歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む25

●大久保利通日記・文書 文久2年

本編は、大久保利通文書(全10巻)、大久保利通日記(全2巻)を(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、これを、あくまで趣味的にひも解いて、現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)閏八月廿三日 ~閏八月廿九日

(文書)25・ 文久2年閏8月29日
   吉祥院への書翰

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)九月朔日 ~九月廿八日

(文書)26・ 文久2年9月28日
   有村 幸蔵への書翰

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)九月廿九日 ~九月晦日

(文書)36・ 文久2年  (9月)
言路洞開ノ達書草案

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大久保利通日記・上巻・第2巻.
【大久保利通日記】から 文久2年(1862年)

【本文・意訳】
🌕閏8月23日
一 六ツ半(*午前7時頃)、お目覚め。
四ツ半時分(*午前11時頃)、(*京都)錦のお屋敷をお発ち。
一昨日から雨が降り続き、今朝まで降っていたが、お発ち前から晴れ上がり、晴天になりました。
四条辺りで、お行列を見ようと多数、伏見街道に見物人が引き続いていました。
八ツ時(*午後2時頃)、伏見屋敷にご機嫌よく到着された。
連日の雨なので、お供支えであった。

🌕閏8月24日
一 六ツ時(*午前6時頃)、お発ちの予定であったが、川支え(かわづかえ・*川が増水した折に、安全のため渡し船の運行を休止すること。)で九ツ時(*お昼12時頃)まで、延引(えんいん・(*物事が予定より遅れること。)となった。
九ツ時(*お昼12時頃)、川止めが解けた。(*久光公一行は、)六ツ半(*午後7時頃)大坂のお屋敷へ到着された。
(*私は) 寅屋旅宿した。

🌕閏8月25日 雨
一 今日、住吉大社へご参詣へお出かけの予定であったが、(*あいにく)大雨でお取り止めになった。
(*午前10時頃) 出勤。 八ツ後(*午後2時頃)退出。
夕方、谷村 昌武が来た。
今晩、本田 親雄(*京都留守居役)が出立につき、少し、見舞いに行った。

🌕閏8月26日 雨
一 今日、四ツ時(*午前10時頃) 出勤。 
八ツ後(*午後2時頃)退出。
昇天九が明日、出帆につき荷物を差し出した。
段々、来客があった。
今夕、岸良 兼養が来た。

🌕閏8月27日 晴
一 四時(*午前10時頃)出勤。
(*今晩は、)泊り番である。

🌕閏8月28日 晴
一 七ツ時(*午前4時頃)お目覚め。
八ツ半時(*午後3時頃)お発ち。
七ツ半(*午後5時頃)兵庫にご到着。

一 今夕、荷物を永平丸に積み入れる。
暮れ過ぎ、本田 親雄が着き、ご献上米の云々の件、とりわけ、上記の都合で、別に同道して、出殿した状況を(*久光公に)言上した。

🌕閏8月29日
【久光公の一行、兵庫から乗船】
一 六ツ時(*午前6時頃)、永平丸へ御乗船され、六ツ半(*午前7時頃)出帆された。
今晩、多度津(*香川県)の手前で潮待(しおまち・*停泊)した。
(*後) 順風で矢の如く進むが、揺れる瀬戸の夜の船は、分けても舟の通りで、思わしくなく、(*手漕ぎの)舟である。
(*船なのに舟のように、よく揺れるの意、か。)

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(文書)25・ 文久2年閏8月29日
   吉祥院への書翰

【要点】
(*利通一行が)帰藩の途中、兵庫から吉祥院の書に答えたものである。

【解説】
利通は、久光公に随って、この月の23日、京都を発し、28日、兵庫に到着し、翌日、(*永平丸の)乗船の前に本書を書いたもので、吉祥院からの書は、内容は不明であるが、在京中、帰藩のことのついての斡旋を請いたものであろうか。
吉祥院は、税所篤の兄で、以前から利通父子と親交があったのである。
(*吉祥院は、住職・真海。利通に囲碁を教えた人物。
税所篤は、禁門の変以後、西郷高師の片腕として活躍。
維新後、明治20年、維新の功により子爵となる。)

