京都史蹟散策 82 新選組、不動村屯所跡の幻・その全貌
京都史蹟散策 82 新選組、不動村屯所跡の幻・その全貌
【交通】JR京都
【位置】京都市下京区北不動町・
京都市下京区南不動町
新選組の屯所が西本願寺から不動堂村へ移転したのが
慶応3年(1867年)6月15日。
そして、時は流れ、現在。
不動堂村屯所跡と推測される地は数ヶ所ある。

1.西山浄土宗・不動堂明王院 辺り。
不動堂明王院
隣に、道祖神社がある
道祖神社
平安時代、823年、教王護国寺(東寺)建立の際、
鬼門に当たるこの地に、空海が不動尊を祀ったこと
に始まるという。
1782年、西山浄土宗に改宗。
新選組 まぼろしの屯所の提灯がある。
不動堂という地名から推測される。
【不動堂村の屯所】は、
大正4年刊の京都坊目誌では、堀川の東、木津屋橋の南。
宮川信吉の書翰では、七条通り下ル。
永倉新八の手記では、七条堀川下ル。
とあり、いずれも正確な場所は記されず。

2.前・ハトヤ鳳凰閣
平成26年3月まで、新築工事中だったが4月に完成。
工事中の時。
現在(平成26年5月)
◆以前の説明板によると・・・
誠
この付近
新選組不動堂村屯所跡
幕末の慶応3年(1867)6月15日、新選組は、それまで
壬生から移って第二屯所としていた西本願寺から、
この付近に移転しました。
新選組の第三屯所であり、最後の屯所でありました。
約1万平方米の広さの土地で、表門、高堀、玄関、
長屋、使者の間、近藤勇や土方歳三ら幹部の居間、
平隊士の部屋、客間、馬屋、物見、中岡の小者の部屋
などがありました。
大浴場は、三十人が一度に入れる大きさで、引っ越しの
直前、幕府直参に取り立てられ意気あがる新選組の
大名屋敷にまがう立派な構えでした。
しかし、幕末の風雲は急で、同年12月24日に
伏見奉行所へ移るまでの六か月ほどの短い期間でした。
翌慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まり、
新選組は滅亡へと進んでいきます。
(現在、平成26年5月)
【石碑】此付近 新選組最後の洛中屋敷跡
旧山城国葛野郡不動堂村
旧平安京八条二坊十五町
二〇〇九年一〇月 ハトヤ瑞鳳閣建之
【説明板】
当地は古代の表記でいえば、平安京左京八条二坊十五町
にあたります。
中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、
いわば工業地帯でした。
が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡
不動堂村が成立しました。
しかし豊臣期に構築された、京都全体を囲い込む城壁・
環濠「御土居堀」の郭内に位置していたため、
「洛中」(都市)扱いを受けました。
幕末期、新選組がこの地域に屋敷を営みました。
池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長 近藤勇の
政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6月、
将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。
近藤勇の政治的力量が高く評価され、
慶応3年(1867)6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊
となりました。
これにあわせての新屋敷建設です。
いわば最盛期の邸宅といえます。
近藤の甥で隊士だった宮川信吉の書簡によれば、
同年6月15日に入居しています。
位置については、同書翰に「七条通り下ル」、
幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、
当地付近に営まれたことは確実です。
が、厳密な場所や規模、建物構造などについては
信用に足る史料が少なく、不明です。
価値の低い記録による復元・叙述は、
極力さけなければなりません。
同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか
半年で当屋敷を離れます。
翌年1月の鳥羽伏見戦争の敗北ののちは、関東へ下り、
解体の道を歩みます。
当屋敷は維持されずに早々に消失して、静かな農村に
戻ったことでしょう。
が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)
が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に
編入されます。
当地付近は、地域史上はじめて京都屈指の
「人の集まる場」となり、今に至ります。
歴史地理史学者 中村武生

