京都史蹟散策106 京都霊山護国神社 探訪3 松林飯山の碑

京都史蹟散策106 京都霊山護国神社 探訪3 松林飯山の碑

松林簾之助(れんのすけ) こと
松林飯山(はんざん)の碑

京都霊山護国神社
(きょうと りょうぜん ごこくじんじゃ)
【交通】市バス・東山安井
【位置】京都霊山護国神社
最上段・木戸孝允の墓碑の左側にある。

案内図
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松林飯山(はんざん)
肥前国(現・佐賀・長崎両県)・大村藩士。
諱は、漸之進。字は伯鴻。
飯山と号する。通称、松林簾之助。儒学者。
大村藩庁は、現・長崎県大村市にある
玖島(くしま)城だった。
江戸に上り、安積艮斎に学び、安政4年 (1857)年、
19歳で昌平黌の詩文掛。
3年後、松本奎堂らと雙松岡塾を開き尊王攘夷を
鼓吹するも幕府の圧迫で閉鎖して帰郷。
文久3年(1863年)正月、
藩命により京坂の間を奔走し、五教館教授。
岩崎弥太郎・竹添進一郎など全国から学ぶ者来り。
同志37士と義盟を結び佐幕派を排斥するも、
慶応3年(1867年) 1月3日、 凶刃に倒れる。
享年29歳。
墓は大村市須田ノ木町にある。

墓碑の撰文は、渡辺昇(のぼる、又は、のぼり)
昇は、大村藩勤王三十七士。
練兵館で長州藩士・桂小五郎などと交わる。
坂本龍馬から薩長同盟の必要性を説かれ、
桂小五郎や高杉晋作を説得し、薩長同盟の成功に
貢献した。
維新後、大阪府知事などを務める。
剣の達人で大日本武徳会の役員となり、
剣道を全国に広めた。

正面、左側面から
裏面・右側側面へ

●(正面・原文)松林簾之助碑
前大邨藩知事従四位 大村純熙書【1】

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【1】大村 純熈(おおむら すみひろ)
肥前・大村藩・第12代(最後)藩主。
幕末、藩内で佐幕派と尊王派が対立し
改革派同盟の盟主・松林飯山・針尾 九左衛門が
慶應3年(1867年)に刺客に襲われ重傷を負った。
純熈は佐幕派を処罰し、藩論が一気に尊王倒幕へ、
以後、薩長などと倒幕の中枢藩の一つとなる。
戊辰戦争では東北まで出兵し、明治2年に
大村藩知事になるも、明治4年、廃藩置県で辞職。
明治15年(1882年)1月13日、歿。
享年、53歳。

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●(左側面・原文 )
是 我が舊大村藩士松林簾之助の碑也、
君飯山と號す 人となり鋭才博識、
嚮に徳川政府の枢機を失うや、
慨然として夙に皇運を挽回するの志を抱き、
同藩の士 針尾九左衛門 並 昇等と義盟の友たり、
文久二年松本謙三郎、藤本津之助等
勤王の義旗を大和五條に挙るや、
君 従容来たり説きて、
曰、今や同志の徒 此義挙あり、
是吾が宿志を遂るの秋なり、
機失ふ可からず 、



◎(左側面・意訳)
これは、わが旧大村藩士・松林簾之助の碑である。
君は、飯山と号して、その人となりは、鋭才博識で、
徳川政府が枢機(すうき)を失うと見ると、
憤然として早くから皇室の地位を挽回する志を抱く。
彼は、同大村藩士・針尾 九左衛門【2】と
私・渡辺 昇らと義盟の友である。
【2】針尾 九左衛門
肥前・大村藩士。本姓は稲垣。名は寿納。
文久3年(1863年)尊攘派・渡辺昇・
松林飯山らと三十七士同盟を結び、
翌年、家老大村藩・家老となる。
慶応3年1月、刺客に襲われ重傷。
明治38年、歿。享年、81歳。

