京都史蹟散策10 池田屋騒動跡 その1
京都史蹟散策10 池田屋騒動跡 その1
【交通】京阪本線・三条京阪
【位置】三条小橋、西すぐ
【石標】
維新史蹟 池田屋騒動之址
建立 昭和2年 京都市教育会
寄附者 昭和2年 佐々木フサ*
1864年7月8日、(元治元年6月5日)
京都三条小橋の旅館、池田屋では、長州・土佐藩などの
尊皇攘夷過激派が潜伏していた。
古高俊太郎の奪還の会合であった。
これを京都守護職配下の治安維持組織・新選組が襲撃し、
多数の死傷者と逮捕者を出した。
池田屋の位置は、 以前は、パチンコ屋で、
現在は「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」。
店の前には、大立札があり、その左手に石標がある。
立札の内容紙は、●の6種。
●歴史を愛し
名節を重んずる者は、暫く此処にあゆみを止めよ
此処は、「池田屋騒動」の跡地 也
●池田屋騒動址(いけだやそうどうあと)
元治元年(1864)旧暦6月5日「祇園祭宵々山」、
四条小橋の古高俊太郎を捕らえ厳しく取り調べた結果、
討幕派がクーデターを起こす計画を知った
新選組【原文ママ】は、三条小橋西詰北側の旅篭「池田屋」
で密議中の長州、土佐、肥後各藩の尊王攘夷派志士約二十名を、
近藤勇率いる新選組十名で襲撃し、多くの死傷者を出しました。
この事件で倒幕が一年遅れたといわれるほど、
尊攘派は大きな痛手を被りました。
一方、新選組はこの手柄を機に、一躍名をあげました。
文久3年2月(1863)早朝、浪士組(後に新選組)は
東海道五十三次の終点であるここ三条大橋、小橋を渡り、
池田屋の前を通り壬生屯所に向かっていました。
まさか、その一年三ヶ月後にそこで死闘が繰り広げられるなど、
誰も予想していなかったことでしょう。
三条小橋商店街振興組合
●池田屋騒動顛末記・・・
文久三年(1863) 嵐のように
吹き荒れた尊攘派の倒幕運動も沈静化の兆しを見せ始め、
幕府は市中の治安回復に向け、なお一層の取り締まりを行っていた。
その先峰を努めたのが、京都守護職直属の新選組でした。
元治元年(1864)六月五日(祇園祭宵々山 現七月十五日)
早朝、新選組は、かねてより探索していた四条小橋西で薪炭商を営む
桝屋喜右衛門こと、古高俊太郎を捕らえた。
実は古高は、倒幕派の近江郷士で土蔵から武器や具足が発見された。
古高を壬生屯所に連行し、土方が厳しく取調べた結果、
御所を焼き討ちし守護職の松平容保【1】を襲う計画が発覚する。
近藤は、直ちに守護職、所司代、奉行所、会津藩に通報し、
夜五つ刻(九時頃)【2】に祇園会所【3】で会津藩兵と待ち合わせる。
しかし、会津藩は約束の五つになってもこない。
痺れを切らした新選組は、浪士狩りを一刻の猶予も出来ないと
近藤隊は鴨川西側木屋町を北へ、土方隊は鴨川東側縄手を北へと
二手に別れて潜伏場所の茶屋、商家、旅篭等を御用改めして行った。
一方、古高が連行されたことを知った倒幕派は、
新選組の屯所を襲撃し、古高を奪還すべしと主張し潜伏中の倒幕派に、
三条小橋西の旅篭「池田屋」に集合するよう回状が送られ、
長州藩士桂小五郎も池田屋に来たが早く来すぎて、
池田屋裏の対州藩邸【4】によっていたので難を逃れたという。
近藤隊が三条小橋付近についたのが十時頃、一軒の宿屋
「池田屋」に明かりが漏れていることに不信を抱き、
十名のうち、六名で表口、裏口をかため、近藤、沖田、永倉、
藤堂の四名で屋内へ。近藤は、宿の者に「御用改め」であると
告げると主人池田屋惣兵衛【5】が慌てて二階に駆け上がり、
後を追って近藤が二階に上がると、そこには集会中の諸藩の
倒幕派二十数名がいた。沖田が立ち向かってきた男を斬り、
すぐに乱闘になった。屋内で闘う者、二階から飛び降りる者、
階段から下りる者、これを隊士が迎え撃つ。
途中から土方隊らが加わった。闘いは三時間ほど続き、
近藤隊からは一名死亡、藤堂、永倉が負傷し、
倒幕派は肥後藩士、宮部鼎蔵他六名が斬死した。
一方、予定時間を大幅に遅れて会津藩兵五百名が
到着したころには、すでに戦いは終わっていました。
この事件で倒幕が一年遅れたといわれるほど、尊攘派は
大きな痛手を被りました。一方、この事件によって
新選組の勇名は世に轟くことになったのです。・・・
【注釈1】まつだいら かたもり
会津藩の第9代(最後の)藩主 。1862年12月、
会津藩兵を率いて上洛。
徳川家茂の警護や市内の治安維持にあたった。
【注釈2】当時の不定時法の時鐘の時刻は難解、複雑だが、
夏至の頃、京都では、戌の刻 夜五ツは、21:14~22:37
に該当すると思われる。
ちなみに、冬至の頃は、19:40~21:50。
【注釈3】八坂神社、西南角にあった。
【注釈4】対州は、対馬(つしま)の異称。
対州藩邸は、池田屋より木屋町通を上った西、
向いに四国屋があったとされている。
姉三六角なので、池田屋のひとつ北の姉小路通りの北。
その1の池田屋周辺図と見比べると現在地図では、
カトリック河原町教会、
その一つ北の京都ロイヤルホテル辺りと思われる。
池田屋から徒歩で3分足らずの距離。
*池田屋を買い取った佐々木旅館という記述もあるが、
池田屋は、騒動後、営業停止。
後、競売され、伏見住人・桝谷氏が「桝谷」で営業。
後、大勢館、伏見屋、佐々木旅館。
寄附者は、佐々木旅館の経営者。
この辺り対州藩跡
【注釈5】池田屋で捕縛され、
六角獄で7月13日に獄死亡。42歳。
後、「笹屋重助の名で浄円寺
(上京区下立売通七本松西北角)に密葬。
墓は入江姓」と、よく記述されているが、
これを現認した記事を調査中だが、見当たらず。
霊山護国神社にある墓は池田惣兵衛。
妻・まさは、池田屋の廃業後、
三条通り上ル木屋町に「入江亭」を開業。
池田屋 惣兵衛の墓 京都霊山護国神社
維新史蹟 池田屋騒動之址
石碑より数メートル東の歩道上のプレート
三条小橋より河原町通方面を見る
次回、京都史蹟散策10 池田屋騒動跡 その2 に続きます。
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/201307article_12.html
【交通】京阪本線・三条京阪
【位置】三条小橋、西すぐ
【石標】
維新史蹟 池田屋騒動之址
建立 昭和2年 京都市教育会
寄附者 昭和2年 佐々木フサ*
1864年7月8日、(元治元年6月5日)
京都三条小橋の旅館、池田屋では、長州・土佐藩などの
尊皇攘夷過激派が潜伏していた。
古高俊太郎の奪還の会合であった。
これを京都守護職配下の治安維持組織・新選組が襲撃し、
多数の死傷者と逮捕者を出した。
池田屋の位置は、 以前は、パチンコ屋で、
現在は「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」。
店の前には、大立札があり、その左手に石標がある。
立札の内容紙は、●の6種。
●歴史を愛し
名節を重んずる者は、暫く此処にあゆみを止めよ
此処は、「池田屋騒動」の跡地 也
●池田屋騒動址(いけだやそうどうあと)
元治元年(1864)旧暦6月5日「祇園祭宵々山」、
四条小橋の古高俊太郎を捕らえ厳しく取り調べた結果、
討幕派がクーデターを起こす計画を知った
新選組【原文ママ】は、三条小橋西詰北側の旅篭「池田屋」
で密議中の長州、土佐、肥後各藩の尊王攘夷派志士約二十名を、
近藤勇率いる新選組十名で襲撃し、多くの死傷者を出しました。
この事件で倒幕が一年遅れたといわれるほど、
尊攘派は大きな痛手を被りました。
一方、新選組はこの手柄を機に、一躍名をあげました。
文久3年2月(1863)早朝、浪士組(後に新選組)は
東海道五十三次の終点であるここ三条大橋、小橋を渡り、
池田屋の前を通り壬生屯所に向かっていました。
まさか、その一年三ヶ月後にそこで死闘が繰り広げられるなど、
誰も予想していなかったことでしょう。
三条小橋商店街振興組合
●池田屋騒動顛末記・・・
文久三年(1863) 嵐のように
吹き荒れた尊攘派の倒幕運動も沈静化の兆しを見せ始め、
幕府は市中の治安回復に向け、なお一層の取り締まりを行っていた。
その先峰を努めたのが、京都守護職直属の新選組でした。
元治元年(1864)六月五日(祇園祭宵々山 現七月十五日)
早朝、新選組は、かねてより探索していた四条小橋西で薪炭商を営む