3.リーガロイヤルホテル京都 辺り。
平成15年6月にホテルの敷地に石碑が建てられた。
【石碑】
この付近 新選組 不動村屯所跡
事あらば われも都の 村人と
なりてやすめん 皇御心
新選組局長・近藤勇
【説明板】
この付近 新選組 不動堂村屯所跡
新選組が屯所を西本願寺から不動堂村へ移転したのは、
近藤勇らが幕府直参になった五日後の慶応3年
(1867)6月15日であった。
移転に際し、土方歳三の指示で吉村貫一郎が西本願寺
と交渉の末、建築費並びに諸経費を西本願寺が負担
することになった。
屯所の広さは1万平方メートル。
表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、
土方ら幹部の居間、平隊士の部屋、客間、馬屋、
物見中間と小者の部屋、大風呂は30人が一度に入れた。
大名屋敷と比べても遜色ない構えだった。
12月14日、伏見奉行所へ引き払うまで6ヵ月間、
屯所として使用した。
2003.6.15 霊山歴史館 木村幸比古 識
現在、知名度は高い。
【追記 2019-12-12】
2019年、京都龍馬会会報『近時新聞』によると、
「西本願寺文書中に、新選組新屯所として提供された土地が
西九条村(当時は西九条村「松明田」)領内にあり、
西本願寺が新屯所用地として買収した「明解な文書」が
確認された」、とあります。
詳細については、【この記事へのコメント】をご覧下さい。

4. この(資生堂)ビル辺り。
池田 七三郎(しちさぶろう)
本名、稗田(ひえだ)利八。
慶応2年(1867年)新選組入隊。
鳥羽・伏見の戦い後、会津・母成(ぼなり)峠の戦い後、
明治元年10月、東京護送後、1年の謹慎を経て放免。
子母澤 寛の新選組始末記・稗田利八翁思出話の
主人公。
昭和13年1月16日、最後の新選組隊士として逝去。
昭和4年、取材・子母澤で回顧録・新選組聞書を口述。
文中、草鞋(わらじ)を脱いだのが、醒ヶ井通り
七条下る三丁目にあった屯営、とある。
現在の北不動堂町で、木津屋橋通りと塩小路通り
(京都タワーの前の通り)間に該当。
かつて西本願寺執行・小田尊順の所有地。
明治16年4月、明治2年開校の安寧尋常小学校が
ここに移転。
安寧小学校・跡地
大正2年当時の京都市街全図
(国際日本文化研究センター所蔵)を参照。
後、昭和34年、さらに、少し西へ移転。
現在は、
梅小路小学校・下京中学校第二教育施設。
これらの点から現・資生堂ビル辺りか。
・・・と、様々な見解がある。
なお、不動堂屯所の引払い後、近藤勇が二条城の帰りに、
ここに立ち寄ったりしばらくの間、使用されていた。
【絶好のポイント】
以上の位置関係などは、現・堀川通・塩小路通りに
架かる歩道橋の上から眺めると1から4の位置関係が
よくわかる。
歩道橋
ここでは、幕末の風と現在のビル風・自然の風が
鎬(しのぎ)を削っている。
歩道橋から京都タワーの前の通りを見る
近藤勇妾宅跡
醒ヶ井通りは、第二次大戦中の新建物疎開により
拡張される。現・堀川通り。
近藤勇は、大坂織屋の深雪太夫を落籍させ、深雪死後も
妹のお孝と共に、この地、醒ヶ井通り木津屋橋下ル、
すなわち、この辺り、現・堀川通り、歩道橋の真ん中の
下の辺りに住んだ。
上記・歩道橋の下・近藤勇妾宅跡。この辺り

慶応3年11月15日、近江屋で龍馬暗殺。
その3日後18日の夜10時頃のこと。
伊東甲子太郎は、近藤勇の妾宅(しょうたく)を出る
ところであった。
近藤と久々に、国事を詠じた興奮からか、したたかに
酔ったせいか、顔は紅潮し、足元もおぼつかない。
ん~
きょうは、馳走になり申した。では・・
と、来た道を引き返し始めた。
まだ妾宅から4、5分も経たない頃、
木津谷橋近く、法華寺(本光寺)の手前
甲子太郎は全く気付かなかった。
黒影の小集団が、板囲いの中に槍を持ち
ひそかに、蠢(うごめ)いていたことを・・・
法華寺(本光寺)から南を見る。
交差点の右(歩道橋方面)から甲子太郎が戦いながら
こちらへ向かって来たのではないかと推測される。
手前左・石標が法華寺(本光寺)。
法華寺(本光寺)
【交通】JR京都
【位置】京都市下京区北不動町・
京都市下京区南不動町
新選組の屯所が西本願寺から不動堂村へ移転したのが
慶応3年(1867年)6月15日。
そして、時は流れ、現在。
不動堂村屯所跡と推測される地は数ヶ所ある。

