京都史蹟散策127 蘆山寺の全貌1
蘆山寺
【位置】上京区北之辺町
【交通】市バス・府立医大病院前バス停
徒歩3分
駒札によると・・
蘆山寺(ろざんじ)
日本蘆山と号する圓浄宗の大本山で、
正しくは蘆山天台講寺(てんだいこうし)という。
天慶(てんぎょう)元年(938)、
慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)
(元三[がんざん]大師)が、船岡山南麓に
開いた輿願金剛院(よがんこんごういん)に
始まる。
寛元(かんげん)3年(1245)、法然上人に
帰依した住心房覚瑜(じゅうしんぼうかくゆ)が
出雲路に蘆山寺を開き、この二カ寺を兼務した
蘆山寺大賛成 明導照源(みょうどうそうげん)上人
(1339~1368)によって蘆山寺を輿願金剛院に
統合し、円、浄土、戒、密の四宗兼学寺院となった。
その後、応仁の兵火に遭い、
天正(てんしょう)元年(1573)、当地に移った。
現在の堂宇は、1788年の「天明の大火」による
炎山以後のものである。
当地は紫式部の邸宅跡で源氏物語執筆の地と伝え
られ、本堂前の「源氏の庭」には
「源氏物語邸宅址」の石碑が立っている。
本堂には、恵心僧都(えしんそうづ)の作と
伝えられる
阿弥陀三尊等が安置されている。
そのほか、国宝の慈恵大師自筆遣告状、また、
重要文化財として、鎌倉時代の如意輪(にょいりん)
観音半跏(か)像、後伏見天皇及び
正親町(おおぎまち)天皇の宸翰(しんかん)、
法然上人選択衆などを蔵し、
境内には閑院宮典仁(すけひと)親王(慶光天皇)陵
などがある。
良源が修行の邪魔をする悪鬼を退散させたという
故事に由来する2月3日の節分会(せつぶんえ)は
「鬼の法楽」の名で知られ、悪疫退散を祈願する
行事が行われる。
京都市
と、ある。
北側の山門の右前には、
元三大師の石碑がある。

山門を潜ると、正面に
大師堂がある。

駒札の背後にある「沿革」によると・・
蘆山寺(ろざんじ)
(蘆山天台講寺[ろざんてんだいこうじ])沿革
天慶年中、元三大師良源によって草創される。
良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主
となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から
宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、
現蘆山寺通北に輿願金剛院を建立し、
寛和元年(985)正月3日入滅まで、
都に下った時の宿坊とされる。
良源入滅後、次第相承の本光禅仙上人
(嘉元2年・1304寂)が現船岡山の麓に
輿願金剛院を再興する。
一方、台密、戒浄(顕教)等事相伝承した
住心覚瑜(かくゆ)上人(1158~1235)が
京都出雲路に仏閣を建て、蘆山寺と号す。
蘆山寺第三世ならびに第五世明導照源上人
(1298~1336)が両上人の廬山、輿願師跡を伝領し、
輿願金剛院師跡に蘆山寺を統合し、輿願を廃し、
蘆山寺とし、円密戒浄の四宗兼学道場としての
一家の密乗を成し、蘆山寺流として経起動を根底
とした天台秘密乗の教判を開説されたのである。
この蘆山寺流は実に伝教大師より南北朝時代に
おける天台教学の全貌を知る手鑑と称すべく、
真に日本天台の宝庫であると推奨される。
この頃より寺号を廬山天台講寺と称し、更に
第八世明空志玉上人が明の永楽2年(1404)、
足利義満の命により明に派遣された時、
明の唯実上人より中国の廬山にならって
日本廬山と公称されて以後、度々文書等では
日本廬山天台講寺と明記されることがあった。
その後応仁の乱、永禄12年(1569)にも
類焼し、その時の再建勧進に
「此の地は洛中の叡山、日本の虎渓なり、
誰かこれを帰敬せざらん」と述べ、
「洛中の叡山」の気概にあふれていた。
天正元年(1573)に現地に移転、
宝永5年(1708)と天明8年(1788)
京都の大火で堂舎類焼するが、代々歴朝の帰依
厚く、寛政6年(1794)禁裏、仙洞、
女院の下賜をもって再建されたのが現今の
本堂である。
本堂

