歴史の流れ 吉田松陰・金子重輔 行状
歴史の流れ 吉田松陰・金子重輔 行状
● は、原文。 ○ は、 意訳。
* は、付記です。
*金子 重輔は、
金子 重之輔(かねこ しげのすけ)のこと。
●金子重輔行状
安政乙卯正月十一日、金子重輔病死乎獄中、
友人吉田矩方已哭而慟之、乃略状其行曰、
蓋聞有苗而不秀、秀而不實者、其斯人之謂邪、
○金子重輔(*すなわち渋木 生 の本名)の行状
(*行状は、事蹟の記載であり、およそ、その人と
親密な関係である者が、この言葉を選ぶ。)
安政乙卯(きのとう・2年[1855年] 正月11月、
金子重輔、獄中(*野山下牢)で病死する。
友人・吉田矩方(*のりかた[ 諱 ]、、松陰のこと)
すでに(*重輔)の死を深く悲しんで叫び、
ほぼ、その行を状して(*表現して)云うには、
蓋(けだし・*まさに)
苗而不秀(*稲の苗であり秀でず。すなわち、
初めて学ぶ者が、その学が進歩しない例え。)
だが後、秀でて実る(*学問が進んで、
成就する。)と聞くのは、
それは、この人(*金子重輔のこと)を云うのか。
●重輔有才有気、春秋又富、少會有酒色之失、
已而大悔、
癸丑歳、
求役于江邸、翌大縦力於学、悒悒不得志、
○(*金子)重輔は、才気があり、
春秋、また富む(*年が若いことを云う。)
少のとき(*若い時)、酒色の過ちがあり、
すでに大いに悔いる。
癸丑の年(みずのと うし・*嘉永6年[1853年])、
江邸(こうてい・*江戸の長州藩邸)に使役されることを
求めて(*江戸に行くことを得て、それからは)
大いに力を学問に、ほしいままにしたいと欲して、
悒悒(ゆうゆう・*心が塞いで楽しくない様子)
として、志を得なかった。
●會話聖東使舶来浦賀、鄂羅斯使舶来長崎、
九月余決策西行、
時余未輿重輔相識、重輔輿吾友永鳥三平遊、
喜其議論、知余西行有為、奮欲蹝余
奮欲蹝余、未果、余西至長崎、不得策、
○たまたま、話聖東(*ワシントン)の船舶が
浦賀に来て、
鄂羅斯(オロシャ・*ロシア)の船舶が
長崎に来る、
(*その年の)9月、私(*吉田松陰)は、
策を決心して(*萩から)西の方へ行く。
時に私は、まだ重輔を知らず、
重輔は、我が友・永鳥三平(ながとり さんぺい・
*肥後・玉名郡の医師・松村安貞の二男。
松村大成の弟。)と交わり、その議論を喜び、
(*よって又、)私が西行して為すことが有ると
云うことを知り、(*重輔は)奮って私の追って
行きたいと欲して、未だ果たさず、
(すでに)私は、西の方、長崎に行って策を
(*行うことを)得なかった。
●十二月、再入江戸、
始見重輔、具語以志、重輔大悦、
先是重輔自謀曰、欲成奇策、而帯藩籍、
事若破露、至貽禍國家、決然亡邸、
欲帰國面訣父母、
○12月、再び江戸に入り、初めて重輔を見て
(*重輔が)詳細に語るには、(*外遊の)志があり、
(*私が外遊の志を詳しく語ると)
重輔は大いに喜ぶ。
これより先、重輔が自ら謀って云うには、
奇策を成そうと欲すると、藩籍を帯びること
(*これは、藩の公の名籍に加えられている。)、
もし、破露(はいろ・ことが露呈する)すれば、
禍を我が国に残すことになる、と。
すなわち、意を決して亡邸し(*邸宅から脱走すること)、
国に帰って父母に面決(めんけつ・
*会って死別をすること。)しようと欲した。
●甲寅正月、話成東使舶復来泊横濱、因留江戸、
輿同寓鳥山氏、初重輔首問為学之方、
余曰、離地而無人、離人而無事、故欲論人事、
○甲寅(きのえ とら・安政元年[1854年]正月、
話成東(*ワシントン)の船舶が、また来て、
横浜に停泊し、よって(*重輔は)江戸に留まり、
私と同じく鳥山氏(鳥山新三郎。もと安房の人で、
江戸・桶町に居た。)に住んでいた。
初めに、重輔は首に(*面会の最初に)学問を
