京都史蹟散策119 嵐山・法輪寺の全貌3
京都史蹟散策119 嵐山・法輪寺の全貌3
虚空蔵 法輪寺(ほうりんじ)
【位置】西京区嵐山虚空蔵山町
【交通】阪急電鉄・嵐山、徒歩7分。
裏参道。
紅葉時に、裏参道を下り始めると、左側は紅葉、
右側も紅葉、まさに、紅葉の裏参道である。
そして、左側の垣根の切れる辺りの奥に、
○久留島武彦・建立の「童話碑」 が、ある。
久留島武彦(くるしま たけひこ)
明治7年6月19日、大分県(現・玖珠町)
で生まれる。
日清・日露戦争帰還後、童話作家として、
雑誌「少年世界」主筆の巌谷小波と活動を
共にする。
明治36年、全国初の童話会・お伽倶楽部
(おとぎくらぶ)を開催。後、話術研究にも尽力し、
大正13年、日本童話連盟が創立され顧問に。
翌年、ラジオで初の童話放送。
翌年、ボーイスカウト運動の基礎作りにも参画し、
デンマーク、アンデルセンの聖地で、
アンデルセンの復権を訴え、逆にデンマークの
人々から「日本のアンデルセン」と云わしめた。
昭和35年、歿。享年86歳。
昭和25年、久留島武彦・童話生活50年記念の
童話碑(大分県玖珠町三島公園内)は、
知られるが、ここの童話碑は、よく知られていない。
大分県森地区に久留島記念館が、
奈良市・傳香寺に寓居跡の碑がある。
この碑の右側には、
○人形塚 が、ある。
昭和6年の建立。
10月15日の京人形商工業協同組合主催の
人形供養祭の日には、全国からの人形が
納められる。
この人形塚の右側に目をやると、墓地がある。
ここは、非公開であるが、非常に興味深い碑が
ひっそりと佇んでいる。
●玉堂琴士の碑 で、ある。
浦上玉堂は、江戸時代の文人画家であり、
日本美術史では欠かせない人物であり、
その画は、国宝・凍雲篩雪図(とううんしせつず)
(川端康成記念会所蔵)、他に、重要文化財が、
12点を数える。
本能寺(中京区)に廟所がある。
(京都史蹟散策113本能寺2、参照)
中京区・本能寺の「浦上玉堂・春琴の廟所」
右・玉堂、左・春琴。
その説明板(抜粋)によると、
浦上玉堂
延享2年(1745年)、岡山城下備中鴨方藩邸内
で生まれる。
本名孝弼(たかすけ)、字は君輔(きんすけ)、
通称は兵右衛門、35歳の時より自ら愛用の
七絃琴の銘に因み、玉堂と号す。
藩務の傍ら、琴を弾き、詩を詠し、筆を執って
墨書し、酒に酔い絵を描くという文人として
自適の生活を送る。
50歳の時、春琴、秋琴の二子を連れ、岡山を
出奔し、諸国放浪の旅に出る。
晩年は京都に定住し、文政3年(1820年)没。
この碑については、大正15年10月発行の
矢野橋村 著・浦上玉堂に詳しい。
それによると、
この碑文は、頼山陽の遺稿に掲載されているが、
著者が、この碑を接写したところが、数か所、
山陽遺稿の文の文字と異なる所を発見した。
後、山陽遺稿の文が、部分的に訂正された
・・と、ある。
著作権満了のものより
玉堂琴士の碑、を翻刻(起文)すると、
以下の通りである。
琴士、姓紀、浦上氏、諱弼、字君輔、
世仕備前侯属其支封内匠君雅精音律、最善琴、
嘗見古琴、傾襄購獲、蓋明人顧元章物、
背有玉堂清韻字、遂自號玉堂、琴士、
嘗恨漢謡之不入國耳、因欲被琴以催馬楽、
楽廃巳久、考諸舊志、又取邨野所傳、
参訂得数曲焉、寛政甲寅、辞任得肆志四方。
配市村氏、先卒、不再娶、有二子選遜、
於是携琴興二子東游、會津侯客禮聘待、
改其廟楽、乃留遜仕焉、舎選江戸、
而獨携琴出、東窮奥羽、西抵筑肥特喜平安山水、
召選共居焉、日事游覧、鬚A々然、
負琴而行、雖士女雑杳處、逢倦即憩、
人還指目之不顧也、
衣必綿布無副、嗜酒不多飲、朴器瓦皿、
肴核随有、酔則鼓琴、又時寫山水、
請畫者以酒潤筆、B欣然點染、気韻高渾、
猶其琴也、以文政庚辰九月四日没。
年七十六、葬本能寺、而建碑於嵯峨、
其所常游也、所著琴譜及詩集雑記、傳世、
而琴蔵於選家、選字春琴、善畫、遜字秋琴、
解音、皆淵源於琴士、琴士自獲琴、
行住座臥、無不興琴C、
嘗為人誤墮地損其一角、即痛哭累日、
蓋以琴為命也、故以自號、又以字其子、
琴在琴仕亦在也。
何以銘為、而吾所以銘者、與春琴交久、
其請不可辞也、銘曰、人耶琴耶、
抑水耶山耶、山水之韻、
寓於琴而著於人、人雖凶邪、不亡者存焉、
峨々兮洋々兮、D病乎、
吾文之不能傳其人耶。
藝國 頼 襄 撰
孤子 選 泣血書
平安 小石龍 填諱
正三位治部卿 藤原朝臣貞重隷額
●玉堂は、歿後、本能寺に葬むられ、
その子・春琴が碑を玉堂がよく遊んだ嵯峨の地に
建てる。
碑文は、春琴の依頼により頼山陽が撰し、
書は、春琴で、文中、【孤子 選 泣血書】とは、
春琴が泣いて血書した、の意。
隷額は、日野中納言貞重卿。
玉堂・春琴の父子の墓は、現在も本能寺にある。
ちなみに、玉堂の子・春琴居士碑は、長楽寺にある。
(京都史蹟散策 92 長楽寺の全貌 2、参照)
〇碑文は、山陽遺稿を参照しながら、
できるだけ原文のママ、再現しました。
結果、やはり、数か所、山陽遺稿と異なる箇所が
ありました。
なお、この玉堂琴士の碑は、大正15年以降、
いつからか不明であるが、非公開となっている。
参道をさらに進むと裏門である。

●裏参道・入口
ここは、中ノ島公園と桂川右岸(南側)の間に
架かる短い橋・渡月小橋(とげつこばし)
すぐにある。
渡月橋からだと、渡月橋、渡月小橋の延長線上
である。
以外と気が付かないので、通り過ぎてしまう。
階段を上っていくと裏門である。
そして、さらに進むと、右側の植え込みが
切れる所が、前述の、童話碑・人形塚・
墓地のある一帯となる訳である。
(この編・完)
虚空蔵 法輪寺(ほうりんじ)
【位置】西京区嵐山虚空蔵山町
【交通】阪急電鉄・嵐山、徒歩7分。
裏参道。
紅葉時に、裏参道を下り始めると、左側は紅葉、
右側も紅葉、まさに、紅葉の裏参道である。
そして、左側の垣根の切れる辺りの奥に、
○久留島武彦・建立の「童話碑」 が、ある。
久留島武彦(くるしま たけひこ)
明治7年6月19日、大分県(現・玖珠町)
で生まれる。
日清・日露戦争帰還後、童話作家として、
雑誌「少年世界」主筆の巌谷小波と活動を
共にする。
明治36年、全国初の童話会・お伽倶楽部
(おとぎくらぶ)を開催。後、話術研究にも尽力し、
大正13年、日本童話連盟が創立され顧問に。
翌年、ラジオで初の童話放送。
翌年、ボーイスカウト運動の基礎作りにも参画し、
デンマーク、アンデルセンの聖地で、
アンデルセンの復権を訴え、逆にデンマークの
人々から「日本のアンデルセン」と云わしめた。
昭和35年、歿。享年86歳。
昭和25年、久留島武彦・童話生活50年記念の
童話碑(大分県玖珠町三島公園内)は、
知られるが、ここの童話碑は、よく知られていない。
大分県森地区に久留島記念館が、
奈良市・傳香寺に寓居跡の碑がある。
この碑の右側には、
○人形塚 が、ある。
昭和6年の建立。
10月15日の京人形商工業協同組合主催の
人形供養祭の日には、全国からの人形が
納められる。
この人形塚の右側に目をやると、墓地がある。
ここは、非公開であるが、非常に興味深い碑が
ひっそりと佇んでいる。
●玉堂琴士の碑 で、ある。
浦上玉堂は、江戸時代の文人画家であり、
日本美術史では欠かせない人物であり、
その画は、国宝・凍雲篩雪図(とううんしせつず)
(川端康成記念会所蔵)、他に、重要文化財が、
12点を数える。
本能寺(中京区)に廟所がある。
(京都史蹟散策113本能寺2、参照)
中京区・本能寺の「浦上玉堂・春琴の廟所」
右・玉堂、左・春琴。
その説明板(抜粋)によると、
浦上玉堂
延享2年(1745年)、岡山城下備中鴨方藩邸内
で生まれる。
本名孝弼(たかすけ)、字は君輔(きんすけ)、
通称は兵右衛門、35歳の時より自ら愛用の
七絃琴の銘に因み、玉堂と号す。
藩務の傍ら、琴を弾き、詩を詠し、筆を執って
墨書し、酒に酔い絵を描くという文人として
自適の生活を送る。
50歳の時、春琴、秋琴の二子を連れ、岡山を
出奔し、諸国放浪の旅に出る。
晩年は京都に定住し、文政3年(1820年)没。
この碑については、大正15年10月発行の
矢野橋村 著・浦上玉堂に詳しい。
それによると、
この碑文は、頼山陽の遺稿に掲載されているが、
著者が、この碑を接写したところが、数か所、
山陽遺稿の文の文字と異なる所を発見した。
後、山陽遺稿の文が、部分的に訂正された