文久2年(1862年)、松本謙三郎(松本 奎堂のこと)、
藤本津之助(藤本鉄石のこと)らが、
大和の五条で勤王の正義の為の旗揚げをすると
君は、ゆったりと落ち着いて、こう説いた。
今や同志の徒、この義挙にある。
これは、わが宿志を遂げる秋である。
その機を失うな。

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●(裏面・右側側面の原文)
昇之を止て曰、事猶早し、
子果して慷慨(こうがい)率先 死に就んと慾せは、
則ち行け、苟(いやしく)も深沆(しんこう)
事を成さんと欲せば、幸に之を熟慮せよ、
君血眼睨視し、
曰 大義の係る豈に利害を撰ぶに
遑(こう・暇)あらんや、決然衣を攘つて起つ、
神思實に箭の如し、
昇 袂を把て 曰、
大和の義挙たる知略 藤本の如き才識、
松本の如きあるも、憶ふに事 倉卒に発す、
必ず成功を誤らん、如かず今暫く
耐忍持重して、一藩の方向を確定せんに、
志士の國家に盡す、固より大成を期す、
我藩小なりと雖も、鼓舞協同 一藩の方向を
定めんと期し、同志三十余名と密に
之を藩主に陳し、藩主 頷焉、
時に姑息の俗論 亦方に熾なるを以て、
物議恟々たり、藩例一月三日 藩主謁見の式あり、
儀畢て君 昇等と退城、各自便路に就く、
道路暗黒夜色粛森たり、俗黨路に要し、
釼銃も逼る、
針尾氏傷を破り、昇弾丸方を汰して卒に免る、
而て君 獨り不幸終に釼鋩の下に殪る、
實に慶應三年一月三日也、死する年二十有九、
嗚呼、其明年一月は則ち戊申回復の運に際す、
君の博識と鋭才とを以て、夙に大義を抱き、
維新の成功を目撃せずして
義の犠牲と成る者とせば、
當初 大和の義挙に應せんとせし時、
昇 之を止めすんば、必ずや畿旬に義勇を奮ひ、
天下の耳目を驚破す可きに、
強て之を止め、却て孤藩俗黨の手に死し、
功績世人に普知せられず、君蓋し遺憾ならん、
昇 過てり 昇 過てり、然りと雖青天白日
豈に忠義膽を照明せさらんや、
君の非命に死する藩主痛惜憤恚同志の士、
亦奮て賊類を芟鋤し、死に處する二十五人、
於是平一藩の方向、即ち定り、遂に兵を京師に出し、
薩、長、土と平事に存亡を共にせしより、
辱くも明治の昭代に遭遇し藩主は小藩微力を顧みず、
勤王の大義を首唱せしを以て恩典叨りに、
薩長土の次に出るを得る者は、君の死亦與りて
大に力あり、加之叡念洪水恩遇遠く僻阪の志士に
迨ひ、挙て之を招魂社内に合祀せらる、
君の忠魂亦埋没せず、松本、藤本等と駢列して
千萬歳の後に傳るの光榮を受くるに至る、
然は則ち五條の役に死するも、大村の難に斃るゝも、
朝廷の照覧公論の活眼、誰か義膽忠魂を異同せん、
君亦瞑

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○(ここから右側面)
す可し、昇必しも過らざるなり、
今や同志の士と君の碑を建てんとするに、
舊友高知縣士彌太郎岩崎氏亦々此感を同し、
共に霊山に登りて地を松本藤本等の碑畔に卜し、
之を祭らんとするに當り、古今を回顧して触感に
禁えぬ、昇自任して筆を執り、謹で君の性質行事を
實記し、以て墓碑に刻すと云、
 爾維時紀元二千五百三十七年、
    明治十年七月三十一日
       大阪府知事従五位 渡邊昇撰



