京都の夏は祇園祭・祇園祭の光景と歴史(2016年以降)33-2 大船鉾(リニュアル)
京都の夏は祇園祭・祇園祭の光景と歴史(2016年以降)33-2 大船鉾(リニュアル)
●大船鉾 (おおふねほこ)
【付録】
京のまつり研究会設立10周年記念 京・まつり展.
2016年7月20日(水)~7月24日(日)(入場無料・フラッシュ不可・撮影可)
於・京都文化博物館 より



○祇園祭山鉾34基の細密画(*より・大船鉾)
この細密画は、大船鉾・鷹山の一部を除き、故 松田 元が10数年にわたって書く山鉾町を取材され、各山鉾の姿を精密に描いた昭和56年以前の細密画である。
これら山鉾の前掛、胴掛などの装飾品が、その後新調され、現在の山鉾と差異が生じているものもあるが、当時の山鉾の記録としては、貴重な史料である。


大船鉾は(昭和7年中島荘陽画の写)は、現在の大金幣や舵(上図)を参考に復元構成されたものである。
○大船鉾図
岸 竹堂筆(複製)
岸 連山に師事した幕末明治の代表的な岸派の画家。
大船鉾をほぼ正面から描いた安政4年(1857)の作品。
文政9年~明治30年(1826~1867)

○大船鉾図
岸 連山筆(複製)
江戸後期に活躍し、岸 竹堂を育てた岸派の重鎮。作品は、のどかな雰囲気の19世紀前半のもの。
文化元年~安政6年(1804~1859)

○大船鉾図 鶴澤探泉【1】筆
江戸後期の狩野派画家。
鶴沢派4世で生年月日は不詳であるが、文化13年(1816年) 死去。
18世紀後半~19世紀前半の作品。
公益財団法人
奈良屋根記念杉本家保存会所有
【1】鶴澤探泉(つるさわ たんせん)。
名は、鶴沢守之。
若年時は式部と称する。
鶴沢探策の息子で鶴沢派4代目。
鶴沢派は、狩野派から分派した絵師集団で、初代・鶴澤探山から、探鯨、探索、探泉、探春、探龍、探真と続き、明治時代を迎えている。
寛政年間に、内裏の障壁画の作成に父・探策とともに参加し、小御所、常御殿などを担当した。
墓所は、京都・寺町二条・善導寺。

○大船鉾図 幸野媒嶺筆(複製)
大船鉾の町内生まれ【2】の四条派の代表的な画家で、明治には竹内栖鳳など多くのすぐれた門人を育てる。
明治14年の作品のようであるが、この以前にも類似の大船鉾を描いている。
弘化元年~明治28年(1844-95)

○大船鉾図 幸野媒嶺筆(複製)
大船鉾の町内【2】に生まれた四条派の代表的な画家で、明治には竹内栖鳳など多くのすぐれた門人を育てる。
これは明治5年以前の作品のようである。
弘化元年~明治28年(1844-95)

【2】幸野媒嶺(こうの ばいれい)
誕生の地の石碑が、下京区新町通四条下る西側にある。
【石碑】(表側)幸野楳嶺生誕地
(裏側)昭和 四十五年十月建立 豊

――――――――――――
2018年 瀧尾神社保有 龍頭
瀧尾(たきお)神社保有 龍頭
(2018年 祇園祭・資料としての掲載。)
【位置】下京区四条通高倉西入立売西町 大丸京都店1F・ロビー
【交通】地下鉄烏丸線・四条、阪急電鉄 京都線・烏丸
四条通、百貨店の南面にある。
説明文によると、
1839年に大丸創業の下村家より、瀧尾神社拝殿に奉納されたこの龍彫刻は、2016年「大船鉾の龍頭復元」の参考となったものです。
本体は全長8メートルに及び、龍彫刻では日本最大級のものとされ、作者は当代随一の彫刻家「九山 新太郎」であることが文献に遺されています。
当時の大船鉾もまた、新太郎の父「九山 新之亟(しんのじょう)」の作品である可能性が高く、天保から元治元年に至る5年間、兄弟龍として存在していたと考えられています。
およそ200年の時を経た今、再び現存することとなった2体の龍は、大船鉾・瀧尾神社・大丸にとって、深い御縁を感じさせるものとなっています。
と、あった。
撮影・可であったが、乱反射が激しかったです。




―――――――――――――
瀧尾神社 拝殿天井の龍
瀧尾神社(たきお じんじゃ)
【位置】東山区本町11丁目
【交通】JR奈良線・東福寺、徒歩約3分
境内無料、撮影可。
駒札によると・・
主祭神は大己貴命(おおなむらの みこと)。
ほかに大黒点(大国主命)と弁財天、毘沙門天の三神も祀られる。
創建年代は不詳。
洛東聾ノ谷(* つんぼだに。東大路五条の東 とも)にあった武鵜社(たけうのやしろ)が、応仁の乱(1467-1477)で焼失、日吉坂に移転し多景社と称した。
更に天正14年(1586年)に現在の地へ移された。
宝永年間(1704-1711年)、「瀧尾神社」と改称。
現在の社殿は、江戸時代剛毅・天保10年(1839年)から翌11年にかけ、大丸の創業家である下村家により整備された。
本殿は、貴船神社奥院旧殿を移築したもので、拝殿など計八棟が京都市指定有形文化財である。
拝殿の天井の龍は全長8メートルに及ぶ躍動感にあふれた彫刻で、京の九山新太郎の作である。
回廊には十二支、水鳥や阿吽の龍、獏、鶴、鳳凰、尾長鳥、犀や麒麟などの動物や霊獣の彫刻がある。
京都市
と、ある。
朱の鳥居は、南面にあり、すぐに拝殿がある。

拝殿から本殿を見る



拝殿の天井の龍(撮影、難易度高し)
平成28年以降、祇園祭の大船鉾の船先の龍頭が同じ当神社の龍の作者と同じであったため、
修復と同時に見本として貸し出して以降、祇園祭が近づくと、この天井の龍の首は外されて又、貸し出されているそうである。
また、かつて、この龍は夜な夜な抜け出し、境内の北側を流れる熊野川に水を飲みに行っていたという噂も、熊野川が、暗渠(あんきょ)になってからは、なくなったとか。
ここの龍も、いろいろと災難続きではあります。






河原町御池での辻回しの光景(2019年)
大船鉾 (おおふねほこ)
前祭の船鉾が出陣船鉾と称されるのに対し凱旋船鉾といわれ、幕末以来 約150年ぶりの
復興を果たす。
(無料配布・京都市観光協会・説明文、より)















以降、今後も継続の予定です。
●大船鉾 (おおふねほこ)

【付録】
京のまつり研究会設立10周年記念 京・まつり展.
2016年7月20日(水)~7月24日(日)(入場無料・フラッシュ不可・撮影可)
於・京都文化博物館 より



○祇園祭山鉾34基の細密画(*より・大船鉾)
この細密画は、大船鉾・鷹山の一部を除き、故 松田 元が10数年にわたって書く山鉾町を取材され、各山鉾の姿を精密に描いた昭和56年以前の細密画である。
これら山鉾の前掛、胴掛などの装飾品が、その後新調され、現在の山鉾と差異が生じているものもあるが、当時の山鉾の記録としては、貴重な史料である。


大船鉾は(昭和7年中島荘陽画の写)は、現在の大金幣や舵(上図)を参考に復元構成されたものである。
○大船鉾図
岸 竹堂筆(複製)
岸 連山に師事した幕末明治の代表的な岸派の画家。
大船鉾をほぼ正面から描いた安政4年(1857)の作品。
文政9年~明治30年(1826~1867)

○大船鉾図
岸 連山筆(複製)
江戸後期に活躍し、岸 竹堂を育てた岸派の重鎮。作品は、のどかな雰囲気の19世紀前半のもの。
文化元年~安政6年(1804~1859)

○大船鉾図 鶴澤探泉【1】筆
江戸後期の狩野派画家。
鶴沢派4世で生年月日は不詳であるが、文化13年(1816年) 死去。
18世紀後半~19世紀前半の作品。
公益財団法人
奈良屋根記念杉本家保存会所有
【1】鶴澤探泉(つるさわ たんせん)。
名は、鶴沢守之。
若年時は式部と称する。
鶴沢探策の息子で鶴沢派4代目。
鶴沢派は、狩野派から分派した絵師集団で、初代・鶴澤探山から、探鯨、探索、探泉、探春、探龍、探真と続き、明治時代を迎えている。
寛政年間に、内裏の障壁画の作成に父・探策とともに参加し、小御所、常御殿などを担当した。
墓所は、京都・寺町二条・善導寺。

