「ゴンクールの歌麿」を読んで観る 10・第15章
本篇は、ゴンクール著・歌麿(明治24年、出版)野口 米次郎 訳(昭和4年、刊行)の底本を、あくまで趣味的に、現代語訳で読み解くものです。
(図は全て底本・著作権満了のものより)
―――――――
(*参考図は、青楼絵抄年中行事. 下之巻
十返舎一九 著、紫屋歌麿<喜多川歌麿>筆。
上総屋忠助、享和4(1804)刊。
著作権満了のものより)
● 15章の続き
(本文・続き)
第7図 「倡家(*しょうか)の方式」
(*西楼年中行事)



客が馴染みの遊女に内緒で他の遊女と遊んだりして不実な行為をすることは、全然、吉原では禁じられていた。
それ故、その遊女は、かかる男を罰する権利をもっている。
彼女は、この不実な男を捕えるために新造を遣って、彼の行く家を見届けさせて、その帰路を待ち伏せして力づくで彼を自分の許へ連れて来る。
そして思う存分に悪戯をして敵を打つのである。
この第7図は、有罪の男が禿(かむろ)の扮装をさせられ、馴染みの遊女の前に跪いて詫びをいれている所である。
そして裏切られた犠牲者の花魁は朋輩の遊女達を集めて笑い騒いでいるのである。
【訳注】
「少妓(しんぞう)駒下駄の鼻緒を切って溝へ踏み込み、客用水桶を小楯となして、手桶の水を天窓よりかぶり、誰そや行燈をひっくりかえし、井戸端にすべりこけて軒下の犬を驚かし。
おくり物をさげ行く茶屋の男に鉢を割らせ、狼狽もて糞鳥のてんべん棒にはゆきあたらず。
にけ出す羽折は斜りひらつき、追かくる振袖は朝風にひるかへり。
見物人の山をなしてゆく道をさへぎり。
終に多勢に捕へられてかの馴染めの家にいたる」
と、不実な客が捕えられる場面を、(*十返舎) 一九は、そう書いている。
第8図 「餅つきの図」
(*西楼年中行事)



これは、お正月の餅つきの画で、遊女屋のものは、誰も彼も皆、一緒になって愉快そうに餅を造っている。
客らしい男も土間に腰をかけて、その有様を眺めている。
(*参考図は、青楼絵抄年中行事. 下之巻
十返舎一九 著、紫屋歌麿<喜多川歌麿>筆。
上総屋忠助、享和4(1804)刊。
著作権満了のものより)
第8図 「倡舗張付彩工の図」
(*西楼年中行事)



本図は、画家が遊女の店を飾る部屋の板と板全体に大きな鳳凰の画を描いている所である。
――――― この画家は歌麿自身によく似ている。
本図は、「西楼年中行事」の目次に記入されていない。
また、その目次は、かなり乱暴に作られたもので、その文字が挿画の外題とも一致していない所さえある。
本書(*「西楼年中行事」)が出版された頃、吉原の遊女は四階級に分かれていた。
第一階級は、仲の町の遊女。
第二階級は、中店の遊女。
第三階級は、小見世の遊女。
第四階級は、切り店の遊女。
第一位の青楼の数は、第二位のものの三分の二、第二位の青楼の数は、第三位の十分の一、第四位の遊女屋は、第三位の数より四分の一多かった。
それ故、第一位の遊女屋の数は極めて少なかったのである。
有名な遊女は非常に限られていて、一般に歌麿のような画家達の筆が描いた女性は、その有名な遊女のみであった。
18世紀から19世紀初頭にかけて、江戸の全住民に対し吉原廓中に住んだ女性の総数は、6,300人に過ぎなった。
そして、その6,300人の女性の中で春を売る女性の数は2,500人を数えたのみである。
今、吉原に生活していた男女は、その属すべき階級が定まって、その仕事は異なっていたが、それを私は明瞭に語ることが出来ない。
しかし、太鼓持ちと芸者と云う特殊のものがあって、その生活状態は、ヨーロッパには殆ど知られていないものである。
太鼓持ちは、客に愉快を与えると云うのが商売の人間で、滑稽な同伴者であった。
廓の行きな案内役で、芸者と同様に茶屋から招かれて「婚姻」の場席に臨んだ人間であった。
そして、その「結婚」を華やかにさせる役目を勤めた人間である。
日本人の語る所によると、太鼓持ちらは、非常に気の利いた目から鼻へ抜けた江戸のこと全てに通じていたようである。
彼らは人に退屈させない性格を持っていた。
人は彼らに何の遠慮なく何事をも打ち明け、何の心配なく如何なる秘密をも語ることが出来た。
彼らは、そう云う心の置けない人間である。