大師堂において毎年2月の節分解に勤修される
「追儺式鬼法楽」は開祖元三大師が宮中で
三珀日の護摩供養を修せられた時に三匹の鬼
(赤鬼=品欲、青鬼=瞋恚(しんい)、
黒鬼=愚痴)が出現し、その三鬼を独鈷、
三鈷の法器でもって退散させたという故事による。
この独特の節分行事は、京都市の冬の代表的行事
でもある。
また、この地全域が昭和40年、
角田 文衛博士によって紫式部の邸宅跡であると
考証発表されたのである。
紫式部の祖父にあたる権中納言藤原兼輔
(堤中納言)が此の地に邸宅を構えたのが
始まりで、「源氏庭」と称する庭に咲き誇る桔梗が
美しく、庭園を醸し出している。
紫式部はこの地に育ち、結婚生活を送り、
「源氏物語」を執筆したのである。
と、ある。
南側・山門(薬医門)

南側・山門の手前、
左側には、石碑・紫式部邸宅址、
右側には、石碑・慶光天皇蘆山寺陵
が、ある。
南側・山門を潜って行くと、
右側に鐘撞堂がある。
又、すぐに右側に筆塚がある。

説明板によると・・
日本画家 池田遙邨先生
筆塚
明治28年(1895)岡山県に生まれる
昭和28年(1955)画塾 青塔社 結成 主宰
昭和51年(1976)日本芸術会員に選ばれる
昭和52年(1977)勲三等瑞宝章 受章
昭和59年(1984)文化功労者の表彰を受ける
昭和62年(1987)文化勲章を受章
昭和63年(1988)9月26日 逝去
と、ある。
池田遙邨(いけだ ようそん)
倉敷市出身の日本画家。本名は池田 昇一。
長男は、同じく画家の池田道夫。
さらに行くと、正面に
「大貮三位 歌碑」が、ある。


有馬山 ゐなの笹原 風吹けば
いでそよ 人を 忘れやはする
大貮三位 歌碑の右横に説明版がある。

それによると・・
(上段)
紫式部
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半(よは)の月影
(下段)
紫式部
歌碑
大貮三位
大貮三位
作者は名を賢子と言い、
父は右衛門権佐(ええもんの ごんのすけ)・
藤原宣孝、
母は紫式部 長歩2年(1000年)に出生、
永保2年(1082年)に薨じた。
親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母(めのと)
となり、従三位典侍(ないしのすけ)に
昇進した。
三位であると共に太宰府大貮・高階成章と結婚
したため、宮廷では大貮三位(だいにのさんみ)
と呼ばれた。
歌人としては母親に匹敵にするほどの才媛で、
歌集「大貮三位集」を遺した。
極めて聡明で人徳があり、
乳母典侍(めのとのすけ)として、
後冷泉集朝の宮廷文化の昴揚に大きく寄輿した。
紫式部
紫式部は、越後守・藤原為時の娘で、
名は香子と言ったらしい。
生年は天延元年(973年)頃、
没年は長元4年(1031年)頃と推定される。
夫・藤原宣孝の卒後、中宮・藤原彰(あき)子
に仕えた。
中古三十六歌仙のひとりとされ、
大作「源氏物語」のほか「紫式部日記」
「紫式部集」といった作品がある。
その文名は遍く知られており、ユネスコによって、
「世界の偉人」のひとりに選定されている。
平成7年(1995年)9月
文学博士 角田 文衞 撰
と、ある。

また、「大貮三位 歌碑」の左側には、
○源氏物語 ゆかりの地 の説明板がある。

それによると・・
蘆山寺(ろざんじ)
現在の蘆山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移された
もので、ただしくは蘆山天台講寺という。
もとは天慶元年(938)に
慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)
(元三[がんざん]大師)が、船岡山南麓に
開いた輿願金剛院(よがんこんごういん)に始まる。
寛元3年(1245)、法然上人に帰依した
住心房覚瑜(じゅうしんぼうかくゆ)が
出雲路に蘆山寺を開き、この二カ寺を兼務した
明導照源(みょうどうそうげん)上人
(1339~1368)によって、蘆山寺を輿願金剛院に
統合し、寺名を「蘆山寺天台講寺」とした。
四辻 吉成(よつつじ よしなり)の『河海抄
(かかいしょう)』に、紫式部邸の位置が
「正親町(おおぎまち)以南、京極西■(つら)、
今東北員向也(とうほくいんむかい なり)」と
あることから、この地を紫式部邸宅跡と推定
している。
また、曽祖父の堤中納言こと藤原兼輔(かねすけ)
の屋敷があった地で、式部の父の藤原為時
(ためとき)に譲(ゆず)ったことから、
ここで『源氏物語』や『紫式部日記』が執筆された
という説があり、平安時代の貴族邸を模した庭には
紫式部邸宅跡の顕彰碑が立つ。
平成20年3月 京都市
と、ある。

「大貮三位 歌碑」の左側(北側)
には、本堂がある。
本堂は、前述のように・・
天正元年(1573)に現地に移転、
宝永5年(1708)と天明8年(1788)
京都の大火で堂舎類焼するが、代々歴朝の帰依
厚く、寛政6年(1794)禁裏、仙洞、
女院の下賜をもって再建されたのが現今の
本堂である。


そして、本堂内に入り、右手、南側に
源氏庭がある。
源氏庭の桔梗


7月頃の源氏庭・全景
白砂と苔の庭

源氏庭・紫式部邸宅跡紀元念碑
昭和40年に建立。
考証者・角田文衛。
揮亳は、言語学者・新村 出の絶筆となる。


また、本堂内では、
令和2年(2020年)11月30日(日)まで、
「明智光秀の念持仏と蘆山寺」展が開催されている。
パンフレットの部分より


一方、紫式部歌碑の右側の道標・(蘆山寺陵 参道)
を道なりに行くと

墓域の手前・左側に
華道専慶流家元
桑原 富春軒(くわばら ふしゅんけん)塔
がある。
左側に副碑があるが、詳細は不明。
桑原 富春軒は、元禄年間の立花(りっか)の名手。
桑原専慶流、専慶流などの流祖。

これを正面に見て、左側(北側)の
参道を行くと正面に廬山寺陵が見えて来る。
その手前の椿の生垣の中に
「雲水ノ井(くもみずのい) 」跡がある。
生垣の手前に松の木(クロマツ)がある。
(下記の写真では幹だけしか映っていないが)
蘆山寺の墓地には、往時、初代の大木が立っており、
光格天皇が何度も訪れ、月見の宴を催したという。
このクロマツの2代目(江戸時代末期とされる)は、
20年ほど前に松くい虫の被害で枯れて、
現在の3代目に引き継がれ、雲水ノ井の傍に移された
と云う。

雲水ノ井(くもみずのい) は、長元3年(1030年)、
平 忠常の乱の2年後、藤原彰子が法成寺内に
建立した東北院にあった井戸と伝わる。
謡曲「東北」にも出てくる。
深さ、約2m30cm.
関西では珍しいらしい幅、約90cmの「らせん状」
の階段を、降りていくと水汲み場がある。
現在は、枯渇している。


●慶光天皇 蘆山寺陵


閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひと
しんのう)。
明治17年、明治天皇の高祖父に当たると云う
ことから「慶光天皇」の諡号と「太上天皇」
の尊号が贈られ、以後、慶光天皇または
慶光院と称されるが、歴代天皇の代数には
数えられず。
○明治17年3月19の官報(第214号)には、
下記のようにある。
○告示
○太政官第1壹號
今般特旨ヲ以テ
光格天皇御實父故一品典仁親王へ
太上天皇ノ尊號ヲ御追贈御諡慶光天皇ト
称サレル
右国事候事
明治十七年三月十九日
太政大臣 三條實美

慶光天皇 蘆山寺陵・概略図

1・東山天皇・皇玄孫・孝仁親王墓

2・東山天皇・皇玄孫・孝仁親王妃・吉子墓

3・東山天皇・皇曾孫・美仁親王墓

4・東山天皇・皇曾孫・美仁親王妃・因子墓

5・東山天皇・五世皇孫・愛仁親王墓

6・慶光天皇廬山寺陵

7・慶光天皇妃・成子内親王墓

8・仁孝天皇・皇子・胤宮墓

慶光天皇 蘆山寺陵・概略図

9・東山天皇・五世皇孫・致宮墓

10・東山天皇・皇子・直仁親王墓

11・東山天皇・皇子・直仁親王妃・脩子墓

12・光格天皇・皇子・猗宮墓
[光格天皇 皇子 圓鏡院御墓]
第119代・光格天皇は、
桃園天皇(第116代)の崩御の際、
同天皇の養子となり、安永9年に即位。
博学、能文で知られる。
在位中に、実父・典仁親王に太政天皇の尊号
を宣下しようとしたが、幕府の反対により断念。
だが、時は流れ、上述のように、明治17年、
明治天皇の高祖父に当たると云うことから
「慶光天皇」の諡号と「太上天皇」の尊号が
贈られるに至る。

13・光格天皇・皇女・治宮墓 (黄色枠)

14・光格天皇・皇女・多祉宮墓
[光格天皇 皇女 善行院御墓]

15・光格天皇・皇子・俊宮墓
[光格天皇 皇子 解脱楽院御墓]

16・東山天皇・典侍・新崇賢門院・藤原賀子墓
[中御門天皇 御母 藤原 賀子御墓]
藤原 茂子 御墓
(*ふじわらの もし/しげこ)
藤原公成(きんなり)の娘。
藤原能信(よしのぶ)の養女。
第71代・後三条天皇の皇太子時代の妃、
第72代・白河天皇の生母。
別名は滋野井御息所。

陵墓は、宇治陵(宇治市小幡)にある。
藤原 茂子の陵墓がある宇治陵(宇治市小幡)
(クリエイティブ・コモンズ、ライセンスの
もとに利用を許諾されているものより)
![041 1024px-Ujiryou02[1].jpg](https://kyotoshiryo.up.seesaa.net/02269785N000000000/159801249770877998951-thumbnail2.jpg)
次回は、京都史蹟散策127 蘆山寺の全貌2 中山家の人たち に続きます。
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/202008article_5.html
【位置】上京区北之辺町
【交通】市バス・府立医大病院前バス停
徒歩3分
駒札によると・・
蘆山寺(ろざんじ)
日本蘆山と号する圓浄宗の大本山で、
正しくは蘆山天台講寺(てんだいこうし)という。
天慶(てんぎょう)元年(938)、
慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)
(元三[がんざん]大師)が、船岡山南麓に
開いた輿願金剛院(よがんこんごういん)に
始まる。
寛元(かんげん)3年(1245)、法然上人に
帰依した住心房覚瑜(じゅうしんぼうかくゆ)が
出雲路に蘆山寺を開き、この二カ寺を兼務した
蘆山寺大賛成 明導照源(みょうどうそうげん)上人
(1339~1368)によって蘆山寺を輿願金剛院に
統合し、円、浄土、戒、密の四宗兼学寺院となった。
その後、応仁の兵火に遭い、
天正(てんしょう)元年(1573)、当地に移った。
現在の堂宇は、1788年の「天明の大火」による
炎山以後のものである。
当地は紫式部の邸宅跡で源氏物語執筆の地と伝え
られ、本堂前の「源氏の庭」には
「源氏物語邸宅址」の石碑が立っている。
本堂には、恵心僧都(えしんそうづ)の作と
伝えられる
阿弥陀三尊等が安置されている。
そのほか、国宝の慈恵大師自筆遣告状、また、
重要文化財として、鎌倉時代の如意輪(にょいりん)
観音半跏(か)像、後伏見天皇及び
正親町(おおぎまち)天皇の宸翰(しんかん)、
法然上人選択衆などを蔵し、
境内には閑院宮典仁(すけひと)親王(慶光天皇)陵
などがある。
良源が修行の邪魔をする悪鬼を退散させたという
故事に由来する2月3日の節分会(せつぶんえ)は
「鬼の法楽」の名で知られ、悪疫退散を祈願する
行事が行われる。
京都市
と、ある。
北側の山門の右前には、
元三大師の石碑がある。
山門を潜ると、正面に
大師堂がある。
駒札の背後にある「沿革」によると・・
蘆山寺(ろざんじ)
(蘆山天台講寺[ろざんてんだいこうじ])沿革
天慶年中、元三大師良源によって草創される。
良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主
となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から
宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、
現蘆山寺通北に輿願金剛院を建立し、
寛和元年(985)正月3日入滅まで、
都に下った時の宿坊とされる。
良源入滅後、次第相承の本光禅仙上人
(嘉元2年・1304寂)が現船岡山の麓に
輿願金剛院を再興する。
一方、台密、戒浄(顕教)等事相伝承した
住心覚瑜(かくゆ)上人(1158~1235)が
京都出雲路に仏閣を建て、蘆山寺と号す。
蘆山寺第三世ならびに第五世明導照源上人
(1298~1336)が両上人の廬山、輿願師跡を伝領し、
輿願金剛院師跡に蘆山寺を統合し、輿願を廃し、
蘆山寺とし、円密戒浄の四宗兼学道場としての
一家の密乗を成し、蘆山寺流として経起動を根底
とした天台秘密乗の教判を開説されたのである。
この蘆山寺流は実に伝教大師より南北朝時代に
おける天台教学の全貌を知る手鑑と称すべく、
真に日本天台の宝庫であると推奨される。
この頃より寺号を廬山天台講寺と称し、更に
第八世明空志玉上人が明の永楽2年(1404)、
足利義満の命により明に派遣された時、
明の唯実上人より中国の廬山にならって
日本廬山と公称されて以後、度々文書等では
日本廬山天台講寺と明記されることがあった。
その後応仁の乱、永禄12年(1569)にも
類焼し、その時の再建勧進に
「此の地は洛中の叡山、日本の虎渓なり、
誰かこれを帰敬せざらん」と述べ、
「洛中の叡山」の気概にあふれていた。
天正元年(1573)に現地に移転、
宝永5年(1708)と天明8年(1788)
京都の大火で堂舎類焼するが、代々歴朝の帰依
厚く、寛政6年(1794)禁裏、仙洞、
女院の下賜をもって再建されたのが現今の
