吉田松陰の母 を読む1
吉田松陰の母 を読む1
本篇は、吉田松陰の母 ・福本義亮 著(誠文堂新光社,1941)の底本を、あくまで趣味的に、現代語訳で読み解くものです。
全体の構成は、読みやすいように変更しています。
(図は底本・著作権満了のものより)
[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。
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◆ 九重の聖恩に感泣する
◇ 昭憲皇太后(*明治天皇の皇后)の御仁愛
(*品川 弥二郎から杉 民治への手紙)
(*以下、意訳)
今朝、11時に参内したところ、皇后陛下からお側近くに召されて、松陰の老母への品であるが遣わしたいので、弥次郎から然るべく取り計らいてくれよ。との御言葉があった故、御包み(白ちりめん1疋)を拝載(はいたい)し、「このようにまで、大御心(みこころ)を掛けさせられ、松陰の母は申すまでもなく、松陰も地下に感泣いたします。」と申し上げ落涙して御前を退きました。
弥二郎の心事、御推察下さいませ。
何卒、先師(松陰先生)のご霊前で北堂君(ほくどうぎみ)(松陰先生の母・杉 瀧子)へ御渡しあらんことを願い奉ります。
香川大夫(皇后宮太夫)からの御話では、『この3月、ならびに御老母の事、皇后陛下にお話しなされた後(御料局長官拝命の時、松陰先生の御在世中のことをいろいろと申し立てたことがあった。)幾度も老母のことの御話になり、よき折なので何か老人に遺したいと、
御内の沙汰があり、過日に来て、品川(*弥二郎)が参内したならば知らせよ、とのことにつき、先刻、申し上げたところ(香川大夫より皇后様に)直(じか)に御召しになり、云々』との事である。
実に先師(松陰先生)の顔色、やじ(品川 弥二郎)が目にちらつき、先師の霊魂は、皇城を擁護している心地がして、御前で落涙に沈み、漸く前条の御礼だけ申し上げたく御推察、
御推察、ああ。
明治22年12月27日 御料局にて やじ((*品川 弥二郎)
杉 民治 様
この手紙は、明治22年12月に松陰先生の愛弟子・品川 弥二郎から先生の実兄・杉 民治(すぎ みんじ)翁(梅太郎)に送ったものである。
さすがに先生が「気骨稜々(きこつ りょうりょう)たるを愛す」と云われた直門弟の一人であり、自らも小松陰と名乗って、朝夕、恩師の面影を慕い、その殉国精神の宣揚のために心魂を捧げ尽くして、後に内務・農商務両大臣となり、明治新政府の柱石となった人物だけはある。
恩師・松陰先生や その母堂・瀧子 刀自のことなどについては、時々、宮中においても話に上げたものと見えて『先師(松陰先生)の顔色、やじ(品川 弥二郎)が目にちらつき、先師の霊魂は、皇城を擁護している心地がして、御前で落涙に沈む』と云って感激の熱涙にむせんでいる。
時の皇后陛下(昭憲皇太后)が『幾度も老母のことの御話になり、よき折なので何か老人に遺したいと、御内の沙汰があり、過日に来て、品川(*弥二郎)が参内したならば知らせよ』とまで、大御心におかけ遊ばされ『品川が品川(*弥二郎)が参内したならば知らせよ』と仰せ給われた国母としてのその御人徳・御自愛、このような辺地の老母にまでも及ぶこと、仰ぎ奉るさえも余りあると共に、その聖恩の宏大、無辺さには、ただただ、感激、感涙する他はなかったことであろう。
杉家にあっては、この破格の御恩命を蒙ったため、その時、折よく本願寺から小野島 行薫(おのしま ぎょうくん)と云う師が萩の別院に来合せていたのを幸いに、瀧子は師を招いて親戚、故舊(*旧友)を請待し、恩賜の披露の法筵(ほうえん・*法会)を営んで、一日の報恩感謝の誠を致したとのことであった。
◇ 瀧子 聖恩に感涙す
これより先、松陰先生の母・杉 瀧子は、度々、朝廷からかしこき恩賞を賜っていた。
明治新政府の基礎が漸く強固になった明治10年代からは、松陰先生の忠誠殉国の精神が一般に認識され、したがって その母である瀧子の名声も晩年は、だんだんと世に顕われて、朝野の慰問が相次ぐ状態であった。
たまたま、明治15年の冬、下野の藤田一郎なる者が萩に来て瀧子を訪ね、彼が去るに臨み、写真を請うて東京に帰り、三條相公に謁見して親しく松陰先生および瀧子のことを物語って、遂に乙夜(いつや・*午後9時から10時頃)の(*御)覧に達するに至り、また、皇太后・皇后両陛下にも御覧に達したのであった。
その結果、(*明治)16年8月、特に羽二重1疋を賜わったのである。
