京都史蹟散策115 京都霊山護国神社探訪5 岐阜県招魂場
京都史蹟散策115 京都霊山護国神社探訪5
岐阜県招魂場
【位置】京都霊山護国神社の最南端の
一角にある。
【交通】市バス・東山安井
霊山護国神社・案内図
岐阜県招魂場・概観
案内板によると・・
岐阜県招魂場
明治3年(1870)梁川星巌の碑が門人により
建てられ、また戊辰戦争で戦死した徴兵七番隊の
川田敬蔵・家村半三郎(加納藩)中川源八郎・
水野定吉(岩手藩)らの碑が建ててある。
(約20m *北に)
平成2年秋、所 郁太郎の碑を建立すると共に
岐阜県招魂場を整備、毎年碑前祭を行う。
平成8年5月
霊山顕彰会岐阜県支部
―創立15周年記念建立―
・・とある。
招魂社がないので、案内板では、岐阜県招魂場、
霊山護国神社の地図では、岐阜招魂場、
市販されている 霊山歴史館 志士墳墓全図 では、
岐阜県招魂場の文字はない。
石碑では、岐阜県招魂場。
岐阜県招魂場の石碑が西面にあり、
その奥に、
●梁川星巌(やながわ せいがん)
の碑 がある。
この碑は、前述のように
明治3年9月、門人らが相謀り建立した。
(表面)
星巌梁川先生之碑
梁川星巌の略歴については、
京都史蹟散策17 梁川星巌邸址 を参照。
58歳の時、京都に移住し、尊王攘夷を唱え、
梅田雲浜、西郷隆盛、頼 三樹三郎らと活動。
「吉野懐古」は有名で、勤王詩人としての
イメージを確立した。
(碑の裏面)の説明の前に・・
星巌の歿後、明治維新が成り、
明治元年、明治天皇が即位され、維新前の功臣を
祀られた。
後、同年12月12日、梁川家に下記のような令が
あった。
浪士 故 梁川星巌
右 舊政府執政の頃より勤王の志厚く、
鞠躬盡力の内 病死致候。
方今 王政復古の時至り候に付、
生前の刻苦忠勤を追慕し、
十五日於霊山霊魂を祭祀するもの也
京都府
これにより、紅蘭(星巌の妻)は、
亡夫が勅褒されたので、これを記念とし、
■天集(やくてんしゅう)を明治元年に刊行した。
本書では、これまで旧幕府に憚(はばか)り
封印していた星巌の紀事(国事)の詩などが
初めて掲載された。
ちなみに、■天(やくてん)とは、
天に我が身の潔白を訴える、の意である。
明治元年刊行・やくてんしゅう
(著作権満了のものより)
そして、碑の裏面には、星巌の
「生日不受賀(せいじつふじゅが)」の賦
(詩の説明文)とその詩、および
紀事(国事)二十五首のなかから4首が
刻まれている。
生日不受賀詩以述懐とは、
生まれた日を喜んで受け入れず
詩をもって、その思いを述べる、の意。
有序は、順序だって筋道が通っている様子。
(裏面)
●は、詩の頭初を表示しました。
本文は、初めの一行と、
以下、二行が一行になっています。
【本文】
生日不受賀詩以述懐 有序
孟緯今年犬馬の歯 忽及七十 親朋有言沿例為壽者
及謝曰 古人徳與年進
而其也則資禀拙劣 動得罪於天 去日多而来日少
三省三視 補過之不暇 而靦面受諸君
賀 尤非鄙心之取安 况頗年洋夷来請開港互市
國事紛擾竊聞 聖上宵肝憂勤 不遑寧處
當是之時 置酒宴會 引觴自快 雖云林下散人
亦無有比理 宜謹慎以自守焉耳 諸君幸
諒吾寸哀勿復(強+言) 遂賊小詩 兼寄四方知舊
以豫防壽言賀儀贈遣 時安政五年戌午夏六月
●逝者如斯徒自傷 會無A滴報蒼蒼
従令一準李家例 毎日學程三坐香 駑劣無能年己高 眼
看鯨鬣皷風濤 生辰不受諸朋賀為憶 大君宵肝勞
●霜田開港己恠事 何况三
都諸要只許前條不容後一寛一猛太分明●為臣豈得私議
通信通商是禍胎
若弄空權応大本 内憂外患一時来 ●普天率土仰相望
葵B心皆向大陽 諸老何
心梗朝命 不知梗得自家亡 ●命世之才古亦稀 八方今日
事乖違 人心得失君C鑒 即
是興亡一大幾 明 星巌逸氏xx具稿於鴨沂少寫
本文・ABC の漢字
【大意】
この年、6月10日は、星巌の70歳の誕生日で、
旧門人らが相談して祝おうとするが、星巌は
固くこれを辞して、詩を賦してその所懐を述べた。
【読み下し・意訳】
孟緯(星巌の名)、 今年(安政5年)犬馬の歯
(けんばの よわい・動物の犬や馬のように、
大きな功績を残すこともなく、無駄に歳を取った)、
すなわち七十に及ぶ。
親朋(しんぽう・友人)は例によって壽(祝い)を
なさんと云う者あり。
(*星巌)すなわち謝して云う。
「古人徳、年とともに進むと、しかして某や、
即ち、資禀拙劣、どうもすれば罪を天に得たり。
(しひんせつれつ・資質が劣っているのは、
どうかすると天に、その罪をなすりつけている。)
去る日、多くして、来る日、少なし。
三省三視、過ぎるのを補うに、これ暇、あらず。
しかして、靦面(てんめん・あつかましく)
諸君の賀を受けるには、もっとも
鄙心(田舎の心)の安んずる所にあらず。
いわんや、頗年洋夷来たりて(毎年、異人が来て)
開港、互市(貿易)を請い、国事は紛擾たり。
竊(ひそか)に聞く。
聖上宵肝憂勤、寧處に遑(いとま)あらず。
(天皇は、心を憂い、努力し、勤められも
落ち着かず、休む暇もない)、
この時に当たり、酒を置いて宴会をし、
引き盃(さかずき)をして自ら快いとするのは、
林下の散人(在野の禅寺の閑人)と云うといえども、
また、この理は、有ること、無いこと。
よろしく謹慎をもって自ら守るべきのみである。
諸君は幸いに、わが寸哀を諒(もっともである)
として、復強ぶる(向きになる)こと、なかれ。
遂に小詩を賦し、兼ねて、四方の知旧に寄せ、
もって、あらかじめ、壽言賀儀贈遣を防ぐ、と。
時に安政五年戌午夏六月。
・・・以下、略。
付記。この碑文の拓本は、説明文はないが、現在、
早稲田大学・図書館が所蔵している。
追記
コメント欄に「素晴らしいコメント」
を頂きました。
投稿者として、まだ、まだ、勉強不足、
浅学を感じるところであり、ぜひ、
このコメントも合わせて読んで頂きたく、
お願い致します。
(右側面)
明治三年庚午秋九月 門人等建
の文字が刻まれる。