為す方を(*私に)問う。
私は(*こう)云う、
地上を離れれば、
(*ここの「而」の字の意味は、「則」と判断。)
人がいなくて、人から離れれば事はない。
故に人事を論じようとすれば、先ず、地理を
見るべきである。(*と)
●先観於地理、重輔然之、至是益読地誌、
旬日得其要領、其歴指坤輿大勢、頗可聴也、
余乃曰、巳得其大、宜及其細、因乱抽架書、
得禹貢及項羽紀、
○重輔は、これは然り(*その通りである、とする。)
ここに(*正月以来、江戸に留まる頃)至り、
ますます地誌を読み、旬日(*10日位)で、
その要領を得て、その(*金子重輔は、)
坤輿(こんよ・*世界地理)の大勢をいちいち、
はっきり指し示すことを非常に良く聞いた。
私は(*こう)云う、
(*重輔は)その大なるものを得た。(*と。)
(*さらに)その細部に及んでいる、と云う、
よって架書(かしょ・*書物を置く台、棚の書物。)
を選ばないで抜き出して、禹貢(うこう・
*書経のなかの一篇、中国の山脈、水路が書かれる。)
および項羽紀(こううき・*史記のなかの一巻、
中国の蓁末の争乱、天下の群雄活動の跡を記す。)
を得た。
●余授之曰、是可以観漢土矣、重輔又讀之數日、
三月、聞和議決定、重輔奮曰、
吾留至于今日者慮或有事耳、今己無事、
宜速果前策、因促余、
○私は、これ(*前述、得禹貢と項羽紀)を
授けて(*こう)云う、
これで漢土(*中国の漢の地)を見るべきである、と。
(*重輔、)これを読むこと、数日であった。
(*安政元年)3月、和議
(*神奈川条約・日米和親条約)が決定すると聞き、
重輔、奮って云うには、
私は(*江戸に)留まって今日に至るのは、
或いは、変事があることを思ってのことで、
今、すでに(*和議が定まり)事がなかった。
(*なので)よろしく速やかに前策(*予定の計画)を
果たすべきである、と。
よって、私を促す。
●余即従之五日、同発江戸、
時使舶将去横濱往下田、因輿至下田、
二十七日、夜謀投使舶出海外、
事不諧、黎明登陸、見捕就檻、檻廣半間、
二人交膝而居、寝無衾枕、食無滋味、食無滋味、
余及作詞數首示重輔、
○私は、すなわち、その言葉に従う。
(*安政元年3月)5日、
(*重輔と)同じく江戸を発つ。
時に船舶は、まさに横浜を去って下田に
行こうとしている。
よって、共に下田に行く。
(*安政元年3月)27日夜、
船舶に身を投じて、海外に出ることを謀る。
(*上記の云うところの「策」が、ここで初めて
明かされる。)
(*だが)事、叶わず、
黎明(*夜明け頃)陸に登り、
捕らえられて檻(*おり)につく。
檻の広さは半間(*一畳敷)で、
二人で膝を交え、寝るのに衾枕(*ふすままくら)
もなく、食事も味気なく、
私は、すなわち、詩を数首を作って重輔に示す。
●重輔意氣益壮、時有獄卒隣吾輩者、
借示野史和部、獄中無事、日夜研精、
余語以夏候勝黄霸事、重輔大悦、
○重輔の意気はますます壮健であり、
時に、獄卒(ごくそつ・*牢獄で囚人を取り締まる
下級役人)の(*なかには)、私を憐れむ者がいて、
野史(*稗史 [はいし] とも云う中国史学 用語。
正史の対義語。一般書。)を数部、貸してくれて、
獄中で事がなければ、日夜、研精し(*細かく調べ)、
私が(*重輔に)夏候勝、黄霸のことを語ると、
重輔は大いに喜んだ。
*夏候勝(かこうしょう)は、前漢、宜帝の時の儒者。
黄霸(同時代のひと、丞相である。)
両人とも獄に下され、覇勝に随って学ぼうとする。
(*夏候)勝は、死ぬ身であり、学問は無用で
ある、と云う。
覇(*勝)は云う。
朝聞道夕死可矣、と。
(*朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。
朝に道を聞くことが出来れば、その日の夕方に
死んでも後悔は、ない。真理を求める尊さの例え。)
●四月十五日、送江戸下郵町獄、
自是繋、不得相見、對吏之日、
雖時見其面、不得盡言、且以自示曰、男兒死耳、
○(*安政元年)4月15日、
江戸に送られ、郵町(*伝馬町)の獄に下される。
これより別々に繋がれて、
(*松陰は、揚屋[あがりや]に、
金子は、百姓牢に。)
互いに見ることは出来なかった。
吏(*役人)に対峙する日、
時に、その顔を見ても言葉を尽くすことは出来ず、
しばらくして、自らを示して、
(*誰に語る訳でもなく、ただ、自分の意を表し、)
云うには、男子、死のうとするだけである。と。
●九月十八日、罪断出獄、帰因干麻布邸、
亦不得相通、及送國宿逆旅、
始得檻輿此並僅通聲息、
未入萩二里、宿明木驛、其明、護吏告入萩、
亦復繋、
○(*安政元年)9月18日、
罪が断じられて(*罪案が定まり)獄を出て、
帰って麻布邸(*藩邸のひとつ)に囚われ、
(*この時も又、別々に繋がれて)
相、通じることが出来ず、
国に送られる(*途中)、
逆旅(げきりょ・*旅人宿)に宿泊するに及び
檻が並んだ時に、僅かに声息(せいそく・声と息)
を通じることが出来た。
未だ萩に入られないこと二里(*約8キロ。徒歩で、
およそ2時間ほど。)、で明木(あきらぎ)駅に宿泊する。
その明(*明日)、護吏(ごり・*檻を護る役人)が
萩に入ることを告げ、又、再び、別々に繋がれる。
●重輔之郵街獄、疾疫症甚劇、巳瘳、満身発小瘡、
彌留不止、其間瀕死舎數矣、出獄之日、不能立行、
席戴舁進、臥聞吏讀断罪文、己発江戸、病益漸、
咳嗽連起、護吏甚無状、重輔以往往憤恚、
○(*初め、)重輔が、郵街獄(*伝馬町の獄)に在る時、
疫症(*伝染病)を病んで、非常に激しく、
すでに痩せて満身に小瘡(しょうそう・*赤色の発疹)
を発し、いよいよ非常に悪い状態が続き、
その間に、死に瀕すること、しばしばであった。
獄を出る日、立って行くことが出来ず、
席に載せて引かれて進み、臥して役人が断罪文を
読むのを聞いた。
すでに江戸を発して、病は、ますます進行し、
咳嗽(かいそう・*咳)が、しきりに起こる。
護吏は、非常に無状(ぶじゃく・*乱暴)で、
重輔は、折々、憤恚(ふんい・-怒る。)した。
●余輙慰之曰、事蹤至此命也、不知命無以為君子也
重輔笑曰、吾病篤心喪乃爾、
至是、重輔泣曰、
吾病不可起天下之事、吾不能復見、
然吾輿君決策人海其沈尸滄溟、暴骨砂磧、
固所不辞、就捕下獄、固期罪死、病不謀生、
今則得至此、是皆餘命耳、幸生前一拝父母、
然後長瞑、萬々無憾也、
○私は、すなわち(*その度毎に)重輔を慰めて
云うには、
事蹤(事件の有様。)が、ここに至るのは、命である。
命を知らなければ君子であることは無い。(と。)
重輔は笑って云う。
私は、病が篤く、心が喪失し(*大病に気がとぼけて)、
すなわち、その通りで、以後は、同じことはしない。
(と。)
ここに至り(*萩に帰る時)、重輔、泣いて云う。
私は病んで(*大病となり)、起つことが出来ない。
(*快復出来ない。)
(*なので)天下の事を私は、又見る事が出来ない。
しかし、私は君(*松陰)と策を決して、海に入り、
その尸(*しかばね)を滄溟(そうめい・大海)に
沈め、骨を砂磧(させき・砂原)にさらすことは
もとより辞さないところ、(*なので)
捕らえられて獄に下れば、もとより罪死を期し、
病めば生を謀ることが出来ず、今は、すなわち
(*命が尽きず)、ここに(故郷)に至る。
これ、皆、余命である。
幸いにも、生前に一度、父母を拝し、
その後に長瞑(ちょうめい・*死ぬこと)
となれば、満々、残念なことではない。(と。)
●余時知重輔病篤、然為未必死、且勉之以天下之事、
重輔曰、
吾命且矣竭、雖然天下之事吾不敢忘也己、
○私は(*その)時に、重輔の重病を知る。
しかし、この後、必ずしも死ぬとは限らず、
かつ、重輔が勉めるのは天下のことである。
重輔が云うには、
我が命は、尽きる。そうであっても、
天下の事は(*命の終るまでは)敢えて
忘れられない。(と。)
●余繋野山獄、輿重輔所繋處相隔、不能知其病状、
然微官有恩命許其父母視病又盡心施方也、
謂其必起、己而遂不起、
○私は、野山の獄に繋がれ、重輔の繋がれている所
と相、隔たり、その病状を知ることが出来なかった。
しかしながら、僅かに官の恩命があり、
重輔の父母が病を看、又、心を尽くして
方(*療治)を施すことを許されると聞き、
重輔は必ず起つと云ったが、
すでに、遂に起つことはなかった。
●重輔力学不文、無著述文章表見于世、
発江戸、至下田、就捕、日記其所見聞、
頗詳悉可観自署其首、曰大日本無二遊生、
幕吏案吾輩履歴、皆収重輔所記為據、
重輔好風詩、日晩途遠、余方深念無言、
重輔輙朗誦唐詩曰、
今夜不知何處宿、平沙萬里絶人烟、
○重輔の力学(*学問を勉強すること)は
不文(文章の材が乏しいこと)であった。
(*重輔の)著述、文章は、世に表現するものはなく、
(*ただ)江戸を発して下田に行ってから
捕縛されるまで、(*私が)日々に、
その見聞する所を記したのは、非常に詳細なので、
ことごとく覩てほしいもので、
自らその(*日記)の首(*はじめ)に署して、
大日本無二遊生と云う。
幕吏が、私の履歴を考えるに、皆、重輔が
記した所(*その日記)を収め(*取り上げ)て、
(*その)拠り所とした。
重輔は好んで詩を謳(*うた)い、
日暮れの道、遠く、私が、まさに深く想い
言葉が無い時、重輔は、いつも唐詩朗誦して
云うには、
「今夜知らず、何れの処にか宿せん。
平沙萬里、人烟を絶つ。」(と。)
*[解説]
この詩は、岑参の磧中の作の七絶の後・二句。
岑参(しん しん)は、中国、唐の詩人。
辺塞(へんさい)詩人として名高い。
岑嘉州(しん かしゅう)とも。意訳は、
今夜は、何処に宿泊することになるのか分からない。
広平な沙漠は、万里の果てまで続き、
人家から立ち昇る炊事の煙さえ、全く見えない。
●嗚呼如重輔者、
無所成而死苟非得大手筆而傳之、
亦何以慰其霊魂、而慊于友生之心哉、
今姑状輿余共事始末以責其採擇云、
○ああ、重輔のような者、
成るところなくして、亡くなる。
苟(*いやしく)も、大手筆(*立派な文章を書く人)
を得て、彼を(*天下後世に)伝えなければ、
又、何をもってか、その霊魂を慰めて友人の心に
満足させられようか。
今、しばらく(*その)私と事を共にして、
(*その)始末を状(*表現)し、
もって、その(*大手筆) の採択に資する、と云う。
(本文、了。)
(附文)
●金子重輔者渋木松太郎本名也、
重輔己亡邸因變姓名、以其先長門阿武渋本人、
而又墓歳寒之操、遂自定焉、投攘書為市木公太、
市来柿也、取干柿實帯渋、公从松省耳、
○金子重輔は、渋木松太郎の本名である。
重輔、すでに亡邸し、よって姓名を変じる。
(*渋木松太郎の名に変える。)
その先は、長門(*の国)、阿武(*の郡)、
渋木(*かつての紫福[しぶき]村。
現在の山口県長門市渋木。)の人で、
(*よって、渋木を姓とする。)
又、(*松の)歳寒の操を慕うことで、
(*よって、松太郎を名とする。)
遂に自らこれを定めた。
投攘書(とういしょ・*米国使節に与える書)
には、(*その署名に)市木公太(いちき こうた)
となっている。
市木は、柿(*柿は、柹の俗字。)である。
柿の実、渋を帯びるに取る。
(公太の)公は、松に从(*したが)い、
(*これによって松の木編を)省くだけである。
(完。)
● は、原文。 ○ は、 意訳。
* は、付記です。
*金子 重輔は、