その後、明治20年11月、瀧子が重病に罹った時にも、遠江の人・金原 明善(きんばら めいぜん)は、特に松陰先生の気節、人格を慕う余り、瀧子のことをも常に心にかけていたので、その病がおもうと聞き及んで痛く驚き、土方宮内大臣にその状(*態)を具申したところが、畏(かしこ)くも 事が上聞に達し、又々、その月の18日、皇后陛下から御菓子1折を賜ったのであるが、幸いにも病は間もなく快癒したのであった。
さらに明治22年5月、有栖川大将宮殿下(*有栖川宮 威仁親王)が山口県への御巡視の際、松陰先生の故跡(こせき)である松下村塾を御訪ねられた時にも、親しく瀧子に拝謁を仰せ付けられ、まことにありがたい御言葉さえ賜うたのであった。
その都度、瀧子は身に余る皇恩の深い恵みに感謝、感涙し、必ず先君および松陰先生の霊前に拝伏して『子、非常に斃(たお)れ、先人、踵(つい)で世を去り、倶(とも)に明時に遭うを得ず、老母独り、この栄を荷(にな)う、なんぞ悲痛に堪えんや』と、生前の夫と愛児に物を云うが如く、涕泣(ていりゅう)止まなかったと云われている。
◇ 杉 瀧子とは どんな女性か
さて、この松陰先生の母、杉 瀧子とは一体、どんな女性であったであろうか。
幕末維新時代に最もふさわしい日本の婦人、憂国志士の母性として全ての尊い条件を有していた母性、世の幾辛酸をなめ尽くしつつ、びくともしなかった堅忍な女丈夫、そして春風なお肌寒い朝にも鋤鍬(すきくわ)を担って野良に出て、秋雨の身に沁みる夕暮れにも山に入って薪を樵(きこ)りつつ、子女の教育に心を砕いて杉家を再興した実に得難い勤倹の主婦、それが、すなわち杉 瀧子刀自(すぎ たきことじ)その人であった。
なお、瀧子の全貌を端的に知るために、次の諸点を挙げて置く。
温厚にして貞淑
和順にして堅忍
謹厳にして精励
仁慈にして勤倹
幾度かの家庭の悲劇にも、少したりとも力を落さぬ勇猛心。
襲来する危機にも不動の覚悟信念。
当世流の良妻賢母型の上に、さらに時世を乗り切る節婦、烈女の雄々しい心魂力の閃き。
20才の時に長州藩士・杉 百合之助常道に嫁ぎ、日夜、誠心誠意、夫に仕えること44年、
あまり豊かでない家庭にあって、純朴、簡素な生活に家庭を支え、影に沿うように夫に従い、後顧の憂い(あとあとの気遣い)をなくし、藩の役人である百合之助をして毅然としてその重任を全うさせたいわゆる糟糠(そうこう)の妻【1】、女丈夫であった。
【1】糟糠は、酒粕と米ぬかのことで、貧しいときより一緒に苦労を重ねてきた妻、の意。
元来、この百合之助は、学者肌のひとで、敬神家、勤王家であった。
それだけに、家庭のことなどにはあまり気に止めなかったようである。
それに、天保14年(1843年)藩政大改革で多くの隠れた逸材が抜擢された時に、百合之助も召されて百人中間頭(ちゅうげんがしら)兼 盗賊改方 (あらためかた) という重職を補され、妻子を松本・椎原台(しいばらだい)の山宅(さんたく)に残して、指月(しづき)のお城近所で寝起きしていたと云った次第であったから瀧子は子女の教育から家計一切まで、さらに、親戚、近隣の交際まで諸事万端を女手ひとつに引き受けて杉家の大黒柱となって家政を進めて行った云うしとやかな家庭生活を送るなかにも、気丈夫な烈女であった。
そして、篤実真摯で大人風の長男、梅太郎、至誠熱血な殉国児の次男、寅次郎(松陰先生)、生まれながら言葉を失った薄幸の三男、敏三郎、優しく忍耐強い長女、千代子、任侠で、しかも信心深い二女、壽子(としこ)、素直で従順な三女、文子、この三男三女の心の泉、魂の宿りとなり、親戚の玉木や大藤らの因会(ちなみかい)の中心となったのが瀧子、その人であった。
思えば、20才で少禄武士である杉家の人となり、明治23年8月29日、84才で安養浄土の涅槃に召されるまで、家のため、夫のため、子女のため身も心もあらん限りを尽くして杉家の一切に殉じて行った彼女の64年の生涯こそ杉瀧子が、この世に留めた永遠に朽ちない偉大なる足跡なのである。
吉田松陰の母 ・福本義亮 著(誠文堂新光社,1941)
◆ 瀧子、杉家に嫁ぐ
◇杉家とその人々
山陽の西の辺(ほとり)、長門の東北、石州境の徳佐ヶ峯(とくさがみね)に源を発する阿武川(あぶがわ)の水が淀んでは紺碧の縁となり、砕けては白いとの瀧瀬となり、流れ流れて延々10数里、日本海に潅(そそ)ぐところが、毛利氏36万石の勤王と死、萩城の町である。
同上、舊 萩城の天守閣
この阿武の清流が渓谷美で有名な長門峡を下り、高瀬の急潭(きゅうたん・*急な縁)を過ぎ、萩の東端・太鼓湾(たいこわん)の瀬で二つに分かれ、西南に橋本川となり北西に松本川となって荒海に流れて行く。
その分岐点の頂角(*三角形で底辺に対する角)が城下の川島の里である。
杉家は代々、毛利氏に仕えていて、百合之助の父・文左衛門徳郷(杉家三代)の時代から、この川島の里に住んでいた。
ところが、百合之助10才の春、文化10年(1813年)、3月16日、川島・樋ノ口から出火し、二ツ森から御許町(おもとまち)まで延焼した未曽有の大火があった。
不幸にも杉家は類焼し、家財も蔵書類も悉(ことごと)く焼き尽くされ、鳥為(うい)に帰してしまったのであった。
悲観に暮れつつも、父の七兵衛常徳 夫妻は、13才の長男・百合之助、7才の次男・大助(文化4年生まれ、後の吉田賢良)4才の三男・文之進(文化7年生まれ、後の玉木文之進)と女児(後の高洲又左衛門の妻) の三男一女を連れて、ひとまず、川上の岸田氏(杉家の親戚)に引っ越し、次いで萩の東の郊外、松本村に転居したのであった。
しかし、全家がまる焼けの後のことで、云わば、僑居奇寓(きょうきょ きぐう・*仮住まい)とでも云った状態でしばらくは、松本・椎原台(しいばらだい)では仮宅で不自由な生活を送ったのであった。
そして、百合之助兄弟らは、この松本の里で、ささやかな生活を営みつつ、もっぱら父に導かれて農耕に従事し、また読書に精霊していたのだが、文政7年(1824年)8月、百合之助22才の時に父・常徳は、病により遂に黄泉の客(こうせん の きゃく・*あの世に旅立った人で、死者を意味する。 )となったのである。
一家の主人を失った家庭ほど心寂しいものはない。
夫の亡き後の母の心中は一刻も早く長男・百合之助に良縁があれば、と日夜、念願したことであろう。
また年も行かない弟などをもつ百合之助としては、一家の柱石として家門を扶持し、老後の母親や弟などの将来をも考えさせられたことであろう。
そこで、その翌年の文政8年(1825年)、年の暮れも迫った12月15日、瀧子を迎えることにしたのである。
当時、百合之助は25才、瀧子は20才(文化4年1月24日生まれ)で、偕老同契(かいろうどうけい・*夫婦仲のむつまじい約束。)の幾千代かけて変わりないめでたい新春を迎えることになったのであった。
この瀧子は、毛利志摩の家臣・村田 右中の第五女であったけれども、封建時代の家柄、格式をやかましく云うこの時代の結婚として、身分が陪臣(ばいしん・臣下の臣)で低いので、家格の釣り合い上、杉家と同格の兒玉 太兵衛寛備(こだま たへえ かんび)の養女として、百合之助の許に嫁いだのであった。
(*後、兒玉と杉家は直接、親戚関係を結んでいる。)
丁度その頃、護国山(ぞくに東光山と云う)の南麓の、団子厳(岩)の下に城下・八谷聴雨(やたがい ちょうう・*元・萩藩士で著名な俳人。)の山荘が売られていたので、これを買って、引っ越して安住の家と定めたのであった。
これが、すなわち、今の樹々亭(じゅくじゅくてい)跡である吉田松陰戦線誕生地で、先生などの兄弟は、後に山宅(さんたく)または、山屋敷(やまやしき)とも呼んでいられる所である。
同上、(吉田松陰)誕生地の遠望
萩市護国山の麓、団子巌の地にある。
松陰の父 杉 百合之助がこゝに草蘆「樹々亭」を営んだのは文政8年(*1825年)、松陰の誕生5年前である。
百合之助夫婦はこゝで半仕半農の生活をなし、艱難の中にも毅然として清貧を楽しんだ。
松陰は兄妹等と共に、その少年時代の終る頃までをこゝに過したので、後年の手紙に「山宅」とあるのは この地を指すのである。
地は高爽、松本の村落は指呼の間にあり、景は雄大、萩の城下を俯瞰して遠く日本海の
怒涛に對す。
写真は「樹々亭」宅趾の位置を示すために据えてある敷石を近景として、略〃西に向かって撮ったもので、中景は萩市、その中央に突起する山が萩城趾をその麓に抱く志都岐山、遠景は日本海である。
(「吉田松陰全集」全12巻 (1936)第5巻の口絵・説明文より)
百合之助新夫婦の水魚歎情も濃(こま)やかに、その翌々年の文政11年には、丹桂、枝を生ず、であり長男・梅太郎、天保元年に、寅次郎(*二男・松陰のこと)が生まれ、天保3年11月には、長女・千代子(後、芳子)が誕生し、続いて壽子、艶子、文子(後、美和子)、敏三郎の三男四女が出来たのであるが、艶子が夭死(ようし)したので、三男三女の母親として愛と誠を尽くして杉家一門の繁栄に40余年の生涯を捧げたのであった。
◇ 瀧子の里親・村田 右中
この(*前述の)毛利 志摩は、吉川 元春(*毛利 元就の次男)の分かれであり、阿川(豊浦郡)の毛利 輔三郎熙孝(ひろたか)である。
したがって(*毛利)志摩の領地は萩から10里も隔たっている阿川のことなので、藩政府の所在地である萩の城下に別荘を持っていた。
これは、中津江(なかつえ)と山裾である古畑(ふるはた)と云う所のようである。
ここは、上手(かみて)には萩八景で有名な青嵐(せいらん)の上津江があり、中津江の松本川寄りが八景で名高い夜雨(よさめ)である。
(一説では玉木 文之進 旧宅の手前であるとも云う。)
そして(*村田) 右中も、この別荘の近所に住み、(*毛利)志摩の別邸の世話係・番人とでも云ったようなものであった。
中津江 古畑の村田 右中(川島の里である杉家)古畑から田んぼを横切って松本川の土堤(どて)に出て、その川向いが川島の里であり、城下への通い道である。
したがって、いつとはなしに両家が知り合いとなったものであろう。
こうした関係から(*村田)右中は、杉家の家庭なり、百合之助の人物に見込みをつけて、娘を貰ってくれまいか、と申し込んだようである。
しかし、村田は財的には豊かであって陪臣(ばいしん)のことでもあり、杉家は貧しい家庭であっても、毛利氏本藩の直属である。
そこで前述のような養女問題が生じたわけである。
それに、この(*村田)右中と云う人物も、相当しっかりした人物であったに違いない。
陪審で別荘番をしていても生活に相当の余裕を生み出すと云った勤倹家であったようである。
しかも百合之助の人物を見込んで娘をやると云う見識などは、なかなか見上げたものである。
ことに(*村田)右中の男(*息子)で瀧子の弟が、かの有名な昌筠(しょうき)和尚で、別号を竹院と云い、萩・江向(えむかい)の徳隣寺で剃髪し、本山の南禅寺で業を積み、鎌倉・瑞泉寺の住職となった者である。
『性質は峻厳で、鎌倉の禅風を興す』と伝えられているほどであって、玉木 文之進に似たような極めて謹厳な人格であった。
松陰先生も、この竹院上人に大なる感化を受けられ『修身の工夫、死して後に已(や)むの説などを聞く』と云ってられ、下田踏海事件決行の如きも、隠に竹院上人の激励によるものであった。
瀧子の家庭に、こうした人格者が出ていることを思えば、瀧子の幼時の家庭の様子も想像することが出来る。
◇ 瀧子、嫁入り後の杉家の家庭
瀧子が杉家に嫁した後は、杉の家庭は一陽来復(いちようらいふく・*冬が終わって春(新年)が来ること。)、春風の和やかさに満たされて来た。
しかし、杉家は禄高、わずかに23石であった。
元来、その頃における長州藩の侍の給與と云うものは、どんなものであったであろうかと云うと、四公六民(しこうろくみん)と云う制度があって、23石を取る者は、その中から租税として4割を納めなければならないし、その上、御馳走米(ごちそうまい)などと云う名義で、寄付を仰せ付かることがあり、したがって実収は、ざっと公称の石高の半分ぐらいであった。
なので、杉家としては、11, 2石の収入で衣食住の一切を賄っていかなければならなかった。
瀧子は、この所謂、やりくり世帯の主婦として日夜、寝食を忘れ、骨身を砕き、家政の整理に子女の教育に、一身を捧げなくてはならないように約束づけられていたのである。
今も昔も同に様に(*身につまされるが)、中産(*階級)以下のこうした切りつめた武士の生活の心苦、悩みのなかに、ただ国へのご奉公と云う一念で全ての不足、不自由を堪え忍びつつ、忍苦堅忍、一家一門をあげて静かに忠孝一本の勤王思想を培(つちか)いつつ、武門の女性としての誉れを全(まっと)うしたのが瀧子であった。
また、こうした武士の家庭の雰囲気が、あの幕末維新の変革を生ませた所であることを思えば、現時(*昭和、戦前期)に瀧子の全貌を敢えて筆にした著者の意中も理解されることであろう。
◆夫 百合之助の平常
◇ 杉家の新しい推進力
新妻を迎えて新家庭を作った百合之助は、さだめし希望に燃えつつ心から喜びに飛び立つ思いをしたことであろう。
弟の大助(だいすけ)や文之進なども、兄嫁の姐さんとして、さだめし賑やかに、共々、
兄を助けて田畑も耕し、また静かに読書、自修に励んだことであろう。
夫と別れて寂しい母も、さだめし若嫁や百合之助の兄弟などを相手に子心から安堵して、打ち談じたことであろう。
それにもまして、新妻である瀧子は士分(しぶん)に嫁したと云うその誇りと希望に燃えつつ半士半農の生活にせっせと精進したことであろう。
こうして、今まで物寂しかった(*杉家の)生活も急に明朗化して、各々、杉家の更生、復興の気分にみなぎりつつ、この城下を離れた東光寺山の麓である山屋敷の田園生活に、
大自然を友として一家、仲、睦(*むつ)まじく暮らしたのである。
ところで、この一家団欒(だんらん)の家庭の新しい推進力であった新妻・瀧子の平常は、どうであったろうか。
それは夫の影に添うように立ち働いていた瀧子としては、配偶者である夫・百合之助の行状を知れば、自然と瀧子の日常もよく分かってくるわけである。
後年、長男の梅太郎が父の逸話として書き留めて置いたものがある。
(*以下、意訳、長文。)
護国山南麓の団子巌(だんごいわ)の下に宅を定めて、もっぱら畑を耕し生業とするも、そのなかでも終身、読書に勤め、米をつくには、台柄に見台を拵えて添えて書を見、子供・梅太郎、大二郎の素読は、おおよそ畑で教え、自身も耕作の際には常に勤王に関わる詩文などを吟唱(ぎんしょう)し、自然と子供の勤王の心も幼年より養成した。
寅次郎(吉田松陰)が、己未の年、関東に出立の時(安政6年5月23日)、『奉別家大人』(家大人に別れ奉る)の漢詩があるのもこの事である。
(*その詩は、以下の通りである。)
松陰先生の書(口絵より)
平素趨庭違訓誨。斯行独識慰厳君。耳存文政十年詔。口熟秋洲一首文。小少尊攘志早決。蒼皇輿馬情安紛。温清剰得留兄弟。直向東天掃怪雲。
【文語訳】
平素、庭を趨(はし)り訓誨(くんかい)に違(たが)ふ。
斯(こ)の行 独り 厳君を慰むるを識(し)る。
耳に存す 文政十年の詔。
口に熟す 秋洲一首の文(神国由来のこと)。
小少より尊攘の志 早く決し、蒼皇(そうこう)たる輿馬(よば)(あわただしく江戸に檻送されること)情安(な)んぞ紛せん。
温清(おんせい)(子が父母にことふること)剰(あま)し得て 兄弟に留め、直ちに東天に向つて 怪雲を掃(はら)はん。(吉田松陰・東行前日記を参照。)
(口語訳)
平素はいつも庭訓【1】に違つてばかりいて誠に相済みませんが、今回は是非御安心下さい。
【1】 庭訓(ていきん)
孔子が、庭で、子の鯉 (り) に、詩経や礼記を学ばなければならないことを教えた、と云う論語・季氏の故事から、家庭での 教訓、の意。
父上、あなたの幼児の訓育は平常より腹の底まで十分に透徹しております。
あの文政十年の御詔書は、いつも耳底に存し、神国由来は日夕、口に熟(こな)して(*口ずさんで)おります。
決してご心配は御無用、尊攘の大精神はあの子供時代より早く既に決しております。
いま自分はあわただしく檻送(かんそう)されて江戸表(おもて)に行きますが、ご両親への孝養は、兄上や妹などに顧(かえりみ)て今回は必ず御教訓に違わず、直ちに、東天に向かって怪雲を掃(はら)わんとするものであります。
(口語訳、以上。)
この時、百合之助は、今度こそは平生の持論を述べて、決して卑怯(ひきょう)なことがあってはならぬ、と励ましている。
その他、茶山(菅)【2】、杏坪(頼)【3】、山陽(頼)(*頼 山陽)などの楠公、その他の詠史類(えいしるい)の勤王に関した詩、又は、毛利公に関わる詩は、大概、暗記し、常に沈吟した。
【2】菅 茶山(かん ちゃざん(さざん))
江戸後期の備後生まれの儒学者、漢詩人。
化政文化の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは彼の廉塾を訪ねたと云う。
【3】頼 杏坪(らい きょうへい)
江戸時代の儒学者。広島藩士。
「芸備孝義伝」、「芸藩通志」などの藩史編纂にも携わった。
弟の文之進、時々、戯(たわむ)れて云うには、「今日は、何が付きなるの」と、その日、その日に、口癖に幾遍も反復して吟じたのであった。
会沢【4】の新論などの手写しの書は、今なお、現存する。
【4】原文では、会沢としか記載がないが、おそらく、会沢 正志斎(あいざわ せいしさい)水戸藩士、水戸学・藤田派の学者・思想家と推測される。
百合之助40才、天保14年卯年(1843年)、藩政改革が更に進んだとき、羽賀台お狩りの見合(これは家格・下級武士 上等である無給通組士のなかの百人の内の試行であった)を仰せ付けられ、引き続き、盗賊改方 (あらためかた)、百人中間頭(ちゅうげんがしら)を仰せ付けられ、(*指月のお城近所の)出宿住居で在職中でも躬耕(きゅうこう・*自ら田を耕すこと。)読書を怠らなかった。
([*その後、度々、転居しているが樹々亭を百合之助が買い求めてから28年目]嘉永6年丑年、いまの家を借りて転居し、その後、私(梅太郎)の代になって買い取った。)
(*百合之助は、)無用な話を嫌う、時を惜しむためである。
客が来ても話はするが、あえて、敢えて(*話の)端緒を自分から開かず、他人の家に行っても要件が終われば速やかに辞して帰り、無用な話をしなかった。
かつて、私(梅太郎)に戒めて云うには、
「汝のように書を読まずして、話ばかりすれば、話す事は尽きるであろう。」と。
その(百合之助の)苦学は、久坂義助(玄瑞)が同居中に深く感じて、しばしば賞嘆(たんしょう)していた。
一、神を敬い、潔癖ぐせはあった。
毎朝、家の者の中では第一番に起きて、自ら一番の薪水(しんすい・たきぎを拾い水をくむ)を汲み、先祖の霊に供える。
もし、(*自分が)病気の折は、梅太郎、又は妻と交代し、決して手伝いには汲ませなかった。
春秋(の彼岸)の先祖の祭忌日を(家族の誰かが)怠けてからは、自分で祭った。
毛利先公の廟や、仰徳社【5】や産土神(椿八幡宮)【6】などへ参詣するのは、年に三度ずつぐらいであった。
【5】明和7年( 1770年)に元就公を仰徳大明神と称し,改めて主祭神とし、神社名も仰徳と称し,
改めて主祭神とし、神社名も仰徳社と称した 。
現在の豊榮神社(とよさかじんじゃ)と野田神社のこと。山口市天花一丁目。
【6】(つばきはちまんぐう)鎌倉時代、1243年、源頼朝の命を受け、長門・守護職の佐々木四郎高綱が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の分霊として祠を建立したのがはじまり。
江戸期になるも、藩主・毛利氏の尊崇が厚かった。萩市椿。
(*参詣の折は、)必ず前日から潔斎、幣代、ご香典の銭は、耳白(みみしろ)【7】を選び、
清水で洗い包み、深夜に起きて、自ら水を汲んで湯を沸かして浴し、その湯水などは、他人の手が触れるのを許さなかった。
【7】寛永通宝(かんえいつうほう)のこと。
江戸期に広く流通し、寛永13年(1636年)から幕末まで鋳造された丸屋銭( まるやせん)。
5億枚が鋳造されたと される。
(*こうして、)参詣の片道は、必ず夜の明けないうちに参詣した。
途中、いろいろな人と出会うのを嫌った。
(*この時のために、)上下の衣服、懐の中の扇子、下着にいたるまで常に別に用意しておき、決して着飾らず、ただ清潔さだけ(*に気を使い)、帰り道も他家に寄り道をすることは必ずなかった。
一、人の窺(きゅう)を救う面では、母の妹・岸田氏の長患いを引き受け、亡くなるまで看護し、又、妻の姉・大藤氏の娘と共に暮らし、二人とも疫病にかかると保養を引き受けるなどは、皆、山中(山屋敷)で、畑を耕し、生計が苦しい時のことであった。
一、慶応元年3月より肺感冒で病床にあり、起きては座り、時としては庭を散歩するけれども読書はやめなかった。
時々、庭前の除草などをし、初秋になって(病気が)再発しては御大事と、医者より云われていたが、7月15日夕方、入浴後、ふと悪寒を覚え再発の兆候があった。
それからは、読書も止めて、子、孫、手伝いにも怒ることばは避けて、誠に素直で、ただ医者のことばに従い、服薬の程度を守るだけで、この病気治るか治らぬかなどのことは聞かず、親類は、相談して他の医者にも見せようと云ったけれども、「青木研蔵【8】、これのように(医者が)心を尽くし、それにて治らぬは命なり。いろいろ心配するのは迷惑である」と、承服しなかった。
【8】江戸後期から明治期にかけての医師。萩藩の侍医などを務め、藩内ではじめて種痘
を実施したことでも知られる。
明治2年に宮内省大典医になるも翌年、死去した。
病変の日、親族、枕元に集まると、「今日は、よろしき天気。最早、長く生きられぬ、
一つの物が二つに見える」と言って、第一に(玉木)文之進に亡夫の遺戒を述べ、
それから順々に遺言をし、食後、私(梅太郎)より食せよ【9】と言う間、一口含んで、それより、半日ほどで亡くなった。
【9】家族で最初に食せよ、杉家の主(あるじ)に、との意。
実に、慶応元年8月9日であった。
倹素を好むも、身に奉ずること薄く、常に僅かな食事でも座を改めいただいて食する。
衣服は、終生、木綿ばかり、病中に紬の丹前をこしらえて着せてあげるも、
いつもこれは、除けて置いて、木綿のものにせよ、と云って、最後まで紬の分は不要となった。
その丹前は、今、なお現存している。
(以上、ここまで意訳。)
(*以上)これは、百合之助の一生の歴史であり、全生涯の縮図であり、家庭の行事記であり、杉氏の家風の略伝でもある。
素朴にして謹言、子女の教育より一家の親睦、敬神崇祖より憂国勤王の精神まで、細々と窺うことができる。
と共に、その死に直面し、崇高な人格の顕われた信念の様子までが、よく伝わってくる。
瀧子は、こうした崇高な夫と40余年のその間、何一つ不平不満もなく、喜び勇んで同居生活を営んできたのである。
◇ 杉家の勤農日記
夫・百合之助の天保13年(*1842年)の日記が、今、残っている。
試みに、その春の3月と10月の中から一部分を選抄してみることにしよう。
杉家の家風を知る最好の資料であろう。
当時、百合之助は38歳、妻の瀧子は36、長男・梅太郎は15(文政11年生まれ)、次男の寅次郎は13歳(天保元年)、長女の千代は11(天保3年)、壽子は5歳(天保9年生まれ)であった。
(以下、意訳)
天保13年3月
10日。
晴天○下の固屋(こや)ふき下げ、ふき調(ととのえ)る。○風呂、焚き、馬、洗う○木引(こびき)来る。○佐孫(百合之助の妹婿・佐佐木 孫右衛門)手子頼(てごより)(手伝いに来るの、意。)
11日。
朝、雨降り、晴れ間無し○下の固屋、大掃除○木引(こびき)来る。○玉文(玉木文之進)、杉梅(杉 梅太郎)、吉大(吉田 大次郎)3人連れで、麦土尾寄(畑の土をよせること)○七(ななつ)上り比(ころ)より平安湖(ひあこ)(城下の町名)
12日。
晴天○上野(松本の隣村)に薬を買いに行く○苗代、出来る○芋、蒔く、その他○木引(こびき)来る。○加兼(出入り人の氏名を略したもの)来る、草取り。
13日。
晴れ○佐孫(*百合之助の妹婿・佐佐木 孫右衛門)来る、平地廻りの用事○馬ふん固屋(こや)、中仕切り、垣調、手子人(てごにん)加兼○猿豆(えんどう)くい(杭)立○木引(こびき)昼前から過ぎるまで来る。
14日。
晴天○上野へ竹を取りに行く○もみ蒔く○隣りの固屋(こや)を掃除、下の固屋(こや)の内外を掃除、土持寄る。
15日。
晴天○瀬戸(せど)(後ろの庭、の意)を掃除、土持○馬洗い、風呂炊き○田貳町打ち返し。
16日。
晴天○修士持。
17日。
大東風、雨降り用意、薪入れ、廻り掃除、その他、ひるより藁(*わら)細工。
18日。
早朝、飯、後より晴れ○木の皮むき○麦荒附○田貳町、荒起し○月代(つきしろ・*ちょんまげ)を結ぶ○夜中、宇野(妻・瀧子の姉の家)へ行く。
19日。
晴天○曽木ふき、○手子、佐孫(*百合之助の妹婿・佐佐木 孫右衛門)、玉文(*玉木文之進)。
20日。
雨天○廻り、掃除(家のまわりを掃除、の意)○昼前より晩まで玉文(*玉木文之進)手子、
田、残さず荒起こしが済む。
10月20日。
晴天○ヲキノ畠(家よりやゝ遠い所の畑である)に麦を蒔く。
21日。
晴天○早朝、米、精米。
22日。
晴天○終日、藁麦たゝき。
25日。
晴天○内の藁麦さび、皆、済み○玉木、藁麦たゝき初め。
24日。【原文ママ】
曇天○玉木、藁麦たゝき上げ○麦へ水、肥掛け。
25日。
寒風○米、精米。
26日。
寒風。
27日。
寒風○庭の棚つり。
28日。
晴天○しだ刈○風呂炊き、平茎(ひらくぎ)取る○大照院(藩主の廟所)日参○夜、出る。
29日。
晴天、暖かい○平茎(ひらくぎ)洗う○ヲキ畠スソ(畑の縁、の意)に白猿豆(しろえんどう)を蒔く。
◇ 感謝の日常
これらが、東寺の家庭の行事であった。
質素勤勉、そのもののようである。
何事にも労苦を厭(*いと)わず喜んで、せっせと働くと云う杉家の美風がよく顕われている。
いつも野良仕事には、一家総出で、親も子も兄弟も、時には親戚の者も相、携えて常に田園に土と親しんでいる。
田植えもすれば畑も作る。
麦も蒔けば野菜も作る。
蕎麦(そば)も大豆も猿豆(*えんどう)も作る。
副業には、綿や麻や藍までも栽培する。
米つきもすれば木割りもする。
それに夏の炎天には梅太郎や寅次郎などをつれて、後ろの山にしば刈に出かけ、また山畑の草取りもする。
霧の朝には薪(たきぎ)を採りつつ、一面には子供などの筋骨錬磨に資し、浩然(こうぜん)の気をも養わせる。
冬の炉辺(ろへん)に縄をない、草履を作り、藁細工(わらざいく)までもする。
母の瀧子は、炊事に洗濯に風呂焚きはもちろん、彼らの側で糸を紡ぎ、針仕事などをする。
そして感謝の その日、その日を いとも愉快に送ったのである。
しかもこの間において『大照院の藩主の墓参りをし、あるいは登城、先祖御祭礼』とまで
記している。
のみならず、親戚の訪問や町への買い物などは、大概、夜中に用を達する。
朝から晩まで働き通している辛抱ぶりである。
後年、久坂 義助(玄瑞)がその働きぶりを見て、『古い書物に勉強家のことは随分、形容して書いてあるが、杉の老人ほどの勤勉家は実際に見たことがない。』と云って、驚いていた程であった。
来客があって話をする時にも、ただ、そう、そう、と返事をするのみで、別に自分から話を始めると云う事はない。
また自分が人を訪ねても余談はせず、用事が済めば直に暇乞いをして還る。
決して無用な長話はしなかったのである。
常に家人に『話の種はつきるが書物は尽きぬ、話をする暇があれば読書をするがよい』と云っていた程である。