【本文・意訳】
お別れ後、ご安泰であられ恐れ奉ります。
次に恐れながら、上様(*島津久光公)は、ご機嫌よく、昨、(*8月)28日、兵庫へ到着され、今朝、ご乗船のはずであります。
さて、ご出発の節は混雑しており、(*久光公と)ゆったりとお話なども申し上げられず、非常に不本意の至りでありますが、何とも申し訳なく、お許しの程、願います。
(*そして)だんだん、お送り物などが荷揚げされ、わけても、ありがたくお礼、申し上げます。
かつ、又、お書取の趣(*ご用件の件・これが不明である。)詳細に承知致しました。
よってお世話申し上げることを取り決め、何分、申し上げたくても、何分にも、(*久光公は)大坂で3日のご滞在で、大混雑で、とてもご都合がむつかしいので、いずれ、この問題は、お国にご到着の上、早便で申し上げるように致しますので、そのように、お含み置き下さるよう願います。
お国元から何分、申し上げるまでは、京都に滞在されていても差し支えなく、このことは*小松) 帯刀殿へ内々に申してあります。
お内願(*ないがん・内々にお願いし許可を貰う事)の件は、ごもっともで、そのように申すべきであると存じますが、ご存知の通り、(*久光公は)ご多用中の故、その辺りまでは、十分に聞き届かないと存じます。
この次第、悪しからずお吸み取り下さりたく存じます。
(*その)先は、貴殿のお答えまで。
早々にこの様にすでに(*久光公が) お発ちの前故、取り込んでおり、いずれも詳細を申し上げられないでおります。
いずれ、お国元に到着の上、早便で(ご用件の)有無を(*久光公に)申し上げますので、そのうちは(*今は)、京都に滞在されていますのでよろしく願います。
本田親雄(*京都留守居役) へ内々に話しておきますので、
ご懸念、ありませぬように願います。 謹言
     閏8月29日   大久保 一蔵
吉祥院 様

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大久保利通日記・上巻・第2巻.
【大久保利通日記】から 文久2年(1862年)
(本文・意訳)

🌕9月1日
一 未明に出帆。 順風よろしく。

🌕9月2日
🌕9月3日

🌕9月4日
【阿久根に到着する】
今日、九ツ時(*お昼12時頃) (*久光公)阿久根へご機嫌よろしく、着岸される。
よって、お仮屋へ御上陸される。

一 島津 珍彦(うずひこ)様、 お出迎えとしてご出張される。
*島津 珍彦は、島津久光の四男。
薩摩藩主・島津茂久の同母弟。
父の久光が薩摩藩主家へ復帰したことに伴い、大隅重富領を領有し、重富家を相続し、忠鑑(ただあき)と称し、後、珍彦に改名した。

一 川上式部(久美)殿、郷 長左衛門も同じく(*お出迎えとしてご出張)であった。

阿久根から鹿児島への概略図
IMG_0007● (960x1280).jpg

🌕9月5日
一 七ツ時(*午前4時頃) ご出発。
阿久根            1里5丁24間
伏森  野外でご休息     1里半16丁
西方  ご休憩        1里半7丁
柊平  御立場        1里
(*立場は、街道の宿駅の 出入口に設けられた休息所。)
新田宮            1里
向田(*現・薩摩川内市向田町)ご宿泊
右の通り、ご通行され、 七ツ時(*午後4時頃)ご到着。

一 新田宮へご参謁されるので、お供した。

🌕9月6日 晴
一 七ツ時(*午前4時頃)ご出発.
向田              1里半4丁40間
木場  茶店        1里13丁53間
五反田 茶店        1里1丁13間
湊   お仮屋 ご休憩      1里11丁13間
妙見獄 休息所         1里9丁58間
苗代川(*現・日置市大字東市来町美山)
お仮屋 ご宿泊
右の通り、 諸所でお休みなどされ、
八ツ時分(*午後2時頃)ご到着された。