金子 重之輔(かねこ しげのすけ)のこと。
●金子重輔行状
安政乙卯正月十一日、金子重輔病死乎獄中、
友人吉田矩方已哭而慟之、乃略状其行曰、
蓋聞有苗而不秀、秀而不實者、其斯人之謂邪、
○金子重輔(*すなわち渋木 生 の本名)の行状
(*行状は、事蹟の記載であり、およそ、その人と
親密な関係である者が、この言葉を選ぶ。)
安政乙卯(きのとう・2年[1855年] 正月11月、
金子重輔、獄中(*野山下牢)で病死する。
友人・吉田矩方(*のりかた[ 諱 ]、、松陰のこと)
すでに(*重輔)の死を深く悲しんで叫び、
ほぼ、その行を状して(*表現して)云うには、
蓋(けだし・*まさに)
苗而不秀(*稲の苗であり秀でず。すなわち、
初めて学ぶ者が、その学が進歩しない例え。)
だが後、秀でて実る(*学問が進んで、
成就する。)と聞くのは、
それは、この人(*金子重輔のこと)を云うのか。
●重輔有才有気、春秋又富、少會有酒色之失、
已而大悔、
癸丑歳、
求役于江邸、翌大縦力於学、悒悒不得志、
○(*金子)重輔は、才気があり、
春秋、また富む(*年が若いことを云う。)
少のとき(*若い時)、酒色の過ちがあり、
すでに大いに悔いる。
癸丑の年(みずのと うし・*嘉永6年[1853年])、
江邸(こうてい・*江戸の長州藩邸)に使役されることを
求めて(*江戸に行くことを得て、それからは)
大いに力を学問に、ほしいままにしたいと欲して、
悒悒(ゆうゆう・*心が塞いで楽しくない様子)
として、志を得なかった。
●會話聖東使舶来浦賀、鄂羅斯使舶来長崎、
九月余決策西行、
時余未輿重輔相識、重輔輿吾友永鳥三平遊、
喜其議論、知余西行有為、奮欲蹝余
奮欲蹝余、未果、余西至長崎、不得策、
○たまたま、話聖東(*ワシントン)の船舶が
浦賀に来て、
鄂羅斯(オロシャ・*ロシア)の船舶が
長崎に来る、
(*その年の)9月、私(*吉田松陰)は、
策を決心して(*萩から)西の方へ行く。
時に私は、まだ重輔を知らず、
重輔は、我が友・永鳥三平(ながとり さんぺい・
*肥後・玉名郡の医師・松村安貞の二男。
松村大成の弟。)と交わり、その議論を喜び、
(*よって又、)私が西行して為すことが有ると
云うことを知り、(*重輔は)奮って私の追って
行きたいと欲して、未だ果たさず、
(すでに)私は、西の方、長崎に行って策を
(*行うことを)得なかった。
●十二月、再入江戸、
始見重輔、具語以志、重輔大悦、
先是重輔自謀曰、欲成奇策、而帯藩籍、
事若破露、至貽禍國家、決然亡邸、
欲帰國面訣父母、
○12月、再び江戸に入り、初めて重輔を見て
(*重輔が)詳細に語るには、(*外遊の)志があり、
(*私が外遊の志を詳しく語ると)
重輔は大いに喜ぶ。
これより先、重輔が自ら謀って云うには、
奇策を成そうと欲すると、藩籍を帯びること
(*これは、藩の公の名籍に加えられている。)、
もし、破露(はいろ・ことが露呈する)すれば、
禍を我が国に残すことになる、と。
すなわち、意を決して亡邸し(*邸宅から脱走すること)、
国に帰って父母に面決(めんけつ・
*会って死別をすること。)しようと欲した。
●甲寅正月、話成東使舶復来泊横濱、因留江戸、
輿同寓鳥山氏、初重輔首問為学之方、
余曰、離地而無人、離人而無事、故欲論人事、
○甲寅(きのえ とら・安政元年[1854年]正月、
話成東(*ワシントン)の船舶が、また来て、
横浜に停泊し、よって(*重輔は)江戸に留まり、
私と同じく鳥山氏(鳥山新三郎。もと安房の人で、
江戸・桶町に居た。)に住んでいた。
初めに、重輔は首に(*面会の最初に)学問を
為す方を(*私に)問う。
私は(*こう)云う、
地上を離れれば、
(*ここの「而」の字の意味は、「則」と判断。)
人がいなくて、人から離れれば事はない。