所 郁太郎
の墓標
梁川星巌(やながわ せいがん)の碑の
手前、左側、南面にある。
(表面)
贈従四位 所 郁太郎則神霊
(裏面)
ほとんど、判読不能。
天保九年に大垣市・・
医師、所伊織の養子となる・・
慶応元年三月十二日歿・・
所郁太郎(ところ・いくたろう)
天保9年(1838年)3月に、
美濃国・不破郡赤坂町・醸造家・矢橋亦一の四男
として生まれる。名は、直則。
11歳のとき、西方村(現・岐阜県揖斐郡大野町)の
医師・所 伊織の養子となる。
初め、加納藩医・青木養軒に医学を学び、8歳で
京都に出て安藤桂州 塾に入門し、後、23歳で
大阪の適塾に入門する。
平素、尊攘の大志を抱き、適塾では、福沢諭吉、
大村益次郎らと交わる。
後、上洛し、山口藩邸の側に町医を開業し、
同・藩士らとの要請で時世を論じる。
文久3年(1863年)、攘夷の詔が下り、
三条実美ら七卿落ちにと共に長州に入り、
桂小五郎(後の木戸孝允)の推挙により、
長州藩・医院総督となる。
馬関砲撃より七卿の擁護、雪寃東上のことで
後、高杉晋作らの藩論の帰一を助ける。
元治元年(1864年)9月、井上聞多(後の井上馨)
の遭難の際、身を挺して井上の一命を取り留める。
翌年、高杉晋作を助け転戦するも、周防吉敷の
陣中で発病し、慶応元年(1865年)3月12日、歿。
享年28歳。
所郁太郎、病死の部屋。
(昭和11年当時、田中秀一氏邸宅)
著作権満了のものより。
墓は山口市吉敷東三舞。
岐阜県大垣市赤坂・妙法寺。
また、同・子安神社入口に憂国の青年志士
所郁太郎生誕地の碑、赤坂宿・本陣跡に
所郁太郎像がある。
山口市湯田温泉2丁目・高田公園内に
顕彰碑がある。
●前述、岐阜県招魂場の案内板にあるように、
梁川星巌の碑、所 郁太郎の墓標から
北に約20mに、戊辰戦争で戦死した徴兵七番隊の
墓碑が連なる。
必ずしも岐阜出身者ばかりではないが、「徴兵七番隊」
としてその名が列せられている。

