与えられた書翰の中に
昔 山宅(樹々亭)にて父様 母様の昼夜 御苦労なされた事を話して聞かせても、真(まこと)とは思わぬ程なれば、杉の家も危い(中略) 父母様の御苦労を知っているものは、兄弟にても そもじ までじゃ云々。
と、子孫の安逸を戒めておられるのをみても、どんなに父母の労苦が、あの感受性の強い少年時代の松陰先生など兄妹の心中に深い感激を残しているかが知られると共に、母性愛の辛苦の生活を よくその中に物語っている。
さて世の中の人々は皆、一人前の大人になった暁、自分独りで自然に大きくなって来たかのように思うのが世の常である。
しかし自分独りで楽に育って来たものは世間広しと云えども唯の一人もあるものではない。
親のこうした辛苦の中に育てられて一人前となったその大恩を忘れては神佛に相すまぬわけである。
朝な夕な、父母の慈愛の恵みに感恩、感謝しつつ、ただ その至らないことを懼(おそ)れて合掌九拝、両親への紅葉にあらん限りを尽くすべきであろう
この両親への孝養の二文字の中に、人間のすべてが包まれていることを忘れてはならない。
孝は百行の基(もとい)と云われている古言を今さらながら静かに考えたいものである。
◆ その日、その日の山屋敷
◇ 静かな楽しい生活
八谷(*聴雨)所有の当時の山宅は、ほんとの小さな草庵であった。
杉家の手に入ってからは、人数も増える、親戚からの合住居もあると云った調子で、一間建て添えて20畳敷近い家となり、新たに納屋と厩(うまや)とか出来上がったのである。
西向きの3畳の玄関、それが松陰先生兄弟の勉強部屋であった。
窓からはるかに指月の御城が目に入って来る。
日本かいの白波が山裾まで打ち寄せくるかのようである。
互いに雑談一つ交えることもなく、ただ静かに読書、勉学に余念がない。
母の瀧子が時々覗いて、その勉強ぶりを褒めつつ「しっかり、おやりなさい。」と励ますくらいのものであった。
父が野良仕事をすませて、いつものように好きな勤王気節の詩などを朗誦しつつ帰って来る。
その声が風のまにまに窓から入って来る。
松陰先生などは時々、読書を止めて、声高に、これに誦和して心気を養える。
叔父の玉木 文之進が「また兄さんの詩吟が始まった。」と云うと、母の瀧子が微笑をもらすと云った、まことに和やかな光景であった。
◇ 兄妹の親睦と母の愛情
また、松陰先生など兄弟の仲が睦まじかったことは、こうした人里離れた外との交わりを絶った山家のことでもあったから、遊び友達もなく自然にそうなったことでもあろうが、外の見る目も実に羨(うらや)ましいばかりであった。
この兄弟には兄弟喧嘩と云うものが一つもなかった。
共に読み、共に手習いをして、同じ布団にン手、母がお膳を運ぶと茶碗を移して一つの箱膳の上で、兄の梅太郎と頭を突き寄せて三度の食事を共にすることを唯一の楽しみとしていた。
一つの椀の飯を分けて食べ、一皿の菜も共に味わうと云った調子であった。
これは、後年、妹・千代子の懐旧談の一節であった。
そして時には、この千代子と共に庭の隅の椎の実を拾ったり、あるいは裏の山に松茸取りに云ったりする。
母の瀧子は子供が帰るのを待って、これを夕食のお菜にする。
ほんとに心の底から楽しく仲良く育てられたものである。
その日、その日をいかにも暖かい母の愛情に抱かれつつ、平和に暮らしていた、その家庭の雰囲気が想いやられる。
瀧子が後になって、
寅次郎は小さい時から親思いで、父母に心配をかえたり、気を揉ませるといったようなことはなかった。
母が着物を作ってやっても着替えさせようと云うまでは何時までも黙って古い着物を着ていた寅次郎は、何一つ小言の云い様がない、極(ご)く手のかからない子供であった。