故に人事を論じようとすれば、先ず、地理を
見るべきである。(*と)
●先観於地理、重輔然之、至是益読地誌、
旬日得其要領、其歴指坤輿大勢、頗可聴也、
余乃曰、巳得其大、宜及其細、因乱抽架書、
得禹貢及項羽紀、
○重輔は、これは然り(*その通りである、とする。)
ここに(*正月以来、江戸に留まる頃)至り、
ますます地誌を読み、旬日(*10日位)で、
その要領を得て、その(*金子重輔は、)
坤輿(こんよ・*世界地理)の大勢をいちいち、
はっきり指し示すことを非常に良く聞いた。
私は(*こう)云う、
(*重輔は)その大なるものを得た。(*と。)
(*さらに)その細部に及んでいる、と云う、
よって架書(かしょ・*書物を置く台、棚の書物。)
を選ばないで抜き出して、禹貢(うこう・
*書経のなかの一篇、中国の山脈、水路が書かれる。)
および項羽紀(こううき・*史記のなかの一巻、
中国の蓁末の争乱、天下の群雄活動の跡を記す。)
を得た。
●余授之曰、是可以観漢土矣、重輔又讀之數日、
三月、聞和議決定、重輔奮曰、
吾留至于今日者慮或有事耳、今己無事、
宜速果前策、因促余、
○私は、これ(*前述、得禹貢と項羽紀)を
授けて(*こう)云う、
これで漢土(*中国の漢の地)を見るべきである、と。
(*重輔、)これを読むこと、数日であった。
(*安政元年)3月、和議
(*神奈川条約・日米和親条約)が決定すると聞き、
重輔、奮って云うには、
私は(*江戸に)留まって今日に至るのは、
或いは、変事があることを思ってのことで、
今、すでに(*和議が定まり)事がなかった。
(*なので)よろしく速やかに前策(*予定の計画)を
果たすべきである、と。
よって、私を促す。
●余即従之五日、同発江戸、
時使舶将去横濱往下田、因輿至下田、
二十七日、夜謀投使舶出海外、
事不諧、黎明登陸、見捕就檻、檻廣半間、
二人交膝而居、寝無衾枕、食無滋味、食無滋味、
余及作詞數首示重輔、
○私は、すなわち、その言葉に従う。
(*安政元年3月)5日、
(*重輔と)同じく江戸を発つ。
時に船舶は、まさに横浜を去って下田に
行こうとしている。
よって、共に下田に行く。
(*安政元年3月)27日夜、
船舶に身を投じて、海外に出ることを謀る。
(*上記の云うところの「策」が、ここで初めて
明かされる。)
(*だが)事、叶わず、
黎明(*夜明け頃)陸に登り、
捕らえられて檻(*おり)につく。
檻の広さは半間(*一畳敷)で、
二人で膝を交え、寝るのに衾枕(*ふすままくら)
もなく、食事も味気なく、
私は、すなわち、詩を数首を作って重輔に示す。
●重輔意氣益壮、時有獄卒隣吾輩者、
借示野史和部、獄中無事、日夜研精、
余語以夏候勝黄霸事、重輔大悦、
○重輔の意気はますます壮健であり、
時に、獄卒(ごくそつ・*牢獄で囚人を取り締まる
下級役人)の(*なかには)、私を憐れむ者がいて、
野史(*稗史 [はいし] とも云う中国史学 用語。
正史の対義語。一般書。)を数部、貸してくれて、
獄中で事がなければ、日夜、研精し(*細かく調べ)、
私が(*重輔に)夏候勝、黄霸のことを語ると、
重輔は大いに喜んだ。
*夏候勝(かこうしょう)は、前漢、宜帝の時の儒者。
黄霸(同時代のひと、丞相である。)
両人とも獄に下され、覇勝に随って学ぼうとする。
(*夏候)勝は、死ぬ身であり、学問は無用で
ある、と云う。
覇(*勝)は云う。
朝聞道夕死可矣、と。
(*朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。
朝に道を聞くことが出来れば、その日の夕方に
死んでも後悔は、ない。真理を求める尊さの例え。)
●四月十五日、送江戸下郵町獄、
自是繋、不得相見、對吏之日、
雖時見其面、不得盡言、且以自示曰、男兒死耳、