○大船鉾図 幸野媒嶺筆(複製)
大船鉾の町内生まれ【2】の四条派の代表的な画家で、明治には竹内栖鳳など多くのすぐれた門人を育てる。
明治14年の作品のようであるが、この以前にも類似の大船鉾を描いている。
弘化元年~明治28年(1844-95)

○大船鉾図 幸野媒嶺筆(複製)
大船鉾の町内【2】に生まれた四条派の代表的な画家で、明治には竹内栖鳳など多くのすぐれた門人を育てる。
これは明治5年以前の作品のようである。
弘化元年~明治28年(1844-95)

【2】幸野媒嶺(こうの ばいれい)
誕生の地の石碑が、下京区新町通四条下る西側にある。
【石碑】(表側)幸野楳嶺生誕地
(裏側)昭和 四十五年十月建立 豊

――――――――――――
2018年 瀧尾神社保有 龍頭
瀧尾(たきお)神社保有 龍頭
(2018年 祇園祭・資料としての掲載。)
【位置】下京区四条通高倉西入立売西町 大丸京都店1F・ロビー
【交通】地下鉄烏丸線・四条、阪急電鉄 京都線・烏丸
四条通、百貨店の南面にある。
説明文によると、
1839年に大丸創業の下村家より、瀧尾神社拝殿に奉納されたこの龍彫刻は、2016年「大船鉾の龍頭復元」の参考となったものです。
本体は全長8メートルに及び、龍彫刻では日本最大級のものとされ、作者は当代随一の彫刻家「九山 新太郎」であることが文献に遺されています。
当時の大船鉾もまた、新太郎の父「九山 新之亟(しんのじょう)」の作品である可能性が高く、天保から元治元年に至る5年間、兄弟龍として存在していたと考えられています。
およそ200年の時を経た今、再び現存することとなった2体の龍は、大船鉾・瀧尾神社・大丸にとって、深い御縁を感じさせるものとなっています。
と、あった。
撮影・可であったが、乱反射が激しかったです。




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瀧尾神社 拝殿天井の龍
瀧尾神社(たきお じんじゃ)
【位置】東山区本町11丁目
【交通】JR奈良線・東福寺、徒歩約3分
境内無料、撮影可。
駒札によると・・
主祭神は大己貴命(おおなむらの みこと)。
ほかに大黒点(大国主命)と弁財天、毘沙門天の三神も祀られる。
創建年代は不詳。
洛東聾ノ谷(* つんぼだに。東大路五条の東 とも)にあった武鵜社(たけうのやしろ)が、応仁の乱(1467-1477)で焼失、日吉坂に移転し多景社と称した。
更に天正14年(1586年)に現在の地へ移された。
宝永年間(1704-1711年)、「瀧尾神社」と改称。
現在の社殿は、江戸時代剛毅・天保10年(1839年)から翌11年にかけ、大丸の創業家である下村家により整備された。
本殿は、貴船神社奥院旧殿を移築したもので、拝殿など計八棟が京都市指定有形文化財である。
拝殿の天井の龍は全長8メートルに及ぶ躍動感にあふれた彫刻で、京の九山新太郎の作である。
回廊には十二支、水鳥や阿吽の龍、獏、鶴、鳳凰、尾長鳥、犀や麒麟などの動物や霊獣の彫刻がある。
京都市
と、ある。
朱の鳥居は、南面にあり、すぐに拝殿がある。

拝殿から本殿を見る



拝殿の天井の龍(撮影、難易度高し)
平成28年以降、祇園祭の大船鉾の船先の龍頭が同じ当神社の龍の作者と同じであったため、
修復と同時に見本として貸し出して以降、祇園祭が近づくと、この天井の龍の首は外されて又、貸し出されているそうである。
また、かつて、この龍は夜な夜な抜け出し、境内の北側を流れる熊野川に水を飲みに行っていたという噂も、熊野川が、暗渠(あんきょ)になってからは、なくなったとか。
ここの龍も、いろいろと災難続きではあります。






河原町御池での辻回しの光景(2019年)
大船鉾 (おおふねほこ)
前祭の船鉾が出陣船鉾と称されるのに対し凱旋船鉾といわれ、幕末以来 約150年ぶりの
復興を果たす。
(無料配布・京都市観光協会・説明文、より)















以降、今後も継続の予定です。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
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