そして彼らは、言葉通りに正直と来ていた。
彼らは、一定の給金と客が特殊に与える「花」以外に何物も受け取らなかった。
(続く)
―――――――
第48図 口紅をつける女 大判錦絵
(底本・著作権満了)

本図は上村永寿堂から出ている。
歌麿は、少なくても三枚のこれと同じ題目で立派な芸術品を作っている。
その中でも本図は、恐らく最もいい作品であるかも知れない・・・
第一に女性の着物の描線が簡単に明瞭におもしろく出来ている。
それから鏡と女性の着物の衿などの黒色に膠(にかわ)を混ぜた漆絵がたくさんあるが、錦絵時代になって膠の応用が少なくなった。
これを歌麿が、ここに適用したことは、彼の賢明さを物語るに十分である。
彼は昔からあった技法を活用している。
雲母摺のようなものも、その一例である。
本図は繊細の感があるが、私を最も喜ばせる歌麿物の一つである。
本図の製作は、寛政9年度であろう。
―――――――
第49図 錦織歌麿形新模様 文を見る女
大判錦絵

本図の人物を後にして、ここに書き込んである歌麿の芸術的抱負に、まず私は注意を払いたい。
「夫(*そ) れ吾妻にしき絵は江都の名産なり然るを近世この葉画師 専ら蟻のごとく出生し只 紅藍の光沢をたのみに怪敷形を写して異国迄も其(*その) 恥を伝る事の嘆かわしく美人画の実意を書て世のこの葉どもに与(*よ) ることしかり。」
これを読んで歌麿の性質まで及んで、その心理状態を推量すると、彼はかなり、粗剛な男子的一面を備えた人であったかも知れないと感じざるを得ない。
つまり、彼に挑戦的勇気さえあったらしく思われる故に本図の冒頭にある文字は歌麿の個性を解釈する好資料とも成るであろう。
そして、この堂々たる意気込みに本図の芸術的価値は相応しいものであろうかが問題である。
私はもちろん、名作の一つであることを許すに惜しむものでないが、彼はもっとこれ以上に立派な作を以前に作っている。
芸術家は誰でも今日をもって昨日に劣ると思う者はあるまい。
そして歌麿も本図の出来た寛政9年度の作品を「婦女人相十品」時代に劣ったとは感じなかったであろうが、今日、私共は本図に多少、芸術的広の跡を見ない訳にはいかない。
もちろん、その技巧は冴えている。
詳細の注意は、よく行き届いている。
しかし、画面の魂は、依然のものほど大きなものでない。
本図を版画の技巧から見ると、第一に紫色の着物が板ボカシの手法で藍の陰影を出している。
城綸子の襟がカラ摺で模様を浮き出にして、帯は網代垣に菊の模様で表している。
云うまでもなく版画としては最高潮の上に立ったもので、歌麿の苦心は、私共は十分に認める。
しかし、前に云ったように彼の芸術審に一進歩を割かしたものとは云えない。
―――――――
(本文続き)
このような卑賎な職業についていたが、太鼓持は、立派な教育と十分な教養を受けていたもので、江戸の学問の中心なる聖堂入門試験に失敗した志願者ぐらいの資格は持っていたのである。
故に吉原以外でさえ金のあるものならば、舟遊びをする時とか隅田川の土手を散歩する場合などは、太鼓持ちを連れて行ったようなものであるそうである。
この不思議な人間と一緒にいると君は1秒たりとも退屈しない。
彼は君の希望する以上にお喋りをしない。
彼らは君の不快を一掃してしまうことの出来るだけの技量を持っていた。
この太鼓持と云う男は、君が余りにも飲み過ぎた場合に勘定の誤りの無いようにと、確実に君の財布や貴重な品を保管する。
君が土手の上の茶店に休憩する。
あるいは薔薇色に周囲を色どる花盛りの景色を通るとする。
この場兄隅田川をなお一層、面白く眺めさせてくれる奴は太鼓持である。
彼らを連れて料理屋は入ると、君は最上の部屋に通され、君の注文した品々は、完全なものとなって現れる。
なお、彼らはどこの家とも懇意にしていて、彼らによく思われないと、その家の商売は成り立たない。
芸者の大勢いる酒宴の席で、君のために進行係の役目をするのは彼らである。
ここにおいて太鼓持が、どうしても必要である。
彼らはすべてを甘く動かし、また芸者全体を上機嫌にさせる。
太鼓持は歌うことも踊ることも、また茶番を演じることも出来たのであるが、適度にその才能を抑えた。
そして芸者に暗い陰を座らせるようなこともないだけの用心は忘れなかった。