一 今日は、お先に出発し、九ツ(*お昼12時頃)前、到着し、七ツ時分(*午後4時頃)お仮屋を退出した。
今晩は、石原正殿が、お迎えとして来た。五ツ過(*午後8時頃) 石原 直州が到着し、今晩、止宿することになった。

🌕9月7日 晴
苗代川 七ツ時(*午前4時頃)ご出発 1里半15丁18間
五本松  茶店           1里6町舟6間
横井   お仮屋 ご休憩       1里半8丁49間
水上   茶店 少しご休憩      半里12丁17間

【久光公 鹿児島に到着する】
鹿児島
右の通り、お休などされ、午刻(ごこく・*正午)に、(*久美公は) めでたく、お城にご到着になられた。
七ツ時(*午後4時頃)二丸から退出した。
今晩、仲間の客があり、退散後、税所 篤が来て、七ツ時(*午前4時頃)帰られる。

🌕9月8日
【利通、官公廟、および南林寺に参詣する】

今朝、段々、お客が来られ、 四時(*午前10時頃)出勤がけに、菅廟(萩原天神)参詣した。

願望成就につき、百拝祈念し、二丸へ出勤した。
明日、御一門方、御三役が二丸へ召され云々、一封をいただいた。
帰りがけに、南林寺へ参詣し、百拝し、丹誠を込めて願解(がんほどき)をして、墓参して帰った。今夕は、外出せず。

*南林寺(なんりんじ)は、かつて児島市南林寺町にあった曹洞宗の寺院。
島津氏15代当主・島津貴久により福昌寺の末寺として弘治3年(1557年)、建立されたが、明治2年の廃仏毀釈により廃寺となった。

松原神社(旧・南林寺)
鹿児島県史談(鹿児島県私立教育 編集)
(吉田 幸兵衛、明治32年)
著作権満了のものより
IMG_0002 - ●松原神社.JPG

🌕9月9日
【久光公、恩賜の御剣および褒勅を披露される】
四時(*午前10時頃) 出勤。
(*久光公は)今日、ご一門方、ご三役のお目見え仰せ付けられ、ご拝領の御剣の拝見を仰せ付けられ、お側役以下一統にも拝見、仰せ付けれた。

一 拝見が終わって、大守様(*藩主・島津茂久)様、島津 久光様 がご列席され、書き取られ、ご一門方ならび、ご三役へ下された。

一 (*)小松帯刀殿へ御刀・大小拵えを添えて、御手から拝領、仰せ付けられた。
もっとも、今度の京都、関東でのお骨折り、尽力により、ご賞誉の御沙汰もあらせられた。

【久光公、手から御縁頭[柄頭(つかがしら) ]および鍔[つば]を賜う】
一 (*久光公から)中山 中左衛門、私目(*利通) へ (*刀の) 柄頭と鍔(つば)を右と同じ訳
(*今度の京都、関東での尽力)により、御手から拝領を仰せ付けられた。

一 脇差についても思召しで、下されようとしたが、さしあたり、御手元になかったので、今日中に、渡したいとのご趣意にて、有り合わせの品を下されたとの事

一 表向の御用で拝領、仰せ付けの思し召しであるが、ご参内の折、御剣を御拝領に例に慣(なら)わせ思し召しとのこと。
右の二件、谷村昌武からご沙汰の趣き、承知したとのこと。
右のご趣意で拝領を仰せ付けられるのは、実にもって、ただただ、武門の冥加の至りに
存じます。
ただただ、涙を流して泣き、感伏し、言語に及ぶ所ではありません。