と、云っている。
子供も子供ながら、母の瀧子の愛情が思いやられて実にゆかしい、慕わしい心地がする。
◇ 家を取り締る瀧子の訓育
時には、父の百合之助は飼い馬を曳(ひ)いて兄の梅太郎と先生とを伴(つ)れ、半道ばかりの山奥である田床(たとこ)(樹々亭の背後の東光寺山の裏)と云う所に朝飯前に草刈りに行くこともあった。
その留守中に母の瀧子は娘の千代子を相手に飯を焚く。
日中は炊事の傍ら、せんたくや家中の始末などに相当、忙しかったようである。
夕刻にもなれば、野良から帰る夫を迎える夕餉(ゆうげ)の準備や風呂焚き、厩の掃除までもする。
さらに夜仕事の用意までも準備する。
そして、夜分に閑(ひま)でもあれば、薄暗い行灯の側で、子供を膝下に寄せて、名将伝記や心学本などの話を聞かせてやるのが、お定まりになっていたのである。
男の子は日夜、勉学する、女の子の千代は、母の手伝いをする。
実際、この千代は幼少の頃から、よく台所のこと、洗濯のことなど、何くれとなく母の片腕となって、多人数の家庭のことに心を砕いたものである。
あの天保14年の藩政大改革の際、清廉な父・百合之助は、今の警察署長のような役人に抜擢されたが、重要な勤務の都合上、千代と仲間一人を連れてお城近くの江向・片野 又兵衛の宅表に出宿仮寓したことは、前にも述べた通りであった。
千代子は父の身の回りの世話から家事一切を引き受けて、毎日、父と仲間の弁当までも揃えると云ったように、まことにまめやかに働いていた。
それが彼女の13歳頃のことである。
この小娘に、これほどの経験自身がすでに出来ていたのも、これは全く瀧子の教養の仕込みによるものであった。
また千代子は家事の手伝いがすくと、山宅の母がどんなに忙しく骨を折っているであろうかと思って、夜も、ろくろく眠られなかったと云っている。
また、その頃、玉木の塾に通っていた兄達二人をなつかしく思い出しているようなこともよくあった。
こうした千代子の躾(*しつけ)の仕込みや、兄妹の深い情愛も、もとをただせば皆々、母の瀧子の熱心な愛の訓育の賜物(たまもの)であった。
どうしても、しっかりした家庭は母親の力に待たねばならない。
一家の和楽は、どうしても母親の愛の導きによらねばならない。
本当に母親は一家の大黒柱である。
◆ 家庭における瀧子の心使い
◇ 家庭の主婦としての心労
瀧子は士分とは云いながらも全く農業生活の夫を助けて、朝は星影の残る頃から田畑に出て野良仕事に従い、夕べは夜露を踏んで帰って来る。
毎晩のように夜仕事を更けて行く。
時には自分から馬さえも使って手伝ったとさえ云われている。
実に並大抵の苦労ではなかったようである。
それに姑(しゅうと)とその妹の岸田氏との二人の老人に孝養を尽くしながら、専念、子女の教育に心を砕きつつ家庭を治めていった。
その辛苦、この忍耐は、非常時、日本の婦人にはぜひ、味わせたいところである。
(*本書の昭和16年頃の社会情勢を反映している。)
夫の仕事を助けつつ3人の子女の教育に当たる。
その事自体が、すでに普通の主婦には相当の重荷である。
それに5歳の長男・梅太郎、3歳の次男・寅次郎、当歳の乳飲み子・千代子を連れ、これらの幼児を抱きつつ、日夜、姑に仕えて心からなる孝養を尽くし、さらに姑の妹・岸田氏の家族3人までも引き受け迎えて、家の一間に合住居(あいすまい)をさせ、相当、長年の間、何らの不満不平も口にせず平和にくらして行った瀧子ほど、同情心もあい、慈悲心もあり、忍耐力もある賢夫人は、またと世にはあるまい。
ことに岸田氏は病身で身体の自由がきかないので、瀧子は2軒分の衣食の世話と病人の看護につとめ、毎日のように、その浮上のものの始末・世話までもして心からの介抱に骨身を惜しまず、最後を安らかに送らせたのである。
姑も病人も、いつもその誠心、忠実さに感謝して『ありがたい、ありがたい。』と泣いて朝夕感謝し、世間の人々もこれを聞いて、皆々、涙をながした、とのことであった。
◇ 夫・百合之助の理解と同情
また瀧子の姉・大藤氏(おおとうし)が萩在住の紫幅村(しぶきむら)で寡婦(かふ)となり、娘と二人で細々と暮らしていたが、不幸にも親子共に伝染病に罹(かか)ったので、これを駕籠(かご)で迎えて手厚く養生させるなど、貧苦の間にも一族縁者の窮迫(きゅうはく)には、喜び勇んで力を尽くしたのであった。
こうした瀧子の心使いもさることながら、夫・百合之助の同情、理解がなくては、なかなか一家が平和に行くものではない。
思えば百合之助夫婦は実に世の家庭の亀鑑(きかん・*お手本)とも云うべき人々であった。
その上、この頃は夫の仲の弟で吉田家を嗣いだ大助も、末の弟で玉木家を嗣いだ文之進も、相当長く、この20畳敷ぐらいの山宅に同居して、兄嫁・瀧子と共に睦まじく暮らしていたのであった。
この家庭の様子を朝夕、見ていた あの厳格にして容易に人を褒めない玉木 文之進でさえも、のちになって、『昔の女丈夫と云うのは、杉の姉のような女を云ったものであろう。』
と嘆賞していたと云われる程であって、これだけでも瀧子の苦労が思いやられる。
実際、瀧子は余程辛抱力の強い、意志の堅固な女性であった。
どんな苦労も心痛も深く心の奥底にひそめて、夫のため、子供のため、家のために、喜び勇んで立ち働いた賢婦人であった。
しかも一家、一門の繁栄にと、日夜、骨身を砕いて、あらん限りの誠心、努力を続けた女丈夫であった。
◆ 瀧子夫婦と子供達の生活
◇ 貧苦の中に養われた殉国精神
吉田 庫三氏(松陰先生の妹・兒玉 千代子の男、吉田家の後継)の述懐談によると、
夙(つと)に勤王の志を起こすような教育を受けたものでありますから、この二人の子供(兄・梅太郎と松陰先生)の遊び方なぞも、よその子供のとは違って、ある時は、土を固めて建築の模型を作って、これが信長が御所の修繕をするのであるとか、あるいは、木を切って武器を拵(こしら)えて、これは楠公が千早の城による時、こう云う武器を持っていたのであるとか、云うようなことをしていたそうであります。
また娘の千代(芳子)は幼少であったが、二人の兄と共に父に従って、朝早く起きて飯を炊き、釜を洗いなどして、艱難の勤をしたと云うことであります。
何しろ貧乏でありましたが、この貧乏であったことが、松陰の生い立ちに大変な関係がある事柄であります。
こうした子供の遊び方に対し、母親をしては世話や指導こそすれ、無関心でいれる筈がない。
母の瀧子が、あそこが悪い、ここがいけない、これでよい、などと御所の土塀の作り方などを教えたことであろう。
冬の夜長には楠公・千早の城の絵本などを取り出して、いろいろと話しきかせたことでもあろう。
木を切って型を作ると云えば、包丁をだしてやって、傷(けが)せぬようにと、注意も与えたことであろう。
こうしたことは、到底、父親には出来ないことである。
樹々亭の庭先で二人の子供の遊び仲間になって、育てていった母の瀧子の子守姿が目前にちらついて来るようである。
◇ 尊き母性の慈愛
瀧子も、これをこの上ない楽しみとして、わが子が一日も早く成人して、一家のため、はたまた お国のために御奉公してくれかし、と念願しつつ共に打ち興じたことであろう。
本当に母子、一心一体、樹々亭の山屋敷の幾春秋を楽しく迎え、また送ったことであろう。
母の心が子供の心に宿らないでなんとしよう。
母の慈愛が子供の心の奥底に、培(つちか)われないでなんとしよう。
子を思う親の誠心(まごころ)が透徹(とうてつ)しないことはない。
松陰先生の心がいつも母の心に動いていて、時には思い出の袖の露となり、時には喜びの涙の種ともなり、時には御所の型の憂国の悲憤とのなり、時には千早の城の慷慨(こうがい)悲歌ともなり、遂にあの最後の『親思う心』の歌となり、また『独り厳君(げんくん)を慰むる』の詩ともなり、心ともなったものである。
(*以降は、本書刊行時の時代背景を理解すべきである。)
ああ、時こそ移れ80有余年後の、今の日支事変にあって、職場の第一線の勇士が傷つき倒れんとするその刹那に、我を忘れて地に叫ぶ雄々しき最後の一声は『天皇陛下万歳』であって、次に来るものは、その故郷に残せし慈愛の母よ、母よとかすれ行く叫びであるとは、第一線からの悲しき放送の便りである。
君国に一身を捧げて国難に殉じ行く、あの崇高壮麗な勇士の心の最後の魂の宿りは、やはり尊き この母性の愛であった。
ああ、母の慈愛、母の信念、これが職場におけるすべての勇士の魂をつくるのである。
◇ 厳しい父の心と優しい母の心
松陰先生の妹・後の兒玉芳子刀自の懐旧談の一節に、
松陰の年少の頃、実父、又は叔父(玉木氏)の許にて書を学ぶに、実父も叔父も極めて厳格なる人なりしかば、三尺の童子に対するものとは思われざること屡々(しばしば)なりし、と。
母(瀧子)の如き側(そば)に在りて流石(さすが)に女心に之(*これ)を見るに忍ばず、早く坐(ざ)を退けば、かかる憂き目に遇(*あ)わざるものを、何故 寅次郎は躊躇するやと、はがゆく思いし、とか。
かく松陰は極めて従順にして、ただ ただ命のままに是(こ)れ従い、唯(た)だ その及ばざらんを恐れたり。
されど外柔なる松陰は 内はなかなか剛(ごう)なりき。
少年の時より心がアンパク(腕白)なりし故、斯(か)かる大胆の事(国禁を犯しての下田事件なるべし)を企てしなれと、後に至り松陰の幼時を知るもの語り合いたり云々。
この談話は松陰先生の幼時の教育状況を知ることが出来ると共に、当時における父親と母親との心構えや導き方がよく解って来る。
子に対する親心の真実は同じであっても、厳と愛との親の心の両面がよく解って来る。
厳と構えて少しも許さない父の態度、子供の心の奥底に透(とお)れとばかりの威力が光っている。
側(そば)の母親には、こうした父親の厳然たる心の慈愛は解ってはいるが、さすがに母親だけあって可愛さの情にもつれて行く。
時には子供に代って父親の振り上げた手に打たれて泣かん、とも思ったことであろう。
父親の威厳に打ち伏せられんとする子供が、こうした母親の庇護の慈愛に引き寄せられないでなんとしよう。
お母さまと呼びたて飛びつき行ったことであろう。
少年・寅次郎にもこうした場面はあったようである。
この父親の厳(げん)と母親の愛との両心が交響、合作して少年・寅次郎を完成し、遂にあの勤王殉国、熱血児・吉田松陰を築き上げたのであって、『はがゆく思った』母の瀧子の心を忘れてはならぬところである。
ここに母性愛の神秘な尊厳さがあり、ここに子供が終生忘れ得ぬ母の慈愛のささやきがある。
◇ 杉家で催された因会(ちなみかい)
吉田松陰が妹・千代に出した書簡の中に、月々の御因み會(おんちなみかい)も引きつづき有之様子(*これありの様子) けつこうの御事に存(じ)候。と云う文句がある。
元来、百合之助は平素から家庭の教育、親戚の和合と云うことについては、余程、心を注いでいたようである。
その士官した後は、毎月1回、必ず親戚の因会(*ちなみかい)と云うものを催して、一同を杉家に集め、互いに会食、談笑したものであって、云わば、この因会は杉家一門の親睦会えあり、また修養会でもあった。
そして、松陰が家庭にいられる時には、女子には女子、男子には男子に関する
書物の講義をされたものであって、女子には女誠や烈女伝などの話をして聞かされていたようである。
たとえ先生がいられない時でも、父の百合之助、叔父の玉木 文之進、兄の梅太郎、妹婿の小田村 伊之助(*楫取 素彦)、親戚の久保五郎左衛門などがいずれも学者で、徳行家なので、その都度、誰がやっても、皆、有益な修養の会であったことであろう。
安政3年(*1856年)に松陰先生から小田村(*楫取)に与えられた手紙の中に、近日、例の婦人會の節、武家女鏡を談申候。と報じていられる。
例の婦人會とは、この因会のことであろう。
これに対し、当時、相模の警衛に行っていた小田村からは、
支那の宗の時代に、家樹(かじゅ)の會と云うものがあって、萩の婦人會によく似通うている。
これは家庭の眞の和楽(わらく)の基となるものである。
これから婦人會を家樹会(かじゅかい)と云って、兒玉の千代さんを会長に推し、みんなの指図をして頂いたら誠に結構なことであろう。
会毎に武家女鏡御講義の由、あなた(松陰先生)の御教(え)が私共の一族一門に及ぶのは実に有難い。
私が江戸にいた時に烈婦伝を借りて読んで感じたことがあったが、安積艮斎(あさか ごんさい)も婦人伝と云うものを書かれた。
それを写して置いたから、武家女鏡(ぶけじょかん)の次には、これを講義して頂きたい。と、返事を寄越している。
(*この事から、)因会の様子がよく分かる共に武門の子女教育の状況も知られる。
こうして、あの幕末風雲に馳駆(ちく・*あれこれと力を尽くすこと)した勤王烈士の背後に烈女の育成の努力があったことを忘れてはいけない。
(*以降、本書刊行時の時代背景をチェックすべきである。)
昭和維新の現代においても新体制下における常会あたりが、じっくり、こうした女子の修養の方面に、今、少し真摯な努力をはらうべきものではあるまいか。(*ここまで)
そもそもこの因会は、百合之助の発意であり、その講師は松陰先生であり、その世話人は千代子であったとしても、これらの背後の隠れた総世話人こそ母の瀧子であったことは云うまでもない。
今日は因会 ―― 壽子も来る、末の文子も来る、親戚のあれも来る、是も来る、庭の掃除にしなければなるまい、家内の取り片付けもしなければならない、食事の用意も整えなければならない。
こうした家中の万事万端は、母の瀧子の心使いであり心尽くしでもあった。
このように母の瀧子は常に因会の中心人物であり、総世話係であった。
そしてこの因会が杉家一門の人々の心の固(かた)めであった。
―――――
吉田松陰 木像(京都帝国大学蔵)
原像は疋田 雪舟作の木像であって、京都帝国大構内尊攘堂の祭典の時(毎年10月27日)は、祭壇に安置せられるものである。
この像は門人 品川 弥二郎が、先師追慕の餘り、明治35年夏 作らしめたもので、当時はなお故人の風貌を知れる人々が生存していたから、其等の人々の批評を求めて苦心の結果成ったのである という。
松陰の零骨気魄は かくもありしか と想わしめられる傑作である。
(「吉田松陰全集」全12巻 (1936)第2巻の口絵・説明文より)
次回、吉田松陰の母 を読む3 に続きます。
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/490185018.html
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
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