◎(裏面・右側側面の意訳)
だが、私・渡辺 昇は、これを止めて言った。
事は、なお早い。
怒り嘆いて、真っ先に死のうとすれば、
直ぐに行けばよい、だが、広く世の中を見て
事を遂げようと思えば、熟慮せよ。
君は、血眼で睨んで言った。
大義に関わるのに利害を選ぶ暇はない。
決然と衣をはらって決起する。
神の思し召しは簾(すだれ)のようなものだ。
私・渡辺昇は、袂(たもと)を握って言った。
大和の義挙の知略は、藤本鉄石のような才識、
松本奎堂のような人物もいるが、
思うに、事が急すぎる。
必ず成功を誤るであろう。
いましばらく我慢して藩の方向性を
見定めた上で、志士は国家に尽くせばよい、
もとより大成を期す。
わが藩は小なりといえども、奮い立って
協同して藩の方向性を定めんと期し、
同志三十余名と密かに之を藩主に陳述すると、
藩主は、しっかりとうなずいた。
だが、時に、姑息の俗論が起きて、
一方では、物議をかもし出した。
1月3日に、藩主の謁見の式があったが、
敢えて君と私は、退城し、各自、その路に就いた。
その路は、暗黒で夜には、その森は静まり返る。
また、その路には俗党が待ち伏せし、短銃も
忍ばせている。
針尾 九左衛門は重傷を負い、私・渡辺昇は、
銃撃されるも助かった。
だが君は不幸にして被弾し果てた。
時に、慶應3年1月3日、享年29歳であった。
ああ、その翌年1月は、すなわち戊申回復の
運びになったのであった。
君は、博識と鋭才があり、早くから大義を抱くも、
維新の成功を目撃しないで、その犠牲者になるので
あれば、当初、大和の義挙に応じようとした時、
私・渡辺昇が、これを止めていれば、
必ずや、時節到来の折に義勇を奮って、
天下にその名をとどろかせたであろう。
だが強いて、これを止め、却って俗党の手にかかり、
その功績、世人に知られず、
君は、多分、遺憾であろう。
私・渡辺昇は間違いなく、間違ったと云えども
青天白日、後ろ暗くなく、決して、その忠義の
肝要を照らし明かさないものではない。
君の非命に藩主は、痛く惜しまれ、
腹を立てて憤った同志の士は、また奮って、
賊類を排除し、25人を死に処し、
これにおいて、藩の方向性が定まり、
遂に兵を京都に出して、薩摩・長州・土佐と
その存亡を共にした。
幸いにも明治の御代になり、藩主は小藩の微力を
顧みず、勤王の大義を首唱したことで、恩典を
賜り、薩摩・長州・土佐の次に出ようとする者は、
また、君の死によって大いに力が出て、
そればかりか、天子の思いは洪水のごとく溢れ、
その恩恵は遠く志士に達し、挙げて、これを
招魂社内に合祀される。
また、君の忠魂は埋没せず、
松本奎堂、藤本鉄石らと並列して
千万年の後に伝わる光栄を受けることに至る。
これ即ち、五条の役に死亡するも、
大村益次郎の難に斃(たお)れるも、
朝廷の照覧・公論の活眼は、
誰もその義勇の魂、忠魂に相違ないであろう。
君また、安らかに眠り、私は、必らずしも
間違わないものである。
今、同志の士と君の碑を建てようとするに当たり、
旧友・高知県・岩崎彌太郎氏がこれに同感し、
共に霊山に登って、墓碑の地を松本奎堂・
藤本鉄石らの碑の畔(たもと)に定めて、
これを祭ろうとするに当たり、古今を回顧して、
それを感じずにいられない。
私・渡辺昇は、自ら筆を執り、謹んで、
君の性質、行事を実記して墓碑に刻むものである。
 この碑の建年号(維時)
紀元2537年、
     明治10年7月31日
       大阪府知事 従五位 渡邊 昇 撰


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         (完)

この記事へのコメント

Narityan
2024年02月11日 12:53
京都の様子がよく分かり、大変貴重な情報共有ありがとうございます。 
さて、気づきですが、刻文の中で、藩主謁見の式は、暗殺された当日ですから、「‥藩例に1月3日‥」が正しいように思います。
京都資料
2024年03月24日 08:41
Narityan 様、ご指摘、ありがとうございました。
訂正、させていただきました。
御返事、遅くなり申し訳ありません。
今後ともよろしくお願いいたします。

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