1.西山浄土宗・不動堂明王院 辺り。
不動堂明王院
隣に、道祖神社がある
道祖神社
平安時代、823年、教王護国寺(東寺)建立の際、
鬼門に当たるこの地に、空海が不動尊を祀ったこと
に始まるという。
1782年、西山浄土宗に改宗。
新選組 まぼろしの屯所の提灯がある。
不動堂という地名から推測される。
【不動堂村の屯所】は、
大正4年刊の京都坊目誌では、堀川の東、木津屋橋の南。
宮川信吉の書翰では、七条通り下ル。
永倉新八の手記では、七条堀川下ル。
とあり、いずれも正確な場所は記されず。

2.前・ハトヤ鳳凰閣
平成26年3月まで、新築工事中だったが4月に完成。
工事中の時。
現在(平成26年5月)
◆以前の説明板によると・・・
誠
この付近
新選組不動堂村屯所跡
幕末の慶応3年(1867)6月15日、新選組は、それまで
壬生から移って第二屯所としていた西本願寺から、
この付近に移転しました。
新選組の第三屯所であり、最後の屯所でありました。
約1万平方米の広さの土地で、表門、高堀、玄関、
長屋、使者の間、近藤勇や土方歳三ら幹部の居間、
平隊士の部屋、客間、馬屋、物見、中岡の小者の部屋
などがありました。
大浴場は、三十人が一度に入れる大きさで、引っ越しの
直前、幕府直参に取り立てられ意気あがる新選組の
大名屋敷にまがう立派な構えでした。
しかし、幕末の風雲は急で、同年12月24日に
伏見奉行所へ移るまでの六か月ほどの短い期間でした。
翌慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まり、
新選組は滅亡へと進んでいきます。
(現在、平成26年5月)
【石碑】此付近 新選組最後の洛中屋敷跡
旧山城国葛野郡不動堂村
旧平安京八条二坊十五町
二〇〇九年一〇月 ハトヤ瑞鳳閣建之
【説明板】
当地は古代の表記でいえば、平安京左京八条二坊十五町
にあたります。
中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、
いわば工業地帯でした。
が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡
不動堂村が成立しました。
しかし豊臣期に構築された、京都全体を囲い込む城壁・
環濠「御土居堀」の郭内に位置していたため、
「洛中」(都市)扱いを受けました。
幕末期、新選組がこの地域に屋敷を営みました。
池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長 近藤勇の
政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6月、
将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。
近藤勇の政治的力量が高く評価され、
慶応3年(1867)6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊
となりました。
これにあわせての新屋敷建設です。
いわば最盛期の邸宅といえます。
近藤の甥で隊士だった宮川信吉の書簡によれば、
同年6月15日に入居しています。
位置については、同書翰に「七条通り下ル」、
幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、
当地付近に営まれたことは確実です。
が、厳密な場所や規模、建物構造などについては
信用に足る史料が少なく、不明です。
価値の低い記録による復元・叙述は、
極力さけなければなりません。
同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか
半年で当屋敷を離れます。
翌年1月の鳥羽伏見戦争の敗北ののちは、関東へ下り、
解体の道を歩みます。
当屋敷は維持されずに早々に消失して、静かな農村に
戻ったことでしょう。
が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)
が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に
編入されます。
当地付近は、地域史上はじめて京都屈指の
「人の集まる場」となり、今に至ります。
歴史地理史学者 中村武生