本堂である。
本堂
大師堂において毎年2月の節分解に勤修される
「追儺式鬼法楽」は開祖元三大師が宮中で
三珀日の護摩供養を修せられた時に三匹の鬼
(赤鬼=品欲、青鬼=瞋恚(しんい)、
黒鬼=愚痴)が出現し、その三鬼を独鈷、
三鈷の法器でもって退散させたという故事による。
この独特の節分行事は、京都市の冬の代表的行事
でもある。
また、この地全域が昭和40年、
角田 文衛博士によって紫式部の邸宅跡であると
考証発表されたのである。
紫式部の祖父にあたる権中納言藤原兼輔
(堤中納言)が此の地に邸宅を構えたのが
始まりで、「源氏庭」と称する庭に咲き誇る桔梗が
美しく、庭園を醸し出している。
紫式部はこの地に育ち、結婚生活を送り、
「源氏物語」を執筆したのである。
と、ある。
南側・山門(薬医門)
南側・山門の手前、
左側には、石碑・紫式部邸宅址、
右側には、石碑・慶光天皇蘆山寺陵
が、ある。
南側・山門を潜って行くと、
右側に鐘撞堂がある。
又、すぐに右側に筆塚がある。
説明板によると・・
日本画家 池田遙邨先生
筆塚
明治28年(1895)岡山県に生まれる
昭和28年(1955)画塾 青塔社 結成 主宰
昭和51年(1976)日本芸術会員に選ばれる
昭和52年(1977)勲三等瑞宝章 受章
昭和59年(1984)文化功労者の表彰を受ける
昭和62年(1987)文化勲章を受章
昭和63年(1988)9月26日 逝去
と、ある。
池田遙邨(いけだ ようそん)
倉敷市出身の日本画家。本名は池田 昇一。
長男は、同じく画家の池田道夫。
さらに行くと、正面に
「大貮三位 歌碑」が、ある。
有馬山 ゐなの笹原 風吹けば
いでそよ 人を 忘れやはする
大貮三位 歌碑の右横に説明版がある。
それによると・・
(上段)
紫式部
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半(よは)の月影
(下段)
紫式部
歌碑
大貮三位
大貮三位
作者は名を賢子と言い、
父は右衛門権佐(ええもんの ごんのすけ)・
藤原宣孝、
母は紫式部 長歩2年(1000年)に出生、
永保2年(1082年)に薨じた。
親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母(めのと)
となり、従三位典侍(ないしのすけ)に
昇進した。
三位であると共に太宰府大貮・高階成章と結婚
したため、宮廷では大貮三位(だいにのさんみ)
と呼ばれた。
歌人としては母親に匹敵にするほどの才媛で、
歌集「大貮三位集」を遺した。
極めて聡明で人徳があり、
乳母典侍(めのとのすけ)として、
後冷泉集朝の宮廷文化の昴揚に大きく寄輿した。
紫式部
紫式部は、越後守・藤原為時の娘で、
名は香子と言ったらしい。
生年は天延元年(973年)頃、
没年は長元4年(1031年)頃と推定される。
夫・藤原宣孝の卒後、中宮・藤原彰(あき)子
に仕えた。
中古三十六歌仙のひとりとされ、
大作「源氏物語」のほか「紫式部日記」
「紫式部集」といった作品がある。
その文名は遍く知られており、ユネスコによって、
「世界の偉人」のひとりに選定されている。
平成7年(1995年)9月
文学博士 角田 文衞 撰
と、ある。
また、「大貮三位 歌碑」の左側には、
○源氏物語 ゆかりの地 の説明板がある。
それによると・・
蘆山寺(ろざんじ)
現在の蘆山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移された
もので、ただしくは蘆山天台講寺という。
もとは天慶元年(938)に
慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)
(元三[がんざん]大師)が、船岡山南麓に
開いた輿願金剛院(よがんこんごういん)に始まる。
寛元3年(1245)、法然上人に帰依した
住心房覚瑜(じゅうしんぼうかくゆ)が
出雲路に蘆山寺を開き、この二カ寺を兼務した
明導照源(みょうどうそうげん)上人
(1339~1368)によって、蘆山寺を輿願金剛院に
統合し、寺名を「蘆山寺天台講寺」とした。
四辻 吉成(よつつじ よしなり)の『河海抄
(かかいしょう)』に、紫式部邸の位置が
「正親町(おおぎまち)以南、京極西■(つら)、
今東北員向也(とうほくいんむかい なり)」と
あることから、この地を紫式部邸宅跡と推定
している。
また、曽祖父の堤中納言こと藤原兼輔(かねすけ)
の屋敷があった地で、式部の父の藤原為時
(ためとき)に譲(ゆず)ったことから、
ここで『源氏物語』や『紫式部日記』が執筆された
という説があり、平安時代の貴族邸を模した庭には
紫式部邸宅跡の顕彰碑が立つ。
平成20年3月 京都市
と、ある。