しかしそれていて社交は、なかなかうまく、他人が来れば必ず、あり合わせのもので饗応(きょうおう)して相当、執(と)り持つと云った風であった。
元来、仏法は嫌いであったが、かの有名な海僧・月性(げっしょう)が訪ねて来た時は、
喜んで応接し、月性も又、満足して帰った、と云われている。
――――――
*参考・杉家の一覧
杉 七兵衛常徳 (四代目) 夫妻の
➡長男・●百合之助 常道(五代目)
➡長男の妻・■瀧子 刀自
➡次男・大助(後の、●吉田賢良)
➡三男・文之進(後の、●玉木文之進)
・・・・・・
百合之助 常道(五代目)の
➡長男・修造(初めは●梅太郎 修道、通称・民治)
➡次男・寅次郎(後の、●吉田松陰)
➡三男・●敏三郎 (ことばが不自由だった)
➡長女・■千代子(後、芳子と改める)
母の養家の兒玉太兵衛寛備の男・祐之に嫁ぐ。後、二男三女の母となる。
➡次女・■壽子(希子)
小田村伊之助、後の明倫館の都講、揖取素彦に嫁ぎ、後、病没。
➡三女・■艶子 (3才で歿)
➡四女・■文子(後、美和子)
久坂玄瑞に嫁ぎ、玄瑞、没後、揖取素彦に嫁ぐ。
揖取素彦の兄は、松島剛蔵。
揖取素彦の弟は、百合熊、後、小倉健作、後、松田謙三である。
――――――
◇ 松陰先生の勤農思想
思えば、こうした杉家の勤農の家風は、後年、松陰先生にあっては、『富国強兵は勤農にあり』との主張となり、玉木 文之進にあっては、実地修練に基づく代官時代の民政の骨子となった。
嘉永3年6月、玉木 文之進が在萩の松陰先生に送った書翰の中に、
(以下、原文意訳)
『一、 畑の事、小豆、大豆、植え付けの守護、茶の守護までも大半、相、済みました故
安心の儀に存じます。 一、私、数年、農事に心を用い、所詮は今日で思い当たります。
県令たる者、この儀に熟練仕(*つかまつ)らずと申しては、勤農は、相、勤まらないと考えます。
その他、下役人連も同様の事に存じます。
委細、萩にお帰りの説、お話し致すべく、云々』と云っている。
また、嘉永年11月、東寺、在江戸の松陰先生は郷里の兄・梅太郎に『農桑の書は元(げん)の壬禎(じんてい)の農書、後魏(こうぎ)の賈魏の斎民要術[*賈 思勰(か しきょう)が著した華北の農業・牧畜・衣食住技術に関する総合的農専門書であり、中国に現存する最古で最も完全な農書。]・農圃大書・農桑輯要・農政全書・農事直説・農桑通訣・救荒本草・周礼荒政十二法・明の侖汝為(りんじょい)の荒政要覧・康済録(こうさいろく)、救荒切要などを必ず読むべきで、水利の書は武備志[(ぶびし)は、中国明代の天啓元年(1621年)に、茅元儀(*ぼう げんぎ)が編纂・刊行した兵法書。全240巻]の中に異域水法(いいきすいほう)と云うものが(*あり、)これである、云々』と書き送っておられるように、この山屋敷時代における杉家一門の人々の勤農労苦の実体験が直接、民政の上に応用、役立っていることを見逃すことが出来ないと共に、子女に対する幼時の躾(しつけ)、感化ほど大切なものはないと考えられる。
あの松陰先生などの兄弟が出来たと云うのも決して偶然のことではないのである。
――――――
吉田松陰先生 (口絵より)
家族の写真
国士としての松陰は、また杉家の次男 寅次郎であった。
その天分と努力もさることながら、不遇なる青年 寅次郎に対する両親 兄妹 弟 親戚の尊敬 愛護も又 この人を成すによって力があった。
書簡や日記の従うところに於て、この事は十分に想像せられる。
ここには その家族の人々の肖像を蒐めたが、父や叔父のものは見当たらない。
母の写真は原板不鮮明であるから、よりよく その人の面影を写している言われる油絵の写真を採った。
妹 壽(*四) 弟 敏三郎(*六)のものは明治初年の撮影である。
因みに敏三郎は その面影が松陰に酷似していたと云う。
(一)母 杉 瀧子 (二)兄 杉 民治(元、梅太郎) (三)妹 兒玉 芳子(元、千代)
(四)妹 楫取壽子 (五)妹 楫取 美和子(元、久坂 文)(六)弟 杉敏三郎
(「吉田松陰全集」全12巻 (1936)第5巻の口絵・説明文より)
次回、吉田松陰の母 を読む2 に続きます。
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/490184940.html
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
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