彼らは二流所の青楼へ出入りしなかった。
この二流所の家へ呼ばれて行く太鼓持を「野太鼓」と呼んだ。
つまり本物でない太鼓、田舎の太鼓と云う軽蔑の意味を持つのであろう。
仲の町の大通りを出入りする芸者を「見番」と呼んだ。
彼らはどこへ行くにも女同士二人ずつであった。
このことは彼らが秘密の行為をしないことを説明し、また男から挑まれる場合の護身でもあった。
もし彼らに不都合な男との関係があると、直ちに彼らは吉原から除外される。
一般に彼らの行為は咎めるべきでないとされていた。
こう云う階級の女性と、全く階級を異にした男との結婚が多いのを見ても、彼らが純白であることは説明される。
芸者と太鼓持とは、その事務所の支配下にあるので、そこに彼らの名前が書かれた木製の札がイロハ順に懸けられている。
ところで、彼らに席がかかると直ぐに、事務所における彼らの札がはずされて、口をかけた家の名前の下へ懸け直されるのである。
二流所の家には、家付きの芸者がいて、そこに住み込んでいる。
青楼では、直接に芸者や太鼓持を呼ぶことは出来ない。
いつも彼らの事務所を通さなければならない。
大火でもない限り、彼らは定刻以上に招かれた家に留まることが出来ない。
もし定刻を過ぎた時には、呼んだ家はこれに対する賠償金を払わされる。
そして彼らは、規定通りのある期間その期間、その組合の出入りを禁じられる。
吉原以外のところへ芸者を呼ぶ場合には、数日前からそのことを茶屋を通じて申し込んでおく必要がある。
芸者は客と一緒に散歩したり小旅行をする場合には、いつも茶屋の男衆か箱屋が一緒について行くことになっている。
ここに不思議な命令がある。
太鼓持や芸者が遊女の部屋にいるときは、彼らはその遊女に主従の尊敬を払わなければならないことである。
何故ならば、大夫達はお后様のように取り扱われるべきであるからである。
次回は、「ゴンクールの歌麿」を読んで観る 11・第16章 に続きます。
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/202104article_11.html
(図は全て底本・著作権満了のものより)
―――――――
(*参考図は、青楼絵抄年中行事. 下之巻
十返舎一九 著、紫屋歌麿<喜多川歌麿>筆。
上総屋忠助、享和4(1804)刊。
著作権満了のものより)
● 15章の続き
(本文・続き)
第7図 「倡家(*しょうか)の方式」(*西楼年中行事)
客が馴染みの遊女に内緒で他の遊女と遊んだりして不実な行為をすることは、全然、吉原では禁じられていた。
それ故、その遊女は、かかる男を罰する権利をもっている。
彼女は、この不実な男を捕えるために新造を遣って、彼の行く家を見届けさせて、その帰路を待ち伏せして力づくで彼を自分の許へ連れて来る。
そして思う存分に悪戯をして敵を打つのである。
この第7図は、有罪の男が禿(かむろ)の扮装をさせられ、馴染みの遊女の前に跪いて詫びをいれている所である。
そして裏切られた犠牲者の花魁は朋輩の遊女達を集めて笑い騒いでいるのである。
【訳注】
「少妓(しんぞう)駒下駄の鼻緒を切って溝へ踏み込み、客用水桶を小楯となして、手桶の水を天窓よりかぶり、誰そや行燈をひっくりかえし、井戸端にすべりこけて軒下の犬を驚かし。
おくり物をさげ行く茶屋の男に鉢を割らせ、狼狽もて糞鳥のてんべん棒にはゆきあたらず。
にけ出す羽折は斜りひらつき、追かくる振袖は朝風にひるかへり。
見物人の山をなしてゆく道をさへぎり。
終に多勢に捕へられてかの馴染めの家にいたる」
と、不実な客が捕えられる場面を、(*十返舎) 一九は、そう書いている。
第8図 「餅つきの図」(*西楼年中行事)
これは、お正月の餅つきの画で、遊女屋のものは、誰も彼も皆、一緒になって愉快そうに餅を造っている。
客らしい男も土間に腰をかけて、その有様を眺めている。
(*参考図は、青楼絵抄年中行事. 下之巻
十返舎一九 著、紫屋歌麿<喜多川歌麿>筆。
上総屋忠助、享和4(1804)刊。
著作権満了のものより)
第8図 「倡舗張付彩工の図」(*西楼年中行事)
本図は、画家が遊女の店を飾る部屋の板と板全体に大きな鳳凰の画を描いている所である。
――――― この画家は歌麿自身によく似ている。