「大貮三位 歌碑」の左側(北側)
には、本堂がある。
本堂は、前述のように・・
天正元年(1573)に現地に移転、
宝永5年(1708)と天明8年(1788)
京都の大火で堂舎類焼するが、代々歴朝の帰依
厚く、寛政6年(1794)禁裏、仙洞、
女院の下賜をもって再建されたのが現今の
本堂である。

そして、本堂内に入り、右手、南側に
源氏庭がある。
源氏庭の桔梗
7月頃の源氏庭・全景
白砂と苔の庭
源氏庭・紫式部邸宅跡紀元念碑
昭和40年に建立。
考証者・角田文衛。
揮亳は、言語学者・新村 出の絶筆となる。
また、本堂内では、
令和2年(2020年)11月30日(日)まで、
「明智光秀の念持仏と蘆山寺」展が開催されている。
パンフレットの部分より

一方、紫式部歌碑の右側の道標・(蘆山寺陵 参道)
を道なりに行くと
墓域の手前・左側に
華道専慶流家元
桑原 富春軒(くわばら ふしゅんけん)塔
がある。
左側に副碑があるが、詳細は不明。
桑原 富春軒は、元禄年間の立花(りっか)の名手。
桑原専慶流、専慶流などの流祖。
これを正面に見て、左側(北側)の
参道を行くと正面に廬山寺陵が見えて来る。
その手前の椿の生垣の中に
「雲水ノ井(くもみずのい) 」跡がある。
生垣の手前に松の木(クロマツ)がある。
(下記の写真では幹だけしか映っていないが)
蘆山寺の墓地には、往時、初代の大木が立っており、
光格天皇が何度も訪れ、月見の宴を催したという。
このクロマツの2代目(江戸時代末期とされる)は、
20年ほど前に松くい虫の被害で枯れて、
現在の3代目に引き継がれ、雲水ノ井の傍に移された
と云う。
雲水ノ井(くもみずのい) は、長元3年(1030年)、
平 忠常の乱の2年後、藤原彰子が法成寺内に
建立した東北院にあった井戸と伝わる。
謡曲「東北」にも出てくる。
深さ、約2m30cm.
関西では珍しいらしい幅、約90cmの「らせん状」
の階段を、降りていくと水汲み場がある。
現在は、枯渇している。

●慶光天皇 蘆山寺陵
閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひと
しんのう)。
明治17年、明治天皇の高祖父に当たると云う
ことから「慶光天皇」の諡号と「太上天皇」
の尊号が贈られ、以後、慶光天皇または
慶光院と称されるが、歴代天皇の代数には
数えられず。
○明治17年3月19の官報(第214号)には、
下記のようにある。
○告示
○太政官第1壹號
今般特旨ヲ以テ
光格天皇御實父故一品典仁親王へ
太上天皇ノ尊號ヲ御追贈御諡慶光天皇ト
称サレル
右国事候事
明治十七年三月十九日
太政大臣 三條實美

慶光天皇 蘆山寺陵・概略図
1・東山天皇・皇玄孫・孝仁親王墓
2・東山天皇・皇玄孫・孝仁親王妃・吉子墓
3・東山天皇・皇曾孫・美仁親王墓
4・東山天皇・皇曾孫・美仁親王妃・因子墓
5・東山天皇・五世皇孫・愛仁親王墓
6・慶光天皇廬山寺陵
7・慶光天皇妃・成子内親王墓
8・仁孝天皇・皇子・胤宮墓
慶光天皇 蘆山寺陵・概略図
9・東山天皇・五世皇孫・致宮墓
10・東山天皇・皇子・直仁親王墓
11・東山天皇・皇子・直仁親王妃・脩子墓
12・光格天皇・皇子・猗宮墓
[光格天皇 皇子 圓鏡院御墓]
第119代・光格天皇は、
桃園天皇(第116代)の崩御の際、
同天皇の養子となり、安永9年に即位。
博学、能文で知られる。
在位中に、実父・典仁親王に太政天皇の尊号
を宣下しようとしたが、幕府の反対により断念。
だが、時は流れ、上述のように、明治17年、
明治天皇の高祖父に当たると云うことから
「慶光天皇」の諡号と「太上天皇」の尊号が
贈られるに至る。
13・光格天皇・皇女・治宮墓 (黄色枠)
14・光格天皇・皇女・多祉宮墓
[光格天皇 皇女 善行院御墓]
15・光格天皇・皇子・俊宮墓
[光格天皇 皇子 解脱楽院御墓]
16・東山天皇・典侍・新崇賢門院・藤原賀子墓
[中御門天皇 御母 藤原 賀子御墓]
藤原 茂子 御墓
(*ふじわらの もし/しげこ)
藤原公成(きんなり)の娘。
藤原能信(よしのぶ)の養女。
第71代・後三条天皇の皇太子時代の妃、
第72代・白河天皇の生母。
別名は滋野井御息所。
陵墓は、宇治陵(宇治市小幡)にある。
藤原 茂子の陵墓がある宇治陵(宇治市小幡)
(クリエイティブ・コモンズ、ライセンスの
もとに利用を許諾されているものより)
次回は、京都史蹟散策127 蘆山寺の全貌2 中山家の人たち に続きます。
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/202008article_5.html
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