●赤報隊から徴兵七番隊へ●
赤報隊は、草奔隊(そうもうたい・在野の隊で、
浪士、郷士、農民など自費で参加)、の代表的な
存在で、薩長を中心とする新政府の東山道鎮撫総督
指揮下の一部隊。
結成(慶應4年1月9日)当初は、
大将・綾小路俊実、軍裁・相楽総三ほか、
三番隊まであり、300名ほどであったが、
同月25日、朝廷からの赤報隊への帰京の命令で、
一番隊は、朝議の一変により偽官軍とみなされ、
東山道鎮撫軍の捕縛命令により崩壊し、
二番隊は新政府に従い帰京。
隊長は、鈴木三樹三郎で元新選組(御陵隊士)が
中心であった。
三番隊は、水口藩、江州出身者が中心だったが、
略奪行為が多く処刑された。
後、赤報隊は、新政府により海道鎮撫総督の
指揮下に再編成(二番隊を編入)させて
徴兵七番隊となり、東北戦争に進軍した。
岐阜県不破郡樽井町に赤報隊の顕彰碑
(2008年4月建立)がある。
正面の右から(霊山護国神社の表記)
○西本 裕隼
(徴兵 大監察西本 裕隼 方則 墳)
水口藩出身。
(水口藩は、近江国・水口周辺。現・滋賀県甲賀市。
藩庁は水口城)。
徴兵七番隊監軍。
明治元年、元・赤報隊に所属。
明治元年8月11日、
茨城県磐城・菅谷口(すがやぐち)で戦死。
享年、41歳。
墓は、福島県相馬市小泉字高池・曹洞宗・慶徳寺。
○川田 敬三(川田 敬蔵)
(川田 敬蔵 義信 墳)
加納藩(美濃国・厚見郡加納。
現・岐阜市加納。藩庁は加納城)。
徴兵七番隊に所属。
明治元年8月7日、
茨城県磐城駒ヶ峰・日尻口で戦死。
大坪村で戦死・享年、18歳とも)
享年、19歳。
墓は、福島県相馬市小泉字高池・曹洞宗・慶徳寺。
○松山 豊次郎
(松山 豊次郎 英敏 墳)
徴兵七番隊に所属。
京都府御親兵。
元・丹波・亀山藩士。
明治元年8月9日、
茨城県磐城・菅谷口(すがやぐち)で戦死。
享年、31歳(27歳とも)。
墓は、福島県相馬市小泉字高池・曹洞宗・慶徳寺。
○山内 勝三郎
(山内 勝三郎 重信 墳)
尾張藩(大阪、出身とも。)
徴兵七番隊に所属。
明治元年8月11日、
茨城県磐城・菅谷口(すがやぐち)で戦死。
享年、29歳(17歳とも)。
墓は、福島県相馬市小泉字高池・曹洞宗・慶徳寺。
○藤井 主税
(藤井 主税 高経 墳)
徴兵七番隊に所属。
大坂天王寺の出身。
明治元年8月11日、
茨城県磐城・菅谷口(すがやぐち)で戦死。
享年、17歳(29歳とも)。
墓は、福島県相馬市小泉字高池・曹洞宗・慶徳寺。
●水野 定吉
(水野 定吉 友重 墳)
徴兵七番隊に所属。
元・赤報隊。
一説に、水野定吉は、美濃国、不破郡岩手村の
農民とも。
明治元年8月11日、
茨城県磐城・菅谷口(すがやぐち)で戦死。
享年、33歳。
墓は、福島県相馬市小泉字高池・曹洞宗・慶徳寺。
【参考】赤報隊、結成の当初、岩手へ進軍。
前述のように赤報隊は、慶應4年1月9日に結成され、
同月、18日に岩手へ約150名で進軍する。
だが、岩手藩内は平穏で、官軍に恭順し、
武器、軍資金を献じ、赤報隊に10数名を参加させた。
