京都史蹟散策105 ふたつの西陣碑

京都史蹟散策105 ふたつの西陣碑

西陣碑(にしじんひ)

【位置】上京区今出川通大宮東入北側
(京都市考古資料館前)

【交通】市バス・堀川今出川
      徒歩7分。

西陣は、東は堀川通、西は七本松通、
北は今宮神社御旅所、南は一条通または中立売通で
囲む一帯の総称である。
この碑は、西陣の由来を記している。
建立は、昭和3年で、京都三宅安兵衛遺志碑。
「京都三宅安兵衛遺志碑」とは、大正末年から
昭和の初めに西陣帯地卸商・三宅清治郎が、
父・安兵衛の遺命に基いて京都府南部を中心に
建設した約400程の史跡石標のこと。

京都市考古資料館
画像


画像


画像


【石碑】
(表面)
西陣
京都帝国大学総長医学博士荒木寅三郎閣下篆額

古来朝廷ニハ大蔵省ニ織部司アリテ綾錦ヲ織リ及
ビ染物ノ事ヲ掌レリ後其業民間ニ移リ織工等大
人座ヲ組織シテ高機ヲ構ヘ大舎人織手師ト呼バル
応仁ノ乱ニ東西ノ両軍京都ニ割拠シテ攻戦十一年
ニ及ビ其間西軍ハ五辻通大宮東ナル山名宗全ノ邸
ヲ中心トシテ堀川以西一条以北ノ辺ニ駐屯セシヨ
リ此一画ヲ呼ンデ西陣トイフ是時ニ当リテ戦乱相
次ギ京都ノ織工多ク難ヲ避ケテ和泉堺ノ海浜ニ居
住セリ堺ハ乱中幕府ノ遣明船発着ノ港トナリ貿易
殷賑ヲ極メタリ乱平ギシ後京都ノ織工帰リテ西陣
ノ地白雲村ニ居リ明ノ織法ヲ伝ヘテ其面目ヲ新メ
タリ天文中大舎人座中三十一人アリシガ元亀二年
其六人ヲ内蔵寮織物司ニ補セラレ御寮織物司ト号
ス天正中豊臣秀吉白雲ノ水質不良ナルヲ以テ新在
家ニ移セリトイフ此前後ヨリ印度支那及ビ西洋諸
国ノ織物ヲ伝ヘテ其業益精シク機業ノ隆盛ヲ来ス
ト共ニ織工ノ家西陣ノ故地ニ櫛比シ西陣織物ノ盛
名宇内ニ喧伝セラル丶ニ至レリ今茲ニ西陣発源ノ
地ヲ卜シテ碑ヲ建テ其来歴ヲ明ラカニス

昭和三年十一月 文学博士三浦周行撰 山田得多書

(裏面)
昭和三年秋 稟京都三宅安兵衛遺志建之

画像


■表面の意訳
送り仮名を平仮名に変換し、句読点を付記しました。

古来朝廷には、大蔵省に織部司(おりべのつかさ)
があり、綾錦【1】を織り、また、染物の事を
掌握していた。
【1】綾錦(あやにしき)
美しい衣服を紅葉などに例えて、こう云う.

後、その業は民間に移り、織工など大人座
(同業者組合)を組織して、高機【2】
を装備して、大舎人【3】織手師と呼ばれる。
【2】高機(たかばた)
大和機、京機ともいう。
木製 手機の一種で、地機 (じばた) の改良機。
機(はた)の構造が地機より高い位置にあり、
この名がある。
【3】大舎人(おおとねり)
律令制で、大舎人寮に属し、宮中で宿直・ 警護、
その他の雑事に従事した下級の役人。

応仁の乱で東西の両軍が京都に割拠して、
攻戦十一年に及び、その間、西軍は
五辻通大宮東の山名宗全の邸を中心として、
堀川以西一条以北の辺に駐屯したことから、
この一画を呼んで西陣と云う。
この時に当って戦乱が相次ぎ、
京都の織工は多数で難を避けて、
和泉・堺の海浜に居住した。
堺は、乱の中、幕府の遣明船発着の港となり、
貿易殷賑(いんしん・繁華)を極めた。
乱の平定後、京都の織工は、故郷に帰って、
西陣の地・白雲村に居住し、
(中国の)明の織法を伝えてその面目を
新(あらた)にした
天文年間、大舎人の座中は三十一人いたが、
元亀二年、その内の六人が内蔵寮織物司に
補任され、御寮織物司と呼ばれた。
天正年間、豊臣秀吉は(西陣の地・)白雲の水質が
不良なので、これを新在家に移せ、と云う。
この前後から、印度支那及び西洋諸国の織物が伝わり、
その業は、ますます精工となり、機業の隆盛を
来すと共に、織工の家は、西陣のこの地に櫛比
(しっぴ・櫛の歯のように隙間なく並び)し、
西陣織物の盛名は、宇内(うだい・天下)に喧伝
されるようになった。
今、ここに西陣発源の地として碑を建て、
その履歴を明らかにするものである。

画像





●もうひとつの西陣碑
【位置】上京区堀川通今出川下る西側
(西陣織物館前)

【交通】市バス・堀川今出川
      徒歩7分。

画像


画像


【石碑】
(表面)
西陣
前述と同じ。

(裏面)
西陣碑復元の記
本西陣碑は昭和三年三宅清治郎氏の寄進
により上京区今出川通大宮東入西陣
織物館前に建立されたがそのご風化はな
はだしくこのたび西陣織会館竣功
を機に本会員の拠出によりここに復元
したものである
茲に西陣のシンボルとして永久に記念
されることを希う
昭和五十一年七月八日 西陣クラブ会員一同

画像


この西陣碑の左側にあるのは、

●村雲御所跡(むらくも ごしょあと)

【石碑】
村雲御所跡
   京都市長 船橋求己

村雲御所は、
瑞竜院・日秀が、豊臣秀吉に追放され自害した
豊臣秀次の追善のため建立した寺院で、
この附近を村雲と云い、宮家や摂関家からの
入寺があったため村雲御所と云う。
日蓮宗の唯一の尼門跡寺院で生垣に囲まれた広大な寺
であった瑞竜院は、昭和38年に、この地より、
近江八幡市に移転した。

画像

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック