京都史蹟散策58 吉田松陰拝闕詩碑
京都史蹟散策58 吉田松陰拝闕詩碑
【交通】市バス・京都会館美術館前
【位置】左京区岡崎成勝寺町
京都府立図書館内 平安神宮・大鳥居傍
外観
石碑
【石碑】
山河襟帯自然城東来無不日憶 神 京今朝盥嗽拝 鳳闕野人悲泣
不能行 上林零落非復昔空有山河無変更聞説 今皇聖明徳
敬天憐民発至誠鶏鳴乃起親斎戒祈掃妖氛致太平 従来 英皇不
世出悠々失機今公卿安得 天詔勅六師坐使 皇威被八紘人
生若萍無定在何日重拝 天日明
右癸丑十月朔日奉拝 鳳闕粛然賦之時余将西走入海
丙辰季夏 二十一回藤寅手録
是先師松陰吉田先生嘉永癸丑十月朔過京都拝
禁闕詩真蹟也初先師為山縣公爵厳父有稔翁書之
翁以伝公爵公爵謂是先師精神之所鍾豈蔵之私家
乎因献於御府焉今茲戊申十月丁先生五十年忌辰
奏請得允撮影以頒同志者京都府教育会員相謀勒
諸石会長大森知府属余記其由乃叙其梗概云
明治四十一年十月
従二位勲一等子爵野村 靖撰
正三位勲一等男爵野村素介書
芳村茂承鐫
(大意)
朝廷の権威と権力が地に落ち昔に戻ることなく、
役人どもは時間をつぶす。
天皇の権威を世界に及ぼしたいものだ。
石碑

この碑の右に石標がある。
これは、詩碑の所在を示すもの。
【石標】
山河
吉田松陰先生 詩碑
襟帯
尊攘堂創立五十周年記念
此境内ニ在リ
昭和十二年孟春 尊攘堂委員建
吉田松陰は、長州藩士で1830年、萩に生まれる。
後、1852年、江戸・長州桜田藩邸に入り、後、
佐久間象山に師事、西洋砲術と蘭学を学ぶ。
翌年、ペリーが下田に来航時、密航を企てるが、失敗。
翌年、長崎停泊中のロシア・プチャーチン艦隊に加わるため
10月1日、京に入る。
京都と松陰との関わりは、この時期のみで、【1】
梁川星巌から孝明天皇が時世を憂えているという
現状を聞いている。
松陰の詩は、著書、長崎紀行によると10月2日に京都御所を
拝した時の作である。
詩の刻印とは、大きく文字の異同があるが、原本は、
松陰が1856年に山県有朋の父のため旧作を筆にしたもの。
後、再度、江戸入りするも、密航を嘆願し処分を受け、
萩に送還され、後に幽閉される。
幽閉中、松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、
山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、蒼々たる人物を教育する。
後、日米修好通商条約問題の幕府批判で、再入獄。
江戸へ移管され、安政の大獄により、死罪となった。
【注釈1】したがって、吉田松陰の京都の地に関係あるものは
少なく、松陰が訪れた梁川星巌邸跡
京都史蹟散策17 梁川星巌邸址 参照。
京大図書館にある木像(松下村塾門下生が疋田雪州に
彫らせたもので、生前顔は、一番似ているといわれる)、
京都造形芸術大の松陰像ぐらいである。
しかし、
全国を見廻すと北は青森、南は熊本まで手許資料だけでも
石碑、史蹟などは、28都府県100を遥かに超えるものがある。
時代を超えて、ここにも当時の吉田松陰の人材育成の情熱が
伝わっている。
石標
【交通】市バス・京都会館美術館前
【位置】左京区岡崎成勝寺町
京都府立図書館内 平安神宮・大鳥居傍
外観
石碑
【石碑】
山河襟帯自然城東来無不日憶 神 京今朝盥嗽拝 鳳闕野人悲泣
不能行 上林零落非復昔空有山河無変更聞説 今皇聖明徳
敬天憐民発至誠鶏鳴乃起親斎戒祈掃妖氛致太平 従来 英皇不
世出悠々失機今公卿安得 天詔勅六師坐使 皇威被八紘人
生若萍無定在何日重拝 天日明
右癸丑十月朔日奉拝 鳳闕粛然賦之時余将西走入海
丙辰季夏 二十一回藤寅手録
是先師松陰吉田先生嘉永癸丑十月朔過京都拝
禁闕詩真蹟也初先師為山縣公爵厳父有稔翁書之
翁以伝公爵公爵謂是先師精神之所鍾豈蔵之私家
乎因献於御府焉今茲戊申十月丁先生五十年忌辰
奏請得允撮影以頒同志者京都府教育会員相謀勒
諸石会長大森知府属余記其由乃叙其梗概云
明治四十一年十月
従二位勲一等子爵野村 靖撰
正三位勲一等男爵野村素介書
芳村茂承鐫
(大意)
朝廷の権威と権力が地に落ち昔に戻ることなく、
役人どもは時間をつぶす。
天皇の権威を世界に及ぼしたいものだ。
石碑

この碑の右に石標がある。
これは、詩碑の所在を示すもの。
【石標】
山河
吉田松陰先生 詩碑
襟帯
尊攘堂創立五十周年記念
此境内ニ在リ
昭和十二年孟春 尊攘堂委員建
吉田松陰は、長州藩士で1830年、萩に生まれる。
後、1852年、江戸・長州桜田藩邸に入り、後、
佐久間象山に師事、西洋砲術と蘭学を学ぶ。
翌年、ペリーが下田に来航時、密航を企てるが、失敗。
翌年、長崎停泊中のロシア・プチャーチン艦隊に加わるため
10月1日、京に入る。
京都と松陰との関わりは、この時期のみで、【1】
梁川星巌から孝明天皇が時世を憂えているという
現状を聞いている。
松陰の詩は、著書、長崎紀行によると10月2日に京都御所を
拝した時の作である。
詩の刻印とは、大きく文字の異同があるが、原本は、
松陰が1856年に山県有朋の父のため旧作を筆にしたもの。
後、再度、江戸入りするも、密航を嘆願し処分を受け、
萩に送還され、後に幽閉される。
幽閉中、松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、
山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、蒼々たる人物を教育する。
後、日米修好通商条約問題の幕府批判で、再入獄。
江戸へ移管され、安政の大獄により、死罪となった。
【注釈1】したがって、吉田松陰の京都の地に関係あるものは
少なく、松陰が訪れた梁川星巌邸跡
京都史蹟散策17 梁川星巌邸址 参照。
京大図書館にある木像(松下村塾門下生が疋田雪州に
彫らせたもので、生前顔は、一番似ているといわれる)、
京都造形芸術大の松陰像ぐらいである。
しかし、
全国を見廻すと北は青森、南は熊本まで手許資料だけでも
石碑、史蹟などは、28都府県100を遥かに超えるものがある。
時代を超えて、ここにも当時の吉田松陰の人材育成の情熱が
伝わっている。
石標
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。
京都市内の史蹟を、観光目的を兼ねて歴史を織り混ぜながら、紹介していくものです。







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