このうちの2人が水野定吉・中川源八であるとされ、
岐阜県招魂場の案内板にあるように
中川源八、水野定吉(岩手藩)とされる。
後、岩手より東征・中山道へ。
同月25日、朝廷からの赤報隊への帰京の命令で、
二番隊は帰京し、赤報隊の全体は解隊し、帰京組は
投獄されるも後、新政府により海道鎮撫総督の
指揮下に再編成(二番隊を編入)させて
徴兵七番隊となり、東北戦争に進軍した。
○家村 半三郎
(家村 半三郎 兼貞 墳)
加納藩(美濃国・厚見郡加納。
現・岐阜市加納。藩庁は加納城)。
徴兵七番隊に所属。
明治元年8月11日、
茨城県磐城・菅谷口(すがやぐち)で重傷、
8月14日、死亡。
享年、35歳。
墓は、福島県相馬市小泉字高池・曹洞宗・慶徳寺。
○伊藤 半七郎 (伊東)
(伊藤 半七郎 光廣 墳)
徴兵七番隊に所属。
尾州(名古屋)の出身。
明治元年8月9日、茨城県磐城駒ヶ峰で負傷、
8月29日、死亡。
享年、30歳。
墓は、福島県相馬市西山字表西山・洞雲寺。
○中川 源八郎
(中川 源八郎 兼光 墳)
源八とも。
岩手藩。元・赤報隊。
一説には、源八郎は、美濃国、不破郡岩手村の
出身とも。(前述、参照。)
明治元年8月9日、
茨城県磐城駒ヶ峰・日尻口で負傷、
8月25日、同県、中村で死亡。
享年、49歳。
墓は、福島県相馬市西山字表西山・洞雲寺。
赤報隊一番隊の壊滅と名誉回復
慶応4年1月25日、朝廷からの赤報隊への帰京の
命令があり、大将・綾小路俊実は、軍裁・相楽総三
に帰京を命じたが相楽は聞かず、隊名を
「官軍先鋒嚮導隊」と改称し、更に信州へ進軍し、
多くは、東山道軍・近隣諸藩連合軍と闘い
戦死、壊滅し、相楽らは出頭し捕縛され、3月3日、
処刑された。
この時、相楽らは、赤報隊が、まさか朝敵とされていた
ことなど夢にも思わなかったであろう。
この赤報隊への帰京命令は、朝議の一変で
赤報隊が賊視された為であったが、赤報隊が純粋な
勤王家であったことを処刑された子孫らが訴え、
昭和3年に全員ではないが、相楽らの名誉回復は
果たされた。
この編、完。
岐阜県招魂場
【位置】京都霊山護国神社の最南端の
一角にある。
【交通】市バス・東山安井
霊山護国神社・案内図
岐阜県招魂場・概観
案内板によると・・
岐阜県招魂場
明治3年(1870)梁川星巌の碑が門人により
建てられ、また戊辰戦争で戦死した徴兵七番隊の
川田敬蔵・家村半三郎(加納藩)中川源八郎・
水野定吉(岩手藩)らの碑が建ててある。
(約20m *北に)
平成2年秋、所 郁太郎の碑を建立すると共に
岐阜県招魂場を整備、毎年碑前祭を行う。
平成8年5月
霊山顕彰会岐阜県支部
―創立15周年記念建立―
・・とある。
招魂社がないので、案内板では、岐阜県招魂場、
霊山護国神社の地図では、岐阜招魂場、
市販されている 霊山歴史館 志士墳墓全図 では、
岐阜県招魂場の文字はない。
石碑では、岐阜県招魂場。
岐阜県招魂場の石碑が西面にあり、
その奥に、
●梁川星巌(やながわ せいがん)