桝屋喜右衛門こと、古高俊太郎を捕らえた。
実は古高は、倒幕派の近江郷士で土蔵から武器や具足が発見された。
古高を壬生屯所に連行し、土方が厳しく取調べた結果、
御所を焼き討ちし守護職の松平容保【1】を襲う計画が発覚する。
近藤は、直ちに守護職、所司代、奉行所、会津藩に通報し、
夜五つ刻(九時頃)【2】に祇園会所【3】で会津藩兵と待ち合わせる。
しかし、会津藩は約束の五つになってもこない。
痺れを切らした新選組は、浪士狩りを一刻の猶予も出来ないと
近藤隊は鴨川西側木屋町を北へ、土方隊は鴨川東側縄手を北へと
二手に別れて潜伏場所の茶屋、商家、旅篭等を御用改めして行った。
一方、古高が連行されたことを知った倒幕派は、
新選組の屯所を襲撃し、古高を奪還すべしと主張し潜伏中の倒幕派に、
三条小橋西の旅篭「池田屋」に集合するよう回状が送られ、
長州藩士桂小五郎も池田屋に来たが早く来すぎて、
池田屋裏の対州藩邸【4】によっていたので難を逃れたという。
近藤隊が三条小橋付近についたのが十時頃、一軒の宿屋
「池田屋」に明かりが漏れていることに不信を抱き、
十名のうち、六名で表口、裏口をかため、近藤、沖田、永倉、
藤堂の四名で屋内へ。近藤は、宿の者に「御用改め」であると
告げると主人池田屋惣兵衛【5】が慌てて二階に駆け上がり、
後を追って近藤が二階に上がると、そこには集会中の諸藩の
倒幕派二十数名がいた。沖田が立ち向かってきた男を斬り、
すぐに乱闘になった。屋内で闘う者、二階から飛び降りる者、
階段から下りる者、これを隊士が迎え撃つ。
途中から土方隊らが加わった。闘いは三時間ほど続き、
近藤隊からは一名死亡、藤堂、永倉が負傷し、
倒幕派は肥後藩士、宮部鼎蔵他六名が斬死した。
一方、予定時間を大幅に遅れて会津藩兵五百名が
到着したころには、すでに戦いは終わっていました。
この事件で倒幕が一年遅れたといわれるほど、尊攘派は
大きな痛手を被りました。一方、この事件によって
新選組の勇名は世に轟くことになったのです。・・・
【注釈1】まつだいら かたもり
会津藩の第9代(最後の)藩主 。1862年12月、
会津藩兵を率いて上洛。
徳川家茂の警護や市内の治安維持にあたった。
【注釈2】当時の不定時法の時鐘の時刻は難解、複雑だが、
夏至の頃、京都では、戌の刻 夜五ツは、21:14~22:37
に該当すると思われる。
ちなみに、冬至の頃は、19:40~21:50。
【注釈3】八坂神社、西南角にあった。
【注釈4】対州は、対馬(つしま)の異称。
対州藩邸は、池田屋より木屋町通を上った西、
向いに四国屋があったとされている。
姉三六角なので、池田屋のひとつ北の姉小路通りの北。
その1の池田屋周辺図と見比べると現在地図では、
カトリック河原町教会、
その一つ北の京都ロイヤルホテル辺りと思われる。
池田屋から徒歩で3分足らずの距離。
*池田屋を買い取った佐々木旅館という記述もあるが、
池田屋は、騒動後、営業停止。
後、競売され、伏見住人・桝谷氏が「桝谷」で営業。
後、大勢館、伏見屋、佐々木旅館。
寄附者は、佐々木旅館の経営者。
この辺り対州藩跡
【注釈5】池田屋で捕縛され、
六角獄で7月13日に獄死亡。42歳。
後、「笹屋重助の名で浄円寺
(上京区下立売通七本松西北角)に密葬。
墓は入江姓」と、よく記述されているが、
これを現認した記事を調査中だが、見当たらず。
霊山護国神社にある墓は池田惣兵衛。
妻・まさは、池田屋の廃業後、
三条通り上ル木屋町に「入江亭」を開業。
池田屋 惣兵衛の墓 京都霊山護国神社
維新史蹟 池田屋騒動之址
石碑より数メートル東の歩道上のプレート
三条小橋より河原町通方面を見る
次回、京都史蹟散策10 池田屋騒動跡 その2 に続きます。
https://kyotoshiryo.seesaa.net/article/201307article_12.html
この記事へのコメント
三条通り高瀬川より西へ向かうと吉岡家、鶴井旅館、辰見たつみ屋旅館そして旧池田屋旅館です。
訂正お願いします。
旧吉岡家より
歴史的な史実を実証できる
資料がないと判断しましたので、
掲載箇所を一部、削除しました。
ご了承の程、お願い致します。