3.リーガロイヤルホテル京都 辺り。
平成15年6月にホテルの敷地に石碑が建てられた。
【石碑】
この付近 新選組 不動村屯所跡
事あらば われも都の 村人と
なりてやすめん 皇御心
新選組局長・近藤勇
【説明板】
この付近 新選組 不動堂村屯所跡
新選組が屯所を西本願寺から不動堂村へ移転したのは、
近藤勇らが幕府直参になった五日後の慶応3年
(1867)6月15日であった。
移転に際し、土方歳三の指示で吉村貫一郎が西本願寺
と交渉の末、建築費並びに諸経費を西本願寺が負担
することになった。
屯所の広さは1万平方メートル。
表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、
土方ら幹部の居間、平隊士の部屋、客間、馬屋、
物見中間と小者の部屋、大風呂は30人が一度に入れた。
大名屋敷と比べても遜色ない構えだった。
12月14日、伏見奉行所へ引き払うまで6ヵ月間、
屯所として使用した。
2003.6.15 霊山歴史館 木村幸比古 識
現在、知名度は高い。
【追記 2019-12-12】
2019年、京都龍馬会会報『近時新聞』によると、
「西本願寺文書中に、新選組新屯所として提供された土地が
西九条村(当時は西九条村「松明田」)領内にあり、
西本願寺が新屯所用地として買収した「明解な文書」が
確認された」、とあります。
詳細については、【この記事へのコメント】をご覧下さい。

4. この(資生堂)ビル辺り。
池田 七三郎(しちさぶろう)
本名、稗田(ひえだ)利八。
慶応2年(1867年)新選組入隊。
鳥羽・伏見の戦い後、会津・母成(ぼなり)峠の戦い後、
明治元年10月、東京護送後、1年の謹慎を経て放免。
子母澤 寛の新選組始末記・稗田利八翁思出話の
主人公。
昭和13年1月16日、最後の新選組隊士として逝去。
昭和4年、取材・子母澤で回顧録・新選組聞書を口述。
文中、草鞋(わらじ)を脱いだのが、醒ヶ井通り
七条下る三丁目にあった屯営、とある。
現在の北不動堂町で、木津屋橋通りと塩小路通り
(京都タワーの前の通り)間に該当。
かつて西本願寺執行・小田尊順の所有地。
明治16年4月、明治2年開校の安寧尋常小学校が
ここに移転。
安寧小学校・跡地
大正2年当時の京都市街全図
(国際日本文化研究センター所蔵)を参照。
後、昭和34年、さらに、少し西へ移転。
現在は、
梅小路小学校・下京中学校第二教育施設。
これらの点から現・資生堂ビル辺りか。
・・・と、様々な見解がある。
なお、不動堂屯所の引払い後、近藤勇が二条城の帰りに、
ここに立ち寄ったりしばらくの間、使用されていた。
【絶好のポイント】
以上の位置関係などは、現・堀川通・塩小路通りに
架かる歩道橋の上から眺めると1から4の位置関係が
よくわかる。
歩道橋
ここでは、幕末の風と現在のビル風・自然の風が
鎬(しのぎ)を削っている。
歩道橋から京都タワーの前の通りを見る
近藤勇妾宅跡
醒ヶ井通りは、第二次大戦中の新建物疎開により
拡張される。現・堀川通り。
近藤勇は、大坂織屋の深雪太夫を落籍させ、深雪死後も
妹のお孝と共に、この地、醒ヶ井通り木津屋橋下ル、
すなわち、この辺り、現・堀川通り、歩道橋の真ん中の
下の辺りに住んだ。
上記・歩道橋の下・近藤勇妾宅跡。この辺り

慶応3年11月15日、近江屋で龍馬暗殺。
その3日後18日の夜10時頃のこと。
伊東甲子太郎は、近藤勇の妾宅(しょうたく)を出る
ところであった。
近藤と久々に、国事を詠じた興奮からか、したたかに
酔ったせいか、顔は紅潮し、足元もおぼつかない。
ん~
きょうは、馳走になり申した。では・・
と、来た道を引き返し始めた。
まだ妾宅から4、5分も経たない頃、
木津谷橋近く、法華寺(本光寺)の手前
甲子太郎は全く気付かなかった。
黒影の小集団が、板囲いの中に槍を持ち
ひそかに、蠢(うごめ)いていたことを・・・
法華寺(本光寺)から南を見る。
交差点の右(歩道橋方面)から甲子太郎が戦いながら
こちらへ向かって来たのではないかと推測される。
手前左・石標が法華寺(本光寺)。
法華寺(本光寺)
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