の碑 がある。
この碑は、前述のように
明治3年9月、門人らが相謀り建立した。
(表面)
星巌梁川先生之碑
梁川星巌の略歴については、
京都史蹟散策17 梁川星巌邸址 を参照。
58歳の時、京都に移住し、尊王攘夷を唱え、
梅田雲浜、西郷隆盛、頼 三樹三郎らと活動。
「吉野懐古」は有名で、勤王詩人としての
イメージを確立した。
(碑の裏面)の説明の前に・・
星巌の歿後、明治維新が成り、
明治元年、明治天皇が即位され、維新前の功臣を
祀られた。
後、同年12月12日、梁川家に下記のような令が
あった。
浪士 故 梁川星巌
右 舊政府執政の頃より勤王の志厚く、
鞠躬盡力の内 病死致候。
方今 王政復古の時至り候に付、
生前の刻苦忠勤を追慕し、
十五日於霊山霊魂を祭祀するもの也
京都府
これにより、紅蘭(星巌の妻)は、
亡夫が勅褒されたので、これを記念とし、
■天集(やくてんしゅう)を明治元年に刊行した。
本書では、これまで旧幕府に憚(はばか)り
封印していた星巌の紀事(国事)の詩などが
初めて掲載された。
ちなみに、■天(やくてん)とは、
天に我が身の潔白を訴える、の意である。
明治元年刊行・やくてんしゅう
(著作権満了のものより)
そして、碑の裏面には、星巌の
「生日不受賀(せいじつふじゅが)」の賦
(詩の説明文)とその詩、および
紀事(国事)二十五首のなかから4首が
刻まれている。
生日不受賀詩以述懐とは、
生まれた日を喜んで受け入れず
詩をもって、その思いを述べる、の意。
有序は、順序だって筋道が通っている様子。
(裏面)
●は、詩の頭初を表示しました。
本文は、初めの一行と、
以下、二行が一行になっています。
【本文】
生日不受賀詩以述懐 有序
孟緯今年犬馬の歯 忽及七十 親朋有言沿例為壽者
及謝曰 古人徳與年進
而其也則資禀拙劣 動得罪於天 去日多而来日少
三省三視 補過之不暇 而靦面受諸君
賀 尤非鄙心之取安 况頗年洋夷来請開港互市
國事紛擾竊聞 聖上宵肝憂勤 不遑寧處
當是之時 置酒宴會 引觴自快 雖云林下散人
亦無有比理 宜謹慎以自守焉耳 諸君幸
諒吾寸哀勿復(強+言) 遂賊小詩 兼寄四方知舊
以豫防壽言賀儀贈遣 時安政五年戌午夏六月
●逝者如斯徒自傷 會無A滴報蒼蒼
従令一準李家例 毎日學程三坐香 駑劣無能年己高 眼
看鯨鬣皷風濤 生辰不受諸朋賀為憶 大君宵肝勞
●霜田開港己恠事 何况三
都諸要只許前條不容後一寛一猛太分明●為臣豈得私議
通信通商是禍胎
若弄空權応大本 内憂外患一時来 ●普天率土仰相望
葵B心皆向大陽 諸老何
心梗朝命 不知梗得自家亡 ●命世之才古亦稀 八方今日
事乖違 人心得失君C鑒 即
是興亡一大幾 明 星巌逸氏xx具稿於鴨沂少寫
本文・ABC の漢字
【大意】
この年、6月10日は、星巌の70歳の誕生日で、
旧門人らが相談して祝おうとするが、星巌は
固くこれを辞して、詩を賦してその所懐を述べた。
【読み下し・意訳】
孟緯(星巌の名)、 今年(安政5年)犬馬の歯
(けんばの よわい・動物の犬や馬のように、
大きな功績を残すこともなく、無駄に歳を取った)、
すなわち七十に及ぶ。
親朋(しんぽう・友人)は例によって壽(祝い)を
なさんと云う者あり。
(*星巌)すなわち謝して云う。
「古人徳、年とともに進むと、しかして某や、
即ち、資禀拙劣、どうもすれば罪を天に得たり。
(しひんせつれつ・資質が劣っているのは、
どうかすると天に、その罪をなすりつけている。)
去る日、多くして、来る日、少なし。
三省三視、過ぎるのを補うに、これ暇、あらず。
しかして、靦面(てんめん・あつかましく)
諸君の賀を受けるには、もっとも
鄙心(田舎の心)の安んずる所にあらず。
いわんや、頗年洋夷来たりて(毎年、異人が来て)
開港、互市(貿易)を請い、国事は紛擾たり。
竊(ひそか)に聞く。
聖上宵肝憂勤、寧處に遑(いとま)あらず。
(天皇は、心を憂い、努力し、勤められも
落ち着かず、休む暇もない)、
この時に当たり、酒を置いて宴会をし、
引き盃(さかずき)をして自ら快いとするのは、
林下の散人(在野の禅寺の閑人)と云うといえども、
また、この理は、有ること、無いこと。
よろしく謹慎をもって自ら守るべきのみである。
諸君は幸いに、わが寸哀を諒(もっともである)
として、復強ぶる(向きになる)こと、なかれ。
遂に小詩を賦し、兼ねて、四方の知旧に寄せ、
もって、あらかじめ、壽言賀儀贈遣を防ぐ、と。
時に安政五年戌午夏六月。
・・・以下、略。
付記。この碑文の拓本は、説明文はないが、現在、
早稲田大学・図書館が所蔵している。


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を頂きました。
投稿者として、まだ、まだ、勉強不足、
浅学を感じるところであり、ぜひ、
このコメントも合わせて読んで頂きたく、
お願い致します。
(右側面)
明治三年庚午秋九月 門人等建
の文字が刻まれる。

所 郁太郎

の墓標
梁川星巌(やながわ せいがん)の碑の
手前、左側、南面にある。
(表面)
贈従四位 所 郁太郎則神霊
(裏面)
ほとんど、判読不能。
天保九年に大垣市・・
医師、所伊織の養子となる・・
慶応元年三月十二日歿・・
所郁太郎(ところ・いくたろう)
天保9年(1838年)3月に、
美濃国・不破郡赤坂町・醸造家・矢橋亦一の四男
として生まれる。名は、直則。
11歳のとき、西方村(現・岐阜県揖斐郡大野町)の
医師・所 伊織の養子となる。
初め、加納藩医・青木養軒に医学を学び、8歳で
京都に出て安藤桂州 塾に入門し、後、23歳で
大阪の適塾に入門する。
平素、尊攘の大志を抱き、適塾では、福沢諭吉、
大村益次郎らと交わる。
後、上洛し、山口藩邸の側に町医を開業し、
同・藩士らとの要請で時世を論じる。
文久3年(1863年)、攘夷の詔が下り、
三条実美ら七卿落ちにと共に長州に入り、
桂小五郎(後の木戸孝允)の推挙により、
長州藩・医院総督となる。
馬関砲撃より七卿の擁護、雪寃東上のことで
後、高杉晋作らの藩論の帰一を助ける。
元治元年(1864年)9月、井上聞多(後の井上馨)
の遭難の際、身を挺して井上の一命を取り留める。
翌年、高杉晋作を助け転戦するも、周防吉敷の
陣中で発病し、慶応元年(1865年)3月12日、歿。
享年28歳。
所郁太郎、病死の部屋。
(昭和11年当時、田中秀一氏邸宅)
著作権満了のものより。
墓は山口市吉敷東三舞。
岐阜県大垣市赤坂・妙法寺。
また、同・子安神社入口に憂国の青年志士
所郁太郎生誕地の碑、赤坂宿・本陣跡に
所郁太郎像がある。
山口市湯田温泉2丁目・高田公園内に
顕彰碑がある。
●前述、岐阜県招魂場の案内板にあるように、
梁川星巌の碑、所 郁太郎の墓標から
北に約20mに、戊辰戦争で戦死した徴兵七番隊の
墓碑が連なる。
必ずしも岐阜出身者ばかりではないが、「徴兵七番隊」
としてその名が列せられている。

●赤報隊から徴兵七番隊へ●
赤報隊は、草奔隊(そうもうたい・在野の隊で、
浪士、郷士、農民など自費で参加)、の代表的な
存在で、薩長を中心とする新政府の東山道鎮撫総督
指揮下の一部隊。
結成(慶應4年1月9日)当初は、
大将・綾小路俊実、軍裁・相楽総三ほか、
三番隊まであり、300名ほどであったが、
同月25日、朝廷からの赤報隊への帰京の命令で、
一番隊は、朝議の一変により偽官軍とみなされ、
東山道鎮撫軍の捕縛命令により崩壊し、
二番隊は新政府に従い帰京。
隊長は、鈴木三樹三郎で元新選組(御陵隊士)が
中心であった。
三番隊は、水口藩、江州出身者が中心だったが、
略奪行為が多く処刑された。
後、赤報隊は、新政府により海道鎮撫総督の
指揮下に再編成(二番隊を編入)させて
徴兵七番隊となり、東北戦争に進軍した。
岐阜県不破郡樽井町に赤報隊の顕彰碑
(2008年4月建立)がある。
正面の右から(霊山護国神社の表記)
○西本 裕隼

(徴兵 大監察西本 裕隼 方則 墳)
水口藩出身。
(水口藩は、近江国・水口周辺。現・滋賀県甲賀市。
藩庁は水口城)。
徴兵七番隊監軍。
明治元年、元・赤報隊に所属。
明治元年8月11日、
茨城県磐城・菅谷口(すがやぐち)で戦死。
享年、41歳。
墓は、福島県相馬市小泉字高池・曹洞宗・慶徳寺。
○川田 敬三(川田 敬蔵)

(川田 敬蔵 義信 墳)
加納藩(美濃国・厚見郡加納。
現・岐阜市加納。藩庁は加納城)。
徴兵七番隊に所属。
明治元年8月7日、
茨城県磐城駒ヶ峰・日尻口で戦死。
大坪村で戦死・享年、18歳とも)
享年、19歳。
墓は、福島県相馬市小泉字高池・曹洞宗・慶徳寺。
○松山 豊次郎

(松山 豊次郎 英敏 墳)
徴兵七番隊に所属。
京都府御親兵。
元・丹波・亀山藩士。
明治元年8月9日、
茨城県磐城・菅谷口(すがやぐち)で戦死。
享年、31歳(27歳とも)。
墓は、福島県相馬市小泉字高池・曹洞宗・慶徳寺。
○山内 勝三郎

(山内 勝三郎 重信 墳)
尾張藩(大阪、出身とも。)
徴兵七番隊に所属。
明治元年8月11日、
茨城県磐城・菅谷口(すがやぐち)で戦死。
享年、29歳(17歳とも)。
墓は、福島県相馬市小泉字高池・曹洞宗・慶徳寺。
○藤井 主税

(藤井 主税 高経 墳)
徴兵七番隊に所属。
大坂天王寺の出身。
明治元年8月11日、
茨城県磐城・菅谷口(すがやぐち)で戦死。
享年、17歳(29歳とも)。
墓は、福島県相馬市小泉字高池・曹洞宗・慶徳寺。
●水野 定吉

(水野 定吉 友重 墳)
徴兵七番隊に所属。
元・赤報隊。
一説に、水野定吉は、美濃国、不破郡岩手村の
農民とも。
明治元年8月11日、
茨城県磐城・菅谷口(すがやぐち)で戦死。
享年、33歳。
墓は、福島県相馬市小泉字高池・曹洞宗・慶徳寺。
【参考】赤報隊、結成の当初、岩手へ進軍。
前述のように赤報隊は、慶應4年1月9日に結成され、
同月、18日に岩手へ約150名で進軍する。
だが、岩手藩内は平穏で、官軍に恭順し、
武器、軍資金を献じ、赤報隊に10数名を参加させた。
このうちの2人が水野定吉・中川源八であるとされ、
岐阜県招魂場の案内板にあるように
中川源八、水野定吉(岩手藩)とされる。
後、岩手より東征・中山道へ。
同月25日、朝廷からの赤報隊への帰京の命令で、
二番隊は帰京し、赤報隊の全体は解隊し、帰京組は
投獄されるも後、新政府により海道鎮撫総督の
指揮下に再編成(二番隊を編入)させて
徴兵七番隊となり、東北戦争に進軍した。
○家村 半三郎

(家村 半三郎 兼貞 墳)
加納藩(美濃国・厚見郡加納。
現・岐阜市加納。藩庁は加納城)。
徴兵七番隊に所属。
明治元年8月11日、
茨城県磐城・菅谷口(すがやぐち)で重傷、
8月14日、死亡。
享年、35歳。
墓は、福島県相馬市小泉字高池・曹洞宗・慶徳寺。
○伊藤 半七郎 (伊東)

(伊藤 半七郎 光廣 墳)
徴兵七番隊に所属。
尾州(名古屋)の出身。
明治元年8月9日、茨城県磐城駒ヶ峰で負傷、
8月29日、死亡。
享年、30歳。
墓は、福島県相馬市西山字表西山・洞雲寺。
○中川 源八郎