【利通、福昌寺へ参詣】
一 七ツ過(*午後4時過ぎ) 退出する。
中山 中左衛門、 谷 村昌武、三原 玄甫と同伴して福昌寺に 順聖院様 [島津斉彬] 御廟へ参詣し、御願解(がんほどき)、百拝をして祈念した。

🌕9月10日
一 出勤時に、 山田 才助氏、皆吉 五郎右衛門氏を訪問した。
八ツ後(*午後2時頃) 退出。 
晩景から今夕、税所 篤が来て談話した。

🌕9月11日 晴
一 四時(*午前10時頃)、出勤、八(*午後2時頃)後、退出。
今夕、小松家へ中山中左衛門と同伴し、伺った。
九ツ時(*午前0時頃)退散した。

🌕9月12日 晴
一 四時(*午前10時頃)出勤、
八(*午後2時頃)後、退出。
今夕、 鈴木 宇左衛門 が来て、九時(*午前0時頃)帰られた。

🌕9月13日 晴
一 風邪気味で、(*体調)よくなく、今日から出勤、致さず。

【関東の変革を聞く】
一 今日、内田 政風(*薩摩藩士)が着いて、鎌田(*正純か)が来て、関東の変革の次第を承った。

一 諸大名の参勤(*交代)は、3年に1回 (100日) 、郷里に滞在するように、との令が発令された故、

一 妻子は、全て国元に引き取るように、とのこと。

一 国元を出立している大名らにも、達しがあり次第、途中から引き返すように、とのこと。

一 服制は、上下(かみしも)等は、減らすようにすること。
(*すなわち、大名の在国中は、江戸屋敷の家来を減少せよ、と云うこと。
また、禁門の変後、幕府は、この制度を元に戻そうとするが、この頃には幕府の威信は失墜しており、実現できず、大政奉還と共に、この制度は消滅した。)

一 大守(*藩主・島津茂久)様へ御奉書が来たことは、右のような趣(おもむき・*要件)であった。
誠に、思い切った変革で、言語に絶し、三郎公(*島津 久光)のご功業であろうか。
(*それが)現われ、ありがたい次第である。

🌕9月14日
一 今日も風邪気味で(*体調)よくなく、出勤、致さず。
八ツ後(*午後2時頃)、税所 篤が来た。

🌕9月15日
一 今朝、内田 政風(*薩摩藩士)が来た。
ゆっくり、関東の状況を承った。

一 今日まで出勤、致さず。

🌕9月16日 雨
一 今日から出勤。泊まり番を勤めた。

🌕9月17日 雨
一 (*久光公) お目覚め、六ツ半時(*午前7時頃).八ツ後(*午後2時頃)退出。
今夕、税所 篤が来た。
町田 直五郎殿(*薩摩藩士) が来た。

🌕9月18日
一 四時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。

一 出勤前、ご本丸へ出勤。

一 今夕、石原 直州、川畑 春水、山崎 郷士,長野 八郎兵衛が来る。

一 退出がけに、小松家へ伺う。


🌕9月19日
一 出勤時に、小松家へ伺い、出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出する。
退出時に、牧野氏、 椛山氏、 早崎氏、 岸良氏へ伺い、暮れ時分に帰る。

🌕9月20日
一 四前 (*午前10時前頃)奈良原 喜八郎が来る。
出勤時に南林寺・順聖院様(*始末斉彬)の御廟へ参詣。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。

🌕9月21日
【日 待ちで徹夜】
一 四時(*午前10時頃) 出勤。
今日は泊番である。
三郎様(*島津久光) 御本丸お入りになられ、七ツ過(午後4時過ぎ頃から、お供代わりで、五ツ過(*午後8時過ぎ)、 ご帰殿。
今日、その日から 夜明までであった。

🌕9月22日
一 九ツ時(*お昼12時頃)から ご沙汰があり、中山 中左衛門へ伺い、その趣を伝えた。
今日、出立である。 
八ツ後(*午後2時頃) 上之園辺り(*鹿児島市内)の諸所へ伺う。
海江田 信義へ今晩、伺い、奈良原兄弟が来た。