○(*安政元年)4月15日、
江戸に送られ、郵町(*伝馬町)の獄に下される。
これより別々に繋がれて、
(*松陰は、揚屋[あがりや]に、
金子は、百姓牢に。)
互いに見ることは出来なかった。
吏(*役人)に対峙する日、
時に、その顔を見ても言葉を尽くすことは出来ず、
しばらくして、自らを示して、
(*誰に語る訳でもなく、ただ、自分の意を表し、)
云うには、男子、死のうとするだけである。と。
●九月十八日、罪断出獄、帰因干麻布邸、
亦不得相通、及送國宿逆旅、
始得檻輿此並僅通聲息、
未入萩二里、宿明木驛、其明、護吏告入萩、
亦復繋、
○(*安政元年)9月18日、
罪が断じられて(*罪案が定まり)獄を出て、
帰って麻布邸(*藩邸のひとつ)に囚われ、
(*この時も又、別々に繋がれて)
相、通じることが出来ず、
国に送られる(*途中)、
逆旅(げきりょ・*旅人宿)に宿泊するに及び
檻が並んだ時に、僅かに声息(せいそく・声と息)
を通じることが出来た。
未だ萩に入られないこと二里(*約8キロ。徒歩で、
およそ2時間ほど。)、で明木(あきらぎ)駅に宿泊する。
その明(*明日)、護吏(ごり・*檻を護る役人)が
萩に入ることを告げ、又、再び、別々に繋がれる。
●重輔之郵街獄、疾疫症甚劇、巳瘳、満身発小瘡、
彌留不止、其間瀕死舎數矣、出獄之日、不能立行、
席戴舁進、臥聞吏讀断罪文、己発江戸、病益漸、
咳嗽連起、護吏甚無状、重輔以往往憤恚、
○(*初め、)重輔が、郵街獄(*伝馬町の獄)に在る時、
疫症(*伝染病)を病んで、非常に激しく、
すでに痩せて満身に小瘡(しょうそう・*赤色の発疹)
を発し、いよいよ非常に悪い状態が続き、
その間に、死に瀕すること、しばしばであった。
獄を出る日、立って行くことが出来ず、
席に載せて引かれて進み、臥して役人が断罪文を
読むのを聞いた。
すでに江戸を発して、病は、ますます進行し、
咳嗽(かいそう・*咳)が、しきりに起こる。
護吏は、非常に無状(ぶじゃく・*乱暴)で、
重輔は、折々、憤恚(ふんい・-怒る。)した。
●余輙慰之曰、事蹤至此命也、不知命無以為君子也
重輔笑曰、吾病篤心喪乃爾、
至是、重輔泣曰、
吾病不可起天下之事、吾不能復見、
然吾輿君決策人海其沈尸滄溟、暴骨砂磧、
固所不辞、就捕下獄、固期罪死、病不謀生、
今則得至此、是皆餘命耳、幸生前一拝父母、
然後長瞑、萬々無憾也、
○私は、すなわち(*その度毎に)重輔を慰めて
云うには、
事蹤(事件の有様。)が、ここに至るのは、命である。
命を知らなければ君子であることは無い。(と。)
重輔は笑って云う。
私は、病が篤く、心が喪失し(*大病に気がとぼけて)、
すなわち、その通りで、以後は、同じことはしない。
(と。)
ここに至り(*萩に帰る時)、重輔、泣いて云う。
私は病んで(*大病となり)、起つことが出来ない。
(*快復出来ない。)
(*なので)天下の事を私は、又見る事が出来ない。
しかし、私は君(*松陰)と策を決して、海に入り、
その尸(*しかばね)を滄溟(そうめい・大海)に
沈め、骨を砂磧(させき・砂原)にさらすことは
もとより辞さないところ、(*なので)
捕らえられて獄に下れば、もとより罪死を期し、
病めば生を謀ることが出来ず、今は、すなわち
(*命が尽きず)、ここに(故郷)に至る。
これ、皆、余命である。
幸いにも、生前に一度、父母を拝し、
その後に長瞑(ちょうめい・*死ぬこと)
となれば、満々、残念なことではない。(と。)
●余時知重輔病篤、然為未必死、且勉之以天下之事、
重輔曰、
吾命且矣竭、雖然天下之事吾不敢忘也己、
○私は(*その)時に、重輔の重病を知る。
しかし、この後、必ずしも死ぬとは限らず、
かつ、重輔が勉めるのは天下のことである。
重輔が云うには、
我が命は、尽きる。そうであっても、
天下の事は(*命の終るまでは)敢えて
忘れられない。(と。)
●余繋野山獄、輿重輔所繋處相隔、不能知其病状、
然微官有恩命許其父母視病又盡心施方也、
謂其必起、己而遂不起、
○私は、野山の獄に繋がれ、重輔の繋がれている所
と相、隔たり、その病状を知ることが出来なかった。
しかしながら、僅かに官の恩命があり、
重輔の父母が病を看、又、心を尽くして
方(*療治)を施すことを許されると聞き、
重輔は必ず起つと云ったが、
すでに、遂に起つことはなかった。
●重輔力学不文、無著述文章表見于世、
発江戸、至下田、就捕、日記其所見聞、
頗詳悉可観自署其首、曰大日本無二遊生、
幕吏案吾輩履歴、皆収重輔所記為據、
重輔好風詩、日晩途遠、余方深念無言、
重輔輙朗誦唐詩曰、
今夜不知何處宿、平沙萬里絶人烟、
○重輔の力学(*学問を勉強すること)は
不文(文章の材が乏しいこと)であった。
(*重輔の)著述、文章は、世に表現するものはなく、
(*ただ)江戸を発して下田に行ってから
捕縛されるまで、(*私が)日々に、
その見聞する所を記したのは、非常に詳細なので、
ことごとく覩てほしいもので、
自らその(*日記)の首(*はじめ)に署して、
大日本無二遊生と云う。
幕吏が、私の履歴を考えるに、皆、重輔が
記した所(*その日記)を収め(*取り上げ)て、
(*その)拠り所とした。
重輔は好んで詩を謳(*うた)い、
日暮れの道、遠く、私が、まさに深く想い
言葉が無い時、重輔は、いつも唐詩朗誦して
云うには、
「今夜知らず、何れの処にか宿せん。
平沙萬里、人烟を絶つ。」(と。)
*[解説]
この詩は、岑参の磧中の作の七絶の後・二句。
岑参(しん しん)は、中国、唐の詩人。
辺塞(へんさい)詩人として名高い。
岑嘉州(しん かしゅう)とも。意訳は、
今夜は、何処に宿泊することになるのか分からない。
広平な沙漠は、万里の果てまで続き、
人家から立ち昇る炊事の煙さえ、全く見えない。
●嗚呼如重輔者、
無所成而死苟非得大手筆而傳之、
亦何以慰其霊魂、而慊于友生之心哉、
今姑状輿余共事始末以責其採擇云、
○ああ、重輔のような者、
成るところなくして、亡くなる。
苟(*いやしく)も、大手筆(*立派な文章を書く人)
を得て、彼を(*天下後世に)伝えなければ、
又、何をもってか、その霊魂を慰めて友人の心に
満足させられようか。
今、しばらく(*その)私と事を共にして、
(*その)始末を状(*表現)し、
もって、その(*大手筆) の採択に資する、と云う。
(本文、了。)
(附文)
●金子重輔者渋木松太郎本名也、
重輔己亡邸因變姓名、以其先長門阿武渋本人、
而又墓歳寒之操、遂自定焉、投攘書為市木公太、
市来柿也、取干柿實帯渋、公从松省耳、
○金子重輔は、渋木松太郎の本名である。
重輔、すでに亡邸し、よって姓名を変じる。
(*渋木松太郎の名に変える。)
その先は、長門(*の国)、阿武(*の郡)、
渋木(*かつての紫福[しぶき]村。
現在の山口県長門市渋木。)の人で、
(*よって、渋木を姓とする。)
又、(*松の)歳寒の操を慕うことで、
(*よって、松太郎を名とする。)
遂に自らこれを定めた。
投攘書(とういしょ・*米国使節に与える書)
には、(*その署名に)市木公太(いちき こうた)
となっている。
市木は、柿(*柿は、柹の俗字。)である。
柿の実、渋を帯びるに取る。
(公太の)公は、松に从(*したが)い、
(*これによって松の木編を)省くだけである。
(完。)
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
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