本図は、「西楼年中行事」の目次に記入されていない。
また、その目次は、かなり乱暴に作られたもので、その文字が挿画の外題とも一致していない所さえある。
本書(*「西楼年中行事」)が出版された頃、吉原の遊女は四階級に分かれていた。
第一階級は、仲の町の遊女。
第二階級は、中店の遊女。
第三階級は、小見世の遊女。
第四階級は、切り店の遊女。
第一位の青楼の数は、第二位のものの三分の二、第二位の青楼の数は、第三位の十分の一、第四位の遊女屋は、第三位の数より四分の一多かった。
それ故、第一位の遊女屋の数は極めて少なかったのである。
有名な遊女は非常に限られていて、一般に歌麿のような画家達の筆が描いた女性は、その有名な遊女のみであった。
18世紀から19世紀初頭にかけて、江戸の全住民に対し吉原廓中に住んだ女性の総数は、6,300人に過ぎなった。
そして、その6,300人の女性の中で春を売る女性の数は2,500人を数えたのみである。
今、吉原に生活していた男女は、その属すべき階級が定まって、その仕事は異なっていたが、それを私は明瞭に語ることが出来ない。
しかし、太鼓持ちと芸者と云う特殊のものがあって、その生活状態は、ヨーロッパには殆ど知られていないものである。
太鼓持ちは、客に愉快を与えると云うのが商売の人間で、滑稽な同伴者であった。
廓の行きな案内役で、芸者と同様に茶屋から招かれて「婚姻」の場席に臨んだ人間であった。
そして、その「結婚」を華やかにさせる役目を勤めた人間である。
日本人の語る所によると、太鼓持ちらは、非常に気の利いた目から鼻へ抜けた江戸のこと全てに通じていたようである。
彼らは人に退屈させない性格を持っていた。
人は彼らに何の遠慮なく何事をも打ち明け、何の心配なく如何なる秘密をも語ることが出来た。
彼らは、そう云う心の置けない人間である。
そして彼らは、言葉通りに正直と来ていた。
彼らは、一定の給金と客が特殊に与える「花」以外に何物も受け取らなかった。
(続く)
―――――――
第48図 口紅をつける女 大判錦絵 (底本・著作権満了)
本図は上村永寿堂から出ている。
歌麿は、少なくても三枚のこれと同じ題目で立派な芸術品を作っている。
その中でも本図は、恐らく最もいい作品であるかも知れない・・・
第一に女性の着物の描線が簡単に明瞭におもしろく出来ている。
それから鏡と女性の着物の衿などの黒色に膠(にかわ)を混ぜた漆絵がたくさんあるが、錦絵時代になって膠の応用が少なくなった。
これを歌麿が、ここに適用したことは、彼の賢明さを物語るに十分である。
彼は昔からあった技法を活用している。
雲母摺のようなものも、その一例である。
本図は繊細の感があるが、私を最も喜ばせる歌麿物の一つである。
本図の製作は、寛政9年度であろう。
―――――――
第49図 錦織歌麿形新模様 文を見る女 大判錦絵
本図の人物を後にして、ここに書き込んである歌麿の芸術的抱負に、まず私は注意を払いたい。
「夫(*そ) れ吾妻にしき絵は江都の名産なり然るを近世この葉画師 専ら蟻のごとく出生し只 紅藍の光沢をたのみに怪敷形を写して異国迄も其(*その) 恥を伝る事の嘆かわしく美人画の実意を書て世のこの葉どもに与(*よ) ることしかり。」
これを読んで歌麿の性質まで及んで、その心理状態を推量すると、彼はかなり、粗剛な男子的一面を備えた人であったかも知れないと感じざるを得ない。
つまり、彼に挑戦的勇気さえあったらしく思われる故に本図の冒頭にある文字は歌麿の個性を解釈する好資料とも成るであろう。
そして、この堂々たる意気込みに本図の芸術的価値は相応しいものであろうかが問題である。
私はもちろん、名作の一つであることを許すに惜しむものでないが、彼はもっとこれ以上に立派な作を以前に作っている。
芸術家は誰でも今日をもって昨日に劣ると思う者はあるまい。
そして歌麿も本図の出来た寛政9年度の作品を「婦女人相十品」時代に劣ったとは感じなかったであろうが、今日、私共は本図に多少、芸術的広の跡を見ない訳にはいかない。
もちろん、その技巧は冴えている。
詳細の注意は、よく行き届いている。
しかし、画面の魂は、依然のものほど大きなものでない。
本図を版画の技巧から見ると、第一に紫色の着物が板ボカシの手法で藍の陰影を出している。