🌕9月23日
一 四時(*午前10時頃) 南林寺へ参詣し、出勤。

【利通、小柄[*こづか]と笄[*こうがい]を賜る】
一 御小柄  御柄(*笄は「髪かき」で小刀や短刀の鞘に差して髪の乱れを整える のに用いた。)、右、今般 、島津久光様の関東における御供で、いろいろと骨折りをした。
その沙汰で、(*久光公の)から仰せ付けられ、(*久光公の)自らのお手から拝領した。
実に過分のことで、 ただただ、恐懼(きょうく・*おそれかしこまること)の次第であります。

🌕9月24日
一 四時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。
退出時に、税所 篤へ用事で 吉祥院(*住職)に会い、大鐘時分(*午前0時頃)、引き取った。
今夕、早崎氏へ伺った。
(*早崎氏は、利通の妻・満寿子の実家。)

🌕9月25日 晴
【利通ら、楠公社へ参詣】
一 四時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。
木藤角太夫、奈良原 喜八郎が同道し、楠公社(伊集院・ 石田にある)参詣し、暮、帰る。
今夕、岸良 兼養(*久光公の奥小姓)が来た。

🌕9月26日 
一 四時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。
草牟田(そうむた・*鹿児島市内) へ墓参などをした。
今夕、鈴木 宇左衛門へ伺い、岸良 兼養も来た。

🌕9月27日 
一 四後(*午前10時過ぎ頃)出勤。
今日は泊まり番である。

🌕9月28日 
一 八ツ(*午後2時頃過ぎ)から退出。


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●9月28日 有村幸蔵への書簡
【要点】
桜島温泉で入湯中の有村へ(*利通の)老母の入湯について宿の手当てを依頼したものである。

【解説】
利通は、この月7日、京都から帰藩し、久しぶりに両親に近侍し、老母に病後の湯治静養を勧め、自分も後から行って老母を慰めようとしたのである。
(*原文中)「本田おハさま」は、(*本田)親雄の老母を云い、「おとしまり」は、方言で湯治行きを果たすの意味である。
(*有村)幸蔵は、海江田信義の弟で後の(*有村)国彦である。
彦作は、桜島・有村の農(*農民)で、大久保家と親しい者である。
利通の一家は、(*この)前年、父・次右衛門が遠島中、窮乏を極めて母も共に辛酸を嘗め、それ以後、健康が常ならず、利通も殊更、孝養を尽くして、ここに至ることになったのであろう。
今や、利通は久光公の信任、日に厚く、この年(*文久2年)5月20日、御納戸に進み、この月30日、御用取次見習いに任じられ、破格の寵遇を浴びたので両親も(*その)歓喜は、一通りではなかった。
(*利通は)往年の不幸を慰め、ただ、その前途を楽しんだのである。
なお、この年、久光公に随従し、江戸に居た利通へ父から贈られた家信がある。
(*歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む22
(文書)26・参考1 文久2年6月29日
 父 次右衛門より一蔵への書翰  が、それである。)

【本文・意訳】
秋の冷たさも募り、いよいよ御安康で御入湯に御出精のはずと、賀寿(がじゅ・*長寿のお祝い)に存じ奉ります。
さて、自由に至り奉り入りますが、お頼み申し上げたい事(愚母)があります。
明日の29日、天気次第でその地へ参り、お手数ですが、何卒、宿の手当てをして頂きたく願い奉ります。
未だ約束はしていませんが、彦作と申す者、知人でありますので、御相談、下されたく時分柄、差支えないと察し、申し上げます。
とにかく明るい所で、よろしいと存じます。
もっとも人数は、6、7人であり、余り自由ではありませんが、この段、お願い申し上げます。
本田氏「おハさま」も、お年を取られましたので、明日迄は、如何、相、なりますか、まずは用事まで。早々。
   9月28日   大久保 一蔵
 有村 幸蔵 様