(中川 源八郎 兼光 墳)
源八とも。
岩手藩。元・赤報隊。
一説には、源八郎は、美濃国、不破郡岩手村の
出身とも。(前述、参照。)
明治元年8月9日、
茨城県磐城駒ヶ峰・日尻口で負傷、
8月25日、同県、中村で死亡。
享年、49歳。
墓は、福島県相馬市西山字表西山・洞雲寺。
赤報隊一番隊の壊滅と名誉回復
慶応4年1月25日、朝廷からの赤報隊への帰京の
命令があり、大将・綾小路俊実は、軍裁・相楽総三
に帰京を命じたが相楽は聞かず、隊名を
「官軍先鋒嚮導隊」と改称し、更に信州へ進軍し、
多くは、東山道軍・近隣諸藩連合軍と闘い
戦死、壊滅し、相楽らは出頭し捕縛され、3月3日、
処刑された。
この時、相楽らは、赤報隊が、まさか朝敵とされていた
ことなど夢にも思わなかったであろう。
この赤報隊への帰京命令は、朝議の一変で
赤報隊が賊視された為であったが、赤報隊が純粋な
勤王家であったことを処刑された子孫らが訴え、
昭和3年に全員ではないが、相楽らの名誉回復は
果たされた。
この編、完。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
この記事へのコメント
生日不受賀詩以述懐 有序
孟緯今年犬馬之歯 忽及七十 親朋有言沿例為壽者 乃謝曰 古人徳與年進
而某也則資禀拙劣 動輒得罪於天 去日多而来日少 三省三視 補過之不暇 而靦面受諸君
賀 尤非鄙心之所安 况頗年洋夷来請互市 國事紛擾竊惟 聖上宵旰勤憂不遑寧處
當是之時 置酒宴會引觴自快 雖云林下散人 亦無有可能之理 宜謹慎以自守焉耳 諸君幸
諒吾寸衷 勿復謽 遂賦詩兼寄示四方知舊 以豫防壽詞賀儀等贈遣 時安政戌午夏六月
逝者如斯徒自傷 曾無涓滴報蒼蒼 従今一準李家例 毎日學程三坐香
駑劣無能年已高 眼看鯨鬣皷風濤 生辰不受諸朋賀 為憶 大君宵旰勞
霜田開港已恠事 何况三都徒要津 只許前條不容後 一寛一猛太分明
為臣豈得建私議 通信通商是禍胎 若弄空權忘大本 内憂外患一時来
普天率土仰相望 葵藿心皆向 太陽 諸老何心梗朝命 不知梗得自家亡
命世之才古亦稀 八方今日事乖違 人心得失君須鑒 即是興亡一大機
明星巌逸民粱緯 具稿於鴨沂小寓
生日、賀を受けず。詩もって懐を述ぶ。序あり。
孟緯、今年犬馬之歯(齢)、忽ち七十に及ぶ。親朋、例に沿り壽を為さんと言ふ者あり。乃ち謝して曰く。
古人の徳は年と與に進む。而して某や、則ち資禀拙劣、ややもすれば輒ち罪を天に得て、去日多くして来日少なし。三省三視、過を補ふに暇あらず。而して靦面、諸君の賀を受くるは尤も鄙心の安ずる所に非ず。况んや頗年、洋夷来りて互市(貿易)を請ふ。國事紛擾、竊かに惟ふ、聖上の宵旰(終日)勤憂、寧處に遑あらずと。
是の時に當り、置酒宴會、觴を引いて自ら快とするは林下の散人と云ふと雖も、亦た可能の理あること無からん。宜しく謹慎、以て自ら守るべきのみ。諸君、幸ひに吾が寸衷を諒とし、復た謽(強)ふる勿れ、と。
遂に詩を賦して兼ねるに四方の知舊の寄せ示し、以て豫め壽詞賀儀等の贈遣を防ぐ。時に安政戌午夏六月。
逝く者は斯の如しと徒らに自ら傷(いた)む。曾て涓滴の蒼蒼(※皇室)に報ゆる無し。
今より一に準はん李家の例、毎日の學程は三坐の香。(李家:李顒。日に三度香を焚いて黙想した。)
駑劣無能、年すでに高し。眼に看る、鯨鬣(※外国船)の風濤を皷するを。
生辰に受けず諸朋の賀、大君の宵旰(宵衣旰食)の勞を憶ふが為なり。
霜田(下田)開港はすでに恠事なり。何ぞ况んや三都、徒らに津を要するをや。
只だ前條を許して後を容ざるも、一たび寛うすれば一に猛となるは太だ分明。
臣を為(いつわ)りて豈に私議を建つるを得んや。通信通商は是れ禍を胎まん。
若し空しく權を弄びて大本を忘るれば、内憂外患、一時に来らん。
普天率土(全世界)仰ぎて相ひ望めば、葵藿(向日葵)の心は皆な太陽(※天皇)に向ふ。
諸老(家老ども)、何の心か朝命を梗(ふさ)ぐ。梗ぎ得て自家を亡ぶことを知らず。
命世之才は古へまた稀なり。八方今日、事は乖違す。
人心の得失、君須らく鑒みるべし。即ち是れ興亡の一大機なるを。
明星巌逸民粱緯 鴨沂小寓に於いて稿を具ふ。
投稿者として、まだ、まだ、勉強不足、
浅学さを感じます。
今後とも、よろしく、ご愛読、ご鞭撻のほど、
お願いいたします。