城綸子の襟がカラ摺で模様を浮き出にして、帯は網代垣に菊の模様で表している。
云うまでもなく版画としては最高潮の上に立ったもので、歌麿の苦心は、私共は十分に認める。
しかし、前に云ったように彼の芸術審に一進歩を割かしたものとは云えない。
―――――――
(本文続き)
このような卑賎な職業についていたが、太鼓持は、立派な教育と十分な教養を受けていたもので、江戸の学問の中心なる聖堂入門試験に失敗した志願者ぐらいの資格は持っていたのである。
故に吉原以外でさえ金のあるものならば、舟遊びをする時とか隅田川の土手を散歩する場合などは、太鼓持ちを連れて行ったようなものであるそうである。
この不思議な人間と一緒にいると君は1秒たりとも退屈しない。
彼は君の希望する以上にお喋りをしない。
彼らは君の不快を一掃してしまうことの出来るだけの技量を持っていた。
この太鼓持と云う男は、君が余りにも飲み過ぎた場合に勘定の誤りの無いようにと、確実に君の財布や貴重な品を保管する。
君が土手の上の茶店に休憩する。
あるいは薔薇色に周囲を色どる花盛りの景色を通るとする。
この場兄隅田川をなお一層、面白く眺めさせてくれる奴は太鼓持である。
彼らを連れて料理屋は入ると、君は最上の部屋に通され、君の注文した品々は、完全なものとなって現れる。
なお、彼らはどこの家とも懇意にしていて、彼らによく思われないと、その家の商売は成り立たない。
芸者の大勢いる酒宴の席で、君のために進行係の役目をするのは彼らである。
ここにおいて太鼓持が、どうしても必要である。
彼らはすべてを甘く動かし、また芸者全体を上機嫌にさせる。
太鼓持は歌うことも踊ることも、また茶番を演じることも出来たのであるが、適度にその才能を抑えた。
そして芸者に暗い陰を座らせるようなこともないだけの用心は忘れなかった。
彼らは二流所の青楼へ出入りしなかった。
この二流所の家へ呼ばれて行く太鼓持を「野太鼓」と呼んだ。
つまり本物でない太鼓、田舎の太鼓と云う軽蔑の意味を持つのであろう。
仲の町の大通りを出入りする芸者を「見番」と呼んだ。
彼らはどこへ行くにも女同士二人ずつであった。
このことは彼らが秘密の行為をしないことを説明し、また男から挑まれる場合の護身でもあった。
もし彼らに不都合な男との関係があると、直ちに彼らは吉原から除外される。
一般に彼らの行為は咎めるべきでないとされていた。
こう云う階級の女性と、全く階級を異にした男との結婚が多いのを見ても、彼らが純白であることは説明される。
芸者と太鼓持とは、その事務所の支配下にあるので、そこに彼らの名前が書かれた木製の札がイロハ順に懸けられている。
ところで、彼らに席がかかると直ぐに、事務所における彼らの札がはずされて、口をかけた家の名前の下へ懸け直されるのである。
二流所の家には、家付きの芸者がいて、そこに住み込んでいる。
青楼では、直接に芸者や太鼓持を呼ぶことは出来ない。
いつも彼らの事務所を通さなければならない。
大火でもない限り、彼らは定刻以上に招かれた家に留まることが出来ない。
もし定刻を過ぎた時には、呼んだ家はこれに対する賠償金を払わされる。
そして彼らは、規定通りのある期間その期間、その組合の出入りを禁じられる。
吉原以外のところへ芸者を呼ぶ場合には、数日前からそのことを茶屋を通じて申し込んでおく必要がある。
芸者は客と一緒に散歩したり小旅行をする場合には、いつも茶屋の男衆か箱屋が一緒について行くことになっている。
ここに不思議な命令がある。
太鼓持や芸者が遊女の部屋にいるときは、彼らはその遊女に主従の尊敬を払わなければならないことである。
何故ならば、大夫達はお后様のように取り扱われるべきであるからである。
次回は、「ゴンクールの歌麿」を読んで観る 11・第16章 に続きます。
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/202104article_11.html
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。


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