――――――――――――――――

🌕9月29日
一 四時(*午前10時頃) 出勤。
明日、大蔵(島津)殿からの御差図で北郷 浪江殿の御取次で御用を致し、承知された。

🌕9月30日
四前 (*午前10時頃)出殿

【利通、 御用取次見習となる】
一 御用 御取次見習
           大久保 一蔵
右、当御役にて 右の通り仰せ付けられ、御用部屋へ勤め、御用の隙には小納戸方へも
心添え致すよう仰せ付けられた。
  九月       大蔵

右の通り、 北郷浪江殿をもって御取次恐れながら添えられ、当、誠に(*この様な)次第である。
実にありがたいことで申すまでも無く、この上は、身命を奉じ、奉らなくては仕方のないことである。

一 八ツ後(**午後2時頃)から、上方(うわがた)へ お礼廻りを致し、七ツ(*午後4時頃)後、帰宿。
お客の類が段々とあった。

――――――――――――――――

(文書)36・ 言路洞開の達書の草案
           文久2年  (9月)
*言路洞開(げんろ どうかい)
上層部が下層部の意見を汲み取り、意志の疎通を図ること。
すなわち、言論の自由への理解を示すこと。

(【要点】
言路洞開のことを家老から(*下方へ)達する際
の草案である。

【解説】
(*原文中)筑後は、川上 久封。
駿河は、新納 久仰。
但馬は、川上 久達。
共に家老である。

【本文・意訳】
上書の儀、順照院(*島津斉彬公の法名)様の御代に達せられたけれども、なお又、以来、御為を存し(*それは保たれ)、何事によらず言上奉りたく、面々も御側役へ封書を(*焼損)・・右は、情意の通りである。
思召しで仰せ付けられ(*焼損)・・の儀は、これ無く、実意をもって言上奉るように士、以上の面々へ達すべく仰せ付けられた。
この旨、漏らさず、早々に(*焼損)・・するように。
 9月      筑後(*川上 久封)
        駿河(*新納 久仰)
        但馬(*川上 久達)


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む26
大久保利通日記・上巻・第2巻  に続きます。

この記事へのコメント

児玉実承(コダマサネツグ)
2020年06月08日 14:52
私の祖先は、この日記(第一巻)にでてきた児玉孫次郎です。
私自身現在58歳となり、いろいろ祖先について調べています。
父(87歳)の話によると、加治屋町に住まいがあり、大久保家と西郷家
とは近所であったとの事。
また所業平氏の「児玉宗之氶日記」による児玉とは家紋は一緒ですが、
残念ながら住まいは異なるとのこと。
しかし、家紋が一緒、親せきに床次氏が関係しているとのことなど
から、何代か前に分かれたと思われます。
ただ、残念ながらこのような詳細を記載された文書はなく、
また私の父の時代「加治屋町の児玉です」と話しをすると
同じ鹿児島出身の児玉さんなど静かになってしまったとのこと。
先祖様の行動の良し悪しは別にして、今様々さことを調べたい、
伺いたいと思っております。
もし何かわかれば教えていただきたく、
知恵を拝借できれば、と思っています。
2020年06月09日 17:57
ご愛読、ご依頼、ありがとうございます。
そうですね、かなり調べられているようなので、
もしも、史料探索で行き詰まれば、
●「研究者・研究課題総覧」などで
薩摩藩研究者を調べて研究者に聞く。
門前払いもありましたが、小生、手紙を出しての成功経験もあります。
●文献の所蔵先の司書でなく「学芸員」に相談する。
学芸員は、優秀な方が多いです。
●「家系図作成」・有料ですが司法書士に依頼する。
数代位の以前なら有効な場合があります。
・・・などの手段もあります。
検討されて見ては如何でしょうか。
「思わぬ出会い」に恵まれるかも知れません。
お役に立てれば幸いです。(2020-6-9)

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