・・と、ある。
著作権満了のものより
玉堂琴士の碑、を翻刻(起文)すると、
以下の通りである。
琴士、姓紀、浦上氏、諱弼、字君輔、
世仕備前侯属其支封内匠君雅精音律、最善琴、
嘗見古琴、傾襄購獲、蓋明人顧元章物、
背有玉堂清韻字、遂自號玉堂、琴士、
嘗恨漢謡之不入國耳、因欲被琴以催馬楽、
楽廃巳久、考諸舊志、又取邨野所傳、
参訂得数曲焉、寛政甲寅、辞任得肆志四方。
配市村氏、先卒、不再娶、有二子選遜、
於是携琴興二子東游、會津侯客禮聘待、
改其廟楽、乃留遜仕焉、舎選江戸、
而獨携琴出、東窮奥羽、西抵筑肥特喜平安山水、
召選共居焉、日事游覧、鬚A々然、
負琴而行、雖士女雑杳處、逢倦即憩、
人還指目之不顧也、
衣必綿布無副、嗜酒不多飲、朴器瓦皿、
肴核随有、酔則鼓琴、又時寫山水、
請畫者以酒潤筆、B欣然點染、気韻高渾、
猶其琴也、以文政庚辰九月四日没。
年七十六、葬本能寺、而建碑於嵯峨、
其所常游也、所著琴譜及詩集雑記、傳世、
而琴蔵於選家、選字春琴、善畫、遜字秋琴、
解音、皆淵源於琴士、琴士自獲琴、
行住座臥、無不興琴C、
嘗為人誤墮地損其一角、即痛哭累日、
蓋以琴為命也、故以自號、又以字其子、
琴在琴仕亦在也。
何以銘為、而吾所以銘者、與春琴交久、
其請不可辞也、銘曰、人耶琴耶、
抑水耶山耶、山水之韻、
寓於琴而著於人、人雖凶邪、不亡者存焉、
峨々兮洋々兮、D病乎、
吾文之不能傳其人耶。
藝國 頼 襄 撰
孤子 選 泣血書
平安 小石龍 填諱
正三位治部卿 藤原朝臣貞重隷額
●玉堂は、歿後、本能寺に葬むられ、
その子・春琴が碑を玉堂がよく遊んだ嵯峨の地に
建てる。
碑文は、春琴の依頼により頼山陽が撰し、
書は、春琴で、文中、【孤子 選 泣血書】とは、
春琴が泣いて血書した、の意。
隷額は、日野中納言貞重卿。
玉堂・春琴の父子の墓は、現在も本能寺にある。
ちなみに、玉堂の子・春琴居士碑は、長楽寺にある。
(京都史蹟散策 92 長楽寺の全貌 2、参照)
〇碑文は、山陽遺稿を参照しながら、
できるだけ原文のママ、再現しました。
結果、やはり、数か所、山陽遺稿と異なる箇所が
ありました。
なお、この玉堂琴士の碑は、大正15年以降、
いつからか不明であるが、非公開となっている。
参道をさらに進むと裏門である。

●裏参道・入口
ここは、中ノ島公園と桂川右岸(南側)の間に
架かる短い橋・渡月小橋(とげつこばし)
すぐにある。
渡月橋からだと、渡月橋、渡月小橋の延長線上
である。
以外と気が付かないので、通り過ぎてしまう。
階段を上っていくと裏門である。
そして、さらに進むと、右側の植え込みが
切れる所が、前述の、童話碑・人形塚・
墓地のある一帯となる訳である。
(この編・完)
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
この記事へのコメント
ただいま法輪寺について調べておりまして、こちらのブログにたどり着きました。とても詳しく書かれていて、神社や墓碑の位置なども正確に説明していただいているので参考になりました。
さて二点、法輪寺の裏参道についてお尋ねしたいことがあります。
裏参道の入口から入って、法輪寺の裏門にたどり着くのは距離的にすぐなのでしょうか?法輪寺の境内がどこまでなのか知りたいと思っております。
もう一点は、法輪寺さんにもお尋ねしようとは思っていますが、裏参道は昔からあるようなものでしたでしょうか?これも境内の範囲に関係するかと思っております。
こちらまで実際に行けばわかるのですが、新型コロナウイルスの今の状況から、行くことを躊躇しております。記憶に残っておられるだけで結構ですのでお答えいただけると有難いです。どうぞよろしくお願いいたします。
法輪寺の件ですが、
裏参道の入口から入って、法輪寺の裏門に
たどり着くのは距離的には、徒歩で、
3~4分と記憶しています。
法輪寺の境内は、「表門、山門を潜ってから」上りの方角
の一帯が、境内となるのでしょう。
又、裏参道の北側一帯には、○石碑、●墓地などが
あることから、時代的にみても古くからあるもの
と思われますが、裏参道そのものは、参拝者用に造られたもので、
表参道よりも新しいかも知れませんね。